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夏の幻

少年時代の記憶を求め、森へと入った瑞樹が経験した、夏の夜の物語です。

第3回『幻想と怪奇』ショートショート・コンテスト、二次選考通過作品です。

 ――森には魔女が住んでいる。

 ――迷い込んだ人間を食べてしまう。

 

 世界中、どこにでもありふれた物語。

 歌劇やおとぎ話でならまだしも、そんな夢物語、誰が信じるだろうか。

 

                *

 

 おおーん。

 闇を這うように犬の遠吠えが響いた。

 鬱蒼とした木々が日の光を遮る。薄暗い獣道を瑞樹はひたすら前に進んだ。

 ずっと、この機会を待ち望んでいた。森の中に置き忘れた少年時代のおぼろな記憶、それに伴う憧憬と後悔の入り混じった感情が瑞樹の胸に留まり続けていた。

 それがなにかを知りたい。そう考えて森に入った。……が、甘かった。森の深淵に迷い込み、完全に方向を見失ってしまった。草を掻き分け、道なき道を早足で歩み進める。

「まいったな」

 ショートヘア、日に焼けた浅黒い肌をひとすじ汗がつたう。

 スマートフォンをジーンズのポケットから取り出した。

 圏外。

 通話は繋がらず、GPSも機能しない。チッと舌打ちし、再び戻す。文明の利器もまるで役に立たない。せいぜいライト代わりだ。

 時刻は午後六時をまわっている。八月とはいえ、少しずつ日も傾き始めてきた。村のみんなも心配しているだろう。

 おおーん。

 確実に鳴き声は近付いている。

 今更ながら、

「……優子ちゃんに言われたこと、守っときゃ良かったかな」

 自分の浅はかさを悔いた。

 

                *

 

 瑞樹がこの村を訪れたのは、これで二度目になる。十年前、小学五年の夏休み、家族で祖父母の家に遊びに来ていた。夏休みの研究課題が「森のいきもの」だったこともあり、旅行がてら、父の田舎に帰省してみようとなった。

 信州の山あいに位置する、森に囲まれた小さな集落。東京から電車を乗り継ぎ、ローカル路線バスに揺られて三時間、ようやく村に着いた。

 この旅行を提案されたとき、瑞樹はあまり気乗りしなかった。やれと言われるとやらず、やるなと言われるとやる。そんな天邪鬼な性格だったこともある。

 瑞樹は思う。ネットで検索すればすぐにわかる。なんでわざわざ、そんな田舎までいかなきゃなんないんだ。疲れるだけだ。ばからしい! と。

 ……が、バスを降りて第一声。

「なんだ、ここ! すっげーっ!」

 新鮮な空気。

 すがすがしい草の香り。

 青く澄み渡った空。真白なわた雲が転がるように横切っていく。

 射し込む日射しが、周囲の木々、枝葉の上で跳ね回る。

 さらさらと小川のせせらぎ。

 じーじーと蝉の声。

 都会育ちの瑞樹にとって、そこは幻想と怪奇が渦巻く異世界、ワンダーランドだった。

 草原を切り分けて走る地道を通って、祖父母の家まで移動する。

 さわさわ。

 涼しく爽やかな風が吹き、ささやくように夏草が音を立てた。

 二十分ほど歩いて集落までたどり着くと、

「キミ、どこからきたの?」

 背中ごしに、甲高く元気な声がした。

「知らない子だね」

 振り向くと、水色の前ボタン・ワンピース、麦わら帽子の少女が、にんまり、そこに立っていた。ショートボブ、ぱっつん前髪の奥から上目づかいに視線を送って、

「わたし、優子。泉優子。キミは?」

「お……おれ、瑞樹。田代瑞樹」

 面はゆそうに答える瑞樹に、興味津々な様子の優子。たたみかけるように、

「そっか、瑞樹くんか。よろしくね! で、どっからきたの? 東京?」

 そんな様子に気づいた母の康子が、微笑ましそうに、

「あらあら。さっそくお友達ができたの、瑞樹。泉さんのところのお嬢さんね。しばらく滞在するけど、瑞樹のこと、よろしくね」

 はい! と答えて、優子はくすぐったそうに笑った。

 

