177.悪魔の酒
ザルカ領の都市アレスのハロルドの邸宅にて。
子供には不似合いの大きな椅子に堂々と腰掛ける黒髪の少年。
『バルトロメウス』またの名をハロルド・ダーガーだ。
ハロルドの前には鉱山都市ボレアレから帰還したばかりのジョゼフ・バーンズ少尉が直立不動の姿勢で居る。
バーンズは帰還した後、速やかにここを訪れ報告に来たのだ。
現在ハロルドはその報告を受けている最中だった。
「そうか、魔鉱調達はやっぱり失敗か……」
「ええ。それから敵の映像も撮れずじまいでした。誠に申し訳ございません」
「ん? ああ、映像の方は君が自発的にやったことだから別に良いよ。ちなみに聞くけど“白金”級冒険者の実力とやらはどんなものだった?」
「モンソン・ファミリーとかいうやくざ者の雇った暗殺者との交戦を見る限りでは、相当の実力者と見受けられます。特に恐ろしいのは赤毛の女と聞いておりますが、今回は交戦しておりません」
それを聞いて苦虫を噛み潰したような表情になるハロルド。
赤毛の女はクルスが直々に設定してくれやがった“主人公”である。
そういえば以前“グスタフ”の失敗作を潰したのも彼女であったか。
クルスの遺した置き土産にこの後も頭を悩ませられるかと思うと気が遠くなる。
「赤毛のレジーナか……。まったく忌々しいったらないね」
「ハロルド様はご存知でしたか」
「そりゃあね。まあ、何にせよ今回の君の行動は何ら責められるものではないよ。それにチャレンジ自体は悪くない。結果が出なかった事だけが残念だけど、今回はいい働きだったよ。バーンズ少尉」
「はっ!」
「帰還そうそうご苦労だった。今日はゆっくり休んでくれ」
「はっ! それでは失礼致します」
ハロルドが優しく声をかけるとバーンズはびしっとした動作で敬礼を行い、退室していった。
それを座りながら見送るハロルド。
そしてハロルドは思案する。
魔鉱の調達が絶望的になったのなら、戦争開始時期を前倒しにするのも視野に入れる必要がありそうだ。
これ以上サイドニア側に強力な装備を開発されても困るし、“グスタフ”の量産化計画も軌道に乗っている。
そして何よりルサールカ人工島の戦況がいよいよ混沌としてきたのだ。
ルサールカに内偵に向かったラルフ・ヴィーク大尉は結局戻って来ず、戦死したのかそれとも出奔したのかすら定かでは無い。
その後増員した諜報部隊の働きも芳しく無かった。
どうやら敵勢力はジュノー社の動きをかなり警戒しているらしく、目ぼしい情報を掴んでこないばかりか消息不明となる諜報員が続出していた。
おそらく消息を絶った者達は全員消されているのだろう。
だが、成果が全く無かったわけではない。
敵勢力の素性が断片的にではあるが判明した。
構成員の中に“オスカーマイク”の異名で知られる二人組みの殺し屋、オスカー・ライリーとマイク・サンダーソンの存在が確認された。
彼らはクルスの書いた小説『機会仕掛けの女神』の中で、主人公テオドールとフォルトナの二人組みと戦う悪役である。
作中では素早い動きと二挺拳銃で相手を撹乱するオスカーと、特別製の防弾盾とスレッジハンマーで武装したマイクの連携に主人公二人は相当な苦戦を強いられる。
だが主人公二人は現在マリネリス大陸に居る為、結果としてこの悪役どもも生き残ってしまっていた。
そしてそんな彼らを抱えている組織は、ヴェスパー社だけではなく老舗の兵器製造企業であるヴァルズ社とも取引しているという情報もある。
こちらの情報は確度に不安があるようで続報を待つしかないが、もし本当なら一大事である。
例の白髪の男が仕切っているという組織が、着々とジュノー社包囲網を築いているかもしれないのだ。
そして、その組織の名前も判明した。
『ぺルノー』とかいうらしい。
気取っているというか、小洒落たネーミングが何とも鼻につく。
ぺルノーというのは白髪が名乗っている名前なのだそうだが、本名かどうかは不明だ。
そのぺルノーが率いている事から、彼の組織もそう呼ばれる事となったらしい。
とにかく、ぺルノーの台頭によってルサールカにおけるジュノー社の地盤も磐石とは言いがたくなってきた。
まだ資産面・武力面の両方でトップ企業の座を保持しては居るが、その足元がいつ揺らぐとも知れない。
当初は“ザルカ帝国のマリネリス大陸蹂躙をジュノー社が助ける”という想定を抱いていたが、ここに来てその想定をひっくり返す必要性を感じてきたハロルド。
つまり“マリネリス大陸を早期に制覇し、ザルカがルサールカに乗り込む”という逆転の発想だ。
