私を嫌っていた夫が「出て行け」と言った。本当に出て行ったら、彼は狂ってしまった
私は、心に障害を抱える国公府の世子に嫁いだ。
三年間、昼も夜も世話を焼き続けた。それでも返ってきたのは、彼の嫌悪ばかりだった。
無理やり初夜を迎えさせられたあと、彼は私を汚らわしいと罵った。
ところが、従妹が現れると、彼は彼女の前でだけ子犬のように従順になり、持てる愛情のすべてを彼女に注いだ。
私が近づくたび、彼はうんざりした顔で私を突き放す。
彼の心が従妹に向いていることは、もう分かっていた。
私も疲れてしまった。これ以上、彼の世話を続ける気はない。
私は沈夫人のもとを訪ね、自ら離縁を申し出ることにした。
1
沈砚と婚約する前、私は林家で肩身の狭い暮らしを送っていた。
母は医術を生業とする女性だった。顔立ちの美しい父に心を奪われ、二人は周囲も目に入らないほど激しく愛し合った。やがて私が生まれた。
ところが、私を産んでから、母はようやく真実を知った。命を懸けて愛していると言い、生涯ただ一人だけを妻にすると誓った父は、実は五品の官職に就く役人で、すでに正妻を迎えていたのだ。
母は父が囲っていた外室にすぎなかった。
ある日、父の正妻が大勢の者を引き連れて別邸へ押しかけてきた。彼女は母を恥知らずだと罵り、正式な婚姻もせずに子を産んだことや、林家の財物を盗んだことまで持ち出して責め立てた。そして、母が全身傷だらけになるまで打ち据えた。
私と母の前では、いつも頼もしく振る舞っていた父も、正妻の前では顔を上げることさえできなかった。妻を恐れるあまり、私たちをかばうどころか、その場で母との関係を断ち、私たちを小さな屋敷から追い出した。
母は私を連れて遠い土地へ移り、たった一人で私を育てた。薬草を採りに出て足の骨を折ったこともあったし、少しでも金を稼ごうと昼夜を問わず刺繍を続けたこともあった。貞節を守るため、自分の美しい顔に傷をつけることさえためらわなかった。
苦しい暮らしに耐えかねたのだろう。八歳になったとき、母は私を林家へ連れていき、父を脅した。自分を娘として認めないのなら、二人の過去を大理寺に訴えるというのだ。
出世を望む父は、やむなく母の要求を受け入れた。
私が林家へ向かう日、母は涙を浮かべて喜んだ。
「私の浅浅。これからは大切に育てられたお嬢様として暮らせるのよ。もう苦労しなくていいの」
けれど、母は想像もしていなかっただろう。父が私を人生最大の汚点と見なし、嫡母も私を嫌って、何かにつけて難癖をつけるようになるとは。
屋敷の使用人たちも、主人たちの態度を見て、陰に陽に私を虐げた。腹違いの姉と弟に至っては、私を仇のように扱った。
母がそのことを知る日は来なかった。重い病を患った彼女は、私が林家へ移って間もなく、たった一人で息を引き取った。
私は表小姐という立場で林家に身を寄せ、毎日、いつ誰の機嫌を損ねるかと怯えながら暮らした。
2
十歳のとき、私は玉のように愛らしい男の子と出会った。
なぜ怪我をしていたのかは分からない。白く柔らかな腕から、鮮血が細い川のように流れ落ちていた。それなのに、彼は痛みなど感じていないかのように、目の前に咲き誇る牡丹をじっと見つめていた。
私は慌てて屋敷へ戻り、布を持ってきて、傷口を洗い、手当てをした。自分自身も何度も怪我をしてきたため、傷の処置には慣れていた。
その後、彼が国公府の世子、沈砚だと知った。
あの日を境に、私は沈夫人に見込まれ、孫の嫁として選ばれた。国公府との縁談を結べるとあって、父も大いに喜んだ。
話を聞きつけた嫡姉は、わざわざ私のところへ来て嘲笑った。
「まさか、国公府との縁談がいい話だと本気で思っているの?」
「沈砚は頭がおかしいうえに、まともに話すこともできない。あんたみたいな身分の低い女には、あんな役立たずがお似合いよ。一生あの男の面倒を見て暮らせばいいわ」
私はこの婚約に不満を抱かなかった。むしろ、ありがたいと思っていた。
婚約が決まってから、林家での暮らしは少しずつ楽になった。家の者たちは以前のように私を使用人扱いしなくなり、ほかの使用人たちも、気ままに私を虐げることはできなくなった。
あの日、怪我をしていた男の子が、知らないうちに私を救ってくれたのだ。私はずっと、そのことに感謝していた。
恩返しをしたい一心で、心に障害を抱える人とどう暮らせばいいのか、少しずつ学び始めた。
そして十五歳になったとき、約束どおり、私は彼のもとへ嫁いだ。
3
結婚するまで、沈砚があれほど私を嫌っているとは知らなかった。
嫁いでからというもの、彼は一度たりとも私に優しい顔を見せなかった。話しかけてもまともに取り合わず、触れることさえ許さない。まして、同じ寝台で夜を過ごすなど考えられなかった。
初夜の晩、彼は狂ったように婚礼の部屋を荒らし、顔を歪めて私に怒鳴った。
「出ていけ!」
「俺の部屋に入るな!」
「お前なんか見たくない!」
私は途方に暮れた。いったい何をしたというのだろう。なぜ、ここまで嫌われなければならないのか。
涙が頬を伝い、生まれて初めて味わう屈辱に、私は身を縮めることしかできなかった。最後には沈夫人が手配し、隣の部屋へ移ることで、ようやく騒ぎが収まった。
その日、沈夫人は涙を浮かべながら私に言った。
「砚児は人見知りが激しく、人と関わるのが苦手なの。あなたを嫌っているわけではないのよ。まだ一緒に暮らすことに慣れていないだけ。どうか、もう少し辛抱強く接して、あの子の面倒を見てあげてちょうだい」
期待に満ちた彼女の目を前にして、私はうなずいた。
それから私は、沈砚の嫌悪に耐えながら、彼の世話をするようになった。薬を煎じて飲ませるのも、彼の好みに合わせて食事を作るのも、すべて自分でやった。やがて、着替えや身支度を手伝うことまで許されるようになった。
努力は少しずつ実を結び、彼は以前ほど私を拒絶しなくなった。身近に寄ることを許し、ときには自分から手を貸してくれることもあった。
それでも、夫婦が同じ寝台で夜を過ごすことはなかった。
