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2019年/短編まとめ

三月の二人はアイに触れる

作者: 文崎 美生

桜の季節が近付いている。

雪が溶け、日の出ている時間が長くなり、厚手のコートを薄手に変え、ブーツを仕舞い込んだ。

季節はすっかり、春に移り変わっている。


葉が色付き始めた桜の木は、今年も学校の正門を潜った先に並び立ち、硬い蕾を綻ばせる日を待っていた。

上ばかり向いて歩いていたが、視線を前へ向ければ、見覚えのある背中が小さく揺れている。

歩く速度に合わせてゆらゆら、足取りが覚束無い、と言うよりは、歩幅が小さい。

はて、首を捻り、足音を消して距離を詰める。


「……みゅ?……ミュシャ、か」


どちらかと言えば悪い方に入る視力の目を細め、背後から開かれている本を見た。

開かれた本の右上と左上に小さく書かれたタイトルを確認し、声に出して再確認する。

すると、本の持ち主は「わっ!」と驚嘆の声を上げ、ボクを振り向いて「ビックリした……」と安堵の息を吐く。


ずり落ちた眼鏡を押し上げる本の持ち主――崎代(サキシロ)くんは、ボクの姿を確認すると「珍しいね、(サク)ちゃん」と小さく微笑む。

ボクは言っている意味が分からずに、眉を寄せた。


「何が?」

「俺の読んでる本に、興味示すの」

「そう?」


ボクは首を捻る。

ボクも崎代くんも、揃って正門から生徒玄関までの中途半端な場所で足を止めた。

未だ、登校時間には早過ぎる――しかし、確実に玄関の開いた、運動部が朝練に勤しむ時間で、ボク達以外には、誰もいない。

だからこそ、ボクはそのまま「ただ、今回は、コレ……」と目を眇め、見詰め「ちょっと良い?」と開きっ放しの本を受け取る。


表紙を見れば、大きく女性の横顔が描かれ、画家の名前と共に作品集という文字が並ぶ。

パラパラと捲っていけば温かみのある色味の絵が並び、いつもの手に馴染む本とは大きな違いを感じる。

小説と画集では、使っている紙質も違うのだから、当然と言えば当然だ。


「嗚呼、やっぱりコレ、この人の絵」

「あれ?知ってるの?」


パタン、と本を閉じる。

顔を上げれば崎代くんはボクを見て、首を傾けて見せた。

ボクは嗚呼、とか、うん、とか曖昧に頷いて「『椿姫』の人でしょう」と本を返す。

本を受け取ったものの、崎代くんは更に首を傾ける。


「……えっと、小説も出てるけど、元はオペラかな」

「オペラ?作ちゃん、オペラも見るの?」

「うん。だって、物語でしょう」


画集の表紙を撫でながら、崎代くんが聞くので、ボクは素直に頷いた。

純文学からライトノベルまで、色々なジャンルを読む為にどちらかと言えば乱読タイプで、それに合わせて物語が存在すれば邦画も洋画も、落語も歌舞伎も、ソシャゲだってやれば、オペラも見る。

偏りのある多趣味として、楽しんでいるが。


崎代くんは、赤い縁眼鏡の奥で目を丸めている。

黙ってしまったので、ボクも一度は黙ったが「まぁ、それは良いよ」と告げた。

崎代くんも「そうだね」と頷く。


「それで、この人『椿姫』のポスター描いてるんだよ」

「へぇ!そうなんだ」

「うん、栞持ってるよ」


通学途中にダラダラと歩きながら読んでいた本を掲げれば、崎代くんは興味深げに前のめりになる。

しかし、本には黒いカバーを付けているので、どんな本なのかは分からないだろうが、有名な純文学だ。

ボクはカバーを外すでは無く、本を開き、中に挟んでいた栞を抜き取る。

はい、とそれを手渡せば、崎代くんはパッと彩度を上げたような笑みを浮かべた。


「あっ!本当だ!俺、これ知ってる」


嬉しそうな声を聞きながら「絵より用途で覚えてるか、用途よりも絵そのもので覚えてるかだよね」と告げた。

耳に椿の花を飾った横向きの女性が描かれた栞、白いドレスの美しさに目を奪われ、全面を見れば左下の方には白い手が椿の花を持っているデザインは、確かに『椿姫』だと思う。


