【悲報】好きな人の「好き」が嘘判定。望まない花嫁衣裳は真っ黒に染められたけど、ここからわたしは本当の愛を掴みに行く。
ねえ、あなたは"絶対"って言葉、信じる?
もし、相手の気持ちが"絶対"にわかる方法があったら、あなたならどうするかな。嬉しい? それとも、怖い?
わたしの名前はミサキ。某大学に通う女子大学生。
今、わたしは人生で一番幸せな瞬間を迎えている――はず。
目の前には、無数の光が作り出す幻想的なトンネルがどこまでも続いている。
冬の澄んだ空気が、イルミネーションの輝きを一層特別なものにしてくれていた。
「わぁ……すごい、綺麗……!」
思わずこぼれた感嘆の声に、隣を歩く彼が優しく微笑むのが気配でわかった。
彼の名前はハルトくん。わたしが想いを寄せる、行きつけの喫茶店の店員さんだ。
最初はカッコいいなぁって思って、思わず名前を聞いてしまったら、彼は優しく応えてくれた。
それから、喫茶店に行くたびに、少しずつ彼と距離を詰めていって、仲を深めていった。
そして、ようやく、国営公園のイルミネーション・ショーでデートするまで、彼に近づいた。
「ミサキさんこそ、イルミネーションに負けないくらい綺麗だよ」
「も、もう! そういうこと、さらっと言うんだから……」
わたしは照れ隠しに、彼の巻いているマフラーの端に顔をうずめた。
ふわりと香る、ハルトくんの穏やかな匂いに胸が高鳴る。そんなわたしの肩を、彼はごく自然に抱き寄せてくれた。
誰が見たって、わたしたちは「恋人一歩手前」。ね、そう言ってもいいくらいには、親密な関係になれたと思ってたんだ。
「寒い? こっちおいで」
「う、うん……」
彼の言葉に甘えて、もう少しだけ体をすり寄せる。
吐く息は白く、かじかんだ指先がじんじんと痛い。でも、心はぽかぽかと温かかった。
わたしたちは、はしゃぎながら写真を撮り合った。
ハルトくんが撮ってくれるわたしの写真は、いつも少しだけ、わたしが知っている自分よりも綺麗に写っている気がする。
きっと、彼の目に映るわたしは、こんな感じなのかな。なんて、自惚れたことを考えたりして。
「あ、ハルトくん、髪に雪がついてる」
人工雪の小さな欠片が、彼の柔らかな髪にキラキラと光っていた。わたしは少しだけ背伸びをして、その雪を取ってあげる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そんな些細なやり取りの一つ一つが、宝物みたいにキラキラして、わたしの心を幸福感で満たしていく。
ハルトくんは、いつも物静かで、穏やかで、本当に優しい。
でもね、 時々、彼の本心がどこにあるのかわからなくて、不安になることがあったんだ。
感情の起伏があまり見えない彼だから、今の「優しい顔」が本当に心からのものなのか、確信が持てなくて……。
この気持ち、少しだけわかるかな。
このイルミネーションの魔法みたいな光の中にいると、そんな普段の悩みも薄れていくのを感じてたんだ。
勇気を出して誘ってみて良かった、そう思えた。
光のトンネルを抜けた先、少しだけ離れた場所に、きらめく夜景が一望できるベンチがあった。
まるで、わたしたちのために用意されたみたいな特等席だ。
「少し、休憩しよっか」
「うん」
二人でベンチに腰を下ろす。ロマンチックな雰囲気は、もう最高潮。
(今しか、ない)
わたしは覚悟を決めた。
この曖昧な関係を、はっきりさせたい。彼の本当の気持ちを、確かめたい。その強い衝動が、わたしを突き動かしていた。
わたしはハンドバッグから、何気ないふりをしてスマートフォンを取り出す。
ハルトくんが不思議そうにわたしの手元を見つめる中、わたしは一つのアプリを起動した。
その名は『Witas』。
どういう仕組みなのか、誰が作ったのかもわからない、謎のアプリ。
でも、その言葉が「真実(True)」か「嘘(Lie)」かを、"絶対"に判定してくれる。
学生の間では、本音を確かめ合うためのコミュニケーションツールとして、爆発的に普及していた。
もちろん、わたしもその一人ってわけ。
わたしは起動した画面をハルトくんに見られないよう、そっと手で覆い隠す。
ドキドキする心臓を落ち着かせながら、わたしはゆっくりと口を開いた。
「ねえ、ハルトくん」
「うん?」
「わたしたちって、どういう関係なのかな。あなたの口から、わたしをどう思っているのか、聞かせてほしい」
イルミネーションの七色の光が、真剣なわたしの横顔を照らし出す。
わたしの意図を汲み取ってくれたハルトくんは、困ったように少しだけ笑った後、まっすぐにわたしの瞳を見つめて、はっきりと告げてくれた。
「ああ、ボクはミサキさんのことが好きだ。彼女になってほしい」
――好き。
その言葉は、わたしがずっとずっと聞きたかったものだった。
胸がいっぱいになって、目の奥がじんと熱くなる。嬉しくて、嬉しくて、涙がこぼれそうになる。
「うれしい! わたしも……わたしも、ハルトくんのことが……!」
喜びと共に、最高の返事をしようとした、その瞬間だった。
それを遮るかのように、わたしのスマートフォンから、冷たくて無機質な合成音声が響き渡った。
『――判定は「ウソ」です』
◇ ◇ ◇
冷たい声が、頭の中で何度も何度も響き渡る。
ハルトくんの「好きだ」という言葉を、"ウソ"だと無慈悲に切り捨てた声が。
わたしは気がつくと帰路に就いていた。
ねえ、大好きな人に告白して、それが"ウソ"だって言われた後のこと、ちゃんと思い出せる人なんているのかな。
わたしには無理だったよ。
結局、あの後わたしがなんて言って、どうやって彼と別れたのか……正直、記憶が曖昧なんだ。
ただ、胸にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような、そんな感覚だけが、やけにリアルに残ってる。
彼の気持ちを確かめようなんて思わなきゃよかった。
彼の気持ちを"絶対"にするために、嘘判定アプリ『Witas』なんて使わなきゃ良かった。
わたしは彼の気持ちを、どうしても"絶対"にする必要があった、としても。
悔やんでも悔やみきれない。
わたし、帰ったら、そのまま玄関で座り込んで、朝まで動けないかもしれない。
今も、帰ってると言うより、家まで自分を運んでるって感じ。
わたしの住まい、ちょっと――いや、かなり変わってるんだ。これから話すけど、驚かないでね。
一等地にそびえ立つタワーマンション。どう考えても、普通の大学生の女の子が一人で住む場所じゃないでしょう?
生体認証による厳重なオートロックの一番目のエントランスドアがゆっくりと開く。
重厚な作りのドアは、人力では決して開くことのできない、まるで砦の門のよう。
その先。二番目のドアが行く手を阻み、一番目のドアが完全に閉まるまで待つ。
大げさな音をたてて確実にロックされたら、次に、目に見えないセンサーで全身を走査される。
まるで、厳重すぎる空港の保安検査場を通過する旅行客の気分。
もっとも、それもあながち間違っていない。
だって、これからわたしが足を踏み入れるのは異世界といっても良い。
――ここに住まうのは、人間ではないのだから。
ようやく二番目のドアが開き、わたしはエントランスホールに進んだ。
外界とは隔絶された、静謐でひやりとした空気が肌を撫でた。
そこは、高級ホテルのロビーを思わせる、巨大な円形の空間だった。
磨き上げられた黒大理石の床の中央には、巨大な円形のラグが敷かれている。
その色は、まるで凝固した血のような、深く昏い赤。
そのラグを縁取るようにして、同じく円を描くベルベット地のソファが、すべて外向きに設置されている。
見上げれば、ドーム状の天井が広がる。その頂点からは巨大なクリスタルのシャンデリアが吊り下げられていた。
無数のプリズムが放つ光は、ラグの黒みがかった赤を妖艶に照らし出す。
壁に埋め込まれたクリスタルのオブジェと共鳴するように、空間全体にきらめきを散りばめている。
――そこに「彼」はいた。
深紅のベルベット地のソファに、一人の黒スーツ姿の男が足を組んで悠然と座っていた。
月の光を吸い込んだみたいな銀色の髪。彫刻のように整った顔立ち。
その見た目は若い青年のままだけど、瞳の奥には、人間なんて到底及びもつかないような、永い時間が宿っている。
彼の名は、ヴァルタヒス。
世界に五人しかいない古き血統を今に伝えるもの。ヨーロッパの"吸血鬼"社会に君臨する権力者。
わたしを見るなり、彼は唇の端を吊り上げて、嘲るように微笑んだ。
「戻ったか、ミサキ。その顔……。どうやらお前の望みは叶わぬまま、のようだな」
カチン、と頭の奥で何かがキレる音がした。
わたしの胸にぽっかりと開いた穴に、冷たい怒りがじわじわと染み込んでいく。
「……うるさい、だまれ」
「我にそのような口を利くことを許されているのは、お前だけだと知れ」
「あんたに何がわかるっていうの?」
「――まあ、よい。貴様が夢見た〝真実の愛〟とやらが幻想に過ぎぬことなど、始めから分かりきっていたことよ」
わたしが睨みつけながら言い返そうとした、その瞬間。すっ、と彼の姿がソファから消えた。
(どこに……!?)