沈家の跡取りは彼一人だった。沈夫人は孫の顔を見ることを望み、折に触れて私にそれとなく催促した。けれど、本人が望んでいないことを、私が無理強いするわけにもいかなかった。
ところが、三年目を迎えた頃、沈夫人はついに我慢できなくなったらしい。
私たちが油断している隙に、彼女は媚薬を使った。私は沈砚の部屋へ送り込まれ、扉は外から固く施錠された。どれほど叫んでも、誰も開けてくれなかった。
あの夜のことは、死ぬまで忘れられないだろう。
薬に操られた沈砚は、まるで理性を失った獣のように私の体を乱暴に扱った。初めてのことで何も分からなかったのか、それとも私への怒りをぶつけていたのか、彼の動きは荒々しかった。
体が引き裂かれるような痛みに、私は何度も意識を失った。
空が白み始める頃になって、ようやく彼は力尽きたように動きを止めた。
翌朝、私は眠っている最中に、沈砚に寝台から蹴り落とされた。
4
目を覚ました沈砚は、私を殺しかねないほどの憎悪をむき出しにしていた。
手当たり次第に物をつかみ、私に向かって投げつけてくる。避けきれず、頭に何かが当たった。額を伝う生温かいものを指で拭うと、指先が真っ赤に染まった。
彼は私を見るなり、吐き気をこらえるように顔を歪めた。
「汚い。気持ち悪い!」
「お前なんか大嫌いだ!」
「二度と俺の前に現れるな!」
割れた銅鏡には、傷だらけになった自分の姿が映っていた。
彼の言うとおり、私は汚れてしまったのだろうか。
沈砚はまた発作を起こし、どこかへ走り去ってしまった。私は痛む体を引きずり、使用人たちと一緒に彼を捜しに出た。どれほど歩いたのかも分からないうちに、その場に倒れ、意識を失った。
騒ぎが大きくなったせいで、上京の町では妙な噂が広まっていた。私が夫と初夜を迎えるために媚薬を使ったものの、あまりの醜さに嫌われたというのだ。
噂を耳にした父は、私を林家へ呼びつけ、厳しく叱責した。何を言っても信じてもらえず、私は悔しさをのみ込むしかなかった。
そんな私に、継母が珍しく優しい顔を向けた。
「かわいそうに。怖かったでしょう? 私はあなたの嫡母なのだから、あなたのことを心配しているのよ。安心なさい、私が力になってあげるから」
長年一緒に暮らしてきた私には、継母が善意だけで動く人ではないことくらい分かっていた。彼女の目の奥に浮かぶ計算高さを見て、背筋が冷たくなった。
それから二日も経たないうちに、私は見知らぬ美しい娘の訪問を受けた。柳雲煙――私の従妹だという。私はそれまで、彼女の存在すら知らなかった。
ところが、沈砚は彼女を見た途端、すっかり心を奪われてしまった。私には一度も見せたことのない、屈託のない笑顔を浮かべている。
雲煙は私に視線を向け、隠そうともせず挑発的に笑った。
「お姉様は幸せね。こんなに美しい方がお婿さんだなんて。まるで仙人のような人、私、初めて見ましたわ」
彼女が『鳳求凰』を奏でると、沈砚はたちまち興味を示した。
沈砚は幼い頃から琴を弾き、琴狂いと呼ばれるほどの腕前だった。林家では、私にそんな習い事をさせる余裕などなかった。嫁いでから、せめて夫の好きな琴を教えてもらおうと頼んだことがある。
そのとき、彼は冷たく言い放った。
「お前は頭が悪い。どうせ覚えられない」
それでも諦めきれず、私は人知れず琴の師匠を招いて練習した。ところが、それを知った沈砚は、私の琴を粉々に壊してしまった。
それ以来、琴に触れることさえ避けていた。
私に対しては、ろくに口も利かず、ひと言返すのさえ面倒そうにする沈砚だった。それなのに、雲煙を相手にすると、さまざまな知識を披露し、冗談まで交えて楽しそうに話す。二人はあっという間に意気投合し、互いを理解し合える存在になっていった。
その後、雲煙は輪に入れず立ち尽くしていた私を見て、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「砚兄様があんなに博識で、素敵な方だったなんて。これからは、もっとお話しさせていただきたいですわ。お姉様、構いませんよね?」
私が答えるより先に、沈砚が口を開いた。
「構わない。俺は雲煙と一緒にいたい!」
「こいつは嫌い」
雲煙の甘い笑い声を聞きながら、私はうつむいた。何も言い返せず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
5
見かねた侍女の翠竹が、そっと声をかけてきた。
「世子様、お疲れではありませんか? 奥様と一緒にお食事はいかがでしょう。今日はお好きな八宝鴨をご用意しております」
沈砚は腰を上げかけた。けれど、そのとき雲煙が羨ましそうに言った。
「砚兄様とお姉様は、本当に仲のよいご夫婦ですのね。羨ましいわ」
沈砚は私を見た。その目に浮かんだ嫌悪に、私はいたたまれなくなった。彼は雲煙に向き直ると、弁解するように言った。
「こいつは身分が低い。嫌いだ」
「無理やり結婚させられた」
頭を殴られたような衝撃が走った。全身が恥ずかしさに包まれ、私はその場から動けなくなった。
雲煙は親しげに沈砚の袖を引いた。
「そんなことを言ったら、お姉様が傷ついてしまいますわ。もういい時間ですし、私もそろそろ食事に行きますね」
普段は人に触られることさえ嫌がる沈砚が、彼女に対しては少しも嫌がる様子を見せなかった。それどころか、嬉しそうに一緒に食事をしようと誘っていた。
その日を境に、沈砚は私をいっそう遠ざけるようになった。話しかけても返事をせず、目を合わせることさえ避ける。私がこれまで彼に贈った品々も、わざわざ一つ残らず集めて燃やしてしまった。
「嫌いだ」
「お前の物も嫌い」
「気持ち悪い。いらない」
それからというもの、沈砚は毎日のように雲煙と過ごした。
二人が揃いの玉佩を身につけているのを見たとき、私はもう目をそらせなかった。沈砚の心は、私にはないのだ。
沈夫人も、私たち夫婦の間にある溝に気づいたのだろう。
ある日の昼、彼女は私に沈砚と一緒に来るよう命じた。
あの夜以来、沈砚は私が自分の部屋に入ることを許さなかった。その日も、部屋の中に彼の姿はなかった。私はためらったものの、後ろに控えていた年配の侍女に急かされ、仕方なく中で待つことにした。