「そうだねぇ。見てる視点が違うんだね」

「同じものを見ているのに、面白い事だね」

「俺は絵で、作ちゃんはお話かぁ」


控えめに、ふふ、と笑う崎代くんの目尻は完全に下がり切っていた。

物語から知った絵――宣伝用のポスターだったが、存外にその絵は気に入っている。

それ故に「……小説の表紙にならなかったのが残念だね」と、心底思う。

すると、崎代くんは直ぐに顔を上げた。


「栞にはなったのに?」

「いや、それは貰い物だから……」


くるくると栞が表を向いたり裏を向いたり。


「どっちかって言うと『椿姫』じゃなくて、ミュシャグッズじゃないかな」


生憎、画家には詳しく無かった。

例えば、有名な絵画を前にしてこれは知っていると、タイトルを言えたとして、画家の名前はフルネームで言うとが出来ない。

その程度の知識しか無いのだ。

故に、自信は無かったが、崎代くんも「それもあるかも」そう言って頷く。


「でも、いいね。俺もミュシャ好きなんだけど、美術部メンバー以外ではあんまり知ってる人いないからなぁ」


はい、と栞を返してくれながら、崎代くんが言う。

ボクもさして詳しくは無いのだが。

受け取ろうとした時、春特有の甘い香りを孕んだ風が強く吹き、未だ蕾の綻ばない桜の木を揺らす。

葉が擦れ合う音が大きく響き、ボクも崎代くんも手を止めた。


ふと、視線を何処かへ飛ばしたのは崎代くんの方だ。

栞を受け取れずに、ボクも視線を追う。

崎代くんは、揺れたばかりの桜の木を見ていた。

どうしたの、そう問うよりも先に崎代くんが「……今年も」と呟く。


「……今年も、掘るの?」


ボクは一瞬、眉を寄せたが、直ぐに思い当たる点があり、問い掛けに問い掛けを返す。


「桜の木の下を?」


持っていた本を握る手に力が入る。

崎代くんはそれに気付く事無く、薄い青の空と薄い緑の葉を見つめていた。

冬終わりの春、彩度は未だ未だ低い。

気温に良く似た、穏やかな色味だ。


「うん。それで、埋まるのかなって」

「そうだね。悪くは無いけれど」

「けど?」


赤とオレンジが渦を巻いた、今朝方見た朝焼けのような瞳がボクを映す。

キョトン、と効果音の付きそうな顔。

瞬きをすれば存外に長い睫毛が細かく揺れる。

去年の四月、ボクはこの辺りの桜の木が、その蕾を開き、満開の花を見せた時に、その根元を掘り起こした。

普通に見れば、奇行そのもの。

しかし、ボクは真面目だった。


単純な話だ。

今ボクが持っている『檸檬』というタイトルの小説に、その答えとも言えるものが存在し、有名なあの一節『櫻の樹の下には屍体が埋まっている』こそが、最も分かり易い答えになる。

