50話 違いすぎる世界
拍子抜けするほどにあっさりと、馬車は城壁を越え、石畳の道を進む。
その頃には、既に日が傾いており、辺りは夕焼けに赤く染まろうとしていた。
城壁内部の帝都の街並みは、恐らく青空の下に見るには、白が目立つ建物ばかりだったに違いない。今、それは赤い夕日に照らされ、一様に朱に染まっていた。
壁の中は、一言で言ってしまえば、不思議な空間だった。
殆どの建物は三階建て、四階建ての高いものばかりで、何処を持ってしてそれぞれが個別な建物だと判別すべきなのかわからないほどに密集している。
俺たちを乗せた馬車は、その建物の合間とも、谷とも言える場所を通過していく。
道は、確かに整備されているものの、門から今現在までの行程で、俺は既に何処を走っているのかわからなくなった。
何度も交差点を曲がり、アーチを抜け、気付いてみれば塀の上を走り、或いはトンネルを抜ける。最早街全体が、迷路にしか思えなくなってくる。
間違いなく言えるが、今馬車を降りて門まで戻れと言われても、絶対にたどり着けない自信がある。
だいたい、俺としては城壁を越えたら直ぐに、レオンの屋敷なりに着くものだとばかり思っていた。だが、そんなことは無かった。よく考えたら当然なのだが、中も当たり前のように街だった。むしろ中が帝都の本体だ。
あえて言い訳すると、これは、俺が壁の外ばかりで暮らしていた事に原因がある。
なので、中の世界をかなり小さく考えていた。俺のなかでは、完全に帝都は周辺街であって、城壁の中では無い。だからこその錯覚だった。
「なんかその……世界が違いますね……」
外を見ていたアイラがボソッと言った。
夕闇迫るその街に住む住民は、確かに何かが違っていた。俺たちとは、世界がズレている。そんな肌で感じる違和感。
子供を連れて歩く、年若い婦人。スーツを着て歩く老人。四人かしましく楽しそうに喋りながら歩く女の子―――みんな、何かしらゆったりとしていて、そして同時に、あえて言えば……そう。
一生懸命では、なかった。
「あ、あれ?」
それを見て、アイラはボロボロと涙を流しながら戸惑った声を上げた。
半笑いの顔で目を押さえ戸惑った顔のまま、でも溢れる涙を抑えられない。そんな様子だった。
俺は、それが何故なのか、少しだけ理解出来た。
パルミラもそうなのだろう。
もしかすると、パルミラは一度、ここを見たことがあるのかもしれない。
「ん」
オロオロと自分では訳もわからず泣き続けるアイラを、パルミラは軽く抱きしめて、椅子に座らせる。
そして、その頭をそっと抱いて、何も言わず、優しく撫でた。
それはあまりにも、切ない光景ではあった。
違い過ぎる世界。
アイラと、パルミラ。そして俺も、それを見てしまった。
生きるにあたって、必死にならなければならなかった俺たち。或いは奴隷になったり、死にそうになったりすることもあった。
そしてそれは、別にそこまで特別なことではなかった。少なくとも、俺たちが居た場所は、そうだった。
気を抜けばいとも簡単に死に、あっさりと全てを失う。刹那的に生きて、その日、その時を必死になって生きる。
俺たちが生きてきた世界とは、そういう場所だった。
だが、ここはそうではない。
ゆったりしていて、必死にならなくて、でも幸せそうで、楽しそうで。
そんなものは、一握りの特別な人間だけに許された、特権だと思っていた。だから、堪えられた。諦めていられた。
でも、恐らく全員がその特権を持っているのだとしても、この城壁で閉鎖された世界は、それが当たり前のように見えた。だから、辛くて仕方ない。
生きることに必死になり、食べる為に一生懸命になる。それが当たり前なのに、ここではそうした俺たちは異端でしかない。
それは酷く、惨めに思えた。
そうしなければ生きられない、俺たちは、一体何だったのか、と。
実際、あの館に居るときも、そうした気持ちが片隅にあった。ここは、俺たちが居て良い場所では無いと。
それでも、まだそれは俺たちの世界だったのだと、今は思う。まだ、それはあの館だけだと認識できていたから。
だが、ここは違う。そうした世界そのものだった。
城壁に囲まれ、外と隔絶した世界。
