37話 不穏な気配
命。
突然語られた、あまりにも重い言葉に、更に不気味なものを感じて自分の手の中にあるものを凝視する。
赤く、のっぺりした、ただの石。
それが命などと言われれば、その赤い色が、どうしても血のそれを連想させた。
そして大きさ。
俺の知る大したことない知識でも、まず、この石には大きさが様々である事が分かる。だとすると、その大きさは、命の何によって決定されているのか。
その想像は、何か知るべきで無い深い淵を覗いているような気持ちに誘い、俺はぶるっと身を震わせた。
「命というもの。或いは魂。それらが一体何なのか、などと哲学的な事は取りあえず置いておきましょう。その精製方法こそ魔導院の秘奥にあり不明ですが、それが動植物の命そのものであることは、その筋では有名な話です」
「命……そんなものを材料に」
命を材料とする。
それは、ともすれば世界の禁忌のようなものに触れていると思ってしまう。そんなものがあるならばだが。
「そのように思われるかも知れませんが、私達も普段、命を材料に生きているではないですか。わかりやすく言えば、食卓に肉が並べば、それは何かの動物の命を奪ってそこにあるわけですし」
じっと俺を見つめるレグナムの目に、呆れのようなものが浮かんでいる。或いは蔑みなのかもしれない。
言われてみれば、確かにそうなのだ。当たり前すぎる話ではあるが、俺たちは何時だって命を奪って生きている。そもそもそうしないと生きてはいけない。
それは俺が思うに、別に罪深い事では無い。この世界の構造が、そうなっているだけだ。
だが、それが納得してなお、命そのものを材料とする、という言葉に引っかかりを覚える。
俺たちが食べるためには、結果として対象の命を奪う。だが、もし命を奪わなくとも食べ物が得られるならば、多分だが俺たちは、命を奪う必要は無い。
別に、命を奪うことが目的では無いのだから。
だが、命そのものを材料とする、という言葉からは、むしろ命を奪うことを目的にするように感じる。これは、ただの言葉遊びだと割り切って良いのだろうか。
降魔石を見る。この『命』は一体、どの命なのだろう。
「それで、なんでこいつを俺にくれるってんだ?」
降魔石の事は、朧気ながらわかった。
わかったが、それを俺にくれる意図が見えない。レグナムはこれを持って俺に何をしろというのだろう。
「そうですね……あえて言うなら、念のため、ですね。魔法、使えるのでしょう?」
あえて言うなら。
そんな取って付けたような言葉に続けて、レグナムは俺が息を飲むような事を言った。
……少なくともコイツは、俺が魔法らしきものを使える事を知っていると言う事だ。
その情報の出所は―――
「なぜ魔法を使える事を知っているのか、なのですが、単純にグイブナーグの屋敷の現場検証より明らかです。あの跡は魔法以外の何物でも無いでしょう」
「……」
考えている事を、ほぼ完璧に当てられた俺は、顔を強張らせて固まる。
そんな俺をじっと見つめながら、レグナムは続けた。
「あえて言いますと、貴女は考えすぎる傾向にあるようです。今の私の話から、貴女はきっとその情報の出所について考え、そしてレオン様のそれに行き着くでしょう。その場合、またそれをもって悩むのだと考えます。それはきっと、レオン様にとってあまり喜ばしい事では無い結果となるでしょう……まあ、些細な問題ですが一応、お伝えしておきます」
何もかも通り越して言葉も無い。
なんだ。こいつは何を言っている。何が―――
「何が、言いたい?」
脳みその中を直接覗かれているかのような不快感を覚えながら、俺は絞り出すようにレグナムに聞いた。
「レオン様を信じて頂きたい、という話です」
「……そんなことは……」
今更なんだよ。
と言おうとしたが、その言葉を俺は飲み込んだ。
信じてないわけじゃ無い。ただ、それをこの男に―――何もかもを見透かしたようなこの男に、はっきりと言うには、如何にも恥ずかしかったから。
そう、そんな事は今更だった。
既にレオンの事は何度も疑った。疑って、疑って、そして俺は、ここに居る。
そう思えば、本当にそんなことは今さらだった。今は、殆ど無条件でレオンを信じている。これで騙されていたら我ながら傑作ではあるが、最早それならそれで仕方ないとすら、割り切れてしまう。
レオンはそう思わせるほどの、気持ちを俺に示した。
だから俺も、それに応えなければならない。
「……まあ、いいか。預かっておくよ。コイツはともかくマシマロ有り難うな。昼夜ヘンになるから、寝る努力でもしとくよ」
そう無理矢理話を打ち切って、俺はたき火から立ち上がった。
このまま朝まで起きていても良いが、基本的に馬車に揺られるだけの状態で、昼夜逆転したら、元に戻りそうに無い気がする。