ぞくり、と背筋が凍る。
すぐ真後ろに、彼の気配を感じたからだ。振り向くより早く、冷たい声がわたしの耳元に注ぎ込まれる。
「矮小な人間ごときでは、我らが至宝は輝かぬ。我のような、高次の存在だからこそ、輝かせることができるのだ」
至宝――彼が持って回って言うそれは、わたしに流れる古き血統のことだろう。
わたしもまた、彼と同じ。
世界に五人しかいない古き血統を守るもの。日本に受け継がれた"吸血鬼"の血族の末裔。始祖の血脈を受け継ぐ一人。
それがわたしという"吸血鬼"の価値。
「何の用?」
「我が眷属となれ、ミサキ。さすれば、お前に永遠の栄華と真の充足を与えてやろう」
「断ったはずよ。わたしは"魂の血"を望んでいるから」
古き血統の"吸血鬼"が求める"魂の血"。心から愛し合った相手から、許しを得て飲む一滴の血の事を言う。
それはどんな美食にも勝り、"吸血鬼"たちが常に感じている"渇き"を満たしてくれる唯一の方法だと信じられている。
ヴァルタヒスは、そんなわたしの憧れを、鼻で笑うかのように言った。
「そんな夢見る乙女の戯れで、血族を絶えるというのか?」
"眷属"――その言葉の重みを、わたしは嫌というほど知っている。
それは、単なる主従関係じゃない。存在そのものを相手に委ねる、絶対的な契約だ。
わたしたち"吸血鬼"は、"吸血鬼"同士でしか、"吸血鬼"の子供を遺すことができない。
そして、そのためには、どちらかが相手の"眷属"になる儀式が必要不可欠なんだ。
つまり、彼が言っているのは、わたしに「お前の子を産め」ということ。古き血統を残すために。
冗談じゃない。
「あんたなんかの眷属になるくらいなら、塵に戻った方がマシ」
「フン、強情なことだ。よいか、ミサキ。人の子との恋など、悠久を生きる我らにとっては瞬きの間の徒事に過ぎん」
「無駄かどうか――」
「貴様が決めること、だと? そうだ、同格の存在として、尊重しよう。だが忘れるな、人の子は脆く、すぐに死ぬ」
「……」
「我らの悠久の時に比べれば、瞬きにも等しい一生。そのようなものに、何の価値がある?」
ヴァルタヒスの圧倒的な存在感が、まるで重力みたいにわたしにのしかかる。
彼の言うことは、ある意味では正しい。
人間と"吸血鬼"では、生きる時間が違いすぎる。結ばれたとしても、待っているのは必ず"別れ"だ。
でも……!
わたしは拳を強く握りしめ、振り絞るように言い放った。
「今さら、あんたに言われるまでもない! 吸血鬼が人間に恋をすることが、いばらの道だってことくらい、とっくに知ってる!」
そう。わかってる。わかっていたはずなんだ。
「否、貴様は何もわかってはいない。断言しよう、貴様はまだ何も解してはいないのだ。若さゆえの我儘も、今は許しておくが――」
「わたしは、あんたの眷属にはならない……絶対に」
わたしはヴァルタヒスを睨みつけ、決意を込めて告げた。
「彼が、わたしを受け入れてくれないのなら。その時は、わたしは塵に。そして、妹に席を譲るわ」
これは、わたしの切り札。
わたしたち"吸血鬼"は、社会で活動できる数が厳密に決められている。
もしわたしが死ねば、その空いた席に、休眠状態の同族が一人、目覚めることができるんだ。
わたしには妹がいる。彼女はいまも休眠状態だけれど、わたしが消滅すれば、目を覚ますことになっている。
わたしの言葉を聞いたヴァルタヒスは、一瞬だけ虚を突かれたような顔をした後、不敵に笑った。
「好きにするがいい。せいぜい、儚い夢の残滓に溺れることだ」
彼はそれだけを言い残すと、まるで闇に溶けるように、その場からふっと姿を消した。
エントランスホールに、わたし一人だけが取り残される。
ヴァルタヒスが去った後も、彼の威圧感だけが、その場に重くのしかかっているようだった。
わたしは、ハルトくんと結ばれて、彼の血を、"魂の血"を飲み、この渇きを満たすと決めている。
決して、ヴァルタヒスの眷属になど、なるつもりはない。
けれど、ハルトくんの気持ちがわからない。
それを確かめたくて、嘘判定アプリ『Witas』に頼ったのだけど、判定は"ウソ"とでた。
"ウソ"と出るなんて思ってなかった。誠実そうに見えて、彼はわたしと遊びで付き合っていたのだろうか。
◇ ◇ ◇
あれから数日。
わたしの日常は、何も変わらないように見えて、でも、確実に何かが変わってしまっていた。
大学の講義室は、いつもと同じ喧騒に満ちている。
「ねえねえ、ミサキ!来週の金曜、合コンあるんだけど、人数足りなくてさー。一緒に行かない?」
「ごめん、アキ。わたしは、ちょっと……」
「えー、また? 最近付き合い悪いよー。就活で忙しいの?」
キラキラした瞳で話しかけてくれる友人のアキに、わたしは曖昧に微笑んで首を横に振ることしかできない。
ごめんね、アキ。
君たちが話している"就職"とか"将来の夢"とか、そういうものが、わたしにはひどく遠い世界のことのように聞こえるんだ。
君たち人間にとって、人生は有限だ。終わりがあるからこそ、一日一日が輝いて、未来に向かって一生懸命になれる。
でも、わたしは――わたしたち"吸血鬼"は、違う。
悠久とも言える時間を生きるわたしたちにとって、君たちの"一生"は、瞬きほどの時間でしかない。
この、どうしようもなく埋めがたい時間のズレが、わたしに深い孤独を感じさせるの。
みんなの中にいるはずなのに、まるで分厚いガラス一枚を隔てた、別の世界にいるみたいなんだ。
この感覚、想像してみてほしい……、というのは無理な相談か。
「ミサキ、お昼行こー! 今日は学食の限定ランチ、絶対食べるって決めてたんだから!」
「うん、行こうか」
昼休み、アキに腕を引かれて向かった学食は、たくさんの学生でごった返していた。
友だちが「このパスタ、超おいしい!」なんて言って、ランチの味に一喜一憂するのを横目に。
わたしはカモフラージュのために買ったパンを、ちびちびとかじるだけ。
「ミサキって、本当に小食だよね。ちゃんと食べないと倒れるよ?」
「うーん、朝、食べ過ぎちゃったのかも」
心配してくれる友人に、また曖昧な笑顔で嘘をつく。
違うんだよ。小食なんじゃない。
君たちが当たり前に感じている、この”食事の喜び”という感覚からさえ、わたしは完全に隔絶されてしまっているんだ。
(……喉、渇いたな)
本能が、じくじくと疼き始める。
人間の血を求める、原始的な"渇き"。それを必死に理性で抑えつけながら、わたしは緑茶をごくりと飲み干した。
帰り道。雑踏の中を歩きながら、ふとショーウィンドウに映る自分の姿に目をやる。
そこにいるのは、ごく普通の女子大生。人間社会に溶け込むようにして生きているだけの不死者。
わたしは、伝承に伝わる"魂の血"に憧れて、出会いを求めて、人間のふりをしている。
その内側では、人間には決して理解できない本能が、常に渦巻いている。
ねえ、知ってる?
今、君の隣を歩いているこのわたしが、君たち人間を"捕食"する側の生き物なんだってこと。
この世界に溶け込んでいるようで、決して交わることのない、絶対的な断絶。
それはまるで、たくさんの獲物に囲まれた、見えない檻の中にいるような気分だった。
(もし、ハルトくんと結ばれたとしても……)
わたしの頭に、"吸血鬼"社会の過酷な掟が蘇る。
わたしたちは、種の存続のために、その数さえも厳しく管理されている。
社会で活動できる"吸血鬼"の数には上限があって、それを"現世定数"と呼ぶ。
もし、上限を超えて子供が生まれたら……その子は、次の"空き”が出るまで、人里離れた聖域で永い眠りにつかされるんだ。
人間のように自由に恋をして、子供を産んで、育てる。
そんな、ささやかな幸せさえ、わたしたちには許されていない。
この宿命が、重い鎖みたいに、わたしの心にずしりとのしかかっていた。
重い足取りと、喉の渇きを引きずって、わたしはいつもの喫茶店「カフェ・ソワイユ」の前に立っていた。
皮肉なものだよね。
ハルトくんに会うのは、まだ少し気まずい。
でも、ここは古くから"吸血鬼"たちの数少ない休息の場として、わたしたちに人工血液を提供してくれている場所でもあるんだ。
ハルトくんは何も知らない、何も知らされてないみたい。わたしたち"吸血鬼"にサービスを提供してくれるのは、オーナーのおばあさん。
ハルトくんの祖母だと聞いた。
少しの間は避けておきたかったけど、補給のためには、ここに来ないわけにもいかない。
カラン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。……あ、ミサキさん」
カウンターの向こうで、ハルトくんが、いつものように穏やかな笑顔でわたしを迎えてくれた。
彼の姿は、わたしが焦がれる"普通の幸せ"そのものだった。
その変わらない優しさに触れると、一瞬、あの夜のことも、"吸血鬼"としての宿命も、全部忘れそうになる。
でも、すぐに冷たい現実が蘇る。
(この人の「好き」は、嘘だったんだ……)
安らげるはずの場所が、今は一番残酷な現実を突きつけられる苦しい場所に変わってしまった。
皮肉だと思わない?
この閉塞した生からの唯一の救いだと信じていた"真実の愛"が、すぐ目の前で、こうもあっさり音を立てて否定されてしまうなんて。
わたしは、出口のない迷路に閉じ込められたみたいな、深い絶望を感じるのだった。
◇ ◇ ◇
ねえ、もし君が、たった一つの希望だけを胸に生きているとしたら、どうする?
その希望が、いつか手の届かないところへ行ってしまうかもしれないと知ったら、君は、立っていられるかな。
ハルトくんとの関係に悩みながらも、あの頃のわたしには、まだ最後の"覚悟"があったんだ。
もし、ハルトくんと"真実の愛"を育むことができたなら、わたしは"吸血鬼"としての渇きを癒し、人間としての幸福を両立させる道を歩む。
でも、もし、それが叶わないのなら――。
その時は、潔くこの身を滅ぼして、塵に還ろうって。
そうすれば、わたしに割り当てられていた"現世定数"の席が一つ空くことになる。
その席には、今も故郷の聖域"揺り籠"で、永い眠りについているわたしの可愛い妹が、目覚めることができるはずだから。
それが、わたしが自分に課した、最後の選択肢だった。
……でもね、その覚悟は、あまりにも残酷な形で、揺さぶられることになったんだ。
一本の、電話によって。
『――ミサキ様、落ち着いてお聞きください。昨夜、我らの一族が眠る"揺り籠"で、火事が発生しました』
受話器の向こうから聞こえてくる、遠縁の吸血鬼からの事務的な報告。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
え? 火事? 聖域が? どうして? 何が起こったの?
