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アマルコルド -私は忘れない-  作者: 利府 利九
第一章 Thoughts Of A Dying Novelist
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7.今宵は豚肉




 王都サイドニアから程近い場所にある交易都市ドゥルセ。

 ここではありとあらゆるものが取引される。


 小麦、塩、肉、魚、等の食品をはじめ、雑貨、酒や煙草といった嗜好品。

 更には娼婦、男娼、そして奴隷である。


 来栖は再びこの奴隷市場に戻ってきた。

 いや戻されたと言った方が正確な表現である。


 かつての所有者であるマクニールは業火の中に消えた。

 その結果、マクニール所有の奴隷達が再び市場に出回る事になったのだ。


 あの後、屋敷の中で何が起こったのかは謎が多い。

 数々の噂が流れているが、曰く、“旦那様が激昂して奥様を殺し、その後錯乱して屋敷に火を放った”、曰く“奥様が毒を盛り、旦那様の死を確実にする為に火をつけた”だの様々である。


 一応、どんな形であれあの屋敷を出る事が出来たのは喜ぶべきことなのかも知れない。

 しかしその代償として心と体に刻んだ傷は来栖にとっては深すぎた。


 奈落に至る谷よりも深いであろう凄まじい罪悪感。

 もう、あんな悲しいことは御免だ。

 それが来栖の偽らざる感情であった。


 未だ来栖の体のあちこちに巻きつけられたミイラの如き血の滲んだ包帯。

 マクニールから受けた暴行の痕である。

 それに加えて異民特有の黒髪を有する来栖は案の定、奴隷市場で売れ残った。


 気づけば他の仲間達は新しい飼い主の下に旅立ち、今残っているのはクルスと最年長のラム爺だけである。

 マクニールの遺産であるが誰も相続する者が居ない為、原価無しで仕入れられた来栖達はセール価格とも言うべき安値で売られていたにも関わらず買い手がつかなかった。


 だが、その状況にも変化が訪れる。

 奴隷商人が大声で告げる。


「おいジジイ!こちらのお方が買って下さるそうだぞ。」


 どうやらラム爺にお声がかかったようだ。

 ラム爺は頷くと来栖の方に視線を向け、来栖はそれに答えるように手を軽く振る。

 脱走防止の為か、奴隷同士の会話は禁じられていた。

 願わくば彼らの新天地に幸のあらんことを。


 さて、売れ残ってしまった。

 しかし来栖にとっては“予定通り”でもある。


 満身創痍の来栖ではあったが全く策を練っていなかったわけではない。

 来栖はあろうことか、自分を買いに来る客をずっと吟味していた。


 奴隷を使い潰しそうな連中がたまに質問を投げかけてきたが、その全てに鈍くさく、且つマリネリス公用語をあまり理解していない風に答えた。


 万が一にも買われない為にである。

 元々こんな見た目である。

 滅多な事では買われないだろうが、念には念を入れた。


 そして後は良心が残ってそうな飼い主候補に必死に媚を売るだけである。


 しかしここで問題が発生する。

 日も暮れてきたところで、奴隷市場の見張りが爆弾発言を投下してきたのだ。


「あーあ、今日売れ残ったらお前、豚の餌だぜ」


 おそらくこれまで来栖が、マリネリス公用語に堪能な様子を見せなかったので発した言葉であるのだろう。

 こんな死刑宣告じみた発言を屠殺前の家畜に聞かせれば、抵抗して暴れるに決まっている。



 なんてこった。

 畜生、少し考えればわかったことだ。


 来栖は激しく後悔した。

 セール価格でも売れない異民なんてどうせ明日も売れ残るんだから、処分してしまった方が手間もかからないというのが連中の考え方だ。

 しかし、来栖の焦りとは裏腹にぱったりと客足も途絶えてしまう。


 まずい、マズイ。

 非常に不味い。

 このままではトマス・ハリスの小説の登場人物よろしく豚に食われてしまう。

 いや、豚に食われたのは原作ではなく映画版だったか。


 と、またも現実逃避ならぬ空想逃避をしていると奴隷商人の猫なで声が聞こえてきた。


「そんな事仰らずに旦那様~、珍しい奴隷が居るんですよ~」


 絶望に打ちひしがれていた来栖に訪れたラストチャンス、本日最後の客だ。