やがて、沈砚が雲煙と戻ってきた。
部屋に私がいるのを見るなり、彼の顔から笑みが消えた。
「入るな!」
「誰が入っていいと言った!」
「気持ち悪い!」
沈砚は激昂し、私の腕をつかんで部屋から引きずり出した。そして、床に乱暴に投げ出したあと、使用人たちに命じて部屋中を掃除させた。
6
どうして、ここまで嫌われなければならないのだろう。
私は床に座り込んだまま、沈砚を見上げた。ずっと胸の奥にしまい込んでいた疑問が、とうとう口をついて出た。
「どうして雲煙なら部屋に入れて、私は駄目なの?」
「私だって汚くないわ。どうして、私が入っただけで部屋中を掃除しなければならないの?」
ここ数日、雲煙は沈砚と片時も離れず、彼の部屋にも自由に出入りしていた。三年間、懸命に世話をしてきた妻の私は、部屋に入っただけでこれほど嫌われる。
何が違うのか、私には分からなかった。
沈砚は、いつもの心底嫌そうな顔をした。
「お前、嫌い。入るな。汚い」
「あの子は知音だ。入っていい」
何年も傷つけられてきた。もう慣れたつもりだった。それでも、胸の奥をえぐられるような痛みは消えてくれなかった。
「沈砚。自分がどれだけひどいことを言っているのか、本当に分からないのなら、もう何も言わないわ」
「分かっていて言っているのなら、あなたには人を思いやる心もないの?」
嫁いでから、私は彼が怒るたびに、できるだけ逆らわないようにしてきた。こんなふうに、真正面から言い返したのは初めてだった。
沈砚は一瞬、呆気にとられたように固まった。次の瞬間、額に青筋を立て、血走った目で私を指さした。
「出ていけ!」
「ここは俺の家だ! お前なんか出ていけ!」
「汚いものを、俺の家に置くな!」
その怒鳴り声を聞いた瞬間、幼い頃の記憶がよみがえった。
初めて林家に来たときも、私は嫡母の子どもたちから同じように嫌われた。二人に虐げられても、頭を抱えて床にうずくまり、嵐が過ぎるのを待つことしかできなかった。
だからこそ、私はずっと自分の家が欲しかった。
沈砚と結婚したあとも、彼が私を好きではないことは分かっていた。それでも、夫なのだから、普通の人とは違うのだからと自分に言い聞かせ、もっと辛抱強く、もっと優しく接しようとしてきた。いつしか私は、ここが自分の帰る場所になるのだと信じかけていた。
けれど、今、沈砚が必死に私を追い出そうとする姿を見て、昔の記憶が重なった。
ここは私の家ではない。
雨風をしのげる立派な屋敷でも、私の居場所はどこにもなかった。
私はうつむき、自分と沈砚が歩んできた年月を振り返った。
十歳で出会い、十五歳で嫁ぎ、十八歳になった今、夫に嫌われて屋敷を追い出されようとしている。
沈砚との婚約のおかげで、林家での暮らしは以前よりましになった。それでも、結婚してから三年間、彼の嫌悪に耐え続けた日々を思えば、もう十分に恩は返したはずだった。
疲れた。
もう、ここを離れたい。
7
いったん心に芽生えた決意は、日を追うごとに強くなっていった。
私は沈夫人のもとへ行き、離縁したいと申し出た。
彼女は面倒そうに額を押さえ、理解できないという顔をした。
「どうして?」
私は、沈砚が柳雲煙を好きなのだと伝えた。
彼は雲煙の前では怒りを抑え、優しく接し、笑顔まで見せる。彼女がそばにいると、いつも機嫌がよかった。それに比べ、私を見るとすぐに苛立ち、怒りをあらわにする。
どう考えても、沈砚の隣にいるのは私より雲煙のほうがふさわしい。
だから、自分から離縁を願い出たのだと説明した。
沈夫人はしばらく黙っていたが、やがて率直に尋ねた。
「清浅、私がどうしてあなたを砚児の婚約者に選んだのか、分かる?」
「私が、あのとき砚児の傷の手当てをしたからでしょうか?」
私は当然のように答えた。けれど、彼女は首を横に振った。
「あなたのことは、前もって調べさせてもらったの。心根の優しい娘だけれど、身の上のせいで林家では苦労している。砚児と婚約すれば、少しは暮らしやすくなるだろうと思ったのよ」
「砚児は身分こそ高いけれど、体に障害を抱えているでしょう。家柄や身分よりも、あの子を心から愛し、大切にしてくれる人を妻にしたかったの」
「だから、あなたを選んだ。砚児を好きになってくれれば、それが一番いい。でも、そうでなくても、受けた恩を思って、あの子の世話をしてくれると思ったのよ」
沈夫人の言葉は、私がこれまで抱いてきた思いと、ほとんど同じだった。
ただ、ずっと大切にしてきた恩返しが、結局は誰かの思惑によって仕組まれたものだったと知り、胸が冷えた。
沈夫人は長いため息をついた。
「柳雲煙のことは、私も詳しく調べてはいないわ。でも、砚児の妻にふさわしいのは、今でもあなたしかいないと思っている」
「清浅、この世の男なんて、たいてい薄情なものよ。雲煙は病を抱えていても、心根は悪くないし、余計な駆け引きもしない。私が後ろ盾になってあげるのだから、沈家の奥向きのことはあなたの思いどおりにできるでしょう?」
「それでも不満だというのなら、あなたが欲張りすぎているのよ」
今の私の立場を考えれば、このまま沈家に残るのが一番賢い選択なのだろう。けれど、沈砚から向けられる嫌悪や悪意には、もう耐えられなかった。
私はまだ若い。これから先の人生を、彼のためだけに費やしたくはなかった。
「沈砚が、私に出ていけと言ったんです」
できるだけ落ち着いた声で続けた。
「あの人は私をひどく嫌っています。私が姿を見せるだけで感情が乱れ、最近は発作も以前より頻繁になりました……」
沈夫人の表情が険しくなった。私を引き留めるべきかどうか、考えているようだった。
長い沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。
「離縁は大事なことだから、慎重に考えなければならないわ。少し時間をちょうだい。改めて返事をします」
「ただ、あなたと砚児は夫婦なのだから、最後はあの子の気持ちも確かめる必要があるわ」
私は礼を述べ、部屋を出た。
今の沈砚なら、私と離縁できると聞けば喜ぶに違いない。まさか、嫌がるはずはないだろう。