『幸い、発見が早く大事には至りませんでしたが……火の回りが異常に早く、もう少しで全焼するところでした。それに、どういうわけか消防の到着が不可解なほど遅れたとの報告も……。何者かの作為が働いた可能性があります』
血の気が引いていくのがわかった。全焼は免れた。妹も、一族も、無事。でも、もし発見が遅れていたら?
わたしの帰る場所。そして、最後の希望だった妹の存在が、一夜にして、永遠に失われていたかもしれない。
電話が手から滑り落ちる。
頭が真っ白になって、安堵とか、恐怖とか、そういう感情さえも湧いてこなかった。
でも、その空っぽになった心の中に、一つの黒い疑念が、どろりとしたマグマみたいに湧き上がってきたんだ。
(……ヴァルタヒス!)
このタイミングで、こんなことが起こるなんて、偶然のはずがない。
わたしから全てを奪おうとしているのは誰? 答えは、一人しかいなかった。
気づいた時には、わたしは雨が降りしきる夜の街を、傘もささずに走っていた。
怒りが、恐怖を追い越して、わたしの全身を燃え上がらせる。夜の街を飛ぶようにビルからビルへと飛び移っていく。
その驚異的な身体能力は、いつもなら秘匿すべきもので、人の目に触れてはいけないもの。
でも、今のわたしに、そんな抑制などきくはずもなかった。
ヴァルタヒスが日本に構える、超高層ビルの最上階。
彼のオフィスへと続く廊下で、びしょ濡れのまま歩んでいくわたしを、部下たちが止めようとする。
けれど、気に留めない。力を解放したわたしにとって、それはぬいぐるみを転がして歩くようなもので、歩みを止めるものではない。
執務室の重厚な扉を、蹴破らんばかりの勢いで開ける。
部屋の主は、巨大な窓の外に広がる夜景を、静かに眺めていた。
ゆっくりと振り返った彼の表情は、あくまでも優雅で、感情の揺らぎ一つ見せない。それが、わたしの怒りに、さらに油を注いだ。
「おまえがやったんだろう!?」
わたしの叫びにも似た詰問に、ヴァルタヒスは眉ひとつ動かさず、冷たく言い放つ。
「……何のことだ。その血相、一体何に怯えている?」
「とぼけないで! わたしの故郷を……一族を、燃やそうとしたのはあんたでしょう!?」
「ほう、物騒な話ではないか。だが、大事には至らなかったと聞いているが?」
彼のその態度が、許せなかった。まるで、全てを知っているかのような口ぶり。
わたしは、わなわなと震える拳を握りしめる。
「これは警告のつもり!? わたしに帰る場所なんてないって、そう思わせたいの!? わたしを追い詰めて、あんたの眷属にするために!」
そう。これは脅しだ。わたしの希望をいつでも摘み取れるのだと、見せつけているのだ。
そんなわたしを手に入れることで、最も得をするのは、目の前にいるこの男、ただ一人なのだから。
しかし、ヴァルタヒスは、わたしの激情を鼻で笑うかのように、静かに首を横に振った。
「ミサキ、我は吸血鬼社会の秩序を重んじる。誰よりも、何者よりも、だ」
芝居がかった身振りで、後ろに組んでいた手を広げて見せ、ゆっくりとした間をもって、続けた。
「本気で貴様の故郷を地図から消すというのなら、火事などという不確実で野蛮な手は使わん。我が手にかかれば、もっと静かに、確実に、塵一つ残さず消し去ってやれる」
「……わたしの一族には、手を出すな!」
「もちろんだとも。我らが至宝たる古き血統を、無に帰すなどありえようはずもない。始祖に連なる一族という稀有な存在を失うことは、我らの歴史を終わらせるに等しいのだからな。……ああ、想像するだに悍ましい」
「じゃあ……!」
「だが……君が愛でる、矮小な人間どもについてはどうかな?」
「……何が言いたい」
「クク……人間たちに混じり、遊びを楽しんでいるそうだな。その美貌ゆえ、言い寄る男も少なくないのだろう?」
「やめて……」
「他にも……。そうだ、行きつけの店。あそこは我らの協力者がいるな。古き契約に守られた、憐れな人間が」
「やめろ……! 彼にだけは……彼にだけは、何もするな!」
「ああ、あの契約か。『我らに与する人間には害意を向けぬこと。もし破れば、害した吸血鬼の魂を以てこれを償う』……だったか。実に滑稽な約定だ」
「そうだ! 契約がある限り、あなたに彼は傷つけられない!」
「君の一族も愚かな縛りを受け入れたものだ。我ら星霜を生きる者の魂と、瞬き一つの命しかない人間の魂が、同じ天秤に乗るとでも?」
「遠い昔の契約だ。わたしが結んだものではない。だが、その一文が今まで一族と……そして彼らを守ってきた!」
「無論だ。契約は遵守する。それこそが、我らがこの現し世に在り続けるための、唯一の楔なのだから」
「……」
「安心するがいい。我が権威を損なうような愚行に、何の益があるというのだ。……少しは頭を冷やすことだ」
彼の言葉には、一片の乱れもなかった。言っていることは、正論だ。
"吸血鬼"社会の頂点に立とうとする彼が、そんな危険な橋を渡るとは考えにくい。
でも……!
でも、わたしの心の中では、疑惑の炎が燻り続けていた。あれは、彼からの紛れもない警告なのだと。
わたしは、行き場のない怒りと、言いようのない恐怖を抱えたまま、その場を去ることしかできなかった。
雨は、まだ降り続いている。
冷たい雫が、わたしの頬を伝う。
それが雨なのか、それとも涙なのか、もう、わたしにもわからなかった。
◇ ◇ ◇
わたしの未来は、もう、どうしたって絶望しか見えなかった。
だったら、もう、全部どうなってもいい。
雨の中を、わたしは一心不乱に走っていた。
行き先なんて決めていない。ただ、衝動だけが、わたしの足を動かしていた。気づけば、見慣れた店の前にたどり着いていた。
――カフェ・ソワイユ。
営業は終わり、店内の灯りも落ちている。でも、かすかにバックヤードの光が漏れていた。
もう、迷っている時間はない。
ドン、ドン、ドン!
わたしは、まるで壊れてしまいそうなほど強く、店のドアを叩いていた。
「開けて! ハルトくん! お願い、そこにいるんでしょう!?」
雨音に負けないように叫ぶ。喉が張り裂けそうだった。
やがて、ガチャリと鍵が開く音がして、驚いた顔のハルトくんが姿を現した。
「ミサキさん? どうしたんだ、こんな時間に、そんな格好で……」
彼の言葉を最後まで聞かず、わたしは店の中へよろめき込んだ。髪や服から滴り落ちた雨水が、彼の磨き上げた床に黒い染みを作っていく。
「タオル、持ってくるから……」
「いいの!」
気遣おうと動いた彼の腕を、わたしは強く掴んでいた。震える指先に、ありったけの力を込めて。
「そんなことしてる時間はないの! お願い、聞いて……!」
わたしのただならぬ様子に、ハルトくんはじっとわたしを見つめた。わたしは彼の瞳をまっすぐに見つめ、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「わたしは……人間じゃないの! 吸血鬼なの!」
絶叫にも似たわたしの告白に、ハルトくんの瞳がほんの少しだけ、見開かれた。でもそれは一瞬のことだった。
彼は恐怖に顔を歪ませるでもなく、ただ雨に打たれて震えるわたしの姿を、その静かな瞳でじっと見つめ返した。
わたしが掴んでいた彼の腕を、今度は彼がそっと、優しく包み込む。
「……わかった。わかったから、まずは座って」
その声は、嵐の夜の海に灯る灯台の光みたいに、穏やかで揺るぎなかった。
彼はわたしの腕を引いて、カウンター席までゆっくりと導くと、そこにそっと座らせてくれる。わたしはされるがまま、力なく腰を下ろした。
「タオル、持ってくる。着替えもあるから。体を温めて、落ち着こう。話はそのあとで、しっかりと聞くから、ね?」
そう言い残して、彼は足早にバックヤードへと消えていく。
一人残された店内で、わたしは自分が犯したことの重大さに、今更ながら打ち震えていた。掟を破った。もう、後戻りはできない。
すぐにハルトくんが戻ってきた。手には厚手のタオルと、少し大きめの乾いたスウェットがあった。
「これで体を拭いて。誰もいないから、これを着て」
「……でも」
「いいから」
彼の有無を言わせない、けれど優しい声に、わたしは小さく頷いた。
彼がカウンターの向こう側で背を向けてくれている間に、わたしは濡れた服を脱ぎ、タオルで体を拭いて、温かいスウェットに袖を通す。
生地の柔らかさが、凍えた心に少しだけ沁みた。
その間、彼は手際よく何かを作っていた。やがて、カカオの甘く優しい香りが、静かな店内にふわりと漂い始める。
「はい、どうぞ。ホットチョコレート」
カウンター越しに、湯気の立つマグカップがそっと差し出された。
わたしは震える両手で、その温かいカップを包み込むように受け取る。指先に伝わる熱が、まるで命のようだと思った。
一口飲むと、濃厚な甘さと温かさが、喉を通って、冷え切った体の中にゆっくりと広がっていく。
強張っていた肩の力が、少しだけ抜けていくのがわかった。