 はにかみ屋の瑞樹だったが、天真爛漫な優子と打ち解けるのに、さほど時間はかからなかった。年齢も同じで話題も合う。

 野原で虫を捕まえる。

 小川で魚をとる。

 道ばたに咲く花の蜜を吸う。摘まみ取った花の根元に口を付ける。香しくほんのりとした甘さ。どんなスイーツだって、これにはとうていかなわない。

 この村の魅力は自然だけではない。かつてこの村は華族や資産家たちの避暑地として好まれ、たくさんの別荘地が建ち並んでいた。その多くは老朽化のため取り壊されたが、状態の良いものは村役場などに改築され、今も利用されている。

 美しい自然に魅了された当時の芸術家たちも好んで訪れた。当時、アトリエとして建てられた建物は、現在、資料館になっている。

 この村は古き良き時代を保存したタイムカプセルのようだ。過去の人々の記憶や想いもまた、ここに眠っている。

 瑞樹にとって、この村での数日間は、刺激的でどこか甘酸っぱい想い出となった。

 

 しかし、それとは別の記憶も残していた。

 恥ずかしさ、恐れ、そして後悔。

 それがなんだったのか、覚えていない。

 森の中でなにかを見た。

 ただそれだけだった。

 

 十年して、再び村に訪れる機会を得た。

 大学のゼミの夏休みの研究課題、

「旧華族の優雅な生活」

 この村のことを思い出した。贅を尽くした豪華な洋館はもちろん、資料館の展示物を解説するだけでも、いいレポートになる。

 それに、

「お久しぶり! 瑞樹くん……だよね?」

 路線バスを降りると、「泉」のネームプレートを付けた女性が、両手を振って出むかえた。

 優子だ。

 成長した優子にも会いたかった。

「優子ちゃん? お久しぶり」

 面影がある。

 白の半袖ブラウスにネイビーのクロップドパンツ。すっかり大人びているが、ボブカットとネコのようにころころと表情を変える瞳はあの頃と変わらない。慌ただしさから、ろくに挨拶もせず東京に戻ったことが心残りだった。……が、優子の相変わらずの快活さ。そんな懸念は一瞬で吹き飛んだ。

 照れくさそうに、

「部長にね、瑞樹くんのことを話したら、『今日は仕事なんかいいから、迎えに行ってこい!』って。なんだか……ねえ?」

 顔を見合わせて苦笑いした。

 道すがら優子に課題のことを話すと、

「そういうことだったら、私、ちょっとは、お手伝いできるかも」

 嬉しそうに答える。

 高校卒業後、優子は村役場に就職した。今は文化振興課に勤務していて、資料館で村の文化財の管理をしているらしい。

 村に入って、四つ辻に差し掛かったとき、

「今から部長と相談してくる」

 目を細めて、辻道を右手に進んだ。役場へ向かう優子の背を眺めていると、優子ははたと立ち止まり、振り返って、

「瑞樹くん。森に行っちゃ、だめだよ」

 そう告げた。

 なぜ? と問うと、眉を曇らせ、

「ともかく森だけは、絶対、ぜ~ったい、入っちゃだめ!」

 言い残して、足早に去って行った。

 辻道をこのまま進めば祖父母の家にたどり着く。

 左手は森に続く。黒い森。巨大な生き物が横たわっているようだった。あそこには、この村を訪れたもうひとつの理由がある。行かないわけにいかない。

 瑞樹のなかの天邪鬼が騒ぎ出す。

 左の道を選んだ。

 

                *

 

「今更、後悔したって、しょうがないか」

 滝のような汗がポロシャツを濡らす。

「優子ちゃんには、あとで謝っておかないと。……帰れれば、だけど」

 疲労と空腹で目がまわりそうだ。不思議と気力だけはみなぎっていて、森の深淵に向かうほど記憶も鮮明に蘇ってくる。

「……俺、ここに来たことがある」

 これまで白日夢と感じてきたことが確信に変わった。そのとき、

 ざわざわ。

 生暖かい風が吹いて、木々が揺れる。

 風が甘い香りを運ぶ。

 ――あのときと同じだ。

 ――あのときって?

 心の底から、泉が湧き出すようになにかが溢れ出てきた。

 この森でのおぼろげな記憶。瑞樹は再び追想の森にすべりこんだ。

 

                *

 

 少年時代の夏休み。東京へ戻る前日になって、瑞樹は重大なことを思い出した。

 研究課題「森のいきもの」。

 ……まずい。村が楽しすぎて、本来の目的を見失っていた。困って優子に相談すると、

「森だけは、絶対、入っちゃだめ!」

 眉を寄せ、顔色を曇らせた。村の子供たちの間では、

『森の奥には魔女が住んでいて、入ってはいけない。迷い込んだ人間を食べてしまう』

 そんな噂があった。大人たちに聞くと、笑って、

「さすがに、そんなこたアねえが、夜には野犬が出ンから、慣れてねえモンは入っちゃ、なんねえよ」

 そう、瑞樹に答えた。

 ――なにが魔女だ!