ところが、廊下へ出たところで、私は沈砚と鉢合わせた。
彼は部屋の入り口に立ち、空をじっと見上げていた。まるで、ここではないどこかに心を置いてきたようだった。
私たちの話をどこまで聞いていたのかは分からない。邪魔をしないよう横を通り過ぎようとした、そのときだった。彼がいきなり私の手首をつかんだ。
振り返ると、顔色は青白く、唇を固く結んでいる。
「お前、離縁するの?」
私はうなずいた。
沈砚はしばらく何も言わなかった。やがて、かすれた声でつぶやいた。
「離縁しても、俺の世話をして」
私は言葉を失った。
離縁しなければ、私はこの先もずっと彼の世話をし続けることになる。それこそが、沈家における私の存在意義なのだ。
やりきれない思いが込み上げた。
「沈砚。離縁したら、あなたはもう私に会わなくて済むのよ」
「これからは、あなたのそばに現れないし、部屋にも入らない。好きな人と一緒に、好きなことをして暮らせるの」
沈砚はぼんやりと私を見ていた。普段なら目を合わせようともしないのに、このときばかりは、私の顔をじっと見つめていた。
それでも、彼の口から出たのは、予想もしなかった言葉だった。
「離縁しない」
思わず聞き返した。
「どうして?」
「離縁したら、お前が世話してくれない」
「あなたは雲煙が好きなんでしょう? 私と離縁すれば、彼女が世話をしてくれるわ。そうしたら、毎日一緒にいられるじゃない」
私は、何とか彼を離縁に同意させようとしていた。
それでも沈砚は、頑なに首を横に振った。
「駄目」
「雲煙は琴を弾く。世話はしない」
「お前がいい」
あまりにもあけすけな言い方に、胸の奥で何かがきしんだ。
彼にとって、気高く美しい雲煙は、琴を奏で、一緒に詩を楽しむ相手なのだろう。面倒な世話などさせるつもりはないのだ。
一方で、身分の低い私には、母親代わりのように身の回りのことをさせ、何度拒絶しても世話を続けることを求める。
喉の奥が詰まり、声が震えた。
「沈砚、その心配はいらないわ。離縁したら、あなたの世話をする人は別に見つかるから」
「私より上手にできる人もいるでしょうし、あなたを怒らせることもないはずよ」
私はできるだけ辛抱強く説明した。けれど、沈砚は両手で耳をふさぎ、聞こうともしなかった。
唇をかみしめた彼の目は赤くなり、今にも発作を起こしそうだった。
「知らない! 離縁しない!」
「お前が世話するんだ!」
ここで言い争っても意味はない。
私はそれ以上、何も言わなかった。
沈砚は私が折れたと思ったらしく、少しずつ落ち着きを取り戻した。
外では細かな雨が降り、湿った風が庭を通り抜けていた。
不思議なことに、私の心は妙に軽かった。
小さな離れへ戻ると、柳雲煙が庭先で待っていた。
沈砚は彼女を見た途端、私との話など忘れたように、その姿に夢中になった。二人は連れ立って彼の部屋へ入り、沈砚はわざわざ私をにらみつけてから、ぴしゃりと扉を閉めた。まるで、私が後を追ってくるのを恐れているかのようだった。
ほどなくして、部屋の中から美しい琴の音が流れてきた。時折、少女の明るい笑い声が混じる。二人の間には、穏やかで楽しげな空気が満ちていた。
雲煙が出てきたのは、すっかり日が暮れてからだった。
彼女は私を見ると、いたずらっぽい目をして、沈砚の袖をつかんだ。
「砚兄様、私がいつも会いに来ていたら、お姉様は嫌な気持ちにならないかしら?」
名指しされた私は、答える間もなかった。
沈砚が、焦ったように、けれど強い口調で言った。
「大丈夫」
「ここは俺の家。あいつの家じゃない」
「俺が決める」
人前で衣服を剥がされ、さらし者にされたような気持ちだった。恥ずかしさと痛みで、胸がいっぱいになる。
雲煙は満足そうに笑った。
「でも、あまり頻繁に来たら、お二人の仲を邪魔してしまうわね。これからは気をつけるわ」
沈砚は顔を赤くした。焦っているのか、怒っているのか、私には分からなかった。
「邪魔じゃない」
「あいつ、気持ち悪い。触らない」
私は、悪意のない顔でそう言い切る沈砚を見つめた。
彼に何の罪があるのだろう。
ただ、自分の思っていることを、そのまま口にしただけなのだ。
それでも、私はもう、ここにはいられなかった。
9
沈家は裕福で、食事や衣服に困ることはなかった。ただ、私を警戒していたのか、自由に使えるお金はほとんど与えられていなかった。
私は手元に残していた数少ない貴重品をまとめ、青禾に頼んで質に入れてもらった。そうして少しばかりの金を作り、数日かけて町を歩き回り、ようやく手頃な家賃の静かな小さな屋敷を見つけた。
荷物をまとめていると、沈砚が部屋に入ってきた。
彼のほうから話しかけてくるのは珍しかった。
「捨てるの?」
私は首を横に振った。
彼は机の上に置いた服を指さした。
「醜い。捨てろ」
胸の奥に湧く不快感を押し込め、私は尋ねた。
「じゃあ、どんな服ならきれいなの?」
予想どおり、沈砚は真剣な顔で答えた。
「雲煙」
「お前も、雲煙みたいになれ」
「金をやる」
私は彼が指さした服を見つめた。
自分でも忘れているのだろう。これは去年の私の誕生日に、沈砚が自分で選んでくれた服だった。
あのとき、私がそれを着て見せると、彼の目は珍しく輝いた。いつもは見せない笑顔を浮かべ、短く褒めてくれたのだ。
「きれい」
それから、たった一年しか経っていない。
私は目を伏せた。
「いらないわ。私はこれが好きなの」
沈砚の顔に怒りが浮かんだ。
「勝手にしろ」
吐き捨てるように言い、彼は部屋を出ていった。
私はもう彼を気にかけず、荷物をまとめて屋敷をあとにした。
沈砚の言うとおり、ここは私の家ではなかった。自分のものと呼べる品もほとんどなく、小さな包み一つで十分だった。
借りた小さな屋敷は、立派な沈家とは比べものにならない。それでも、私はそこで初めて心から安心できた。
幼い頃、母はよく言っていた。真面目に働いていれば、暮らしは少しずつよくなる。お金が貯まったら、いつか一緒に上京して、広い世界を見ようね、と。
私は上京してからずいぶん長い時間を過ごしたけれど、思っていたほどの場所ではなかった。むしろ、母が生まれ育った江南の水郷に、心を惹かれるようになっていた。
