現在の日常
「あっつい…」
美都は竹箒を片手に空を見上げ、げんなりと呟いた。
湿気の多い日本の夏は、もわっだとか、むあっなどと表現される、べたべたと肌に纏わりつくような不快な蒸し暑い季節だ。
遠く入道雲が見える夏の日差しは、襷掛けをした剥き出しの肌を容赦なくじりじりと焼いていく。
せっかく日焼け止めを塗っても、汗で落ちてしまっては到底意味が無い。けれど塗っておかなければ直射日光を浴びた肌は赤く焼けてしまうから、仕方なく汗で日焼け止めが落ちるたびに塗り直している。
なんて非効率的なんだろう。
滝のように額から流れ落ちる汗をハンカチで拭うと、薄い生地のハンカチは直ぐにぐっしょりと水気を帯びた。
ああ、後で新しいハンカチを出しておかないと。
そう思いながらも、タオルハンカチなどという可愛らしいものでは到底敵わない程に吹き出した汗は、後でフェイスタオルで拭う他無いだろう。
頭が沸騰しそうな程に、暑い。
大木に囲まれた広い境内を見渡すと、落ちていた葉もなくなり、あらかた掃除は済んだ。
よし、と一人頷いて足早に社務所へと足を向け、がらがらと引き戸を開けて中に入ると、扇風機の前に陣取った浅黄色の袴を穿いた青年、豊布が扇子で仰ぎつつ美都に片手を上げた。
その涼しそうな表情がなんとも憎らしい。
扇風機の風で幾分か暑さは和らいだものの、室内に籠った熱気は容赦なく発汗を促し、先ほど拭いたばかりだというのに、再びじっとりとした汗が吹き出し、首筋から胸元に汗が流れ落ちた。
「お帰り。掃除は済んだかい?」
「済みました。済みましたけど、暑くって死にそうです」
「はいはい、ご苦労様。まあお茶でも飲みなよ」
豊布は壁に備え付けられた障子をからりと開けて、その奥に据えられた冷蔵庫からペットボトルを二本取り出し、一本を美都に手渡した。
ペットボトルのラベルには、大手飲料水メーカーの『夏の外出のお伴に塩分接種!甘さ控えめスポーツ飲料水』の文字が踊っている。
熱中症対策にはどうしても塩分が必要だものね、うん。
実際には現代の食事事情に換算すると、通常の食事で塩分は確保出来ているものの、何となくコマーシャルで流れてくる『熱中症対策に塩分を!』という言葉に踊らされて、この時期は特に塩分が入っている飲み物を選んでしまう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。頂きます」
本当は、体を冷やしすぎないために常温の飲み物を飲んだ方が良いのだろうけど、そもそも猛暑日に外で働いて来たっていうのに、生温い飲み物なんて飲んでいられない。
ぱきっと小気味良い音で蓋を開け、喉を鳴らして半分程飲み干すと、漸く人心地が着いた。
ちらりと豊布を見れば、美都と同じようにペットボトルを開け、ごくごくと勢い良く飲んでいる。
涼しそうな表情をしていた癖に、やっぱり暑いんじゃないかと沸々と怒りが沸き上がった。
「っていうかなんでこんなに暑いのに、エアコンが着いて無いんですか?! 無茶苦茶ですっ」
「うちは小高い丘に建っているから、吹き上がりの風が結構来るだろう? だからだよ」
「そんなの、こんなに暑いんじゃ生温い風しか来ませんよ!」
「全く、今時の若い子は暑さに耐性が無いんだねぇ」
やれやれと肩を竦めて首を振る豊布は呆れたように続けた。
「大体、昔はエアコンなんて無かったんだよ?」
いっそ憎たらしい程の呆れた表情に、思わず眉を上げた。
エアコンには人類の叡知が詰まっている。今ならそう断言出来る。
「それこそ、昔はこんなに気温が高かったわけじゃないじゃないですか」
「……そんなに、暑い?」
何故か確かめるように言われ、思わず首を傾けた。