ぺルノーの連中はあきらかにジュノー社に敵意を抱いている上に、下手するとサイドニア王国の冒険者どもよりも強敵かもしれない。
そんな連中を相手にした後で消耗した状態では、ザルカがサイドニアに敗北してしまうことは必至だ。
やはり、先にサイドニアを潰す他ない。
ノアキスとハルマキスは軍事力的にはたいした事はない。
唯一未知数なのはボレアレだが、彼らはあくまで職人の集まりであって兵士は極僅かにしかいないだろう。
海向こうのプレアデス諸島も警戒する必要は薄い。
やはり、サイドニアさえ潰せば決着がつく。
あとはその後でゆっくりとぺルノー対策を考えれば良い。
そうして全作品世界を支配すれば、自ずと来栖本体の脳も完全に操れるようになっているはずだ。
そして『バルトロメウス線虫』という種は更なる進化を遂げる事ができるに違いない。
それこそがハロルドの悲願であった。
そうして思考を纏めたハロルドは悲願達成に向けて行動を起こす。
執務に使う机の棚からレターセットを用意した。
そして丁寧な字で手紙をしたため始める。
そのあて先は義父であるザルカ皇帝リチャード・ダーガーだ。
手紙にてハロルドは“戦争開始を早めるべきだ”と進言した。
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勤務先の大学病院近くのバーで医師・葛城は、物思いに耽っていた。
バルトロメウス症候群。
彼の患者たちを蝕んでいる病気の名前だ。
バーのカウンター席に陣取った葛城はグラスをちびちびと傾けながら、彼らの事を考える。
来栖という男性患者の脳波が持ち直したのは、彼の家で飼われていたネコの腹の中にいた寄生虫『トキソプラズマ』の作用によるかもしれない。
おそらくネコが来栖の口に鼻をつけた際に、ネコの唾液から経口感染してしまったのだろう。
寄生虫の事に関しては葛城は門外漢であったので、大学院時代に世話になった伝手をたどってその道の権威と呼ばれる教授に教えを乞うた。
彼の調べによるとそのネコの腸内に居たトキソプラズマが来栖の体内に移動した際に、何らかの変異を起こした可能性がある事がわかった。
そしてそれは“新種”といえる程の大きな変化かもしれないそうだ。
もしそうなら一大事である。
その“新種”を研究すれば、ひょっとするとこの病気の治療法を解明できるかもしれない。
未だ治療法が見つかっていない難病である『バルトロメウス症候群』に、か細いとはいえようやく治療の兆しが見えてきたのだ。
その興奮で今日は寝付けそうにないと悟った葛城は、彼にしては珍しくこうしてバーで深酒をしている。
そんな彼にバーテンが心配そうに話しかけてくる。
「医師、飲みすぎだよ」
「いいんだよ、今日くらいは」
「ふうん、何か良い事あったの?」
「まぁな。だから、もっと強いのくれ」
そう言ってウィスキーの入ったグラスを空にする葛城。
バーテンは呆れながらもボトルを探し、それを新たなグラスに注いだ。
淡い緑色をした綺麗な色合いの酒だ。
それを受け取った葛城は銘柄も聞かずに口をつける。
彼はあまり強い方ではなく、酒には詳しくないので聞いてもおそらく分らないだろうと思ったのだ。
そしてグラスに口をつけた葛城は顔をしかめる。
「うわっ、何だこれ。随分強いな」
「強いのがいいんでしょ?」
「確かにそう言ったが……何てやつだ、これ?」
「ぺルノー。フランスのアブサンだよ。抗精神作用があって幻覚を引き起こす“悪魔の酒”さ」
「おい、何てものを飲ますんだ!」
慌てる葛城だったが、その様子を見てバーテンは爆笑する。
「はははっ! そんなアブないお酒が今も出回ってるわけないじゃん。悪魔の酒って呼ばれてたのは昔の話で、今のぺルノーはただの薬草系リキュールさ」
「何だ、おどかすなよ……」
「ごめんごめん、でもおかげでちょっとは酔いも醒めたでしょ」
「む……」
「それに医師、時計見なよ」
その言葉で葛城は我に帰る。
気付けば終電の十分前だ。
慌てて椅子に掛けた上着を羽織る葛城。
「しまった、急がないと」
「駅まで早歩きだったら間に合うでしょ。頼むから走った挙句に転んで怪我とかやめてよ」
「わかってる。ご馳走さん」
「はいはい、またどうぞ~」
カウンターに勘定を置くと、バーテンの愛想の無い送り出しを背に駅へと急ぐ葛城。
どうやら今日は悪魔の酒“ぺルノー”に救われたようだった。
お読み頂きありがとうございます。
次話更新は 8月6日(月) の予定です。
ご期待ください。
※ 8月 5日 後書きに次話更新日を追加
※ 5月22日 一部文章を修正
物語展開に影響はありません。