沈砚のことがあって、ずっと行けずにいた場所だった。
今、私は夢にまで見た水辺の楼閣を目の前にしている。耳に届くのは柔らかな土地の言葉。口にするのは、ここでしか味わえない料理。
生きていることが、こんなに楽しいものだったなんて。
そう思ったのも束の間、沈家の使用人たちが私を見つけに来た。
屋敷を出るとき、私は沈夫人に行き先を告げていた。彼女は不機嫌そうな顔をしたものの、引き留めはしなかったはずだった。
ところが、今になって沈砚の具合がひどく悪くなったので、すぐに戻ってほしいと言う。
私は目の前の景色を名残惜しく見つめた。胸の奥に残る悔しさをのみ込み、結局、彼らと一緒に沈家へ戻ることにした。
私がいなくなってから、沈砚は発作を起こしたらしい。それも、かなりひどい状態だったという。
部屋の隅にうずくまり、誰も近づけず、私の名前ばかりを繰り返していた。私が出ていったと聞かされると、怒りのあまり気を失ったとも聞いた。
屋敷は大騒ぎになっていた。沈砚は部屋の中の物を片っ端から壊し、食事も取らず、私の部屋にこもって、私を連れてこいと叫び続けていた。沈夫人は青禾に世話をさせようとしたが、沈砚が暴れ、危うく彼女まで怪我をするところだったという。
私が屋敷へ戻ったとき、沈砚は見る影もなくやつれていた。風に吹かれる蝋燭の火のように、今にも消えてしまいそうだった。
「ふん。戻ってきて何の用だ?」
捨てられた子犬のような目で私を見つめながら、口では相変わらず意地悪を言う。
「出ていったくせに」
「俺が嫌いなんだろ」
私が借りていた小さな屋敷は、すでに沈夫人が解約してしまっていた。私はまた、帰る場所のない身に逆戻りした。
沈砚は私の背負った荷物を見ると、少しだけ機嫌を直した。
「誰もお前なんか欲しがらない」
「だから俺の家に戻ってきたんだろ」
「もう出ていくな」
私は言い返す気にもならなかった。
彼への思いを手放してからは、沈砚の幼い残酷さも、以前ほど心に刺さらなくなっていた。
私がいつもの小部屋へ戻ると、沈砚はほっとしたように口元を緩めた。
彼は、私がなぜ戻ってきたのかを知らない。これまでどおり、妻として自分の世話をしてくれるのだと思っているのだろう。
私は沈夫人と長い時間をかけて話し合った。
もう以前のように沈砚を愛し、世話を続けることはできない。今の私が望んでいるのは、ただ離縁することだけだった。もし沈夫人が認めてくれないのなら、誰も私を知らない土地へ行き、そこで暮らすつもりだった。
どちらにしても、沈家に居続けるつもりはなかった。
養い慣れた沈夫人の顔は、以前よりずいぶん憔悴していた。ふっくらしていた頬は痩せ、こめかみには白髪が混じっていた。
「どうして、そこまで離縁にこだわるの? 離縁したら何も残らないのよ。一度嫁いだ身では、再婚しようにも、いい縁談は難しいでしょう」
私を思いどおりに動かすために、沈夫人はずいぶん用意周到だったのだろう。
離縁したら、今着ている服一枚を持ち出すことさえ、彼女の温情次第なのかもしれない。
「分かっています。それでも、離縁したいんです」
「沈砚との婚約には感謝しています。あの縁談のおかげで、私は五年間、林家で以前ほど苦しまずに暮らせました。でも、結婚してからの三年間、私も心を尽くして彼の世話をしてきました。これで恩返しは十分にできたと思います。これからの人生まで差し出す必要はありません」
沈夫人は長いこと黙っていた。私が断られる覚悟を決めた頃、ようやく小さく口を開いた。
「それなら、これからは青禾に砚児の世話をさせましょう。あなたのそばに長くいた子だから、ほかの者よりは慣れているでしょう」
「あと一か月だけ、今までどおり世話をしてちょうだい。その間に少しずつ青禾へ引き継いで。急にあなたがいなくなれば、砚児も受け入れられないでしょうから」
「離縁が成立したら、償いとして銀子を千両渡します」
私は嬉しさを隠せず、何度もうなずいた。
それだけあれば、これからの暮らしもずいぶん楽になるはずだった。
10
沈砚は知らなかった。
私がそばにいられるのは、あと一か月だけだということを。
青禾の話では、私が出ていってから、沈砚はほとんど食事を取らなかったらしい。それなのに、私が戻ってきたこの日は、珍しく二杯もご飯を平らげた。
「褒めて」
彼は期待に満ちた目で私を見た。まるで、褒めてもらいたい子どものようだった。
私はいつものように答えた。
「よくできました」
沈砚は嬉しそうに笑い、その機嫌は私が部屋を出るまで続いた。
青禾に、私は小声で伝えた。
「砚児は褒められるのが好きなの。こまめに褒めてあげてね。何か間違ったことをしたときも、頭ごなしに叱るより、褒める形で教えてあげるといいわ」
青禾は涙を浮かべ、名残惜しそうに私を見つめた。
「奥様は、世子様のためにあんなに尽くしてこられたのに、本当に離れてしまわれるのですか?」
「世子様は奥様を大切に思っていらっしゃるんです。奥様がいなくなってから、どれほど落ち着かずに過ごしていたか……。食事も喉を通らず、ずっと奥様に戻ってきてほしいとおっしゃっていたんですよ」
私は慌てて手を振り、彼女の言葉を遮った。
「私たちの縁は、もう終わったの。私にも自分の人生があるから、これ以上、彼のためだけに時間を使うわけにはいかないわ」
そう言って、私は青禾を厨房へ連れていった。沈砚の好物をいくつか教え、実際に作り方を見せた。そのうえで、彼の生活習慣や好き嫌い、世話をするときに気をつけることも、一つずつ伝えていった。
夜になって、隣の部屋から陶器の割れる音が聞こえてきた。沈砚の怒鳴り声も混じっている。
青禾が慌てて私を呼びに来た。
部屋へ駆けつけると、中はひどい有様だった。薬の椀は床に落ちて粉々に砕け、苦い薬湯の匂いが部屋中に漂っていた。
私を見るなり、沈砚はよろめきながら寝台を降りた。裸足で破片を踏み、足の裏から血が流れている。それでも痛みを感じていないように、ただ私を見つめていた。顔には、怯えた色が浮かんでいた。
「どうして、あの子なの?」