いかな今時の現代っ子でも、外で一時間も動けば暑いに決まってる。というか、扇風機一つで我慢しろだなんて余りにも辛すぎるじゃないか。
「当たり前じゃないですか。この額の汗が見えないとは言わせませんよ」
「女の子が汗を誇らないの。全く、仕方がないなぁ」
ぶつぶつとそう言った豊布は、何処からともなく白いリモコンを取り出して、天井近くに設置してある格子扉へと向けた。
空かずの扉だとか、飾り格子なんて呼んでいるそこに何故リモコンを向けるのだろう。
そう疑問に思った次の瞬間、ごうっと機械的な風の音がして、次の瞬間、上から涼しい風が降りてきた。
まさか、という思いで格子扉の奥をよく見ると、そこには今の今まで願っていた人類が誇る冷房器具、エアコンが鎮座していた。
思わず拝むように両手を合わせてしまった。
「はいはい、窓閉めてねー」
「わ、分かってますっ」
豊布の呆れたような声に、飛び上がるように肩を揺らし、素早く至るところが空いた窓を閉めると、扇風機の風に押されるように冷たい風がひんやりと肌を撫でた。
ああ、涼しい。
「あー涼しいぃー」
「涼むのは良いけど、あんまりエアコンの風に直に当っちゃ駄目だよ」
「はーい、分かってますー」
気が済むまでエアコンの風に当たると、いそいそと襷たすきを外してペットボトル片手に座卓の前に腰を下ろした。
ラックから日報の綴りを取って、今日の出勤者や予定等を確認する。
平日の今日は、美都と豊布だけが出勤しているが、これが忙しい時期に入ると、神道科に通う大学生であり豊布の従兄弟である天祢や、旧官幣大社に奉職している豊布の伯父、智之らが手伝いに訪れる。
とはいえ酷暑の夏は比較的参拝者が少ない時期で、この時期に纏めてお正月用の御守りを発注したり、秋の大祭に向けて準備を進めたりと、事務的には比較的忙しい時期だ。
「あっ、後でお日供祭で上げたご神酒、下げて置いてね」
「分かりました」
デスクワーク用の眼鏡を掛けた豊布は、そう言って事務用机に向き直った。
察するに今は、月末の決算を行っているのだろう。パチパチと電卓を弾く豊布は、時折帳簿を確認しつつ、さらさらと紙にボールペンを滑らせている。
こんなに涼しい場所から出るだなんて拷問にも等しいけれど、仕方がない。
気合いを入れて立ち上がり、再び襷を掛けて社務所の奥にある引き戸を開いた。
その途端、むあっとした蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、瞬時に汗が吹き出した。
早く社務所に戻ってこよう、そう決心していざ本殿に足を向けた。
社務所と本殿は、廊下で繋がっている。
所謂、民社と呼ばれるこの神社は、元は県社であったという。
本来であれば国幣社にも数えられる格式高い神社である筈が、何処かの時代、国に届け出るのを怠った為に県社止まりになっていたらしい。元は神職が公務員であった時代の話だ。
嘘か真か、それは神のみぞ知るという所なのだろう。
本殿と一口に言っても、一般的な参拝者が入れるのは拝殿までだ。権現造りのこの神社では、石の間から本殿までは巫女と神職しか足を踏み入れる事の出来ない神聖な領域である。
だというのに、石の間の隅の壁に寄り掛かるように片膝を立てて胡座をかいた人物が一人、透き通るような水色の一升瓶を抱えて座っていた。
昔で言う、唐風の袞衣に似た衣装を着ているその人物は、立ち止まった美都に気付いたのか、顔を上げてにやりと笑った。
「よう、美都。おはよう」
「おはようございます。じゃなくて、何で昼前からお酒を飲んでるんですか、カグツチさんっ」
カグツチ…またの名を火之迦具土神と言うこの人物こそ、この逢坂神社の主祭神である。