ハルトくんは、カウンターの向こう側から、ただ静かにわたしが落ち着くのを待ってくれていた。
そして、わたしが顔を上げると、まっすぐに瞳を合わせた。
「……いったい、何があったの? とてもつらそうな顔をしてる」
彼の声は、どこまでも真摯だった。わたしは、おそるおそる口を開く。
「あの、わたしが吸血鬼だって……」
「うん、それは聞いた。でも、吸血鬼だということよりも、今は、ミサキさんがつらそうにしてる理由を知りたいよ」
「え……、信じて、くれるの……? 吸血鬼だよ?」
「ミサキさんの言うことだから。それが宇宙人でも未来人でも、無条件で受け入れるよ」
迷いのない即答だった。その言葉に、堰き止めていた涙が、また一筋、頬を伝った。
わたしは、目の前の優しい瞳に見つめられながら、震える唇を必死に動かした。
「ありがとう。……。まず、吸血鬼っていうのが、どういうものか話すね。……たぶん、ハルトくんが想像してる通りだよ。『人の血を吸って生きる生き物』……その認識で、今は十分。怖がらせたいわけじゃないんだけど、それが一番わかりやすいから」
一度言葉を切り、彼の表情を窺う。彼はただ静かに、続きを待ってくれていた。
「でも、少しだけ本当のこと言うと……わたしたちは、もともとこの世界の存在じゃないの。なんて言えばいいかな、もっと高次元の……とにかく、すごく不安定な存在で。この世界に体を留めておくだけで、どんどんエネルギーが失われていく。だから、人の血に含まれている"この世界のエネルギー"みたいなもの、もらわないと……体が霧みたいに、薄くなって、最後には消えてしまうの」
彼の顔が、わずかに曇るのがわかった。わたしは慌てて付け加える。
「あ、でも、安心して! 今はちゃんとした"人工血液"、その、"この世界のエネルギー"のみ抽出したものがあるの。美味しくないんだけどね。だから、昔の物語みたいに、むやみに人を襲うなんてことは絶対にない。人間の社会に紛れて、静かに生きてるの」
わたしはごくりと唾を飲み込んだ。
「そして、何があっても、知られてはいけない。わたしたちは人間より特別な力を持っていても、様々な制限もあり、敵わないことは明らかだから」
「特別な力?」
「あ、うん、いろいろあるんだけど……。でも、わたしはまだ年若くて、せいぜい、人より腕力が強いとか、そのくらいかな。怖がるようなことはないから」
「うん、怖がってるわけじゃないんだ。ミサキさんがつらそうにしている理由が、その特別な力や、様々な制限にあるのかと思って」
ハルトくんの意思は、常に揺れずに、わたしのことだけを見つめていてくれるのがわかる。
わたしは、ハルトくんの気遣いに、すこし落ち着きを取り戻してきていた。他の誰でもない、ハルトくんなら、きっと受け入れてくれる。
――いまから、最大の禁忌を、打ち明けよう。
「わたしが、苦しんでいるのは、渇き、なの」
「渇き……? 血を欲してしまう、そんな感覚のこと、かな」
「うまく説明できないんだけど、たぶん、人が"喉が渇いた"っていうとは、別物でね。もっとこう、人の欲望をすべてまとめて渇望するカンジ。すっごいお腹もすいているし、眠いし、怠いし、奪いたいし、イライラするし、エッチなこともしたいし、なんで自分だけがこんなに苦しんでるの!って、とにかく我慢できなくなっていくの」
マグカップを握る手に、ぎゅっと力が入る。
「わたしたち吸血鬼には、古い古い伝承があるんだ。"魂の血"っていう……。もし、人間と吸血鬼が、お互いに心から愛し合う仲になれたら……。その時だけ特別に、その愛する人の血は、そのたった一人の血だけが、わたしたちが生まれてからずっと感じ続けてる、どうしようもない"渇き"を……完全に癒してくれる、そして人と変わらずに生活できるようになる、って言われてる」
そこまで話して、わたしは俯いた。一番伝えなければいけない、一番誤解されたくないことを、言わなければ。
「……誰でもいいってわけじゃないんだ。わたしは……ハルトくんが好き」
勇気を出して顔を上げ、彼の目をまっすぐに見つめた。
「勘違いしないでほしいんだけど……その"魂の血"が欲しいから、あなたを好きになったんじゃない。絶対に違うの。順番が、逆なんだよ」
必死に、言葉を紡ぐ。
「わたしが、ただの女の子として、ハルトくんのことを好きになったの。好きになってしまったから……あなたの血が、どうしようもなく欲しいって……わたしの魂が、叫ぶみたいに感じてしまっているの。……ごめんね、こんな、気持ちの悪い話をして」
彼は、何かを考えるように少しだけ俯いた後、再び顔を上げた。
その顔には、混乱や拒絶の色はない。むしろ、点と点が繋がった、というような納得の光が宿っていた。
「じゃあ、ミサキさんが時々、すごく思いつめた顔をしてたのは……、僕の血が、ミサキさんの苦しみを、癒すからかもしれないから、なんだね」
彼は、取り乱さなかった。
事実として受け止め、わたしの話を静かに聞き続けてくれた。その変わらない優しさが、刃物のように胸に刺さった前回とは違う。
今は、暗闇の中で差し伸べられた、たった一本のロープのように思えた。
「お願い、ハルトくん……!」
わたしは、その場に崩れ落ちるように膝をつき、彼の足元にすがりついていた。
お願いだから。
わたしの、最後の願いを聞いて。
「わたしを好きだと、心からそう“思おうと”して! あなたの、その意志だけが、わたしを救ってくれるの……! それだけでいいの!」
ただ、あなたが"そうあろう"と決めてくれるだけで、わたしは絶望から救われる。その事実だけを胸に抱いて、未来と戦える。
わたしの絶叫にも似た懇願を、ハルトくんは、ただ静かに受け止めていた。驚きも、恐怖も、彼の顔には浮かんでいない。
そして、深く、どこまでも澄んだ瞳でわたしを見下ろすと、静かに、でもはっきりと、こう告げたんだ。
「……ごめん、ミサキさん」
その言葉は、わたしの心臓を、冷たい氷の矢で貫いた。
「君のためなら、この命だって、いつでも投げ出せる。君が望むなら、僕のすべてを捧げたっていい」
「……だったら!」
「でも、ミサキさん。僕には、心がないんだ」
「……え」
誠実であるがゆえに、あまりにも、残酷な拒絶だった。
「ないものを、捧げることは、できないよ」
「……心がない?」
「ああ。僕は、失感情症、というらしいんだ。悲しいとか、嬉しいとか、そういう気持ちをね、知識としては"理解"できるんだ。人がどういう時に悲しんで、どういう時に喜ぶのかは、本を読んで勉強したから、わかるんだ。でもね……それを、心の底から“実感”することが、できないんだ」
「そんなことって……」
「実感がわかないよね、心がないってどんな感覚なのか。わかりやすく言うなら、嘘をつき続けている、って感じかな」
「うそ?」
「ミサキさん、あのアプリ、起動してみて?」
「アプリ?」
「ミサキさんが、あの夜、こっそり起動していたでしょ? 嘘を見破るアプリだよ」
わたしは、ドキッとした。
後ろめたさはあったけど、若者たちの間ではお互いの気持ちを確かめ合うために、カジュアルに利用してるから、わたしも使った。
けど、こうして面と向かって言われると、まるで「僕の言葉をしんじてないの?」と言われてるみたいで。
わたしはハンドバッグから、スマートフォンを取り出す。
ハルトくんがわたしの手元を見つめる中、わたしは一つのアプリを起動した。
その名は『Witas』。
どういう仕組みなのか、誰が作ったのかもわからない、謎のアプリ。
でも、その言葉が「真実(True)」か「嘘(Lie)」かを、"絶対"に判定してくれる。
「じゃあ、質問してみて?」
「う、うん。でも、なんて質問すればいいの?」
「もちろん、あの夜と同じ」
わたしは、意を決して、あの夜と同じことを聞く。
「わたしをどう思っているのか、聞かせてほしい」
「ボクはミサキさんのことが好き」
『――判定は"ウソ"です』
無情にも響く声。
今回はそう言われると思っていたから、心の準備は出来ていた。しっかりとその言葉を受け止めることが出来た。
でも、ハルトくんの言いたいことが分からない。
「もちろん、ウソなんかじゃない、と言いたいところだけど、僕自身、ウソじゃないと否定できない。何故なら、僕は仮定して行動を決めている。もし、ミサキさんのことが好きな人なら、どう行動するのか。それを頭で考えてるんだ。瞬時に頭の中に台本を作って、その通りに恋人役を演じている、と言った方がわかりやすいかな」
「台本通りに、恋人役を……演じている?」
目の前が、真っ暗になった。
ハルトくんの言葉は、静かに、でも確実に、わたしの最後の希望を打ち砕いた。
彼が今まで見せてくれた優しさも、温かい言葉も、全ては「恋人役」を演じるための、計算された行動だったというの?
じゃあ、あのイルミネーションの夜に感じた、胸の高鳴りも、幸福感も、全部、全部わたしの一人芝居だったっていうの?