「ふぅむ、異民か」


 胡乱な表情でこちらを値踏みする貴族は優しいか冷徹か、と聞かれれば大半の者は後者であると答えそうな風貌であった。

 やせぎすな体型で、眼鏡の奥からは神経質そうな視線でこちらを睨み付けてくる。

 今だってこの奴隷がどうなろうが知ったこっちゃないからさっさと帰りたい、とでも言いたげである。


 しかし来栖には選択の余地という贅沢など存在しない。

 買ってもらわなければ文字通りの死が待っている。


「おい、黒髪の」


 貴族が問いかけてきた。

 絶対に負けられない勝負の始まりだ。


「はい、旦那様」


 今までの人生で最も丁寧に恭しく答える。

 鼻が折れているので声が多少詰まっているが、たぶん問題はないだろう。


 それを聞いた瞬間、奴隷商人が“あれ?”という表情をする。

 “こいつこんなに流暢に喋ったか?”と。


 それをよそに男が来栖に質問してきた。


「お前、算術はできるか」

「簡単な計算でしたら問題なくこなせるかと存じます」

「ほう、ならやってみろ」


 そういっていくつか計算問題を出してくる。

 義務教育で習うような内容なので難なく答えた。


 この大陸の一般教養ははっきり言ってたいしたことがない。

 学校教育うんぬん以前に、まず識字率が低すぎる。


「ふむふむ、これは拾い物かも知れんな、ふむ」


 一連の問答が終わった後、貴族は一人頷いていた。

 一方、奴隷商人はこちらに怒りの視線を向けてくる。


 頭脳労働が勤まる奴隷だと知っていたら、来栖にもっと高い値段を付けていたのだろう。

 利益が減った怒りは深い。

 だが客が見ている前で商品を殴りつけるわけにもいかないので、自制心を働かせるのに必死のようだ。


 ちらっとそんな商人の様子を見た貴族はフッと一瞬笑みを浮かた。

 そして言う。


「よし、わかった。買おう」


 それを受けて商人は渋々応じた。


「あ、ありがとうございます」


 これで商談成立だ。


「ふっ、感謝してくれよ。こんな余り者の異民を買ってやろうというのだからな」

「え、ええ旦那様には感謝しておりますとも、へへへ…」


 ちっとも感謝してなさそうに商人は答えた。


 貴族が支払いを済ませ来栖の拘束具が解かれると、細身の刺剣をぶら下げた護衛と思しき男が近付いてきた。

 油断のない目つきで来栖を見つめてくる。


「おや旦那。奴隷を買ったのか」

「ああ、掘り出し者だったのでな」

「馬車を待たせてるが、もう邸宅へ戻るか?」

「うむ、そうしようか。おい、行くぞ黒髪」

「はい、旦那様」


 馬車に乗り込む一同。

 腰を降ろすと同時に貴族が話しかけてきた。


「そういえばお前の事をなんて呼べばいいんだ? 黒髪」

「来栖と申します」

「ふむ、クルスか。私はステファン・ダラハイドだ。これでも男爵の立派な貴族だ」


 爵位的には男爵は高い地位ではない。


「それを言うなら“腐っても貴族”だろ、旦那」

五月蝿うるさい。ちなみに今、私を罵倒してくれたのが護衛のダリルだ」


 紹介を受けたダリルが来栖に話しかけてくる。


「ダリルだ、よろしくクルス」

「よろしくお願いします」


 ここまでの短い会話でこのダラハイド男爵の性格が見えてきた。

 意外にさばさばした性格をお持ちだ。

 こういうタイプの人間は得てして、迂遠なやりとりを嫌う。

 あまり深く考えずに、正直に喋った方が良さそうだ。


 その時ダラハイド男爵が思い出し笑いをした。


「いやぁしかし先ほどの奴隷商の顔は傑作であったな」


 その言葉を聞いてダリルが問いかける。


「何の話だよ? 旦那」

「ふん、このクルスは非常にふてぶてしい奴隷だという話だ。商品の分際で客を選んでいたのだからな。

どうせ他の貴族の前では愚物のフリをしていたのだろう?」


 来栖はそれに返答する。


「仰る通りにございます」


 一方のダリルは呆れ顔だ。


「それで選んだのがこの旦那ってわけか。クルス、お前人を見る目ねえな」

「いえ、実は私は旦那様のことを選んだわけではないのです」

「あ? それはどういうこった?」


 ダリルが不思議そうに聞いてくる。


「実は旦那様が来られる直前に“今日売れなかったらお前は豚の餌だ”と言われまして……」


