表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/4

Aシートの死者

西日本には、特急よりも早い「新快速」という特別快速列車があります。


「まったく、悪いとこに乗り合わせたもんやな、この分じゃ当分解放されへんで……」

 羽織の袂へ両の手をひっこめ、肩をすぼめたまま、鴨川浮音は秋雨の降りしきる頭上を仰ぎ、錆の浮いたプラットホームの屋根からつたう雨だれを、渋い顔をして睨んでいた。十月上旬、とうに日の落ちた六時過ぎの、通勤ラッシュの只中にある京都駅での一コマである。

「――鴨川クン、状況は実に、我々に不利ですヨ……」

「いや、そうでもなさそうや。見てみ、あのいかついツラの……」

 胴回りのやたらに太いトレンチコートを、ウールの背広の上へ着込んだ社会学部生の知人・東野英二がロイド眼鏡越しにまぶたをパチクリさせると、浮音はこちらへ近寄ってくる見知った顔に、心地よい安心感を覚えた。長い年月で角の取れた、プラットホームへの階段を降りてくるのは懇意の刑事、府警本部勤務の牛村警部であった――。

「――よお、鴨川の。ずいぶん耳が早いじゃないか」

 事件をかぎつけたと思い込んだ牛村警部が、鋭い両の目に上に躍る毛虫のような太い眉をひくつかせながら尋ねると、浮音はカブリを振って、

「あいにくと、今度ばかりは僕も被害者でしてなあ。しかも、ちょうど事件のあったAシートへ乗ってたっちゅうフロクつき……」

「なんだって。――詳しく聞かせてもらえるか」

 身を乗り出し、背広のポケットから手帖をのぞかせる牛村警部に、浮音は浮かない顔をしながら、今しがた自分たちの身に降りかかったある出来事を、ホームの柱に背を預けながら話すのだった。


 少し前、ある些細な事件を解決した折に依頼人から人形浄瑠璃の切符をプレゼントされた浮音は、さっそくその週の土曜日、同居人にして友人の佐原有作を連れ、日本橋の文楽座へと「義経千本桜 渡海屋の段」を見に出かけることと決めた。ところがその前日になって、有作の親類に不幸があり、あまり面識はないものの、出張中の父親の代わりに葬儀へ参列すべく、有作は最終の列車で郷里の新潟へと帰ることになってしまった。

 これではせっかくの切符がフイになってしまう。そう考えた浮音は、以前ある事件の捜査にも協力をしてくれた、酒豪で通人、鉄道マニアの大学生・東野英二青年に事情を打ち明け、一緒に文楽見物にでも出かけないか、と、電話越しに持ち掛けた。すると、

「ちょうどいい、ボクは予定がつぶれて、ヒマな土曜日を迎えることになりそうだったんデスヨ。渡海屋見物、ぜひともご相伴に預かりまショ……」

 と、このような具合にしてお互いの事情が合致した二人は、翌朝に阪急の河原町駅で待ち合わせ、十時ちょうどの特急で大阪目指して芝居見物へ繰り出したのだった。その余韻冷めやらぬ帰り道、来た道の通りに夕闇迫る梅田から阪急で戻ろうとする段になって、東野がふと、こんなことを言いだしたのである。

「鴨川クン、あなた『Aシート』ってご存じ?」

 聞きなれない名前に浮音が首を振ると、東野はラクダ色のソフト帽を直してから、眼前に広がる、大阪駅のガラス張りの巨大な壁面を指さし、つらつらと話を始めた。

「『Aシート』というのはですネ、JRが今度はじめた、新快速の有料座席車なんですヨ。コンセントのついたリクライニングシートにもたれて、専用のWi-Fiでのんびりネットサーフィンしながら、ゆったりと京阪神の移動を楽しむ……と、こういうわけでして」