「ミサキさんを傷つけたくて言ってるんじゃない。でも、これが僕の真実なんだ。僕は君を大切にしたいと思ってる。それは本当だ。でも、その”大切にしたい”という気持ちが、君の言う”愛”と同じものなのか、僕にはわからない。実感として、わからないんだ」
『――判定は"シンジツ"です』
彼の声は、どこまでも誠実だった。『Witas』さえも、それを認めてしまった。
――だからこそ、残酷だった。
わたしが求めていたのは、ただの優しさじゃない。
わたしの渇きを癒してくれる、ただ唯一の方法である"魂の血"。
それは、心と心が真に結ばれた時にだけ生まれる、奇跡の一滴。
心のない彼からは、決して得ることのできないものだった。
「そっか」
わたしは、乾いた笑みを浮かべた。
ああ、そうなんだ。
最初から、無理だったんだ。
ヴァルタヒスの言う通りだった。人間との恋なんて、時間の無駄だったんだ。
「もう、いいよ」
わたしはゆっくりと立ち上がった。足元が、ふらふらと覚束ない。
「ミサキさん?」
心配そうにわたしを見つめるハルトくんの瞳を、わたしはもう見ることができなかった。
見たら、きっと、またみっともなく縋り付いてしまうから。
「最後に、一つだけ、お願いがあるの」
「うん、僕に出来ることなら、なんでも言って」
「あなたの血を。一口だけ、飲ませて」
それは、絶望から生まれた、最後の悪あがきだった。
もしかしたら、という万に一つの可能性に、わたしは賭けたかった。
心がないのなら、その血を飲んで、確かめてやる。
本当に、わたしの"渇き"は癒されないのか。
ハルトくんは、一瞬だけ躊躇したように見えた。でも、すぐに静かに頷くと、自らの首筋を、わたしの前に晒した。
「わかった」
わたしは、震える手で彼の肩に触れ、ゆっくりと顔を近づける。
”吸血鬼”の嗅覚にしかわからないだろう、彼の首筋から香る、”吸血鬼”を誘うような、血の匂い。
”吸血鬼”の本能が、理性を焼き尽くしていく。
わたしは、目を閉じ、彼の柔らかな肌に、牙を立てた。
じゅるり、と生温かい液体が、喉を滑り落ちていく。
今まで命をつなぐために、イヤイヤで飲んできた人工血液よりも、濃密で、力強い生命の味を、期待していた。
でも――。
(…味が、しない)
それは、無味無臭だった。
ただの液体が、喉を通り過ぎていくだけ。
わたしの魂が求める、焦がれるような甘美な味は、どこにもなかった。
”渇き”は、少しも癒えない。
むしろ、飲めば飲むほど”渇き”は、より一層、激しさを増していくようだった。
絶望が、わたしの全身を支配する。ああ、本当に、ダメだったんだ。
わたしがゆっくりと顔を上げると、ハルトくんが、痛みに耐えるように、眉を顰めていた。
彼の首筋には、二つの赤い点が、くっきりと浮かんでいる。
ごめんね、ハルトくん。
わたしは、あなたを傷つけただけだった。
その時だった。
「――ようやく、理解したか? ミサキ」
ゆっくりと振り向くと、そこには、いつの間にか、ヴァルタヒスが立っていた。
黒いスーツに身を包み、まるで闇そのものが人の形をとったかのように、静かに、そして圧倒的な存在感を放って。
彼の声は、氷のように冷たく、わたしの心の奥底まで響き渡った。
「お前という至宝の価値を、輝かせることができるのは、矮小な人間などではない。このわたしだけなのだと」
わたしは、何も答えなかった。いや、答えられなかった。彼の言う通りだったから。
わたしは、自分の価値を、見誤っていた。
わたしは、ただの石ころに、なれない夢を見ていただけだったんだ。
ヴァルタヒスが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
一歩、また一歩と、その足音が、まるで死刑執行のカウントダウンのように、店内に響く。
ハルトくんが、わたしの前に立ちはだかろうとするのが、気配でわかった。
「彼女に、何をする気だ」
その声は、震えていた。
ヴァルタヒスは、そんなハルトくんを、まるで道端の石ころでも見るかのように、冷たく一瞥した。
「失せろ、人間。これは、我ら一族の問題だ」
ぐ、と苦悶の声を漏らし、彼は一歩下がる。
「ハルトくん!」
わたしの動きを、ヴァルタヒスが、冷たい手で制した。
「もう良いだろう。お前のままごとは、終わりだ」
彼は、わたしの顎を掴み、無理やり上を向かせる。
その瞳は、底なしの闇のように、深く、そして冷たかった。
「さあ、来るがいい、ミサキ。我が眷属となれ。さすれば、お前に永遠の栄華と、真の充足を与えてやろう」
わたしは、抵抗しなかった。
もう、抵抗する気力も、理由も、なかったから。
わたしは、ゆっくりと、頷いた。
その瞬間、ヴァルタヒスの口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
彼は、わたしの体を、軽々と抱き上げる。
「ハルトくん…」
わたしは、とてもじゃないけど、ハルトくんの方に顔を向ける勇気はなかった。
いったい私はどんな顔で彼を見ればいいの? どんな顔で彼はわたしをみているの? それを知るのが怖かった。
ごめんね。
さようなら。
わたしの、たった一つの、儚い夢。
ヴァルタヒスの腕に抱かれながら、わたしは、静かに目を閉じた。
これからわたしを待っているのは、きっと、永遠に続く、色のない世界なのだろう。
でも、もう、それでいい。
わたしは、もう、疲れたから。
「……今までありがとう。そして、ごめんね、ハルトくん」
それが、彼にかけた、わたしの最後の言葉だった。
◇ ◇ ◇
古城の一室。そこが、わたしのための鳥籠だった。
天蓋付きのベッドも、金箔を散した鏡も、彫刻の施された豪奢な家具も。
どれほど磨かれた光沢を帯びていても、わたしには鉄錆びた檻の格子にしか見えない。
窓の外には、闇そのもののように溶け合ったヴァルタヒスの眷属たちの気配が漂っている。
夜風すら届かぬ石壁の向こうで、無数の瞳がじっと息をひそめている。
新月の夜までは、彼らが絶えずこの部屋を見張っているのだろう。
部屋の中央には、一体のマネキンが静かに佇んでいた。白磁のような無機質な顔には、感情の影さえ宿らない。
それに着せられているのは、幾重にもレースが重ねられた、夜の闇よりも深い黒のドレス。
新月の夜、"眷属の儀"でわたしが纏うためのものだ。
まるで、あれは花嫁衣装――、いや、わたしの魂を縛りつける拘束具、あるいは失われた恋心に手向ける喪服かな。
近づくことさえためらわれ、わたしはベッドの端に腰を下ろしたまま、ずっとマネキンを見つめていた。
――もう、すべてが終わってしまったのだ。
絶望に身を浸しながら、わたしはただ、過ぎてしまった日々の幻影を追いかけていた。
ハルトくんとの、あまりにも短く、あまりにも儚かった時間。
冬の街を飾るイルミネーションの光の中で、肩先にふれた指先のぬくもり。
カフェのカウンター越しに交わした、他愛のない会話。カップの縁に映った微笑。
わたしの心を照らしてくれた、あの穏やかな声。あの夜、氷点下の空気をもやわらげてくれた笑顔。
そのすべてが、いまはどこにもない。
けれど、その眩い記憶を辿るたびに、胸の奥底に沈殿していた黒い澱が、ゆらりと浮かび上がってくる。
気がつけば、わたしは小さく口を開いていた。
ほとんど声にならない吐息のような言葉が、唇の隙間から漏れ出た。
「……あの恋が実れば、"魂の血"が……手に入ったのに――」
その言葉が、空気を震わせた瞬間、わたしは自分の耳を疑った。
え?……いま、なんて言った? わたしが、いま、自分で。まって……まって、わたし、いま、何を口にしたの?
わたし、もしかして、"魂の血"が欲しかっただけなの? もしかして……わたしこそ、心を見失っていた?
わたしは、ハルトくんのことが好きだと思っていた。それは、わたしの正直な気持ちだと。
でも、"吸血鬼"であるわたしは、ハルトくんを別の何かに見ていたのではないか。
両手で顔を覆い、指の隙間から絞り出すように呟く。
「彼との恋に心躍らせていたつもりが……ただ、彼を“血の詰まった袋”だと、そう見ていただけじゃないの……?」
心臓の奥に氷の塊を押し込まれたような痛みが走った。わたしは彼の瞳の奥を見ていたはずだった。
けれど、その実、見ていたのは彼の魂ではなく──わたし自身の渇きが欲した救済の幻影だったのかもしれない。
(この渇きを癒したい、そのために必要なのは"魂の血"の一滴のみ――)
ずっと心の底で燻っていた下心は、ただの想像ではなく、確かにわたしの中に巣くっていたものだった。
それがいま、言葉として形を持ち、世界に姿を晒したのだ。
違う。違うと叫びたいのに、声が出ない。
喉が締めつけられ、吐き出すべき罪の言葉だけが胸にこびりついて剥がれない。
わたしは、ハルトくん自身を見ていなかった。
彼を通して――人間と落ち、永い渇きから解放される悲劇の吸血鬼――という、甘美な物語のヒロインになりたかっただけ。
ハルトくんの血が、無味無臭だった夜。
わたしは、彼の心がないからだと、彼だけを責めたけれど、本当にそうだったのだろうか。
わたしの愛もまた、渇きを癒すための"手段"を探していただけではなかったか。
不純な願いが混じっていたからこそ、彼の血はわたしの魂に響かなかったのではないか。
そう考えるたび、胸の奥から冷たい鉄の鎖が這い出てきて、心臓を締め上げるような苦しみが走る。
「……責める資格なんて、わたしには、なかった」
ぽつりと呟いた言葉は、虚しいほど静かな部屋に吸い込まれて消えた。
返事をする者は誰もいない、はずだった。
「“血の詰まった袋”、か。言い得て妙だな」
心臓が凍るかと思った。
いつの間に現れたのか、部屋の闇が人の形をとったかのように、ヴァルタヒスがそこにいた。
部屋のソファに、ずっとその状態だったみたいに、自然に座って、わたしを観察し続けていた。
音も、気配も、何一つ感じさせずに。
「まさにその通りだ。人間など、我らに血を供給するためだけに存在する家畜に過ぎん。我が眷属に相応しい考え方だ」
「違う!」
喉の奥から、自分でも驚くほどの叫び声がほとばしる。
「わたしは本心ではそんなことを思ってない!けっして!」
「ほう?」
ヴァルタヒスは面白がるように片方の眉を上げた。
そして、まるで手品のように、わたしのスマートフォンを取り出してみせる。いつの間に奪われたのか、全く気づかなかった。
「では、試してみるか?」
彼の指が滑らかに画面を操作し、見慣れたアプリアイコンを開く。『Witas』という文字が冷たく光っていた。
「では問おう。貴様はあの男を、真に愛していると断言できるか。その矮小な存在に、己が全てを捧げられると?」
「もちろん!わたしはハルトくんが好き!」
必死の思いで言い切った、その瞬間。
『――判定は"ウソ"です』
スマートフォンのスピーカーから、無機質な合成音声が響いた。
「え?」
意味が分からなかった。嘘?どうして?わたしのこの気持ちが?