光沢のある淡い黄金色に輝く袖のゆったりとした交領と呼ばれる上衣に白い下裳を穿き、その上に裙と呼ばれるスカート状の黄朽葉色の布を巻いて腰から膝下まである蔽膝と呼ばれる豪奢な前掛けを垂らし、大帯と呼ばれる太い帯でしっかりとそれらを締めている。
全体的に眩しい色合いの衣装だ。
蔽膝に描かれた大胆な龍の姿に目を奪われる。
けれどそれ以上に、目にも鮮やかに映るのが、血の滴るような真紅の髪色と目だ。
決して人間では持ち得ないその色は、禍々しさなどではなく、ただ厳かな畏怖の念だけが強く浮かび上がる。
けれどそれも一瞬のこと。
カグツチを前にすると美都は、不思議と清廉な空気に包まれる。何か清々しい空気に触れているような、そんな気がするのだ。
「ん? 美都も飲むか?」
ちゃぷんと音がする一升瓶を掲げたカグツチは、蓋を開けて翡翠色の玉盃になみなみと注ぐと、手酌でぐいっと一息に飲んだ。
なんと言うか、手慣れている。
落ちてきた髪をかき上げながら「うん、上手い」と一人頷いたカグツチは、再び美都を見つめ「飲むか?」と一升瓶の口を傾けた。
「飲みませんよっ。っていうか私、未成年ですしっ」
「そうか。いや、そうだったな。残念だなぁ、美都。こんなに美味しい酒が飲めぬとは、全く不便なことよ」
「いや、別に飲みたいと思ってませんから大丈夫です」
日本酒はどうも苦手だ。お正月に長寿を願って少量のお酒を頂いているものの、味と言っていいのか、匂いといって良いのか…とにかくアルコール!という匂いがどうにも不得手なのだ。
きっと成人を迎えても、アルコール関係の飲料は飲まないのではないかと思う。
だから真顔で片手を顔の前で振れば、どこかおかしそうに笑ったカグツチが、身軽な動きで立ち上がった。
ひょいと手渡された一升瓶を思わず掴むと、ずっしりと重く、手のひらにひんやりとした冷気を伝えてくる。
常温だとばかり思っていたから、瓶越しに伝わる冷たさに思わず肩を揺らした。
「これ、冷酒ですか…?」
「ああ。豊布が冷蔵庫に入れておいてくれた」
「なっ…! もう。この時期は傷みやすいからって、何もわざわざ冷やさなくても良いのに…」
「いやいや、冷蔵保存というものは大事だぞ。特に後から撤下品として使うのであれば特にな」
玉盃を懐に入れたカグツチは「さて、」と声を上げ、ぐっと伸びをして本殿の奥へと進んだ。
その後ろ姿を見守りながら、見送るようにそっと後を追った。
なんとなく、そうしなければならないと思ったのだ。
「私は少し用事があるから昼過ぎ頃までは好きにしていて良いぞ。では、行ってくる」
「お気を付けて」
軽く頭を下げると、甲高い耳鳴りがなって、頭を上げた時には既にカグツチの姿は無かった。
手に残った一升瓶がやけに重く感じる。今の今まで夢を見ていたんだ、と誰かに言われたならば、美都はなんてリアルな夢だと笑うだろう。
けれど手に持った重い一升瓶は、確かにこの手の中にある。
「どうして、私が奉侍者に選ばれたんだろう?」
不意に呟いた言葉は、やけに美都自身の耳に響き渡った。
そんなことを考えていたせいだろうか、自分がどれ程汗をかいているかを思いだして、美都はため息を吐いた。もしかしたら神様という存在は、暑さ寒さをも忘れさせてくれる、天然の鍾乳洞…ってそんなことあるわけないか。
じっとりと肌を濡らす汗が、額から眦を通って顎を伝って落ちる。もう一筋の汗は、首から胸元に落ち、不快感を呼び起こす。
ああ、もう。とにかく早く戻らないと。
ご神前に備えられた、のし紙を巻いただけの簡素な一升瓶を抱えて、美都は足早に本殿を出てると急かされるように社務所に戻った。
ガクツチとの出会いは、凡そ二か月前のこと。
その日は夏越の大祓式が近くにあって、幼い頃から神道を信仰する祖母に頼まれて、人形と志納金を持って逢坂神社を訪れていた。
