ショートショート036 幸せ
近所で、妙なおまじないがはやっていた。
そのおまじないは近くの神社でやっているらしいのだが、特別な糸でズボンなんかのポケットの口を縫いつけると、カップルが別れることなく、うまくいくのだという。
本当かどうか、はなはだ怪しい話であり、普段なら見向きもしないオカルトだ。しかし俺は、興味を持たざるを得ない状況にあった。近ごろの妻の行動がどうにも怪しく、浮気ではないかと疑っていたのだ。
オカルトだろうがなんだろうが、もしもご利益があるのなら俺もあやかりたいものだと思い、神社をたずねて神主に話を聞いてみた。
「おまじないは本物です。いまのところ、別れたカップルはまだ出ていないようです」
「具体的には、どういったやり方なのでしょう」
「あらかじめ祈りをこめておいたこの糸で、ポケットの口を縫いつけるのです」
神主はそう言って、ふところから糸を取り出した。それは何の変哲もない、細く白いだけの、ただの糸に見える。
「祈りというのは、なんなのですか」
「私はときどき、一日かけて糸に祈りを捧げます。世の人々が、幸せであるようにとね。その糸を使ってポケットを縫いつけると、人々の浮気の虫が騒がなくなるのです」
浮気の虫だと。やはり、うさんくさい。そんなものは、慣用句でしかないはずだ。
「その、浮気の虫というのは」
「人はみな、ポケットの中に浮気の虫を飼っています。それが騒ぐと、人は浮気がしたくなるのです。ですから、糸でポケットの口を縫いつけて虫が騒がないようにしてやれば、浮気はなくなります」
「なぜ、ポケットなのでしょう。浮気の虫とやらがいるとしても、ポケットではなく、心とか魂とか、そういうものに巣食っていそうなものですが」
「はっきりとした理由は、私にもわかりません。推測ならありますが」
「推測というと」
「たとえば、ズボンのポケット。ここは、手という、人が最もよく使う、つまり特別な部位を入れるところです。ですから、手からは神秘的な力が発せられ、それに虫が反応するのかもしれません」
「ポケットは、何もズボンだけではないと思いますが。胸ポケットというのも、多いでしょう」
「胸には心臓という、やはり人にとって特別な部位があります。ですから、虫が居着きやすいのかもしれません」
「ふむ」
神主の話を聞いて、俺は少し考え込んだ。理屈が通っているようでもあり、怪しいようでもある。これではなんとも言えない。だからこそオカルトなのだが。
しかしまあ、念のために試してみるか。もしご利益があれば、妻の浮気もなくなるかもしれないことだし、やってみて損はないだろう。
俺は、事情を神主に打ち明けた。
「実は最近、家内の行動が怪しいのです。浮気をしているのかもしれない。こっそり家内のズボンを持ってきますから、そのおまじないをやってみてはもらえませんか」
「それはかまいませんが、奥さまはズボンをおはきになるのですか」
「そういえば、あまりはきませんね」
「大人の女性ですと、お気に入りのハンドバッグなどを縫いつけることが多いですよ。いつも身近に持って大切にしているものですから、虫はこれも好むようです。一番小さなポケットでしたら、使うこともあまりないでしょうし、奥さまにも気づかれにくいのではないでしょうか」
「なるほど。では、明日また来ますので、よろしくお願いします」
翌日。テレビドラマを見ている妻に、タバコを買いに行ってくる、すぐに戻るからと適当な嘘をつき、妻のハンドバッグを持って神社をたずねた。
「持ってきましたよ」
「お待ちしておりました。それでは、さっそく始めましょうか」
神主はふところから糸を取り出して針に通し、ぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら、小さなポケットの口をひと針ひと針、丁寧に縫いつけていった。すると、縫い目が増えるにつれて、なにやら不思議な力がポケットの中に満ちていくような気がした。
「できましたよ」
「みごとなものですね。ひと目では、縫いつけられているとはわからない。それに、どこか神秘的な感じがします」
「丁寧にやることが、重要なのです。そうして初めて効果が出るのですよ」
そういうものかなと思いながらも、俺は神主に礼を言い、家に戻ってハンドバッグを元の場所に戻した。
