46.フィオレンティーナの受難
血の匂いが鼻腔にこびり付いて離れない。
その不愉快な匂いに胃の中の物を全部吐きそうになる。
辺りには沢山の人間の骸が転がっている。
ついさっきまで生きていた者達の残骸が、転がっている。
どうして、どうしてこんな事に……。
一体私が、いや私たちが何をしたというのだ。
貿易都市ドゥルセを主な拠点として活動している“銅”の冒険者、フィオレンティーナ・サリーニの思考は未だ混乱の中にあった。
しかしいつまでも混乱しているわけにもいかない。
彼女とて冒険者の端くれだ。
今はとにかく自分にできる事をしなくてはならない。
一瞬たりとも迷っている暇はない。
それほどまでに状況は切迫している。
なぜなら今彼女の目の前には全身に夥しい量の返り血を浴びたトカゲの化物が居た。
元々は緑色の体だったがもう今は血で真っ赤になってしまっている。
その体長はおそらく七~八メートル以上はあろうか。
通常の個体よりも遥かに大きく、おまけに鱗はとんでもなく堅そうである。
そのトカゲは二足歩行で、リザードマンの亜種と思われる。
武器を扱う程の知性は無いようだが、尋常ではない膂力で人間の体をまるで紙切れを千切るように引き裂いていた。
しかも、おそらく、最悪なことに、未知の新種だ。
そのリザードマンがゆっくりとフィオレンティーナの方に向き直る。
「ひっ……」
思わず漏れてしまう呻き声。
何とも情けない事だが、今の彼女には目の前の化物と事を構えられる程の意志も力も無い。
彼女は神官ではあったが周りにはもう奇跡でどうにかなるような者はおらず、文字通り屍が積み重なっている。
ただただ逃げる事しか出来そうに無い。
リザードマンが地が震えるような低いうなり声を発する。
次の瞬間、恐怖に負けて全力疾走で逃げ出すフィオレンティーナ。
リザードマンもそれを見て追いかけてくる。
恐怖と絶望に支配されながら走り続けるフィオレンティーナの脳裏に、今日一日の情景が流れてくる。
これが俗に言う走馬灯というやつだろうか。
フィオレンティーナの参加しているパーティは王都サイドニアのギルドにて依頼を受注した後、ナブアの村という所に向かっていた。
ナブアの村は貿易都市ドゥルセから西へ進んだ所にある寂れた村である。
ナブア村の近くにはそこそこの規模の沼がある。
そこの沼には周囲の河川から流れ込んだ魚類が生息しており、村の住民はその魚をドゥルセに卸して生計を立てているようだった。
そのナブアへ向かう道中での事。
「まーた辺鄙なところの依頼をとってくれたもんだな、フィオちゃんよ」
そう言ってぼやくのはパーティのリーダー的存在であるカルロだ。
パーティの前衛を務める男で、剣や斧だけではなく弓の扱いにも長けたオールラウンダーである。
彼は色々なパーティを転々としている間に、自然とそれらの武器を扱えるようになったらしい。
「何を言ってるんだ、カルロ。あの時点で目ぼしい依頼は粗方とられていただろう? なあ、フィオレンティーナ?」
カルロのぼやきを冷静に諌めるのは、こちらもベテラン冒険者のルーベンだ。
ルーベンは前衛のカルロとは対照的に後衛のプロフェッショナルだ。
装填に時間がかかるものの絶大な威力を誇るクロスボウ使いで、その狙撃技術には定評がある。
ルーベンのアシストを受けてフィオレンティーナはカルロに反撃を試みる。
「ルーベンの言う通りですよ。文句があるなら自分でギルドに顔出して依頼とって来い、って話ですよカルロ」
「あーはいはい、分かったよ。俺が悪うござんした」
反撃をうけても尚、悪びれずにのたまうカルロ。
カルロ、ルーベン、フィオレンティーナは三人ともノアキスから流れてきた冒険者だ。
カルロもルーベンも共に“銀”級の優れた冒険者ではあったが、フィオレンティーナが聞いたところによると二人は同時に何とも言えぬ閉塞感も感じていたらしい。
曰く“このままずっと自分たちはそこそこの冒険者で終わってしまうのではないか”と。
そこで二人は更なる高みに昇る為にはノアキスを飛び出して、外の世界を知る必要があると考えたのだ。
そんな時に出会ったのがフィオレンティーナである。
フィオレンティーナは教会の出であり、将来を嘱望されていた神官であった。
だが、それゆえに彼女は教会の暗い部分も知ってしまっていた。
教会は平等な救いを謳っておきながら、実際のところは寄付額によって待遇が著しく変わる。
彼女の居た教会では上位奇跡を受けられるのは、一部の上流貴族のみ。
もちろん、それが完全な悪とは言えない。
その富裕層の寄付のお陰で教会は運営できていたし、フィオレンティーナの生活も成り立っていたのだ。