「お前じゃないの?」
「お前がいい! ほかの人はいらない!」
彼は私の袖を強く握りしめ、すがるように言った。
「世話をする人を替えないで。お前がいい」
私は青禾に、新しく薬を煎じるよう指示した。
しばらくして沈砚の気持ちが落ち着き、薬もできあがった。彼はおとなしく椀を受け取り、うつむいて飲み始めた。
私は、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「どうして、私じゃなきゃ駄目なの?」
「お前じゃないと、怖い」
「何が怖いの?」
沈砚の目が赤くなり、今にも泣き出しそうだった。
「お前がいなくなるのが怖い。ほかの人に押しつけられるのも嫌だ」
「お前に捨てられるのが怖い」
彼の勘は、思っていた以上に鋭かった。
私は少しずつ距離を置いていたつもりだったのに、その変化に気づかれてしまった。沈砚は本当に怯えているらしく、私の袖をつかんだまま、決して手を離そうとしなかった。
「約束して。いなくならないって」
「ほかの人に替えないで」
「お前がいい」
沈砚は頑固な性格だった。今ここで何を言っても、まともに話ができる状態ではない。
私は適当にうなずき、何も答えなかった。
どうせ一か月後にはここを出ていく。そうなれば、彼がどう暮らそうと、私には関係なくなる。
沈砚は私のうなずきを約束だと思ったらしい。子どものように嬉しそうに笑った。
足の裏からは、まだ血が流れていた。私は傷薬を渡してから、部屋を出た。
以前なら、私が傷口を洗い、薬を塗り、包帯を巻いていた。けれど、これからは自分で処置することも覚えなければならない。
自分のことは自分ですること。
誰かの世話を受け入れること。
そして、私のいない日々に慣れること……。
青禾は、沈砚を気の毒そうに見つめながら、こっそり涙をぬぐった。
屋敷の者たちは、私がもうすぐ離縁することを知っていた。
ただ一人、沈砚だけが、私がこれからもずっとそばにいてくれると思い込んでいた。
11
柳雲煙が沈家を訪ねてきた。
彼女は庭先に立ち、沈砚の部屋をじっと見つめていた。中からは、心地よい琴の音が流れてくる。
不思議なことに、彼女は沈砚のもとへ行かず、私を訪ねてきた。
「お姉様、私がどうしてここに来たのか、ご存じ?」
雲煙は遠くを見つめ、昔を思い返すように話し始めた。
「去年、旅先で、白い衣を着て亭の中で琴を弾く人を見かけたの。あまりに美しくて、目を奪われてしまったわ」
「その人が、国公府の『ぼんやりした世子』と呼ばれている方で、お姉様の夫だと知ったのは、その後だったのよ」
彼女は少し笑った。
「林家のおば様を訪ねたとき、沈砚がお姉様を嫌っていると聞いたの。それで、おば様と相談して、私が代わりに『お世話をしてあげる』ことにしたのよ」
雲煙は私の顔をちらりと見た。私が黙って話を聞いているのを確かめると、続けた。
「世間の人は、あの方を愚かだと笑うでしょう? でも、一緒に過ごしてみると、子どものように純粋で、放っておけない人なの。私は本当に、あの方を愛しているのよ」
そう言う彼女の顔には、恋する少女らしい甘い笑みが浮かんでいた。
「お姉様が出ていったあと、沈夫人から、沈砚の世話を頼まれたの。私、どれだけ嬉しかったか分からないわ!」
「前から、お姉様は堅苦しくてつまらない人だと思っていたの。琴も詩もできないのに、あれほど才能のある人にふさわしいはずがないでしょう? あの方の隣にいるべきなのは、私だと思っていたのよ」
「だから、私が代わりに世話をして、ずっとそばにいてあげると言ったの。あのとき、沈砚は何も答えなかったけれど、私は受け入れてくれたのだと思っていたわ」
雲煙は、沈砚の部屋を見つめ続けていた。以前のように、彼が自分を見つけて笑顔で迎えてくれるのを待っているようだった。
私は彼女を部屋へ招こうとした。けれど、雲煙は頑なに首を横に振った。
視線は、沈砚の部屋に釘づけになったままだった。
彼女の話から、私は知らなかった沈砚の一面を聞くことになった。
私がいなくなってから、雲煙は沈砚のそばで過ごすようになったという。
ところが、以前はあれほど気が合っていた二人の間に、いつの間にか私の影が入り込むようになった。
二人で琴を弾いていると、沈砚は私のために曲を作るのだと言う。
一緒に詩を作っていると、私に詩を書いてやるのだと言う。
雲煙が桂花糕を作っても、沈砚は私がそれを好きだと口にする。
とうとう我慢できなくなった雲煙は、沈砚に私と離縁するつもりがあるのかと尋ねた。
彼は、きっぱりと答えたという。
「離縁しない」
諦めきれなかった雲煙は、さらに説得を試みた。
「林清浅と離縁してくれたら、私が毎日そばにいてあげるわ。あなたを愛して、世話もする。私たちが結婚したら、あの人より幸せになれるはずよ!」
ところが、沈砚は突然怒り出し、彼女を「気持ち悪い」と罵って追い払おうとした。
顔を真っ赤にして、嫌悪を隠そうともしなかったという。
「お前は知音じゃない。下品だ」
「阿浅は妻だ。離縁しない」
沈砚は使用人たちに命じて雲煙を追い出し、二度と会いたくない、もう自分を訪ねてくるなと言い放った。
雲煙の目には、隠しきれない寂しさが浮かんでいた。
「私はずっと、沈砚がお姉様を嫌っているのは、婚姻で縛りつけられたからだと思っていたの」
「でも、今になって、どれほど見当違いだったのか分かったわ」
「私はお姉様よりも、あの方を愛しているつもりだった。でも、あの方が私を受け入れないことも、私たちが結ばれることはないことも、もう分かったの」
そう言って、彼女は手にしていた楽譜を私に差し出した。
「これを、沈砚に渡してくれない? ずっと探していた楽譜なの」
以前なら、雲煙が来れば沈砚はよく部屋から出てきた。ところが今回は、彼女が一時間も庭先に立っていたのに、一度も姿を見せなかった。
帰る間際まで、雲煙は何度も彼の部屋を振り返った。
それでも沈砚は、最後まで彼女を見送りに出てこなかった。
12
どういうわけか、最近の沈砚は、以前にも増して私にまとわりつくようになった。