 ――そんなの迷信だよ!

 そんな噂話など、瑞樹は馬鹿にして信じなかった。

 太陽が昇っている間なら大丈夫だろう。

 なんでもいいから、生き物を探してこよう。

 そう考えて、村人たちの目をかいくぐって、懐中電灯を片手に森へと入っていった。

 

 森を甘くみていた。鬱蒼と木々が茂り、足下を野草が覆う。同じような景色ばかりで方向感覚が奪われる。焦れば焦るほど間違った道を選び、出口から離れていってしまう。

 ――魔女が迷わせてるんじゃないか?

 ――優子ちゃんの話、本当だったのかも!

 不安と恐怖が押し寄せてくる。

 時間だけが経っていき、あたりはだんだんと暗くなっていく。空には月が姿を見せ、静寂の中、犬の鳴き声が聞こえだす。

 ざわざわ。

 風が吹き、木々が揺れた。

 そこここに、甘い香りが漂い始める。とたんに腹が減りはじめ、のども渇きだした。

 

                *

 

 風が吹き去って、はたと我にかえり、

「子供んときと、俺、なんにも変わってないじゃん」

 薄く笑った。

「……このあたり」

 記憶が呼び起こされ、ぱちりとパズルのピースがはまりだす。

「そう。たしか、このあたりだ」

 声にして、ひとり口をきいた。言葉にすると記憶がいっそう鮮明に蘇ってくる。空白だった少年期と現在の自分とが繋がり出した。

「花を見たんだ。白い花」

 すでに周囲の景色は黒く塗り込められ、天空には星々が煌々と輝く。

 スマホの灯りであたりを照らす。暗闇に紛れて点々と白いものがみえ、星々が落ちてきたように錯覚した。徐々に目も慣れてきて、それが周辺いっぱいに群生した花の花弁だとわかった。欠けたところもない月光を浴びて青白く月映えする。

「ここだ。間違いない」

 夜に咲く花。ユウガオだろう。

 八月十五夜。淡く澄んだ香りを漂わせ、夕闇に、ほんのり優雅にその姿を浮かばせる。

 しかし、今は「花より団子」。なにより空腹が優先された。花の一つを摘まみ取って、元を口にくわえ蜜を吸った。豊潤な甘さ。蜜の甘さが全身に染み入る。味覚がさらに記憶を呼び覚ます。

「あのときも、こうやって空腹を紛らわしたんだっけ」

 張りつめていた精神が緩んだのだろう。眠気が襲い体中の力が抜け、ぐらり、膝から崩れおちた。頭を振って、ゆっくり起き上がる。

 花畑の奥になにかがぼんやりと浮かび上がってきた。目をこする。

 

 白い洋館。

 アールヌーボー調の曲線を帯びたデザイン、窓や手すりには蔦模様の優雅な装飾が施されている。月明かりを浴びて青白く輝く。

 建物の前には小さな庭園が広がる。よく手入れされた花壇には、ユウガオ以外にもアサガオ、ヒルガオが植えられている。明日の朝には入れ替わって美しく咲き乱れることだろう。みとれていると、

 がちゃり。

 音がして、洋館の扉が開いた。瑞樹は慌てて草の陰に身を隠し、息をひそめた。

 両開きの扉の奥から、薄ぼんやりとした光をまとってひとりの女性があらわれた。花を見にきたのだろう。右手にランプを掲げ、短い階段を降り庭園に入ってきた。

 歳は二十代半ばくらいか。英国婦人が着るような真白いドレスに薄紫の柔らかい上着を重ねまとった、たおやかな女性だった。色白の肌、ウェーブのあるボブヘア、羽根つき帽をかぶったその姿は「貴婦人」という言葉がふさわしい。憂いをまとった笑みを浮かべ、開いたユウガオに、なにか、ぽそぽそと語りかけている。その仕草が、ただひたすら可愛らしかった。

 ぱちり。

 再びピースがはまる。

 あのときも、この洋館に来ている。そして、あの女性に出会っている。時が止まったかのように変わらない若さ、そして美しさ。まるでユウガオの花のような貴婦人。

 心をどうかしてしまったのだろうか。突然、甘美な感情、感覚が溢れ出す。

 切なく、胸が締め付けられる思い。

 少年時代の瑞樹が感じた、年上の女性への憧れと淡い恋心。

 心臓の鼓動は早まり、体中が火照って、下腹部に、「うずき」のような感覚が走った。両手のひらは汗ばみ、生温かい唾液があふれて、軽いめまいを覚えた。

 がさっ。

 立ちくらんでバランスを崩し、周囲の木の枝を揺らしてしまった。

「だれか、そこに、いらっしゃるの?」

 

 あのとき、瑞樹は逃げ出してしまった。

 ――魔女に魔法をかけられた!