だが、満足な治癒奇跡も受けられずに死んでゆく者達を貧民街などで見かけると“これは本当に正しいのか”と疑問を抱かずにはいられなくなる。
そうして彼女は教会を辞し、冒険者の道へと進む。
“救いを求める者を待っているだけではだめだ、自分から探しに行かなければ”と彼女は思ったのだ。
そこを丁度、回復の奇跡を使える神職を欲していたカルロとルーベンに誘われ、今に至る。
「で、そのナブアの村で、何すんだっけ?」
カルロが無神経に聞いてくる。
この男はリーダー的存在ではあるのだが、それはあくまで戦闘面での話だ。
基本的なパーティ運営、つまり依頼の吟味やら何やらの雑事は大抵フィオレンティーナの仕事であった。
いや、もしかすると敢えてフィオレンティーナに任せる事で経験を積ませようとしているのかも知れない。
とぼけたカルロの質問にフィオレンティーナは頬を膨らませて答える。
「だーかーら、調査ですよ、調査! 何か、新種かも知れないリザードマンを村の人が見たんですって。その裏取りですよ」
「はっ! どうせ見間違いだろ。さっさと終わらせて帰ろうぜ」
不真面目な態度を隠しもしないリーダー。
こんな男だが戦闘時には人が変わったように実直で頼りになる。
その反動で平時はダメ人間になってしまうのだろう。
昼行灯とは彼のためにある言葉かもしれない。
その時カルロに対してルーベンが注意した。
「少しはしゃんとしろ、カルロ」
昼行灯とは対照的にルーベンは戦闘時、平時を問わず落ち着いた物腰で職務に忠実だ。
そんなルーベンが何故カルロのようなダメ人間と組んでいるのかフィオレンティーナには不思議だったが、何故かこの二人は馬が合うようだ。
やがて、三人組は件のリザードマンの目撃証言のあったナブアの村へと辿り着いた。
そこは小さな寂れた村で、あまり羽振りは良くないのであろう。
家々は土やレンガで建てられたものではなく木造のわらぶき屋根であった。
まだ日も高いというのに閑散としている。
まるで人影が見えない。
三人が不審に思いつつも村を進んでゆくと、不意に人だかりを発見する。
何かの集会だろうか。
一人の老人と、村の人々が何やら言い合っている。
「まだ、若い衆は戻らんのか?」
「今朝漁に出たっきりだよ。なあ村長、やっぱり俺らで探しに行った方が良いんじゃねえか?」
「ならん! 危険なリザードマンどもがうろついておるの。冒険者が来るまで待つのだ。依頼は出してある」
「じゃあ、その冒険者はいつ来るんだよ?」
どうやら彼らは、フィオレンティーナ達を待っていたようである。
すかさずカルロはその人だかりに向かっていく。
「おやおや、どうやらお待たせしちまったようだな」
カルロを見た村長はひとまず安堵した様子で言う。
「おお、ようやっと来てくれたか! 待ちわびておったぞ」
「ああ、ちょっと前から話は聞こえてたぞ。漁に出た村民が戻らないから、俺達で探しに行けばいいんだな?」
「ああ、だがリザードマンの群れを見たという者がおってな」
ナブアの村長が一人の若い男を指差す。
彼が新種の目撃者なのだろう。
「群れ? 新種は一匹なんじゃないのか?」
その問いに群れを目撃したという若い男は、心底申し訳無さそうに答えた。
「すまん、全部が新種かどうかってのはわからねえ。逃げるのに必死だったんだ……。その群れが何匹だったかもわからねえ……」
「そうか。何、気にする事はないさ。どうせ俺らはこの目でそいつらを確認・調査をしなきゃならんからな。漁場がどこか教えてくれるか?」
件の漁場は村から十分ほど歩いた場所にあるらしい。
そこに例の沼があり、若い衆たちはそこで群れに襲われたようだ。
正直、若い衆達はもう生きているとはフィオレンティーナには思えなかったが、その考えは胸にしまっておく。
それにリザードマンが目撃された場所が村に近すぎる。
下手すると群れがこの村に来るかもしれない。
カルロは村民達にきっぱりと告げる。
「よし場所はわかった。村長さん、あんたは村民を避難させるんだ。群れの規模が不透明だからその方が安全だ。とりあえず街道まで出ればリザードマン共も追っては来まい」
「わかった。あんたがたの武運を祈っておるよ」
「そりゃどうも。ルーベン、フィオ、行くぞ」
カルロを先頭にして、冒険者三人は沼へと歩を進める。
今思えば、この時ならまだ引き返せたかのも知れない。
お読み頂きありがとうございます。
次話更新は 6月7日(水) の予定です。
ご期待ください。
※ 6月 6日 後書きに次話更新日を追加
※ 8月11日 レイアウトを修正
※ 3月23日 一部文章を修正
物語展開に影響はありません。