現状、ここまでして貰っていて、それ以上にだらけた姿は見せられない。そもそもちゃんと準備されているだろうご飯を食べないというだけで、どうかと思う。
「……それが良いでしょう。夜は寝るべきです。それにご婦人には、肌に悪いとも言いますので」
「それは大きなお世話なんだよ」
レグナムが、俺の正体を全て知っているのかどうかはわからない。
いや、おそらく既に知ってはいるだろう。そうで無ければいくら何でも『調査』できない。
調査内容は、全く俺の真実に迫るものであるはずなので、前提としての元は違う俺という話をせずに依頼が完結できるとは思えない。
少なくとも俺がもしそうした依頼を行うのであれば、そうした部分を伏せたまま行えるかというと、まず無理だろうという結論しか出てこない。
よしんば出来たとしても、そこからの調査はあやふやな結果しか生まれないだろう。そうした予想は俺にだって簡単にできる。だからレオンがそう考えてないなど、あり得ないと思う。
そう思えば、今現在、俺の正体を知っているのは、5人。レオン、アイラ、パルミラ、アイリン、レグナムだ。
知られて悪い事では無いとは、思う。でも、取りあえず俺の恥という部分は置いといたとしても、事が貴族社会に及ぶことが分かった今、拡散しすぎるのは不味い。
レグナムを見る。立ち上がった俺に、既に興味が無くなったのか、まんじりともせずにたき火に当たっている。
コイツは情報部の士官とやらなので、そうそう簡単には自分の持つ情報を他に漏らすようなことはしないだろう。信用はしないが、信頼は出来る。
それにそれがわかって、レオンはレグナムに依頼しているのだろうから、そうした意味でも俺が心配する要素は、皆無だ。
とりあえずレグナムのことは別としても、これからは、自分の正体を誰かに教えるのは、出来る限り控えた方がよさそうだ。アイリンのケースのように、不用意に教えるなど、俺も、そして教えた相手も、ひょっとすると危険にさらしてしまうかも知れない。
そこまで考えてみると、アイリンの事が気になった。彼女は今、何処へ行ってしまっているのだろうか。少なくとも、この隊には居ないことはわかるが。
その話は、レオンに言っておいた方が良いのだろう。
―――?
そこまで考えた時、ふと首筋にちりっとしたものを感じて、手を首筋にやり、辺りをなんとなく見回した。
それは微かで、そして普通だったら気にもしないものだった。
ただ、それまで全く動きをみせなかったレグナムが、俺がその違和感のようなモノを感じたと同時に、同じように周りを見回すのを見て、気のせいで済ますはずのそれを、見過ごせなくなった。
一体、なんなんだ。
「何か、あったのか?」
取りあえずこの違和感の正体がわからない俺は、レグナムに聞く。
俺が声を掛けたからなのか、レグナムは見回すのをやめ、俺をじっと見てから少し考える素振りをして見せた。
「わかりませんか?」
「何が?」
わかりませんか、と聞かれても、それがわからないから聞いた俺としては、そうとしか返せない。
「今、感じたのは、気配です。何かは無論わかりませんが、何者かが私達を見ていたようですね……あえて重ねて言いますが、本当にわかりませんでしたか?」
レグナムはそう俺に言いながら立ち上がり、近くで寝ている兵士を起こしにかかる。少し揺らすだけで、直ぐさま起きる数人の兵士達。何かありましたか?という問いに、レグナムは、念のために、と答えている。
それを見ながら、俺は、レグナムの言葉の意味を反芻していた。
わかりませんでしたか?
わからない、わけがない。
そう、本当だったら、わからないわけがない。
なぜなら、それは、戦場で、迷宮で、俺が幾度となく感じた、確かに『気配』というものだったからだ。
平たく言えば、『嫌な感じ』。
それは実際に幾度となく俺を助けた、直感だったはずだった。
それを俺は、感じてなお、レグナムに指摘されるまで、わからなかった。
これは、俺が鈍ってきているのだろうか。レオンの庇護下にある安寧に、俺が慣れた結果、油断しているという事だろうか。
そう考えるのは簡単だし、道理が通っている。
だが、本当にそれだけなんだろうか。
「とりあえず、あなたは馬車に戻っておくべきでしょう……キース。それからウォレン。姫様を馬車まで送れ。送った後は、先頭に居るルーパートに警戒するよう伝えるように」
考えている間に、レグナムは俺にそう告げると、問答無用と言わんばかりに、起きてきた近くの兵士二人に指示を与える。
念のため、程度にしては、やたら入念な気がするが、それがわからなかった俺に反論する資格は無い。
「それでは姫様、行きましょう」
「あ、ああ……」
起きがけなのに既に帯剣までしている二人の兵士に促され、俺は未だ戸惑いながら歩き始める。そうしながら周りを見回すが、既に何の気配も感じられない。それは、俺が感じられないだけなのか。それとも。