だからこそ、今、改めて世界の理不尽さを感じる。
その結果生まれる気持ちは、惨めさであったし、そして哀しさ、或いは―――怒りだった。
すっかり打ちのめされて盛り下がり切った頃、漸く馬車は止まった。
結構な距離を走ったと思う。既に日は落ちて、十分過ぎるほど辺りは暗くなっていた。
「お疲れ様でした。今日はこちらでゆっくりして下さい」
目的地に着いたということだろう。正直、道中でもここまで疲れはしなかったような気がする。馬車の前で気遣うレオンの声にも、まともに答えられない。
レオンが、何時ものように和やかに、でも見てわかる程には疲れている俺たちを、本当に気遣ってくれているのは、わかる。
でも城壁を抜けてから俺たちが馬車の中で感じていた事とかは、多分、知らないだろう。
そして、それは知らない方が良いのかも知れない。
ここは多分、レオンの故郷であって、普通だったら、誇れる場所でもあるはずだった。
それを素直に凄いと思えないのは、きっと俺たちの問題なのだろうと思うし、それにここで生まれ育っただろうレオンには、多分……それは理解出来ない事なのだろうとも思う。
「っと」
「!大丈夫ですか?」
地面に降りた途端、足が蹌踉めく。
疲れない体だと思っていたが、精神的なそれは別らしい。
横に立ったレオンが、すかさず俺を支えてくれた。
「いや、平気へいき。ちょっと気疲れしただけだ」
内心の気持ちを最大限誤魔化して、ヘラヘラ笑ってそう返す。それでも気遣う表情のレオンに、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
そのまま、目線を逸らして、今日泊まるのだろうその建物を見た。
意外とこぢんまりした、それでもこの街に相応しい白亜の館だった。少なくとも、あのテラベランの屋敷よりも、かなり小さい。
比べてみれば、屋敷と言うより殆ど家といってもいい。ただ、あえて形容するなら、すごく立派な、が着くが。
「素敵な家ですねえ」
続いて降りてきたアイラが、そう漏らすのが聞こえた。
振り返ると、意外にもキラキラした顔をしていて、先ほどまでの暗澹な気持ちはどこへやら、本気で言ってるようだった。さすがアイラ。切り替えが早い。
その後に続くパルミラは無表情。こっちはこっちで何時ものパルミラだった。
「お帰りなさいませ。御館様」
そんな二人を見ていると、今度は館の方で、声がした。
忙しくそちらに目を向ける。
全くその気配も感じなかったが、そこには館から出てきたと思われた一人の長身のメイドが立っていた。
黒を基調としたメイド服に、切りそろえられたショートボブの頭の上にカチューシャ。少し目が鋭く、やや怜悧な印象を受ける。じっと見ていると、どこかで見たことがあるように感じた―――なんとなくパルミラに似ている。印象がだが。
そんな目が、俺を捕らえた瞬間、一瞬跳ねた気がした。
「ああ、アーリィ。出迎えご苦労だね。紹介しておくよ。今日からしばらく、住んで貰う事になる、クリス。それから、アイラ、パルミラだ」
紹介された俺たちは、慌てて軽く頭を下げる。
それにしても、いつの間にかアイラとパルミラまで呼び捨てか……俺だけで無いんだな。何となく、フクザツだ。
「……そうですか。私は当館のメイド長をしておりますアーリィ・キッテルです。どうぞアーリィとお呼び下さい。クリス様、アイラ様、パルミラ様」
優雅で控えめという、見事な礼をもって俺たちを迎えるアーリィ。
それは、圧倒されるような一分のスキも無い姿だった。一流。そんな言葉が頭に何故か浮かぶ。
「取りあえず疲れたでしょう。アーリィ。三人を部屋の方へ案内してくれ。食事の方は?」
「すぐにでも」
「ああ、軽くでいい。頼む」
「わかりました。では、皆様こちらへ」
完璧な主従の遣り取りを呆気にとられて見てる間に話がまとまり、俺たちは流れるようにメイド長を称するアーリィに促され、開け放たれ明かりの漏れる玄関へと足を向けた。
一瞬だけ、後ろを振り返る。
館は、この街のある程度高い場所にあるようだった。全貌とは言わないが、街の半貌程度は見渡せる。
