マイゴッドマザー
「……ぁあよ、目覚めるのです。ああああ」
聞き慣れない女性の声で、混濁した意識が急激に引き戻される。
この感じ、どこかで一度経験したような。
そうだ、先輩のペンネームを聞いて、つい吹き出してしまったら、急に意識が消えた、あの時だ。
「う、ううん。頭がぐらぐらするぅ」
「シャキッとしなさい。今日は大事な日なのですよ」
そこにいたのは見知らぬ女性だった。
エプロン姿で家庭的な雰囲気があるが、くすんだ色合いの質素な布地で、所々ほつれている、お世辞にも上等とは言えない衣服を着ていた。
現代日本なら、その辺のスーパーでも、もっとマシな服を売っている。
そうだった。
僕は異世界に転生したんだった。
「どうしたのですか、ぼーっとして。一発欲しいのですか? 欲しいのですね? では、歯を食いしばりなさい」
一発? はて、何を言っているんだこの人は。
どうやらベッドで寝ていたようだが、この状況にも、目の前の女性の発言にも、理解が追いつかず呆然としていた。
次の瞬間。
大リーガーの投手が投げたストレートがキャッチャーミートで受け止められた時のような、気持ちの良い音が鳴り響いた。
ジンジンとする頬の痛みも、遅れてやってくる。
「痛いよぉ……いきなり酷いじゃないですか!」
「黙らっしゃい! 叩かれた時は『ありがとうございます、ゴッドマザー』で、しょうがぁああああ! 私はそんな感謝が出来ない子に育てた覚えはありませんよ。うっうっううぅ」
いきなり叩かれて泣きたいのはこっちなのに、先に泣かれて収拾がつかない感じになってしまった。ここは言われた通りにする方が良さそうだ。
「あ、ありがとうございます。ゴ、ゴッド、マザー?」
言葉から察するに、この女性はこの世界での僕の母親だろう。って、ゴッドマザーってなんだよ。自分の息子に何言わせてんのこの人。
「それでよいのです。我が息子、ああああよ」
自分の言葉に従ったことに満足したのか、ゴッドマザーはぴたっと泣きやんだ。
嘘泣きだったの!?
それにしても、僕の名前、本当に『ああああ』になったんだ。
先輩が異世界に飛ばす寸前に、適当につけた名前なんだよなぁ。
「聞きなさい、ああああよ。貴方は今日誕生日を迎え、晴れて成人となりました。今こそ旅立つ時! さあ、行くのです。王のところへ!」
この母上様は、朝からテンション高くて付いていけない。
こっちは転生したばかりで、この世界の状況も全く把握できていないのに、旅立てとか王のところへ行けとか言われても困ります。
「あ、あのぉ……旅に出て何をすればいいんですか? それに王様ってどこにいるんですか?」
「聞きなさい、ああああよ。貴方は今日誕生日を迎え、晴れて成人となりました。今こそ旅立つ時! さあ、行くのです、王のところへ!」
この人、同じ事二回繰り返したぞ。
決まった台詞しか言えないNPCなんですか?
「一発じゃ足りませんでしたか? 我が息子ながら欲しがりさんですね。もう二・三発食らわせてあげましょうか?」
「全力で遠慮致します!」
「我が息子ながら情けないですね。忘れたフリしても無駄ですからね。貴方が今日旅立つことは決定事項よ。我が家の家計は火の車なのです。これ以上貴方を養うことはできません。貴方が家を出た後、この部屋に住む下宿人はもう決まっているんですからね。掃除とかこの後やることがあるんだから、さっさとして頂戴!」
何だよぉおお。食い扶持を減らす為に、追い出される感じじゃないですかぁああ。先輩の為にも、冒険をしないと物語にならないから、旅立つ必要はあるけど、追い出されるようにして旅に出るなんてあんまりだよぉおお。
「いい? 着替えたら降りてくるのよ。そこに最後の朝食が用意してありますからね。それを食べたら王城へ行くのよ。王城は、家を出たら右に進んで、突き当たったところを左に行って、武器屋を通り過ぎて最初の分かれ道を右に真っ直ぐ行けば城ですからね。知らないフリしても無駄ですよ! 服はタンスに入ってますからね!」
最後の朝食って、なんだか悲しい。
どうしても早く家を出て欲しいみたいだなこの人。
マイゴッドマザーは言うだけ言って、部屋を出ていった。
階段を下る音が聞こえて、それも聞こえなくなると、この世界で初めての静寂が訪れた。
「服はタンスの中って言ってたな」
ベッドから起き上がり、タンスを開けてみた。
服が一着しかない。母親の服と比べれば、ほつれが少なくて痛みもあまりないが、似たような質の服だった。
RPGで言うなら、『ああああは、ぬののふくを装備した』と言ったところか。
しかし、部屋には物が何もないな。
あるのはせいぜい、一輪挿しの花瓶と、そこに挿された花びらが一枚しか残っていない一輪の花だ。
次の下宿人とやらのために片づけられたのか、最初から何もなかったのか。どっちかは分からないけど、最後の朝食を頂戴するために、部屋をでた。
その時、最後の花びらも散ってしまっていた。
階段を降りると、右手にテーブルがあった。そこには薄汚れたランチョンマットの上に、木皿とスプーンが置かれていた。これが最後の朝食か。
僕はテーブルに座り、スプーンを握った。
木皿にはシチューのようにとろみのあるスープと、中に芋やら何やら野菜がいくつか浮いていた。
スプーンで掬って一口食べた。クリーミーな味わいがあったが、薄口である。中の野菜も食べたが、良く言えば素材を活かした味だった。
お腹は空いていたので、味については考えず、一気に口の中へかき込んだ。
一応は腹が満たされた。
食後に一息つこうと思ったが、背後に漂う異様な気配を感じた。
「おおっ、愛しい我が息子よ。ついに旅立ってしまうのですね。数年前に父が旅立って以来、母子二人睦まじく暮らして来ましたが、とうとう私一人が取り残されてしまうのですね。母は悲しいです。ですが、涙は見せません。もし旅先で父の『ちちちち』に出会ったなら、母は元気だと伝えてください。さあ、息子よ、王の下へゆくのです!!」
あ、これ、さっさと行けってことですか。
食後の一休みくらいさせて欲しいのだけれども、もう家を出るしかないんですね。先輩がつけた僕の名前もだけど、父親の名前が『ちちちち』って適当過ぎでしょう。父の名前も先輩決めたんですか?
こうなってくると、母親の名前も気になる。
もしかして『はははは』だったりするのだろうか。
どうしよう、ちょっと聞いてみたくなった。
「あのぉ、息子が母親にこんなことを聞くのも変ですが、母上様の名前ってなんでしたっけ?」
「おおっ、愛しい我が息子よ。ついに旅立ってしまうのですね。数年前に父が旅立って以来、母子二人睦まじく暮らして来ましたが、とうとう私一人が」
「わかりました、行ってきます! 大人しく旅に出るので、同じ台詞言うのは、もう止めてぇええ!」