あなたの中の私、私の中のあなた
私が彼に出会ったのは中学一年生の時だった。彼はその時点で既に背が高く、野球をしており、一年生の時点で二年後の主将だと言われていた。それだけではない。成績でも学年で一番だった。
彼の周りには女の子だけでなく、男の子も群がっており、それは眩しすぎる夏の太陽の様だった。クラスの中にいるのかどうかも分からない自分とは大違いだ。
私が彼と初めて言葉を交わしたのは、ボランティアで行った病院だった。私は中学校三年生になっており、部員が三人しかいないボランティア部の部長だった。最も私がボランティア部に所属したのは、何の取り柄もない私が少しでも内申点を良くする為で、それ以上でもそれ以下でも無かった。
その日は病院にいる子供達に対して、とても出来の良いとはいえない紙芝居を見せるためだった。もちろんそれを見せる相手は未就学児、大きくても低学年の子供達までだ。私はそこに車椅子姿の彼がいるのに驚いた。
「別に年齢制限があるとは書いてなかったぞ」
それが彼が私に初めて声をかけてくれた言葉だ。私が出来た事は、ただ、「そうですね。」と答えただけだった。彼は二年生でエースかつ4番で臨んだ大会で、一塁にヘッドスライディングをした時に腰を痛めていた。
本人としてはそれを行ったこと自体は、自分が最後のランラーにならない為のささやかな矜恃だったのだろう。だけどそれが引き起こした結果はとても悲劇的だった。彼の下半身は二度と彼の意のままに動くことはなかったのだ。
二年生になって彼と違うクラスだった私は、彼の噂話をする女子生徒からその話を耳にした。なんてことだろう。その時は単にそう思っただけだった。
だが彼がこうして自分の前に表した姿を見ると、彼が一年生だった時の日の光の様な眩しさはどこにもなかった。その目は暗く落ち込み、彼の車椅子を押す母親に向かって悪態のかぎりを尽くしているだけだった。
どうやら彼の両親は彼のために様々な事をしたらしい。ラドンが効くと聞けば、キャンピングカーを買って彼をその地まで連れていき、それが彼には何の効果が無いことが分かるまでそれに望みをかけた。
私から見たら、彼に向かって精一杯の努力と愛情を傾けている両親に向かって、ひたすらに当たり散らしている彼の姿はただただ痛々しいだけだった。
私は見てはいけないものを見てしまったのだろうか?その日、私は彼の姿を思い出すと、明け方まで眠りに着くことが出来なかった。
ボランティア部での活動が認められたかどうかは分からないが、私は推薦でそこそこ名の通った高校へと進学することができた。これと言って何の取り柄もない私は高校に上がると、再びボランティア部に所属していた。他にすることが無かったからだ。
私が通っていた高校の校長の同級生がやっているという病院にとって、私達ボランティア部はいい手伝い役だった。中学校の時と同様に、私達はそこの老人達にささやかな劇や歌を披露し、子供達に紙芝居や絵本を読んでやった。
そして私が何度目かにその病院を訪れると、車椅子の老人達に混じって彼がいた。どうやら前より大きなこの病院で、何度目かの腰の手術を受けたらしかった。
彼の母親は今度受験を迎える彼の妹に忙しいのか、以前に私が病院にボランティアに来ていた時に比べると、その姿を見かけることはとても少なかった。
「相変わらずの偽善か?」
彼は私に問いただした。その通りだ。私は高校に入れた時のように、ボランティア部に所属することが、次の受験で何か役に立ってくれることだけを期待してここにいる。だけど私は彼と言葉を交わせたことが、今度はなぜかとても嬉しかった。
中学校一年生の教室ではとても遠い存在に思えた彼が、少しだけ自分の身近に感じられたのだ。同じ様に車椅子を押しても、彼の車椅子と老人達や子供達の車椅子は違う。
私にとって子供達は病気のかわいそうな子供達であり、老人達は話し相手がいない孤独なかわいそうな老人である。そこには私にとっての何かがある訳では無い。だけど私にとっては彼は名前を持った一人の人だった。
「そうですね」
私は彼に答えた。
「もう桜は散ったのかな?」
「えっ?」
「この病院の病室の窓からは桜が一本も見えないんだ。」
彼が予想外の言葉を私に投げかけた。もうゴールデンウイークも過ぎて5月の終わりに近い。桜の季節など遥か前に終わっている。
「この先の公園の桜はだいぶ前に散ってしまいました。今は緑の葉っぱが一杯ですよ。」
「緑か?その色も忘れたよ」
そう告げた彼が私の方を見上げる。
「そこまで連れて行ってくれないか?」
一瞬彼が何を言っているのか私には分からなかった。だが次の瞬間に、彼が私にお願いをしていることに気がついた。あの彼が私を頼っている。私は心の中に今までに感じたことがない感情が湧き上がるのを感じた。
「はい」
私は彼に頷いた。それから一体どれだけの時間が過ぎただろう。それは決して長い時間ではない。彼の手が私のお腹の上に乗っていて、その中で動く小さな命を感じ取ろうとしていた。私の中には彼の半分と私の半分からできた命が日々成長している。そして私の体はそれを日々感じ取っていた。
私が彼の子供を宿すことについて、私の両親はもちろん、彼の両親さえも反対した。彼の下半身が彼の意のままにならなくても、そこから精子を取り出して私が彼の子を授かることは出来る。
皆はそれは全て私の一時の気の迷いで、彼への愛情ではなく慈悲によるものだと判断していた。みんなが「それは一時の愛情だけで背負うには大きすぎる。」と私に告げるのを、私は当惑しながら聞いていた。
ならば愛情というのは一体何なのだろう。だけどそれが何かを誰も私には示してはくれなかった。正直なところ、それが何なのかは私にも分からない。
だけど「人」という字が表している通りに、人が誰かに頼らないと生きていけないのと同じ様に、人は誰かから必要とされないと生きてはいけない。
「トク、トク、トク」
彼が自分の指先に感じている鼓動を私に伝える。私も彼の手に自分の掌を重ねた。私は彼の半分の中で生きている。そして今は彼の半分も、私のお腹の中で日々に命を育んでいるのだ。