社頭に立っていたのは、豊布ではなく智之で、何か忙しそうに電話を受けたりしていた。
きちんと手渡した後、夏越の大祓式に来られるかどうか聞かれ、平日の夜では難しいと答えると、撤下品のお札を渡され、玄関に貼るようにと伝えられた。
お札を落とさないよう、曲げないようにしっかりと鞄に納めて参道を歩いていると、参道の脇に生えた立派な杉の大木の側で、男性が一人、立っていた。
一目見た時、その鮮やか過ぎる赤色に、美都は火事が起こったのかと大慌てしたが、よくよく見てみると、それは男性だったのだ。
年の頃は二十代前半、といった所か。見たこともない豪奢な着物を着ているという印象だけで、その時は男性が誰なのか、そして何故じっとこちらを見ているのか分からずに、おっかなびっくり男性の目をじいっと見返してしまった。
すると男性はその視線ににやりと笑うと、軽やかに美都の前に飛び出してきて、下から覗き込むように見つめられて初めて、男性がとても異質であるということを感じた。
「ふうん」だとか、「なるほど」とぶつぶつ呟いた男性は、「よし!」と殊更明るい声を出して、美都に人差し指を突きつけた。
得体の知れない誰かなのに、その時は不審者だ!という頭など無かった。
ただ、この人はそうあるべくしてここに在るのだ、ということだけがなんとなく直観で理解し得てしまった、というべきなのかもしれない。
「そなたはこれより、我が奉侍者とする。豊布に話は通しておくから、来週またこの時間に社務所へ来るように。よいな、絶対に来るのだぞ?」
「は、はあ…?」
気の抜けた美都の返事に気を良くしたのか、いつの間にか男性の姿は掻き消えていて、それからどう家に帰りついたのか全く分からなかった。
けれどどうにも、行かなきゃ、という思いだけが美都の胸に残っていた。
そうして再び訪れた逢坂神社で、美都は豊布に出会った。
「君が神サンの言ってたお世話がか…いやいや、奉侍者だね」
「お世話係…? あの、ほうじしゃって、何ですか?」
「奉侍者っていうのは、本来の意味合いでは貴人のために尽くすことを意味しているんだけど、ここでは簡単に言うと、神様のお世話係っていうことだね」
「あっ、やっぱりお世話係なんですか」
奉侍者っていうのは、格を上げるための言い回し、なのかもしれない。
というかこの神職、話し方が物凄く軽い。今時の人、というのかな。
美都の突っ込みにわざとらしく咳ばらいをした豊布は何事もなかったように続けた。
「神様が直々に任命したお世話係っていうのは、とても凄いことなのだよ? まあついては、明日からここで巫女として奉職すること。確か君、部活には入っていなかったよね?」
「ええ。ってなんでそんなことまで知って、」
「神様の前では皆隠し事なんて出来ないんだよ。うんうん、じゃあ明日またここに来てね。そうだなぁ、朝の九時で良いよ。特に明日は忙しくないしね」
何それ怖い、なんて思いませんでしたよ、ええ。
いや、本当はちょっぴり思ったかも。今だから言えるけど。
「わかり、ました」
「うん、ちゃんと来てね。じゃないとどうなるか…なーんてことは無いけど、まあ色々説明もあるし、ちゃんと来る事。いいね?」
「はい」
しっかりと頷いた美都に満足そうに頷いた豊布は、夕日に照らされて物凄くイイ笑顔で笑った。
なんだかその笑顔が、『よし、人手ゲット!』というような副音声が聞こえてきそうで、美都は盛大に頬を引き攣らせた。
―――そして今日に至る。
美都ははあっとため息を吐いて社頭に座り、時折やってくる参拝者の接遇を行っていた。
「今日も穏やかだなぁ」
社頭から見上げた空は、美しい青色をして美都を見下ろしていた。