124.くしゃみ
目が覚めた。
起き上がった彼はふわぁと大きな欠伸をすると体を伸ばす。
そうして体をほぐした後、寝ていたベッドから降りて窓の外を窺った。
まだ日も昇りきっていない早朝で、辺りは薄暗い。
彼は眠い目をこすりながら自室を出て、宮殿の使用人達が使う水場へと向かった。
水を手で掬い上げて顔を洗う。
冷たい水で多少は眠気もとれた気がする。
持参した布で顔を拭いた彼は、水面に映った自分の顔を見る。
十五、六ほどのあどけない少年の顔。
頭からは灰色の毛をしたネコ科の耳が突き出ており、人間でいう尾てい骨の辺りからはしっぽが伸びていた。
黄色い左目と白みがかった右目のオッドアイが色鮮やかである。
そんな獣人族である彼の名はミントであった。
“ごろねこ”などと呼ばれていたのも過去の事である。
「さてと、仕事仕事」
ミントは独り言を呟きつつ部屋へと戻り支度をする。
セシーリアに『召喚』されて早一年。
乾いたスポンジが水を吸い込むように瞬く間に知識を吸収していったミントは、セシーリアの口利きで仕事を紹介してもらっていた。
この世界の常識を身につけるためである。
仕事で使っているツナギに着替えて馬車へと向かうミント。
彼の仕事は宮殿で消費される食料品の輸送及び搬入作業であった。
厩舎へと向かい馬を輸送用の馬車へと繋ぐ。
そうこうしているうちに、ミントの先輩たちが到着する。
その中の無精髭を生やした男が話しかけてきた。
ミントと組んで作業に当たる事が多いテルヴォだ。
「ようミント、おはようさん」
「おはよう、テルヴォさん」
「お、馬は繋いでおいてくれたか。流石に仕事にも慣れてきやがったな、このネコ」
「でしょー? ボクだってただのネコじゃないんだよー」
「へっ、この前は寝ぼけながら仕事してたくせによく言うぜ」
「にゃんだとー?」
「ははは、そんな元気があるんなら今日は大丈夫だな。そんじゃ、行くか」
ミントが準備した馬車で各業者の元へ向かうミント達。
数台の馬車に分乗してそれぞれの取引先へと向かう。
テルヴォと二人で食糧輸送用の馬車に乗ったミントは馬の手綱を握りながらぼやく。
「あーあ、ボクも魚担当になりたかったなぁ」
「おめえに魚なんか担当されたら、仕入れた食材全部つまみ食いされちまうよ」
「えー何言ってんのテルヴォさん。ボクそんな事しないよ」
「へっ、全然信用できねえよ」
ミントの担当は野菜の輸送である。
この仕事に就いた当初、本人の強い希望で魚の輸送にまわして貰った事があるが、魚好きのミントは魚市場についた途端ロクに集中できずほとんど仕事にならなかった。
そんな経緯もあって野菜担当になったのである。
しばらく馬車に揺られた後に契約農家の元にたどり着く。
カールシュテイン王家はリスク分散の為に複数の農家と契約していた。
それら全てを巡り野菜を仕入れたミント達。
宮殿への帰り道、馬車の御者台に座るミントとテルヴォ。
手持ち無沙汰になったのか、テルヴォが話しかけてきた。
「しっかし、ミントよぉ。お前もなんだかんだハルマキスに馴染んだよなぁ」
「そうかなー?」
「そうだよ。ハルマキスでは獣人族はまだまだ珍しいんだ。でももう街でも普通に買い物とかしてるだろお前」
ミントが初めて街に出た際は街往く人々から奇異の目を向けられたものだが、この頃は珍しがられもしない。
「そう言われてみれば、そうかもね」
「だろ? そういや、サイドニアから来たあの黄色い獣人族はまだ居んのか?」
「ポーラ先生のこと? 先生は明日サイドニアに戻るってさ」
「ふーん、そうかい。寂しくて泣くなよ、ミント?」
「泣かないよう」
ポーラはミントにとって単なる先生ではなく、人生の師と言っても過言ではなかった。
一年ほどポーラに師事して言語を習得したミントに、彼女はこの世界の常識や知識を伝授してくれた。
そんな彼女も流石にこれ以上語学教室を空ける訳には行かないようで、とうとうドゥルセに戻ることになってしまったのである。
だがミントは気持ちを切り替えて前向きな事を言う。
「でも、これ以上ポーラ先生に頼る訳にもいかないよ。ボクも独り立ちしなきゃ」
「おっ、殊勝な事言うじゃねえか。ネコのくせに」
「あれ、テルヴォさん知らなかった? ネコだって二足歩行できるんだよ、ほら」
言いつつ、馬車の御者台で立ち上がるミント。
そう、ミントは独り立ちしなければならないのだ。
ここに、いや、“この世界に”いつまでも留まっている訳にはいかないのだ。
急にこんな見知らぬ土地に飛ばされてしまった自分自身を助けるために。
そして“おにいちゃん”を助けるために。
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「む、なんじゃ。もう朝か……」