 ――おかしな気持ちを植え付けられた!

 幼い瑞樹の心は、その初めての感情を受け止めきれなかった。

 怖かった。頭の中は真っ白になって、そこから先の記憶はない。どうやって森を抜けたのか、気がつくと祖父母の家で横たわっていた。

 

 すべてのピースがはまった。

 記憶をなくし切り離されていた過去と現在とが、今、完全に繋がった。

「彼女は」

 瑞樹は甘美な感情に導かれるまま、

「魔女なんかじゃ……ない」

 庭園を縦断して、洋館へ、女性のもとへ、ゆらゆらと歩んでいった。目前に立って目が合うと、女性は声をうわずらせ、

「ああ……お帰りなさいませ」

 振り絞るように声を発した。

「やっと、帰ってきてくださったのですね。私、あなたさまをお待ちしておりましたのよ。ここで、ずっと一人で」

 潤んだ瞳が月明かりを受けて輝いた。

 瑞樹にはわかっていた。この女性は、自分を他のだれかと勘違いしているのだろう。

 そんなことはどうでもよかった。

 この人に会いたかった。

 十年もの間、ずっと心の奥底に潜んでいた願いが、今やっと、叶う。

 彼女は、テラスのテーブルにランプを置くと、

「……お恨みしますわ」

 瑞樹の胸に、ふわり、飛び込んできた。

「何度、お手紙を送っても、お返事ひとつくださらないのですもの。私の心は押しつぶされそうで黒い胡蝶を抑え切れません」

 いったい、なにを言っているんだろう?

 手紙の相手は誰なんだ?

 嫉妬に似た気持ちを抱きながら、両手で強く抱きしめた。恨まれていても、かまわない。

「ああ……なんて幸せなんでしょう。この瞬間がずっと続けばいいのに。永遠に、この夢の世界で一緒に暮らせたらいいのに」

 上目づかいに瑞樹の目を見つめる。誘うような瞳に答えるように、瑞樹もまた小さく頷いた。目を細め、指先を瑞樹のうなじにからめて、

「……さあ。私と一緒に旅立ちましょう」

 潤んだ唇をゆっくりと瑞樹に寄せた。

 その瞬間。

 

 ドオンッ!

 