既に夜闇に沈んでは居るが、所何処に明かりが灯り、それが如何にも豊かそうに見えた。
この光景にも、そのうち慣れるのだろうか。
少しだけ、それが俺には怖かった。
館の中も、別段豪華というわけではなく、そうしたデザインの機微などよくわからないが、あえて言えば落ち着いた雰囲気で纏められているように思えた。
アーリィがメイド長と言うからには、他にも居るのだろうと思っていたが、実際に廊下を歩くに、何度か他のメイドとすれ違う。
当主出迎えに出なかったのかと思ったが、彼女たちも十分に忙しそうだったので、アーリィのみ出迎えというのは、ここでのルールなのかも知れない。
「他に何人のメイドが居るんだ、ここ」
折角なので、不躾に聞いてみる。口調をどうするか考えたものの、もしここで長く住むなら、素直にずっと装っていくのは面倒だし、どこかでどうせボロが出るので、素のままにした。
「……私を含め、メイドは5人ほどです。それで当館の全てを仕切っております」
「へぇー」
クールに答えるアーリィの言葉に、やたら感心した嘆息をもらすアイラ。その目には尊敬、みたいなものが浮かんでいる。
そういえば、アイラはメイド志望とかなんとか言ってたな。
ひょっとしたら、既にもう本人から言ったのかも知れないが、あとでレオンに頼んでおくか。
……それにしてもメイドだけなんだな。
あのテラベランの館もそうだったが、あっちはまだ兵士達が行き来している分、そういう印象は無かったものの、この館ではそれが浮き彫りになっている感じがある。
ひょっとして、案外レオンはメイドが好きなんじゃないだろうか。
いや、メイド好きというか、女好きというか。
冷静になってみると、俺たちが混じってなおこの館に居る男はレオンだけ。1対8などという凄い比率だったりする。
そこまで考えた時、ふと気になったことがあって、アーリィに聞いてみる。
「この館は、メイド以外にレオンしか住んでないのか?」
「……普通は、そうですね」
俺がレオンと呼び捨てにした部分で、一瞬ぴくりと眉を動かし、それでも平静に答えるアーリィ。
素はともかく、レオンと呼び捨てにしたのは、不味かっただろうか。
それはともかく、やはりレオンだけの館なんだ。
実際、一族郎党で住むには、貴族の館としては少し小さい気がする。
だとしたら、レオンの両親などは一体どこに居るのだろう。
よくよく考えてみると、レオンについては、兄が二人居るらしい以外の話をあまり聞いていない。割と、レオンの事を俺はよく知らない。
その辺を聞くべきか聞かないべきか悩んでいる間に、先を進むアーリィがぴたりと足を止めた。そしてそこにある扉を開く。
「では、こちらがクリス様の部屋になります。並んで向こう、パルミラ様、アイラ様となっていますので、ご確認下さい」
案内された部屋は、広くもなく狭くも無いシンプルな内装の、館全体がそうであるように、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
ベッドは大きめだったが、天蓋付きなどということもなく、普通のベッド。奥に机。手前に衣装棚。あとチェストが一つ。
浅いコの字になった館の角部屋で、二面に窓があり、開放的に見える。今は夜だけにカーテンが引かれているが、夜が明ければ景色が良い部屋になるのかも知れない。
……それにしても、個室か。
「何か、不備があれば遠慮無く言って頂ければ」
俺がどうしようかと考えていると、アーリィがそれを目聡く見留め、無表情のまま、声をかけてきた。この辺りの痒いところに手が届く感は、さすがメイド長というべきなのだろう。
それでも、俺は外様なわけだし、少し遠慮がちにその頼みを口にした。
「あ、うん……ええと、アーリィさん。その壁際に―――」
「わかりました。私の事はアーリィと呼び捨てでお願いします」
「うん、ありがとう。頼む……アーリィ」
少し言い淀みながら、アーリィに礼を言う。
アーリィは、幻かと思われるほど一瞬だけ相好を崩し、それを隠すように深々と頭を下げた。
次はこの話、と、前話を書き終わったときは考えているのですが、およそそこまで到達した例しがないです。