「ただいま」
「お帰りなさい。ずいぶん遅かったのね」
「ああ。気分転換がてら、散歩もしてきた」
「そう」
妻が言ったのはそれだけで、すぐにまたドラマにのめりこんだ。この分なら、持ち出したことは気づかれていないだろう。これで、しばらく様子を見るとしよう。
それからというもの、妻の怪しい行動はきれいさっぱりなくなったように見えた。以前のように帰りが遅かったり、妙に上機嫌だったりということもなかった。
どうやら、おまじないが効果をあらわしたようだ。そう思った俺は、ほっと胸をなでおろしかけたが、すぐに、いや待てよ、と思った。
妻の浮気は、そもそも俺が疑っていただけだ。実際に効果があったのか、よくわからない。だいいち、俺はあんなおまじないなど、うさんくさいと思っていたはずだ。
もしかしたら、妻はもとから浮気なんてしていなかったんじゃないかな。そうだとすれば、おまじないの効果は気休めにすぎないことになる。
もし、あの神主に一杯くわされているのだとしたら、どうにも悔しい。大の男が、子供だましに振り回されたのだ。それは恥というものだ。
ならばまずは、このおまじないが本物かどうか調べなくては。
俺はそう思い、はさみを取り出して糸にあてた。しかし、切る直前で、ふと手を止めた。
この糸を切って、もしあいつの浮気が再開したら、またあの神社に行かないといけない。それは面倒だ。この糸はこのままにしておいたほうがいいだろう。
そうだ、この糸ではなく、ポケットの底を少し切ればいいのだ。小さなポケットだし、ばれるわけもない。そうして万が一、妻の浮気が再開したら、底を適当に縫い直せばいい。これなら霊験あらたかな糸はそのままだし、浮気の虫はポケットの中にいるのだから、縫い直せば暴れるのはおさまるはずだ。
俺はポケットの底に、爪の先ほどの小さな切りこみを入れた。
翌日、昼前に目を覚ますと、妻は家にいなかった。かわりに、リビングに書き置きがあった。内容は、好きな人ができたので別れてくれ、というもの。
もしや、昨日のあれか。まさか、こうも極端に効果が出るとは。
俺はまた急いで神社へ行き、神主に事情を説明すると、神主はあきれて言った。
「なんということを。あれは、結界なのですよ。奥さまの浮気は、奥さまの浮気の虫が、他の男が飼っている浮気の虫に惚れることで起こるのです。つまり、他人の虫に接触できなければ浮気もできない。そのための、虫を閉じ込めるための結界だった。そうして強制的に抑えつけていた虫を、一気に解放したとは……」
「そうなると、どうなるのですか」
「もう、奥さまの浮気を止めることはできないでしょう。私にも、どうすることもできません」
これには俺も、さすがにあわてた。俺はこれでも、妻を愛しているのだ。
「そんな。それは困ります。なんでもいいので、解決策はないのですか」
「あるにはありますが、しかし……」
「あるのであれば、ぜひやってください。お願いします」
「……わかりました。そうまで言われるのであれば。では、奥へどうぞ」
妻のことで頭がいっぱいだった俺は、神主に言われるがままに奥へ行き、ズボンを脱いで渡した。神主はそのポケットを縫いつけて俺に返し、再びはくように言った。
俺がズボンをはくと、失礼しますと言って、神主はズボンのポケットの底をはさみでいきなり切った。
そのとき、ズボンから何かが飛び出していったのが見えた気がした。
次の瞬間、俺の頭に浮かんでいたのは、どういうわけか妻ではなく、昔の恋人の素敵な笑顔だった。
「奥さまはもう、二度と帰ってこないでしょう。それほどのことを、あなたはやったのです。むくいですよ。ですがこれで、あなたも奥さまを忘れられる。あなたの虫は今ごろ、どこかの誰かの虫と恋仲になっているのではないですか……」
神主が笑顔でそう説明しているあいだ、俺の頭にあったのは元恋人と復縁する方法のことだけだった。彼女とはもう十年以上会っていないが、なに、そう難しいことではない。向こうも俺のことを急に思い出し、気にしているはずだ。向こうにも旦那がいるかもしれないが、それだってかんたんなことだ。旦那に浮気をさせればいい。
そして、その方法なら、もう知っている。
俺はにっこりと微笑んで、また来るよと言って神社をあとにした。この神主の祈りとやらは、たしかに世の人々を幸せにしてくれるようだ。