ヴァルタヒスはわたしの混乱を意にも介さず、冷酷に言葉を続ける。
「重ねて問おう。貴様は渇きを癒したかっただけ。そのためならば、相手など誰でも良かったのではないか?」
「ち、違う!そんなわけ――」
『――判定は"ウソ"です』
言葉を遮るように、再び無慈悲な声が宣告する。
「…………」
声が出なかった。全身の血が逆流し、思考が停止する。
「ははは、正直なもんだな」
ヴァルタヒスは心底愉快そうに喉を鳴らすと、スマートフォンを無造作にベッドへ放った。
「良い機会だ、己が心と向き合うがいい。貴様に欠けているのは、古き血統を受け継ぐ者としての矜持……ただそれだけだ」
「ちが……う……」
「我らの悠久の夜に比べれば、星の瞬きにも等しい束の間の戯れだ。恋だの愛だのという、愚かで儚い感情に溺れるのも許してやろう」
「……戯れなんかじゃ、ない……っ」
「だが、その魂が真に渇望するものからは目を逸らすな。貴様は、誇り高き始祖の血を継ぐ者……それが揺るがぬ宿命だ」
「……」
「我はその全てを束ね、統べる者となる。貴様はその礎となるのだ」
それだけ言うと、彼は再び闇に溶けるように姿を消した。
石壁がわずかに音を立てて冷えた空気を吐き出すたび、わたしはいっそう孤独の底へ沈んでいく。
『Witas』が告げた「ウソ」という言葉が、呪いのように頭の中で反響していた。
彼が"失感情症"だと告白した時、わたしは彼の痛みに寄り添うことさえしなかった。
彼がどれほどの孤独を抱えていたのか、その孤独に触れようとさえせず、ただ自分の望みが叶わないことだけに絶望していたのだ。
今にして思えば、 なんてわたしは身勝手で、傲慢だったんだろう。
あの夜、彼が黙って隠していた苦しみに、ほんの少しでも手を伸ばせていたら……。
きっと、何かが変わっていたかもしれないのにね。本当に、そう思うよ。
わたしの指先は、あたたかなものに触れるより先に、自らの欲に汚れてしまっていた。
深い自己嫌悪が、冷たい水のように心を満たしていく。
息をするたび肺の奥が凍りつき、血流が足元からじわじわと引き潮のように引いていく感覚。
それは恐怖ではなく、むしろ相応しい罰のように思えた。
ヴァルタヒスの眷属になること。それはもはや、強制された未来ではない。わたしが犯した罪に対する、当然の報い。
わたしは、静かにそれを受け入れようと――そう、決めた。
抵抗の余地など、とうに失われていたのだから。
時さえも凍りついたかのような静寂の中、わたしはただ、ゆっくりと魂が冷えていくのを感じていた。
もう涙も出ない。このまま感情も記憶も、すべてが色を失い、ヴァルタヒスという絶対的な闇に吸収されていくのだろう。
それで、いい。それが、わたしの罪に相応しい結末なのだから。
◇ ◇ ◇
――けれど、その決意を、その諦念を、根本から否定するかのように、鋭い電子音が鳴り響いた。
びくり、と体が跳ねる。
音源をみると、ヴァルタヒスが投げて置いていったわたしのスマートフォンだった。
豪奢なベッドのシーツの上に無造作に転がるそれは、この古城にはあまりにも不釣り合いな、かつての日常の欠片。
闇の中で青白く光るその画面には、一件のメッセージが届いたことを示す通知が、まるで心臓の鼓動のように明滅していた。
思考が追いつくよりも早く、わたしの体は動いていた。
ほとんど転がるようにベッドに駆け寄り、震える手でそれを掴む。
まるで、暗い海の底で、水面から差し込む一筋の光に手を伸ばすように。
わたしは、その画面に飛びついていた。
Haruto
ミサキさん、無事?
ハルトくんからのメッセージが届いていた。
すぐに、わたしの指は文字をなぞって、返事を書く。
Misaki
ごめんなさい。わたし、あなたに酷いことをした。
真っ先に伝えたかったのは、謝罪の言葉だけ。
他にもいっぱい聞きたいこと、伝えたいこと、すべてを置き去りにしてでも、謝って、そして許してほしかった。
Haruto
謝らないで。君は何も悪くない。
酷いことなんて、一つもされてないよ。
Haruto
あの後、祖母からすべて聞いた。
ミサキさんのこと。君が吸血鬼だということ。
そして、君がどれほど高貴で、大切な存在なのかも。
Misaki
全部、知ったのね。
だったらわかるでしょう?
わたしは、あなたとは住む世界が違う。
あなたを利用して、自分の渇きを癒そうとしただけなの。
Haruto
利用されたなんて、一度も思っていない。
僕には、君がすごく苦しんでいるように見えた。
それを見ていられなかった。僕が、苦しみから君を救いたかった。
それは今も変わらない。
Haruto
君が吸血鬼でも、高貴な一族の末裔でも、僕にとっては何も変わらない。
君は、僕が初めて心の底から「大切にしたい」と思った女性だ。
その事実は、絶対に揺るがないよ。嘘発見アプリに嘘だと否定されても。
Misaki
やめて……もう、そんなこと言わないで。
わたしには、もうそんな言葉を受け取る資格なんてないの。
全部終わったのよ。わたしはわたしの運命を受け入れる。
だから、お願い。もうわたしのことは忘れて。
Haruto
終わらせない。
君がどんな運命を背負っているとしても、僕が終わらせる。
それに、忘れてなんて言わないでほしい。
どうしたら君を忘れられるのか、僕にはその方法がわからないんだ。
Haruto
今、君を迎えに行こうとしてる。
祖母に、君がいる場所を教えてくれるように頼んでいるんだ。
でも、すごく反対されて、まだ教えてもらえない。
あちらの世界の掟に、人間が踏み込むべきじゃない、と。
人間であることが枷となるなら、人間でなくなっても、いい。
Haruto
僕は絶対に諦めない。
どんな手を使っても、君の居場所を探し出す。
だから、ミサキさん。
どうか、君も諦めないでくれないか。
僕が必ず、そこへ行くから。
スマートフォンの画面が放つ青白い光が、涙で濡れた私の頬を照らし出す。
ハルトくんの言葉の一つ一つが、まるで凍りついた心の氷を溶かす温かい雫みたい。
ハルトくんの揺ぎ無き強い気持ちが、まっすぐにわたしに向かって突きつけられているみたい。
ゆっくりと、でも確実に届き、そして染み渡っていくのがわかる。
たった数行のメッセージが、こんなにも温かいなんて、信じられる?
『諦めないで』
『僕が必ず、そこへ行くから』
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
ヴァルタヒスに連れてこられて以来、わたしの全身を支配していたのは、喉の奥が焼け付くような吸血鬼の本能的な"渇き"だった。
けれど今、それよりももっと強く、もっと切実に、胸の中心を締め付ける別の感覚があることに気づく。
それは"飢え"ではない。血を求める本能の疼きでもない。
ただ純粋に、一人の人間として、たった一人の大切な誰かに会いたいと願う、甘くも苦しいほどの"痛み"。
そうだ、これは"魂の血"が欲しいという打算じゃない。わたしは、ただ――。
「……ハルトくん、会いたいよ」
ほとんど吐息のように、無意識に言葉が唇からこぼれ落ちた。
その瞬間だった。
手の中で握りしめていたスマートフォンが、冷たい電子音と共に応答した。
『――判定は"シンジツ"です』
はっ、と息を呑む。
さっきまでわたしを罪人だと断罪し、絶望の淵に突き落とした無慈悲な声が、今、わたしの偽らざる願いを、真実だと認めた。
その小さな、けれど確かな肯定が、暗闇の中で一筋の光となってわたしの足元を照らし出す。
わたしは画面を食い入るように見つめた。
そして、震える唇で、自分の中に巣くっていた最も醜い疑念に、問いを投げかけた。
「わたしは……ハルトくんを利用しようとしていただけ……?」
自分の声が、虚しいほど静かな部屋に吸い込まれる。
答えを聞くのが怖い。けれど、聞かなければ。
やがて、審判が下される。
『――判定は"ウソ"です』
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙腺が壊れた。大粒の涙が、次から次へと画面の上に落ちる。
罪悪感で塗りつぶされていた心が、少しだけ軽くなる。
わたしは涙声のまま、さらに問いを重ねた。ハルトくんがくれた、あの言葉を確かめるように。
「じゃあ……わたしは、ハルトくんのことを、大切に思っていた……?」
『――判定は"シンジツ"です』
ああ、そうだった。偽りなんかじゃなかった。
イルミネーションの中で感じた高揚も、カフェで交わした何気ない会話の愛おしさも、全部、本物だったんだ。
自分自身にさえ嘘をつき、彼を、そして自分の心を疑っていた。なんて愚かだったんだろう。
わたしは、最後に一番知りたかった、そして一番恐ろしかった問いを、自分自身に突きつける。
「"魂の血"が手に入らないなら……わたしは、彼を愛していない……」
『――判定は"ウソ"です』
もはや、迷いはなかった。
『Witas』は、何をもって「シンジツ」と「ウソ」を切り分けているのかわからない、その仕組みは今も謎が多い。
けれど、大切なのは「シンジツ」と「ウソ」のどちらかじゃなくて、わたしがどんな気持ちで「好き」と言っていたかじゃないだろうか。
『Witas』は、わたしの「好き」という曖昧な言葉を「ウソ」だと切り捨てた。
『Witas』は、ハルトくんの「好き」という曖昧な言葉を「ウソ」だと切り捨てた。
でも、わたしも、ハルトくんも、お互いを大切に思う気持ちに偽りはない。それは存在しないものじゃない。
わたしやハルトくんの気持ちは、単純な「好き」の一言では到底言い表せない、もっと複雑で、もっと切実なものだったのだ。
そうじゃなきゃ、今のわたしは、こんなにも苦しんでなんかいないはずだから。
その時、ごくりと喉が鳴った。思い出したように、吸血鬼の本能が鎌首をもたげる。
そうだ、渇きは癒えない。血がなければ、わたしは生きてはいけない。
その冷たい現実が、熱を取り戻しかけた心に再び影を落とす。
しかし、その瞬間。わたしの脳裏に浮かんだのは、血の味への渇望ではなかった。
イルミネーションより綺麗だと微笑んだハルトくんの顔。穏やかな声。
そして、わたしを救おうと必死に言葉を紡いでくれた、メッセージの温かい光。
強い衝動が、体の奥底からマグマのように突き上げてくる。
違う。
違う、違う、違う!
そこで、わたしははっきりと気づいたんだ。
わたしが本当に欲しかったのは、渇きを癒すための奇跡の一滴なんかじゃなかった。
永遠の充足なんかじゃ、全然なかったの。 ただ……ただね、もう一度あの人に会って、その温もりに包まれたい。
ただ……ただ、もう一度あの人に会いたい。
この腕で、強く、強く……あなたに抱きしめられながら、抱きしめたかっただけなんだ……!