ベッドから起き上がったセシーリアは両腕を真上にぴんと伸ばして欠伸をする。
そして顔を洗い、長い栗色の長髪を後ろに縛ると訓練場に向かった。
これから言葉を覚えて常識を身につけたミントに護身術を授けるのだ。
その訓練はもう長いこと継続している。
セシーリアはこう見えても腕っ節には自信がある。
大昔に宮殿の近衛兵をつかまえて剣術指導を“させた”こともあり、基礎はできていると自負していた。
愛用の杖を手に取り訓練場に仁王立ちするセシーリア。
見た目はあどけない少女である彼女が仁王立ちなどしても、あまり威厳が感じられないというのは自分でも承知している。
だがそれでも師匠というのは師匠らしく振舞わなければならない。
数分の後、弟子が息を切らしながら走ってきた。
搬送作業が終了してから飛んできたのだろう。
「おばあちゃん、ごめん。遅くなった」
「これ、ミント。ここは訓練場じゃ!」
「も、申し訳ありません。お師匠様」
「うむ。ほれ、さっさと構えろ。まずはダガーじゃ」
「はいっ!」
セシーリアは公私混同を良しとせず、訓練場ではミントに自分の事を師匠と呼ぶ事を強いていた。
セシーリアに言われた通りに短刀を構えるミント。
ダガーを模した木製の模造刀である。
小柄なミントの武器は短剣を主とした小型武器である。
セシーリアはミントに複数の小型武器の使い方を教えていた。
オーソドックスな両刃のダガーナイフ二本。
鎧の隙間から相手に突き刺す小型の刺剣・メイルブレイカー。
盾で防御し辛い小さい鎌のシックル。
そして相手の武器による攻撃を受け流す際に用いるパリングダガー。
この世に万能の武器など存在しない。
状況に応じて使い分けができるようでなければ、生き残れないだろう。
「ほれ、打ち込んで来い」
「はいっ」
小柄なミントが素早い身のこなしで接近してくる。
そして両手のダガーを振るい攻撃を繰り出してくるが、セシーリアの巧みな杖さばきで全て防御されてしまう。
そして逆にセシーリアの杖にダガーを叩き落とされてしまうミント。
「なっとらん! このたわけ!!」
「ご、ごめんなさい!」
「ほれ、もう一回!」
「はい!」
今度は速度重視だった先ほどの攻撃とは違い、左右のダガー二刀流でフェイントを用いてくるミント。
以前は速さ一辺倒だったミントであったが、最近このように緩急をつけることを覚えてきた。
喜ばしいことではあるが、だがまだセシーリアには届かない。
再び腕をセシーリアの杖に強打され、武器を取り落としてしまうミント。
「なっとらん。だが最初よりは幾分ましじゃ」
「は、はい……」
「ほれ、もう一回じゃ。もっと頭をつかうのじゃ“ごろねこ”」
挑発するようにわざと以前の呼び名を使うセシーリア。
“ごろねこ”という言葉を聞いてミントの顔に闘志が宿る。
実は言葉を喋れない頃から、その投げやりな呼び方には不服であったらしい。
実際“にゃあにゃあ”と喚いて否定していたそうだ。
誰にも伝わらなかったが。
「シュッ!!」
鋭く息を吐き突進してくるミント。
そして地を這うような低姿勢から右足を蹴り上げてくる。
下から足を蹴り上げつつ宙返りをする《サマーソルトキック》である。
小柄で体の軽いミントはこのようなアクロバティックな技を得意としていた。
杖での防御をやめ、後ろに軽くステップして最小限の動きでかわすセシーリア。
そして着地の隙を咎める為に前進しようとした時、ミントのしっぽが鼻先を掠める。
その時、無性に鼻がむずむずした。
盛大にくしゃみをするセシーリア。
「へえっぷしゅん!」
しまった、隙を晒してしまった。
と思ったが、時既に遅し。
セシーリアのお腹にミントの模造刀の切っ先が突きつけられている。
笑みを浮かべながら勝ち誇るミント。
セシーリアとの訓練では“セシーリアの体に模造刀を当てるか、突きつけるかしたらミントの勝ち”としている。
勝ったらその日の訓練でのタメ口を許可している。
それは単調な訓練を飽きさせない為の工夫であった。
「えへへ、ボクの勝ち~。残念だったね~お婆ちゃん」
「ふん! 少しはやるようじゃな、ミント。少しだけじゃが」
「“頭をつかえ”って言われたからちゃんと使ったよ」
自分の頭を指差しながらながら、にんまりと笑うミント。
それを見てちょっとだけ悔しくなったセシーリアが負け惜しみを言った。
「ミントよ。お前が使ったのはな、頭じゃなくてしっぽじゃ。……へっぷしょん!」
お読み頂きありがとうございます。
次話更新は 3月19日(月) の予定です。
ご期待ください。
※ 3月18日 後書きに次話更新日を追加 誤字修正
※ 4月28日 一部文章を修正
物語展開に影響はありません。