 説明が終わったころには、二人はすでに、大阪駅前のバスターミナルをかすめ、改札口まであと数歩、というところまで迫っていた。

「なんや、京阪特急のプレミアムカーの二番煎じやないか。別に目新しくもないやろ」

「まアまア、そう仰らず。ボクはさきのダイヤ改正の折に友達と乗ったンですがネ、なかなかどうして、これが上等なんですヨ……」

「ほう、ほかならぬ鉄道マニアの東野くんが言うんなら……間違いなさそやな」

 東野が巨体をゆらし、ジェスチャーを交えて語るのに興味を覚えた浮音は、口元へにやりとした笑みを浮かべ、のったで、と、指でオーケーサインを作って見せる。

「――じゃ、そうなれば話は早いですネ。実はぼちぼち、発車の時間が迫ってるんですヨ」

「おやっ、そいつはあかんな。乗り逃したら明日まで待たんとあかん……」

 冗談をひとつ飛ばすと、浮音と東野は頭上の電光掲示板へ目をやりながら、いそいそと改札へ駆け出すのだった。

 京阪神をかけぬけるJRの駿馬、新快速は西日本独自の車両種別で、これに似たようなものはほかの地方には存在しない。明治以来、並走する各私鉄の無料特急と熾烈な競争を繰り広げてきたJR――その当時はまだ国鉄だったが――が、関西特有の鉄道事情を鑑みて投入した、一種の最終兵器なわけである。

 そんな新快速のさらなる利便性向上を狙い、先ごろのダイヤ改正で登場したのが有料座席「Aシート」を搭載した特別車両であった。乗車料金とは別に、座席料の五百円を払って席に着き、ゆったりとくつろげて車窓を眺める――というのが「Aシート」の売りで、サービス開始以来、慌しいビジネスマンや悠々と旅行を楽しむ内外の観光客で、「Aシート」は押すな押すなの大繁盛であった。

 運よく、その日は大繁盛のタネになっている客層は居らず、浮音と東野は悠々たる足取りで、がら空きになっている午後五時一五分発の新快速の九号車へと乗りこみ、左側のシートへ揃って座を占めたのだった。

「すいません、京都まで二人分。――不思議だなァ、今日はいやに空いてますヨ」

「ま、そういう日もあるんやろぉ。おかげでゆったり、京都まで帰れそうやない……」

 通りがかった車掌へ千円札を渡し、乗車整理券を受け取る東野は、いつになく空いている車内をいぶかしんだが、浮音の言葉通りだと感じたのか、それもそうですネ、と言うなり、座席に据え付けられたチケットホルダーへ差した整理券を眺めながら、東野は小さな子供のように、今か今かと発車を待つのだった。

 やがて、けたたましい発車のチャイムに急かされ、十二両建ての新快速がのそりと、大阪駅の構内を滑り出した。山陽、山陰、あるいは北陸、東海道……。様々な方面へ急ぐ特急、普通、貨物列車の一時停車している横を悠々とかすめ、新快速はメロディホーンもたからかに、夕闇に溶け行く、梅田のビルの谷間を駆け抜けてゆく――。

 ある週末の、夜へ近づく一コマである。

 そこから先の道中は実にのどかなものであった。新大阪ででっぷりと太った夫婦と、製薬会社のマークが入った鞄を携えた、華奢な体格のセールスレディが乗ったほかは、この小さな空間には誰も乗りこもうとせず、足元から伝ってくるモーターの音、風の音、空調の音だけが九号車の中を支配していた。

 ――浄瑠璃見物、中々のもんやったなあ。

 「渡海屋の段」の情景を思い浮かべながら、浮音はセールスレディが配った、ノンカフェインだという栄養ドリンクをなめ、ぼうっと車窓を眺めていた。夏場に時折見かける、回り灯篭のような具合で流れる景色は、悪天候でさえなければ、格別のものだっただろう。

「鴨川クン、瓶のほうは回収してくださるそうですヨ。どうします?」

 東野の声に振り向くと、そこには先刻のセールスレディが、彼の手から空き瓶を受け取っているところだったが、まだ半分も口にしていなかった浮音はそれを断り、リクライニングを目いっぱい後ろへとおろしてから、軽く伸びをし、うつらうつらと眠りの海へ船をこぎだすのだった。

 客足まばらな「Aシート」付の新快速は、ぽつぽつと散りだした夕立の中を一路、高槻目指してその速力を増しつつあった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