王都の聖女
バッシャン!
派手にぶちまけられた水差しの水に、雫を床に滴らたまま、その青年は跪いていた。
桃色がかった金の髪が額や首に張り付いて、妙な色気が醸し出される。
その姿を見下ろして、パトーネ・コンサル伯爵夫人は冷たく言い放った。
「その指輪は、返却されたのではなく、所在不明だった物を今、買いもどしたのです」
テーブルの上には広げられた艶やかなクロスの真ん中で、ペリドットの宝石のついた指輪が美しく輝いていた。何代か前の伯爵家の当主が、暴漢から当時の王妃を救った事への功績により下賜されたという一品である。
恐ろしいほど高価な品物ではないが、下賜に至ったその理由が貴重な一品である。
それを末娘が持ち出して、騎士に与えたのだと知り、呼びつけて叱ったのはいつの事だろうか。
思えば、遅くに出来た娘だったから上の兄達のように厳しく躾なかったのが悪かったのだろうか。
嫁入り道具のひとつにこの指輪をあげると言っていた事もいけなかったかもしれない。
でも、よもや、そんな事になるだなんて誰が考えただろうか?
「どうか、彼女を叱らないであげてください。そんな貴重な物とは知らなかったとはいえ、受け取った私が悪いのです」
そう言って、この青年は指輪をもって伯爵邸に現れた。
正直なところ、その指輪の事は諦めていた。
貴重な謂れの指輪だが、何代か前のものである。贈った王家側も受け取った伯爵家側もすでに何代も代替わりしていて、謂れの伝承が残っていただけでも奇跡なのである。
王家の側にはもう記憶している者もいないかもしれない。
そのような代物なのである。
バカな娘だ。
恋に恋するような所があったが、これほど愚かであっただろうか。
「申し訳ございません」
ピンク色の頭を項垂れて青年は謝意を示す。
どんな見下げたクズ男なのかと思っていたが、伯爵家に何ら恩を着せることなく指輪を返すという。
「リズベットには決めた相手がいます。分かっていますね?」
「はい、リズベット…お嬢様には良くして頂きました。仔細がある身で困っていたのを知って、助けようと善意で指輪を私に譲ってくれて」
これはリズベット側からの援助だったのだという風に青年は答える。
よく見れば、人に警戒心を与えない、世間知らずの少女が好みそうな顔をしている。
この青年は本当にわかっているのだろうか?
わが子なれば、わが子だから、いいところも悪いところもよくも悪くもわかってしまう。
わが娘リズベットは二つの愚を犯した。
ひとつには、この青年の心を物で得ようとした事。
もうひとつは、譲った指輪でこの青年を縛り、自分の想い通りにしようとした事。
本当に愚かだ。
やはり甘やかしたのが悪かったのだろう。
思い通りの結婚のできない貴族令嬢には、実のところ貴族社会は寛大だ。
結婚前に純潔さえ失わなければ大概の恋愛事は若気のいたりですまされてしまう。
大事な事は愛のない結婚だろうと親のいうがまま嫁いでいき、家と家を結び付け、婚家と実家を繁栄へと導く事なのだから。
ちょっとだけ同情して欲しかった。あわよくば王家の威光を使って、心変わりをした青年に振り返ってほしかった。普通の娘ならばいじらしいとも思える愚行なのだが、相談した相手が悪かった。
王妃は「実家の宝物をあげるほどつくされたのに」と別れを思い直すように言うどころか、娘の想い人を
あろうことか異世界から聖女として呼び出した少女をこちらの世界に繋ぎとめるために旅立つように告げた。
娘は甘い。
世間知らずの甘い考えの娘。
家の中のようになんでも貴女の思いを汲み取ってくれる存在は世間にはない。
政略結婚させるのだからと好きなようにさせていたが、このままでは矯正さえ難しいかもしれない。
だからパトーネ・コンサル伯爵夫人は八つ当たりとは知っていても、こう言って家令に用意させた金貨の入った袋を青年に投げつけた。
「それを持って消えなさい!そして二度と顔は見せないで頂戴」
あーあ
オレって最低な奴だよな。
そりゃリズママも起こるよなぁ…。
大切にはしてたつもりだった。
でも、彼女の望む「ここから連れ出してくれる頼もしい王子様」にはなれなかった。
リズベットは温室で大事に育てられた花だ。
そこから外へ連れ出してもすぐ萎れて枯れてしまうだろうから。
お金に罪はないからもらっていこう。
何か有意義な使い道はないものか。
ふと、以前店で見かけた髪留めのことを思い出した。
見送りについてきた家令に袋の中の大半の金貨を渡す。
そして店と品物を指定しオレからだと…誰からだと言わずに結婚祝いだと渡してくれと頼んだ。
リズベットのあの美しい碧色の瞳に合うような小振りの白い花の髪留めを。
花言葉は「分かち合う愛」だったかな。
結婚相手のあの男も歳はリズよりかなり上だが、疲れているのは国の中枢で政に携わって走りまわっているからで、なかなかの人物のようだ。
リズが愛をもって接すればよい家庭が築けると思う。
残った金貨で袋が重すぎて、家に帰るのに難儀しそうだ。腕が疲れて持ち上がらないし足も動かない。
そうだ、家に帰る前に使ってしまおう。
身も心も軽くなって家に帰りつきたい。
ああ、重いと思ったら服も水にぬれたままだからか。
故郷のリリアとロジーに買ったお土産の服だけどこれに着替えてしまおう。
髪でオレだとバレてしまわないようにフードを深くかぶって…よし!
オレは空間から服を取り出して人気のない路地で着替えてフードつきのマントを深くかぶった。
今日は王都の城下の目につくところにいる食えなくて死にそうな浮浪者に渡してしまおう。
お金で渡すとあとで誰かにむしりとられてしまうからもしれないから、すぐに食べきれる大きさと量の物を作って、「すぐに食べて」って手渡してしまえばいいんだ。
その日、王都に現れたフードつきのマントを被った謎の美しい若者から多くの浮浪者が食べ物を渡されるという珍事が起こった。
二枚のパンに肉やゆでた玉子やサラダがサンドされた不思議な黄色っぽいソースのかかった食べ物だったと言う。
おりしも、その日の前後に王宮で聖女が召喚されたところから「聖女様の御業」とされたが、実際に渡されたものの証言ではフードからチラリと見えた肌は瑞々しく少女のようにも見えたがけっこうガタイがよく、何よりも睫がピンク色であった事から違うのではないかという声があがったそうだ。
また 最初に目撃されたのがコンサル伯爵家の近くだったことから、その正体はそこの娘のリズベットであったのではという声もあがったが、真相が解き明かされる事がなかった。
何人かの浮浪者がそのソースの美味しさが忘れられず、調理人になったとか当時は噂になったものだった。
のちに調理場を貸したという店の店主が現れこんな証言を残した。
「めったに見ないべっぴんだった」
「ソースの作り方を見とけよ!」
という突っ込みがあちこちであがったとかあがらなかったとか。