少しでも姿が見えなくなると、狂ったように私を捜し回る。私はまるで独楽のように、彼の周りをぐるぐると動き続けなければならなかった。
もっとも、こんな暮らしも長くは続かない。
沈砚は、私がいなくなっていた間、どこで何をしていたのかとしきりに尋ねてきた。
私は江南へ遊びに行っていたと答え、雨に煙る楼閣や水辺の景色、しなやかで美しい土地の女性たち、そして甘い餅菓子について話して聞かせた。
沈砚は身じろぎもせず、私の話に聞き入っていた。
「好きなの? 旅に出るの」
私は迷わずうなずいた。
「俺は、家が好き」
鹿のように澄んだ瞳に、期待が満ちていた。
「一緒に、旅に出る」
私は信じられない思いで彼を見つめた。
病気のせいもあって、沈砚はほとんど外出しない。出かけたとしても、すぐに家へ戻ってしまう。人を極端に避ける彼が、どうして急に旅をしたいなどと言い出したのだろう。
考え込んでいると、彼は私の手を引き、奥の部屋へ連れていった。
そこは、かつて私が足を踏み入れることを何度も禁じられた場所だった。
私が最も深く傷つけられた部屋でもある。
入り口で足を止めていると、沈砚は慌てた様子で私を引き入れた。
「阿浅、入っていい」
「ほかの人は駄目」
「阿浅に、贈り物」
沈砚の部屋は広かった。彼はあまり外出しないためか、寝室と書斎は屏風一枚を隔ててつながっていた。
私は初めて、彼の部屋をじっくりと見回した。
今日の沈砚は上等な衣服を身につけ、身なりもきちんと整えていた。よく見ると、彼は端正で、清らかな雰囲気をまとっていた。
彼は机の前に座り、目を閉じて琴を奏で始めた。澄んだ音色が泉の流れのように響き、時には軽やかに、時には切なく、部屋の隅々まで満たしていく。
私はいつの間にか、その音色に聞き入っていた。
一曲弾き終えると、沈砚は目をぱちぱちさせながら尋ねた。
「きれい? 好き?」
私は拍手をした。
「すごいわ!」
沈砚は顔を赤くした。
「阿浅、誕生日の贈り物」
私はしばらく彼を見つめた。自分の誕生日を覚えていてくれたことにも、贈り物を用意してくれていたことにも驚いた。
呆気にとられていると、彼は私の手を引いて隣に座らせた。話し方も、いつもよりずっと自然だった。
「俺の病気、理由を話したい」
彼の話を聞いて、私は初めてその事情を知った。
若い頃、沈父はある花魁を愛し、身請けして囲っていたという。沈夫人にそれが知られると、彼女は人を引き連れて花魁を懲らしめた。
そこで花魁は、自分に優しく接し、生涯ただ一人を愛すると誓った沈父が、すでに妻を持ち、子どもまでいることを知った。自分は、ただ軽んじられていた外室にすぎなかったのだ。
怒りに駆られた花魁は人を雇って沈砚をさらい、沈父を自らの手で殺した。
沈家の血筋を断とうとしたものの、最後には心変わりし、沈砚の命だけは奪わなかったという。
幼い沈砚は、殺人の現場を目撃して気を失った。目を覚ましたときには、今のような状態になっていた。
それ以来、彼は女性を恐れるようになったのだ。
14
なぜ、沈砚が今になって私にそんな話をしたのか、私には分からなかった。
彼は私の疑問を察したように、言葉を続けた。
「阿浅に、俺のこと全部知ってほしい」
震える手で私の手を取る。その目には、本人も気づいていないような、媚びるような色が浮かんでいた。
「病気、これから治す」
「俺を捨てないで」
「言うこと聞く。怒らない」
沈砚は真剣な目で私を見つめていた。自分の心を丸ごと差し出そうとするかのようだった。
私は初めて、彼の心に近づけたような気がした。
けれど、もう遅かった……。
「阿浅と、一緒に旅に出る」
彼は人に会うことをひどく恐れている。それなのに、どうして急に私と出かけたいと思ったのだろう。
尋ねる前に、彼は理由を口にした。
「阿浅、好き。喜んでほしい」
沈砚は私の手を引いて机へ向かい、行き先を相談し始めた。
私はこのことを沈夫人に伝えた。
彼女は心配そうな顔をして、少し考えてから尋ねた。
「青禾に任せても大丈夫そう?」
旅から戻る頃には、ちょうど私が離れる時期になる。
沈夫人がそう尋ねるのも当然だった。
「はい。必要なことはすべて教えました。いつでも引き継げます」
「そう。それならいいわ。あの子が外へ出る気になったのなら、本人にとってもいいことだもの」
沈夫人は、私たちが出かけることを認めた。
沈砚と相談した末、郊外にある十里桃林へ行くことに決めた。
彼は興奮と不安が入り混じった様子で、何度も私の手を握りながら話し続けた。私はそのたびに、落ち着くように声をかけた。
もうすぐここを離れるのだと思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
出発の日、馬車の中で沈砚はひどく緊張していた。呼吸は浅くなり、落ち着かない様子で何度も身じろぎする。
私はなだめるように彼の手の甲をたたいた。すると、逆に強く握り返された。
これ以上つらい思いをさせたくなくて、私は提案した。
「気分が悪いなら、帰りましょう。無理をする必要はないわ」
沈砚は唇を引き結び、首を横に振った。
「大丈夫」
「阿浅と、行きたい」
目的地に着くまで、彼は私の手を離さなかった。
外出に慣れていないせいか、沈砚は普段以上に落ち着かなかった。桃林では子どもたちが追いかけっこをしていて、そばを通るたび、彼は緊張して私の腕にしがみつき、全身を震わせた。
私が少し用事で離れ、青禾に彼を任せて戻ってみると、沈砚は地面にしゃがみ込み、体を丸めていた。
私の姿を見るなり、彼は泣きながら抱きついてきた。
私はすっかり出かける気をなくし、彼を連れて帰ろうとした。
けれど、落ち着きを取り戻した沈砚は、無理に明るく振る舞った。
「帰らない。阿浅と遊ぶ」
彼が私を喜ばせようとしていることは分かっていた。
私は彼の手を引き、できるだけ人の少ない場所を選んで歩いた。
そのとき、少し離れたところで、夫婦らしい男女が言い争っているのが見えた。女が怒りに任せて、男を刺し殺してやると叫んだ。
それを聞いた沈砚は、とうとう耐えられなくなった。
両手で頭を押さえ、悲鳴を上げる。