わたしはハルトくんに向けて、メッセージを送った。
Misaki
わたしはハルトくんを待ってる。
「そう、あなたを待つわ。あいつの眷属になんかならない。たとえ、一族が滅び、わたしは塵に還ることになろうとも」
心の絶叫が、声になるかならないかのうちに、手の中の『Witas』が最後の審判を下す。
それは、わたしの魂が発した、真実の音。
『――判定は"シンジツ"です』
その声はもう、冷たくも無機質にも聞こえなかった。
吸血鬼としての永い渇きに、ミサキという一人の女の心が、愛する人を求める本能が、完全に打ち勝った瞬間だった。
わたしはゆっくりと顔を上げた。その瞳に、もう絶望の色はない。
あるのは、愛する人のために、この理不尽な運命に抗ってみせると誓う、燃えるような決意の光だけだった。
◇ ◇ ◇
天を衝くほどの高い天井。冷たく、荘厳な石造りの柱が、まるで太古の森のように林立している。
かつては神に祈りが捧げられたであろうその場所は、今は古き血族の支配する聖域と化していた。
円形の祭壇を中心に広がる大聖堂。壁を彩るステンドグラスに描かれているのは、聖人の物語ではない。
始祖より連なる吸血鬼たちの、悠久の歴史と血の系譜だった。
その祭壇の上に、わたしは一人、立たされていた。
わたしの心は決意の炎に燃えている。けれど、この身はまだヴァルタヒスの敷いた盤上の駒に過ぎなかった。
身に纏っているのは、彼が用意した夜の闇よりも深い黒のドレス。
幾重にも重ねられたレースとシルクは、肌の上を滑るたびに冷たい感触を伝える。
それは花嫁衣装などではない。わたしの魂を縛りつけ、その自由を吸い上げるための拘束具だ。
周囲には、ヴァルタヒスに連なる眷属たちが、まるで石像のように静かに佇んでいる。
その無数の瞳が、畏怖と、そしてわずかな憐憫をない交ぜにしたような光を宿して、わたしに突き刺さっていた。
やがて、大聖堂の奥からヴァルタヒスが姿を現す。
銀の髪を揺らし、寸分の隙もなく仕立てられた豪奢な黒衣をその身に纏った彼。
まるでこの闇の世界そのものを統べる王のようだった。
その手には、古びた銀の聖杯が一つ。
悠久の時を吸い込んだそれは、鈍いながらも圧倒的な存在感を放っていた。
彼は祭壇の前で足を止めると、わたしを射抜くように見つめ、唇の端を吊り上げた。
「ミサキ。今宵、我ら古き血統は一つとなる。お前は我が眷属となり、永遠の栄華をその身に刻むのだ」
わたしは答えない。ただ、まっすぐに彼の瞳を見つめ返すだけだ。
わたしの瞳に宿る抵抗の光に気づいたのだろう。彼は愉快そうに喉を鳴らした。
「――念入りに折ってやったつもりだが、まだ折れぬか。まあ良い。儀式は滞りなく執り行う。お前の意志がどうであろうと、血の誓いは絶対だ」
彼はそう言うと、眷属の一人が恭しく差し出した儀式用の短剣を手に取った。
切っ先に埋め込まれた深紅の宝石が、蝋燭の光を反射して妖しくきらめく。
ヴァルタヒスは祭壇に聖杯を置くと、何のためらいもなく、自らの左手首を短剣で一閃した。
皮膚が裂け、彼の血――始祖から受け継がれし古き血統の、濃密な生命力を宿した血が、聖杯の中へと滴り落ちていく。
とくん、とくん、と銀の器を打つ血の雫の音が、静まり返った聖堂に不気味に響き渡った。
その音と、あたりに立ち込める濃厚な血の匂いに、わたしの喉がごくりと鳴る。
吸血鬼の本能が、その血を求めろと魂の奥底で叫び声を上げていた。
(ダメ……飲まれちゃダメだ……!)
わたしは奥歯を強く噛みしめ、その原始的な欲求に必死で抵抗する。
聖杯が彼の血で満たされていくのを満足げに眺めたヴァルタヒスは、血の滴る手首を気にも留めず、今度はわたしに向かって短剣を差し出した。
「さあ、ミサキ。次はお前の番だ。その指先に小さな傷をつけるだけでいい。お前の血が我が血と混じり、お前が飲み干したとき、血の誓いは成立する」
わたしは、差し出された短剣を睨みつけたまま、動かなかった。
全身で、無言の拒絶を示す。
「無駄だ。重要なのは、お前の血がこの聖杯に注がれるという事実のみ」
ヴァルタヒスはわたしの抵抗など取るに足らないとばかりに、わたしの右手を取った。
氷のように冷たい彼の指が、わたしの肌に食い込む。抗おうにも、その力はあまりに圧倒的で、わたしの体は石のように縫い付けられてしまった。
短剣の切っ先が、ゆっくりと、わたしの指先に近づいてくる。
もう、ダメなのか。わたしの運命は、ここで潰えてしまうのか。ハルトくんがくれたあの言葉を、決意を、ここで手放してしまうのか。
その、瞬間だった。
大聖堂の重厚な扉が静かに開かれようとしている。静かな空間自体に亀裂が入っていくかのように、軋む音が響いていく。
そして、蒼い光を灯したランタンを手に持った青年が、ゆっくりと大聖堂へと入って来た。
同時に、夜の闇とは違う、夜空の煌めきのような、聖堂の入り口から奔流のように流れ込んでくる。
青年の存在感は、その場にいた吸血鬼たちを圧倒しており、聖堂内の吸血鬼たちが一斉に殺気を放ち、侵入者である青年に牙を剥こうと身構えるも、動けない。
目に見えない大きな手に押さえつけられているかのようだ。
青年は静かに宣言した。
「僕は、古き契約により、あなたたちの手となり足となり、現世での居場所を守るもの。ここに、契約の履行を求め、参上した」
「ふ、ふざけるな、人間ごときが」
「待て」
眷属たちが彼に飛びかかろうとした、その時。それを制する、厳かな声が響いた。声の主は、ヴァルタヒスの傍らに控えていた、年老いた吸血鬼だった。
「その者が持つのは、愚者火を灯すランタンだ。死沼へ誘う鬼火。我らと古き契約を結びし一族の者を示す。我らは彼に牙を剥くことは許されぬ」
古老の言葉に、眷属たちの動きがぴたりと止まる。
そうだ、ハルトくんのおばあさんの喫茶店は、ただの店じゃない。
古くから、吸血鬼たちを支援する代わりに、決して手出しをしないという不可侵の契約を結んだ、特別な場所。
「何の用だ。死に場所を探しに来たか?」
ヴァルタヒスの威圧感は凄まじく、ただの人間ならば立っていることさえできないはずだ。けれど、ハルトくんは揺るがなかった。
「本題の前に報告を。古き契約の名の下に参上しました。本日をもって、先代に代わり、この私が新たな契約の当主となったことを、まずはご奉告申し上げます」
「――よかろう、認めてやる。だが、その下賤な報告のためだけに我が儀式を汚したか。用件が済んだなら疾く(とく)失せよ」
「次に本題を。……ミサキさんを、取り返しに来ました」
そのあまりにも率直な言葉に、ヴァルタヒスは心の底から愉快そうに、喉を震わせて笑った。
「取り返す、だと? 矮小な人間一人が、この我から、この女を奪えるとでも? 去れ。命があるだけ、幸運だと思え」
ヴァルタヒスの言葉は、絶対的な真理のように聖堂に響き渡る。
だが、ハルトくんは静かに首を横に振った。
「いいえ、あなたこそ、彼女から手を放すべきだ。我らの一族と、あなた方の一族が交わした古の契約に従って」
「契約、だと?」
ハルトくんは、まるで法律の条文を読み上げるように、淡々と、しかし確固たる声で告げた。
「我が一族は吸血鬼を支援する代わりに、その身の安全を保証される。いかなる吸血鬼も、我が血族に『害』を為すことは許されない。そして、もしこれが破られた場合――その『害』を為した吸血鬼の魂は、代償として我が血族の所有物となる。そう記されているはずです」
ヴァルタヒスは鼻で笑った。
「それがどうした。お前はここに立っている。誰も、お前に指一本触れておらんぞ」
「いいえ」
ハルトくんは、きっぱりと否定した。
「先日、僕はミサキさんに血を吸われました。彼女に"害意"はなかったかもしれない。でも、事実は動かない。契約における"加害行為"に該当します」
その言葉に、ヴァルタヒスだけでなく、聖堂にいたすべての吸血鬼が息を呑んだ。
ハルトくんは、一切の感情を乗せない声で、しかし、誰にも覆すことのできない事実を、そこにいる全員に叩きつけた。
「よって、契約の履行を求めます。ミサキさんの魂の所有権は、我が一族――すなわち、現当主である、この僕にあります」
「バカな――」
「彼女は僕の物だ。その指先から、血の一滴、彼女の一族のすべてに至るまで、我が一族の所有物となる。あんたなんかにくれてやるつもりはない」
力ではなく、理で。感情ではなく、契約で。
ハルトくんは、この絶対的な王の土俵に上がり、そのルールで彼を打ち負かそうとしていた。
ヴァルタヒスは一瞬言葉を失い、やがてその顔を怒りで赤く染め、低く唸った。
「……戯言を!」
その瞬間、ヴァルタヒスの瞳が、ぞっとするほど深く、昏い色を帯びた。
常人ならば、視線を合わせただけで魂ごと抜き取られ、永遠の操り人形と化してしまうという、古き血統だけが持つ"魅了の魔眼"。
その力が、奔流となってハルトくんに襲いかかる。
だが――ハルトくんは、微動だにしなかった。
瞬き一つせず、その深淵の瞳を、ただ静かに見つめ返している。
「な……ぜ……」
ヴァルタヒスが、信じられないものを見る目で呟いた。
「なぜ、我が魔眼が効かぬ……!?」
ハルトくんは、心底不思議そうに、小さく首を傾げた。
「無駄ですよ。僕には、あなたが操るべき『心』がない。喜びも、悲しみも、恐怖さえも実感できない。空っぽの器を、どうやって動かすつもりですか?」
その言葉は、ヴァルタヒスにとって、どんな物理的な攻撃よりも重い一撃だった。
王の絶対的な力が、目の前の青年には、赤子の戯れほどにも通用しない。
「――そして」
ハルトくんは、静かに言葉を続けた。