 それを聞いた瞬間、二人は腹を抱えて笑い出した。


「客を選び過ぎて、死にそうになってんじゃねえかよ!」

「久々に面白い話を聞かせてもらったぞ、クルス。褒美に今日は豚肉をたらふく食わせてやる!」


 馬車はドゥルセから馬車で二時間程の距離に位置するバーラムの町に差し掛かる。

 バーラムの町の門を抜けて暫く馬車が進むとダラハイド邸に辿り着いた。

 入り口の守衛が挨拶してくる。


「おかえりなさいませ。旦那様」

「うむ、開けてくれ」


 門が開き敷地が見えた。

 来栖は馬車の窓から観察する。

 もう日暮れの後なので暗くてよく分からないが農場のように見えた。


「我が農場では年中、馬鈴薯を育てていてな」


 来栖の疑問を察してか、旦那様が教えてくれた。


「自分はその収穫作業に参加するのでしょうか?」

「いや、お前には他にやらせたい仕事がある」


 何だろう。

 来栖が疑問に思ってる内に馬車は母屋と思しき建物の前に停車する。

 その建物は貴族の住まいにはいささか粗末なものであった。


「さぁ降りるぞ」


 ぞろぞろと降車すると旦那様が御者に運賃を払って馬車は去っていった。

 あの馬車はダラハイド家所有じゃないようだ。

 ダラハイド家は貧乏なのか、それとも倹約家なのか。


「旦那、先にクルスの焼印を済ませた方が良いんじゃないのか?」


 それを聞いて来栖も思い出す。

 奴隷の所有者を明らかにするための忌々しい刻印付けの儀式を。


「それもそうだな。クルスよ、熱いだろうが我慢してくれ」


 小悪党じみた笑みを浮かべダラハイド男爵がは言った。


 母屋から少し離れた井戸の近くに連れて行かれる来栖。

 しばらく待っていると、妙齢の女性が焼きごてを持ってきた。


「ほら、もってきたわよ。あなた」


 たぶん奥様だろう。

 こういってはなんだが“貴族のおばちゃん”ともいうべき外見と言動をしている。


「うむ」


 頷くと男爵はそれを受け取る。

 そして右手をかざすと焼き鏝に熱を加え始めた。


 十秒と経たずにジュージューと音を立て始める。

 熱変動系魔術による温度操作である。


 その時、女性が来栖に布をくれた。


「はい、そこのあんた。歯を食いしばるのにこれを咥えてなさい」

あいがとうごあいまうありがとうございます


 それを確認した男爵が一言告げた。


「よし、それではいくか」


 肩に押し付けられる熱の塊。


 あづい!


 来栖にとってはマクニールの奴隷になって以来二回目の経験であるが、この熱さばかりは慣れる気がしない。

 永遠にも思える数秒の後に焼き鏝は外され、水分をふくんだ布があてられる。


「ありがとうございます。奥様。私は来栖と申します」

「なんだ。異民だから言葉通じないと思ったのに、意外と話せるじゃない。うん、どういたしまして。私はキャスリンよ」


 そして男爵がキャスリンに言う。


「さて、うまく印は付いたかな? キャスリン、布をどけてくれ」


 キャスリンが布をどける。

 来栖の肩にはダラハイド男爵の名前があるかと思われたが、そこには何やら横長の長方形というか棒線があるだけだ。

 前の所有者のマクニールの名前が、今の焼印で上書きされて消されたようだ。

 


 でも、これだと自分がダラハイド男爵の所有物だと分からないではないか。


 いまいち、理解が追いついてない来栖に衝撃の発言が男爵から告げられる。


「良かったな、クルス。これでお前は晴れて自由の身だぞ」

「………えっ?」



用語補足


トマス・ハリス

 アメリカの小説家で元記者。

 代表作は『レッドドラゴン』『羊たちの沈黙』など、いずれも映画化された有名作なのでご存知の方も多いだろう。

 作中で来栖が触れているのは映画版『ハンニバル』のワンシーンだが、正確には豚ではなく猪である。

 おそらく来栖の記憶違いである。



お読み頂きありがとうございます。


次話更新は 4月15日(土) の予定です。


ご期待ください。


※ 4月20日  用語補足を追加

※ 7月30日  行間を修正

※ 8月 8日  レイアウトを修正

※ 2月14日  一部文章を修正

物語展開に影響はありません。

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