自分が鈍っていることばかりに気がいっていたが、結局今の気配は、なんだったのだろう。今、思い出せば、それは視線。見られている、という感覚に近いことに気付く。
それはこの山嶺に巣くうモンスターなのか、それとも他の何かなのか。
……まあ、そんなことを今考えていても仕方ない。
馬車に到達した俺は、素直に兵士に礼を言って、別れた。
なぜだか、礼を言われた二人の兵士の挙動が不審な気がしたが、続いて開けた馬車の中で未だ二人が爆睡しているのを見て、努めて忘れることにした。
結局、その日は何も起こらなかった。
「なんなんですか!なんなんですかっ!お姉様、その甘いにおい!」
お腹がくちたからなのか、馬車に戻って横になると、俺は程なく眠りに落ちた。
そして朝、目が覚めてみると、既に目覚めていたらしい、アイラに責められる始末だった。
パルミラは何も言わないが、しかし無言で俺にプレッシャーを与えてくる。白状しろ。そういう目だ。
臭い。甘いにおい。
……心当たりがありすぎる。アレだ。
「いや、昨日の夜ちょっと散歩しててな……」
仕方なく、昨日の顛末を話して聞かせる。
しかしそんな臭うものかな。多分、マシマロより、チョコレートの臭いがするのかもしれない。後でしっかりうがいしておこう。
「レグナムさん、ってあの、会議に居た?」
「ちょっと不健康そうな人」
アイラはちゃんと名前を覚えていたようだ。忘れていた自分に対して、案外しっかりしている。パルミラの評価は、俺の不景気に対して、不健康ときた。どちらにしてもあまり良い評価では無い。
かといって、別に庇う必要も無いので、おおよそそういうものだと頷いておくことにする。
「へー……甘い物が好きとか、意外ですねえ」
「一人だけ、ずるい」
「そんなこと言われてもなぁ」
意外にパルミラがしつこい。
案外甘い物に目が無いのかも知れない。そういえば、アイリンのケーキの時も、食べた瞬間評価を180度変えていたな。
もし、レグナムにマシマロを貰えば、パルミラが言う不健康な人という評価も変わるのだろうか。
「まあ、今度会ったら貰っておいてやるよ」
「絶対」
真剣なパルミラに、適当に返す。
それにしても、よく寝た。考えてみれば、途中起きたとはいえ、半日以上寝ていた計算になる。
普通、必要以上に睡眠をとれば、起きたときに逆に倦怠感を纏うもののはずなのだが、なぜかやたら気分が良い。なんかこう、活力が沸いてきているという感じで。
昨日飲んだ、チョコレートのせいだろうか。
あれは確か、そういう効果もあったはずだ。
「失礼します。朝ご飯をお持ちしました」
「わお、ありがとー。ジーク君」
そうこうしている間に、馬車の扉がノックされ、お馴染みになったジーク君が顔を出す。その手にはバスケットと、水差し。それを嬉々として受け取るアイラ。
「今日は、ゆで卵付き」
受け取ったバスケットをごそごそとかき回すパルミラが、驚いたような声で、中からゆで卵っぽいものを取り出した。
「ビレルワンディで、仕入れていたものです。今日、明日分はありますよ」
そう言いながら、ジーク君が馬車入り口の足置きに腰掛けて、布にくるまれた自分ぶんの朝食を広げる。
こう見ると酷く馴れ馴れしい感じではあるけれど、実のところ、そうするように言ったのは他ならぬ俺だったりする。実際、毎回少し余ってしまうのと、いちいちバスケットを回収するため来るのが面倒くさいだろうと、提案した結果だ。
最初はひどく遠慮していたが、今では結構抵抗なしにそうしている。
「ところでジーク君、帝都まで、どれくらいかかるものなの?」
「そうですね。だいたいは5日ぐらいで。途中、要塞を通りますが、そこは明日ぐらいには着く予定ですね」
アイラの問いに答えるジーク君。俺の記憶でも、おおよそその辺りだったと思う。
バスラゲイト要塞は、明日通過か。一泊することになるんだろうか。
だとしたら今度こそちゃんと風呂に入りたいが。
パルミラから、バスケットを受け取り、中を覗く。
確かに卵が。
「あれ?」
卵というと、昨日貰った、降魔石はどこへ?
その大きさから何となく思い出し、立ち上がって腰や胸の辺りをはたいてみる。
―――無い。
「おかしいな」
「どうしたの?」
記憶を辿ってみる。昨日、確か馬車に入るときは、手に持っていたはず。別にポケットとかには入れていない……と思う。
「いや、降魔石をレグナムに貰ったんだが……まあ、いいか。その辺に隠れてるかも知れない。後で探すよ」
寝てる間に、落としてクッションの隙間にでも落ちているのだろう。
俺はそう思うことにして、先に朝飯を頂こうと、卵の殻をむく。
ふと、思い出す。
『命そのものです』
確かにこれも命に変わりない。
そう思いながらも、特に感慨も無く俺はむき終わった卵にかぶり付いた。