「今あなたがしようとしたこと。それは、僕を『害』するものですか? それともただ睨んだだけ? あなたも僕のモノになりたいんですか?」
「……っ!!」
ヴァルタヒスが、たじろいだ。
王として君臨してきた彼が、永い生の中で初めて、人間を前にして、恐怖に似た感情を覚えた瞬間だった。
それを見て、わたしはもう迷わなかった。
力ではなく、知性で。感情ではなく、意志で。
ハルトくんは、この絶対的な王を、完全に打ち負かしたのだ。
「――放せ」
わたしは、自分でも信じられないほどの力で、掴まれていたヴァルタヒスの腕を振り払う。
驚愕に見開かれた彼の瞳を置き去りにして、わたしは祭壇から飛び降りた。
カラン、とヴァルタヒスの手から滑り落ちた短剣が、石畳の上で甲高い音を立てて転がった。
もう、何も怖くなかった。
もう、何も迷わなかった。
わたしは、黒いドレスの裾がもつれるのも構わず、一直線に彼の元へと走った。
わたしのたった一つの真実。
わたしのたった一人の、大切な人。
「ハルトくん……!」
彼の胸に、勢いよく飛び込む。
受け止めてくれた彼の体は、吸血鬼のわたしからすれば、あまりにも温かく、そして儚かった。
けれど、その腕は、世界中の何よりも力強く、わたしを抱きしめてくれた。
彼の胸に顔を埋め、安堵と、こみ上げる喜びで声を震わせる。
「ありがとう……! 来てくれて……!」
「約束したから」
彼は、ただ優しくわたしの髪を撫でてくれる。
わたしは顔を上げ、彼の腕の中から、呆然と立ち尽くすヴァルタヒスに向き直った。
そして、はっきりと宣言する。
その声は、もう震えてはいなかった。
「聞こえたでしょう、ヴァルタヒス。わたしはもうハルトのもの。あなたのものには、絶対にならない」
ヴァルタヒスが、屈辱に唇を噛むのが見えた。わたしは、さらに言葉を続けた。
「そして、わたしの一族もすべてハルトくんの物になるわ。この契約が破棄されるまで、あんたの入る隙間は、未来永劫どこにもないの」
わたしは、勝利を確信した笑みを浮かべて、彼に最後通告を突きつけた。
「尻尾を巻いて、自分の薄暗い寝床にでも還ることね」
ヴァルタヒスは、しばらくの間、怒りと屈辱に顔を歪ませたままわたしとハルトくんを睨みつけていたが、やがて、深く、長い溜息をつくと、踵を返した。
彼は一言も発することなく、まるで闇に溶けるように、聖堂の奥へとその姿を消していった。
そして、彼の眷属たちもまた、一人ひとりと、次々に姿を消していく。
聖堂に、静寂が戻る。
わたしは、再びハルトくんの胸に顔をうずめた。
わたしのたった一つの、儚い夢。
それは、もう夢なんかじゃない。
今、この腕の中に、確かな現実として存在しているのだから。
二人は答え合わせをしました。
「ミサキさん。少し、話したいことがあるんだ。……契約のこと」
「え……? なにを?」
「君を助けるためだったけど、結果的に縛るような形になってしまって……。申し訳ないって思ってる。あれが、僕にできる唯一の方法だったんだ」
「ううん! すごかった。あのヴァルタヒスを、力じゃなく理屈で出し抜くなんて。正直……すごく、すっとした。いい気味だって」
「……ミサキさんは、この契約に縛られること、嫌じゃないの?」
「ええ。まったく。だって、あのまま、あいつの眷属になるくらいなら、塵に還る覚悟だったから。……それに、誤解しないで聞いてほしいんだけど、好きな人のものにしてほしいっていうか、縛られたいって気持ちが、ちょっとあるかな。なんか嬉しいの」
「そう、なんだ。ごめん、僕はまだ女性の心理を勉強できてないみたい」
「ううん、きっとハルトくんじゃなくても、世の中の男はみんなわかんないと思う、女性のそういう気持ちは複雑なのよ」
「……でも、この契約はミサキさんから一つの可能性を奪ってしまう。……ずっと探していた"魂の血"を与えてくれる相手を見つける、っていう可能性を。心がない僕では、それは叶えてあげられないから、他を探した方がいいのに――」
「……馬鹿にしないで」
「え?」
「わたしは、あなたがいいの。あなたを選んだの。その結果"魂の血"が得られなくても、それはもう、わたしの覚悟の問題よ。それにね、失敗したから他のを探すなんて、そんな打算で得られるほど、"魂の血"は軽いものじゃないと思うわ」
「そっか。ごめん。僕の方こそ、覚悟が足りなかったみたいだ」
「ううん、あなたは助けに来てくれた。それだけで充分よ」
「いや、十分じゃないんだ。君の覚悟に、僕も応えたい。……手術を受けようと思う」
「待って、どういうこと? 手術で、治るの? その……失感情症、だっけ」
「必ず治るってわけじゃないんだ。可能性がある、っていうくらいで。僕は幼い頃の事故で脳の一部に損傷があって、失感情症を発症した。当時は出来なかったけど、最新の再生医療なら、改善の余地があると言われてるんだ」
「なら、早く……!」
「……期待させてしまったとしたら、申し訳ないんだけど。でも、大事なことだから正直に話すよ。人格や記憶が変わってしまう可能性がある。最悪の場合は死んでしまう可能性もある、って言われてる。僕が今のままではいられなくなるんだ。だから、ミサキさんの知る僕じゃなくなるかもしれない」
「ハルトくん……もし、わたしのせいでそんな危険な手術を受けるつもりなら、やめて。今のあなたのままで、わたしは……」
「君のせいじゃないよ。僕自身、今のままじゃダメだとずっと思っていたんだ。ただ、何のためにそのリスクを冒すのか、その理由が見つからなかった。……今は、君がいてくれるから」
「ハルトくん……」
「だから、少しだけ待っていてほしい。もし僕が僕でなくなっても、必ずミサキさんのところに戻る、そして、ミサキさんを愛する、そう誓うよ」
「……うん。でも、待ってるだけじゃない。わたしも一緒に戦う。これでも古き血を持つ吸血鬼だもの、やれることはたくさんあるわ」
「やれること?」
「脳の手術は無理だけど、記憶とか感情を操るのは、吸血鬼の得意分野なのよ。きっと出来ることがあると思う」
「頼もしいよ」
「契約があるから大丈夫だと思うけど、あの男は、もうミサキさんを狙ってこないかな?」
「ヴァルタヒスね。諦めたわけじゃないでしょうね。でも、時間の感覚が違うから。百年後か二百年後か……人間の感覚なら『面倒だから来週にしよう』くらいの気持ちだと思うわ」
「そっか……。ミサキさんも、時々そういう感覚になったりするの?」
「ううん。わたしは人間社会で生きてるから、感覚はハルトくんに近いと思うよ」
「そういえば、法学部だったよね」
「ええ。今、一番興味があるのは『Witas』かしら。今はただの流行アプリだけど、これが社会に浸透して、司法に導入する日が来たら、社会はどう変わるか、そんな研究をしてるの」
「なぜあれほど高精度で嘘が見抜けるのか、本当に謎だよね」
「ええ。一説では、名前の由来は『wit's end』……つまり『お手上げ』だっていう噂があるわ。その謎を暴こうとすることへの警告か、それとも人類がお手上げ状態だから現れたのか。興味は尽きないわね」
「もし嘘がなくなったら、社会は良くなるのかな。……でも、そうなったら君は少し困るんじゃない?」
「わたしが? どうして?」
「『あなたは吸血鬼ですか?』って聞かれたら、隠し通せないかなって」
「あ……。そうね。でも、大丈夫。吸血鬼は伊達に長く生きてないもの。言葉の裏をかいて、真実の迷路に誘い込んでみせるわ」
「ねえ、今度の休みの日、ちゃんとしたデートがしたいな」
「うん。もちろんだよ」
「以前は、わたしが渇望もあって焦ってたから、心から楽しめなかった気がして。ハルトくんは、普段お休みの日はどうしてるの? 落ち着ける場所とか、そういう場所を知りたいな」
「うーん……本を読んだり、映画を観たり、かな。ただ、ごめん。僕の場合、それが純粋な楽しみというより、情報収集に近いかもしれないんだ。『こういう時、人はどう反応するのが適切か』って、つい分析してしまうから」
「そっか。じゃあ、アウトドアとかどうかな? 社会から離れて自然の中で。二人きりなら、少しは気を遣わずにいられるかもしれないよね」
「やったことは無いけど、本では読んだことあるから、興味はあるかも。ミサキさんと一緒なら、行ってみたい」
「決まりね!」
「あのね、これって聞いてもいいのかわかんないけど、聞いてもいい?」
「なに?」
「美味しいものを食べた時、『美味しい』っていう感覚はあるの?」
「無いかな。味覚的な甘い辛いはわかるけど、感動には結びつかない。だから"美味しい"というよりは"食べやすい"と思うくらい」
「あー。じゃあ、好きな食べ物って、何かな? 美味しいっていう気持ちは分からなくても、たとえばこれを食べていると落ち着くとか、そういうものはあるでしょう? ……いつか、手料理とか、作ってあげられたらって思うの」
「うーん、難しい質問だね。すぐに思いつくのは、たぶん、ミサキさんの望む答えじゃないんだけど……」
「いいから、教えて」
「湯豆腐、かな」
「湯豆腐!?」
「うん。味覚への刺激が極めて少ないっていうことや、素材そのもののミニマルなかんじとか、考えずに済むから落ち着くかな」
「なるほど……。変に凝ったものより、素材を活かしたシンプルなもの、ね。わかった、考えてみる」
「……ごめんね」
「ううん、いいの。わたしも吸血鬼だから、人間と同じものは、あまり食べられないし。でも、湯豆腐なら、一緒に食べられるかもしれない」
「そうなんだ。二人とも、なんだか浮世離れしてるね」
「ええ。だから、惹かれ合ったんだって、今は思うよ」
「そうかも」
ハルトが心を取り戻し、ミサキが"渇き"を満たす日は、きっとすぐそこに。