 空気を揺らし銃声が鳴りひびく。続いて犬のうなり声。なにが起こったのか? 銃声はさらに数回繰り返され、犬の短い断末魔の叫びののち、それは途絶えた。

「瑞樹くん!」

 ぱあん! 頬に鋭い痛みが走った。

「しっかりして、瑞樹くん!」

 女性の姿に重なって、浮き出るように優子が姿を現した。

「優子ちゃん?」

 硝煙の匂いと血の匂いとがツンと鼻をつく。瑞樹を取り巻いていた甘い花の香りはかき消され、それに伴い、砂絵を崩すようにあたりの景色も薄れていった。

 気づくと瑞樹は朽ちた洋館の前に立っていた。荒れ果てた庭園にユウガオの白い花だけが月明かりの中、薄く輝いている。

 夢から覚めたような気分だった。

 無防備に開け放たれた扉の奥、女性は玄関ホールの中央に立って、

「……また、どこかに行ってしまわれるのですね。私、一人、ここに残して」

 憎悪とも悲しみとも取れない表情で、瑞樹をじっと見つめた。瑞樹は小さく頷いた。

「あなたさまは……ひどいお方です」

 ふっと悲しげな笑みを浮かべ、ぽろり、ひとしずく涙をこぼした。

 一陣の風が吹く。

 一瞬の瞬きのあと、女性の姿は幻のように跡形もなく消えた。

「瑞樹くん。誰と話してたの?」

 優子には見えていないようだった。

「……これって」

 優子がライトを玄関ホールに向けると、一枚の油絵が浮かび上がった。

 可憐で艶やかな女性画。

 先ほどまで腕の中にいたあの女性だった。

「素敵だね」

 瑞樹は、声もなく頷いた。

 猟銃を持った男性が、ライトを片手に警戒しながら近寄ってきた。優子の父親だ。辺りに群生する白い花を見て、

「チョウセンアサガオだな」

 チョウセンアサガオ。見た目はユウガオと似るが、成分に幻覚・記憶障害など、強い毒性がある。足下に転がる野犬どもの死骸を足で蹴って、

「この花の毒気にやられて、幻覚でも見たんだな。危うくコイツらに食い殺されるとこだったぞ」 

 我に返ったように、優子は、

「瑞樹くん、ごめんね。私が森の話なんかしちゃったから」

 瑞樹が祖父母の家に着いていないことから察して、探しに来たらしい。

「あと……ごめん。ほっぺ」

 叩かれた頬がジンジンと痛む。その感覚が、失っていた記憶をさらに呼び覚ました。

 

 少年時代、洋館から走り去ったあと、捜索に来た優子たちに助けられた。

 駆けよって、優子は、

「ばか! 心配したんだよ! 森には入っちゃだめって、あんだけ言ったじゃない!」

「う……うるさい! だまれ!」

 瑞樹は素直に謝れなかった。優子の悲しむような、怯えるような表情は、瑞樹の心に深い影を落とした。

 瑞樹は、優子と口をきくこともなく東京に戻っていった。喧嘩したままの後味の悪い別れだった。

 

「ごめん……優子ちゃん」

 関を切って落としたように、想いが溢れ出した。

「俺、後悔してたんだ。なんで、あのとき、あんなこと言っちゃったんだろう。なんで素直に『ありがとう』って言えなかったんだろうって」

 瑞樹の心を察してか、優子は、

「……なあんだ。じゃあ、私と同じだ。なんであのとき瑞樹くんに『ばか!』なんて、ひどいこと言っちゃったんだろうって。でも瑞樹くん、ひどいよ。なにも挨拶しないで帰っちゃうんだもん」

 むくれる素振りで、いたずらっぽく笑った。

 

                *

 

「……あれから、私も調べてみたんだけどね」

 資料館で瑞樹がレポートの作製をしていると、遠慮がちに優子が話しかけてきた。

「例の肖像画の女性。大正時代、あの洋館で亡くなったんだって」

 

 女性の名は琴音。資産家の男の色女だった。

 男が金に飽かせて、しつらえた洋館。琴音の好きな花、アサガオのガーデン。正妻の目を盗んで夏のバカンスを楽しんでいた。男は西洋絵画をたしなみ、肖像画も自らの作だ。

 ある夏の夜、琴音はここで命を落とした。

 満月の晩だった。

 当時の新聞には、痴情のもつれの結果、琴音は服毒自殺したことになっている。

 

「村の子供たちの間で噂になってたんだ。森の魔女って」

 顔色をうかがいつつ、申し訳なさそうに、

「……瑞樹くんの言うことが事実なら、なんだけどね」

 ひと呼吸置いて、

「琴音さん、その男を憎んでいるとは思えないんだよね。男だってそう。あんな素晴しい肖像画を描くような人が琴音さんを捨てると思う? 相当な惚れ込みようだよ、多分」

 男の家系図をテーブルに広げて、

「男はかなり由緒正しい家柄だったんでしょ? 逆らい切れない大きな力で、無理矢理引き裂かれたんだと思う。……憶測だけどね」

 そう言って、男の正妻の名前を指さした。

 真相は今となっては知るよしもない。

 

 瑞樹は思う。

 あの肖像画は琴音の魂の依り代なのだろう。

 悪意の欠片もない純粋無垢な彼女は、思い人の帰りを待ち続けるだろう。

 これからもずっと、一人で、あの場所で。

 

 物思いにふける瑞樹を見て、優子は、ぱん! と手を叩くと、

「はい、このお話はここでおしまい」

 突然、距離をつめてきて、

「ところでね。私、来月、役場の仕事で東京に出張することになったんだけど」

 こほん、と咳払いし、

「東京なんて、あんまり行ったことないし、美味しいレストランとかも知らないしなあ」

 そう言って、瑞樹の顔をずいっとのぞき込んだ。瑞樹に、このお誘い、断れるよしもない。はにかみながら、

「じゃあ……さ。優子ちゃん」

 優子はネコのように目を細め、けらけらと笑った。

 

 瑞樹の淡い初恋は、森の奥深く眠る。

 

 そして新しい想いがここから始まる。

 願わくは、これが夏の幻にならないように。

 消えてなくならないように。

 そう祈った。






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