発作だった。
15
家へ戻ると、沈砚は何か悪いことをした子どものように、怯えた目で私を見つめた。
「阿浅、ごめん。喜んでない」
私は首を横に振り、慰めようとした。
けれど、彼は続けた。
「俺と一緒、疲れる」
「阿浅、江南は楽しい。桃林は楽しくない」
「阿浅を喜ばせたい。でも、俺、駄目だ」
彼は自分の思いを途切れ途切れに話し続けた。
私はそばに座り、根気よく慰めた。けれど、どんな言葉も彼の心には届かないようだった。
最後に、彼はぽつりと言った。
「阿浅、俺は駄目な人間だ」
私は否定しようとした。けれど、何から話せばいいのか分からなかった。
そして、誕生日の日がやってきた。
沈砚はいつもより念入りに身なりを整え、私と食事をし、琴を弾いてくれた。夜が更けても、まだ一緒に過ごしたいようだった。
私が眠気をこらえながら帰ろうとしたとき、彼は急に真剣な顔になった。
「阿浅、俺たち、離縁しよう」
私は一気に目が覚めた。
見ると、彼はすでに離縁状を用意していた。
沈砚は頑固な人だ。私が離縁を申し出たとき、あれほど強く拒んだ。だから、期限が来たら何も告げずに出ていくつもりだった。
まさか彼のほうから離縁を申し出るとは、思いもしなかった。
私は尋ねずにはいられなかった。
「どうして、離縁に同意してくれるの?」
沈砚は静かな声で答えた。
「俺は馬鹿だ。阿浅を苦しめる。幸せにできない」
そう言いながらも、彼は何とか笑おうとしていた。けれど、ようやく口元に浮かんだ笑みとは裏腹に、目の端は赤く染まっていた。
「阿浅を愛してる。気づくのが遅すぎた」
「そばに閉じ込めておきたかった。でも、阿浅は幸せじゃない。もう悲しませたくない」
最後には、彼は声を上げて泣き始めた。
「手放す。阿浅に自由をあげる」
番外編(沈砚)
林清浅が初めて母に離縁したいと告げたとき、俺はようやく、自分が彼女を好きなのだと気づいた。
ずっと嫌っていたはずなのに、最初に湧き上がったのは拒絶する気持ちだった。
父のことがあってから、俺はずっと女が怖かった。
清浅が現れたことで、それまで保たれていた静かな暮らしが乱された。
目を覚ませば彼女がいる。食事のときも、散歩のときも、いつも彼女がそばにいた。あの頃は、眠るときまで彼女がいるのではないかと思うほどだった……。
どこへ行っても、何をしていても、彼女がいる。
そのうち、彼女への恐怖は、少しずつ嫌悪へと変わっていった。
彼女が離れていこうとするまで、俺は自分がいつの間にか彼女を好きになっていたことに気づかなかった。
その気持ちを認めるのが嫌で、俺は自分に言い聞かせた。彼女が世話をしてくれることに慣れただけだ。好きになったわけではない、と。
その証拠を見せつけるように、わざと柳雲煙と親しくした。清浅の目の前で、雲煙を褒めたりもした。
ただ、自分は清浅を好きではないと証明したかった。彼女の世話が当たり前になっただけだと、そう思いたかった。
けれど、彼女は出ていった。
それを知ったとき、俺は腹を立てると同時に、ひどく怯えた。
何も言わずに出ていったことが許せなかった。二度と戻ってこず、俺をここに一人きりで置いていくのではないかと思うと、怖くてたまらなかった。
そんなとき、柳雲煙が俺に離縁を勧めてきた。自分が俺の妻になりたいとも言った。
胸の奥に、どうしようもない怒りが湧いた。
この世で俺の妻になれるのは、林清浅だけだ。ほかの女に、その場所を譲る気などなかった。
俺は怒りに任せて雲煙を追い出し、二度と顔を見せるなと怒鳴った。
もう、自分の気持ちをごまかすことはできなかった。
俺は林清浅が好きなのだ。
会いたくてたまらなかった。彼女がいない日々は落ち着かず、目を閉じれば、彼女に捨てられる夢ばかり見た。
やがて母が彼女を連れ戻してくれた。
嬉しくて、気が狂いそうだった。それなのに、彼女を前にすると、なぜかまたひどい言葉を口にしてしまった。
以前と同じように暮らせるようになっても、俺の胸には不安が残っていた。彼女が身の回りのことを青禾に教えている姿を見るたび、最後の引き継ぎをしているのではないかと思った。
彼女は、いつでも俺の前からいなくなれるように準備している。
そう考えると、怖くてたまらなかった。
彼女に離れてほしくなかった。たとえ死ぬことになっても、一緒にいたいと思った。
考えた末、俺は自分の気持ちから逃げるのをやめ、彼女と向き合うことにした。
自分から話しかけ、彼女のために琴を弾き、曲を作った……。
けれど、清浅はいつも上の空だった。生気を失ったように、ぼんやりと過ごしている。
江南の話をするときだけ、彼女の目は輝いた。まるで別人のように、生き生きとしていた。
彼女を喜ばせたくて、俺は一緒に出かけることにした。
桃林での出来事を通して、俺はようやく、自分こそが彼女を疲れさせていたのだと知った。
彼女はいつも俺の顔色をうかがい、世話をし、俺の怒りやわがままに耐えていた。
そのことを考えると、急に彼女がかわいそうになった。
どうして彼女は、俺なんかに出会ってしまったのだろう。
俺から離れれば、もっと幸せになれるのではないだろうか。
だから、彼女の誕生日に、俺は一生で一番立派な贈り物を渡すことにした。
――自由だ。
彼女が去るとき、俺は自分の貯えをすべて渡した。
彼女は受け取るのをためらった。けれど、これは彼女がこれから生きていくための支えなのだと伝えた。
俺のいない暮らしの中で、もう誰にもつらい思いをさせられずに済むように。
彼女が去ったあと、俺は部屋に閉じこもった。
彼女のために作った曲を、何度も何度も弾いた。それでも、あの頃と同じ気持ちで奏でることはできなかった。
彼女が本当にいなくなったことを認めたくなかった。
けれど、夢の中にしか、彼女は現れなくなった。
やがて、彼女から贈り物が届いた。
一通の手紙。
塞外の砂。
そして、枯れた小さな花……。
それを受け取ってから、俺は少しずつ、彼女がいない暮らしを受け入れられるようになった。
俺から離れた清浅は、ようやく自分らしく生きられるようになったのだ。
よかった。
心から、そう思った。