結局、死体は出て来ず、何なら埋まってみたところで死体になれるはずも無く、翌日には運動不足の体に残ったのは筋肉痛だけだった。

思い返すと節々が痛む。


「普通に掘るのが大変なんだよね。それに、今度は埋めなきゃ怒られる」

「あぁ……それは……」


去年は掘った穴をそのままにして、七不思議に数えられる程に尾鰭背鰭の付いた噂になり、察した幼馴染みに小一時間はお説教をされた。

次に同じ事があれば、拳骨の一発は覚悟をしなくてはいけない事だろう。


ゾッ、としなくも無いが、切り替えるように、そうだね、と本を持っていない、栞を受け取っていない手で顎を撫でる。

「寧ろ、そうだね」そう言って頷けば、崎代くんは瞬きを一つして先を促す。


「椿の花が欲しかったかな」

「椿?」


薄く笑みを乗せて崎代くんを見れば、崎代くんは心底分からん、と言いたげな表情を作る。

ボクは笑い声を上げそうになりながらも「そう」と頷いて続けた。


「そして約束するの」

「約束……」

「この花が萎れる頃に、って」

「……」


崎代くんは表情を掻き消し、何とも形容し難い顔付きでボクを見た。

この花が、と言いながら崎代くんの手ごと包んだ栞を抜き取り、ハッとした表情を見ながら「まぁ、言うのは男の方なんだけど」ととうとう笑う。

間の抜けた声を出した崎代くんを前に、つい、笑い声も大きくなる。


「それで、何度でも愛してるって言ってくれる」

「え」

「『椿姫』の最初の方のストーリーなんだけど」

「え。あ……小説の内容?!」


間の抜けた声を何度も上げて、最終的には、ハッとして声を荒らげた崎代くん。

堪らなくなってお腹を抱えてしまう。

「桜の木の下の話だって、小説でしょう」と言い「寧ろ何だと思ったの」と突っついてやる。


「えっと、なんて言うか」

「うん」

「純粋に椿の花が欲しいのかなって……」

「欲しいって言ったら、くれたの?」

「あげたいなぁ、とは、思うけど……」


もにゅ、と唇が歪む。

ボクは黙って崎代くんを見たが、静かに目を逸らされてしまい、また、笑い声を漏らす。

目の前で頭を抱える姿を見ては、笑っては失礼だと思うのだが、如何せん、態度がどうにもこうにも、からかいたくなるような空気を纏う。


「ごめんごめん」


息を吐きながら、笑いを抑え、持ったままの栞を本の間に滑り込ませる。

崎代くんは僅かに眉を寄せたままだが、うん、と小さく相槌を打った。

それを見て「それに」と続ける。


「『椿姫』は悲恋だからね」

「悲恋……。悲しいのは、なぁ……」


目に見えてシュンとした崎代くん。

「幸せな終わりだと、俺は嬉しいなぁ……」と、崎代くんは自分の足元を見詰めた。

それを前にボクは、そうでしょう、と思う。


「崎代くんは、アルフレードには成れないし、成らなくて良いよ」

「あ。アルフレードって言うんだ」

「そうだよ。崎代くんには似合わないし、崎代くんは優しいから」


ボクは肩に引っ掛けた鞄を下ろし、その中に本を入れる。

授業道具の殆どを机に入れっぱなしにしている為に、鞄は今日も今日とて薄っぺらく軽かった。

チャックを閉めようとしたところで「そんなこと、ないよ」と言う崎代くん。

視線を上げて見れば、眉が八の字になっていた。


「そう?特にボクには甘いからなぁ」

「……それは、まぁ、否定出来ないけど」

「そうだろうそうだろう」


ボクは得意気に頷いて見せる。


「それに、ボクもヴィオレッタって柄じゃ無い」

「女の人はヴィオレッタっていうんだ」

「そ。生憎、ボクは病死する予定じゃ無いからね」

「……自殺したいんだもんねぇ」


去年の四月、桜の木の下で、桜の養分になって死ぬのはというような話をした事を思い出したのか、崎代くんの視線はまた、桜の木へ向かう。

だが、ボクは気にせずに頷き、生き様も死に様も紛れも無くボクのものであり、ボクが決めるものだと告げる。


残念ながら、崎代くんはどちらかと言えば病死の方が健全だと思うようで、そのような事を言われた。

しかし、ボクも健全な思考も持ち合わせているので、そりゃそうだ、と頷く事も出来る。


「まぁ、ボクの死亡予定は置いといて」


シャッ、と音を立てて鞄のチャックを閉める。

ボクの方を向き直った崎代くんは、画集を抱えて「うん?そろそろ、教室行く?」と問い掛けた。

ボクは即答で「行く」と答え、しかし、そうじゃない、と直ぐに首を横に振る。

崎代くんは不思議そうにボクを見て、ずり落ちる眼鏡を押し上げた。


「そうじゃなくてさ」

「うん」

「今度『椿姫』プレゼントするよ」

「え。俺でも読めるかな?」

「日本語が読めるなら」


不安そうに顔を顰めた崎代くんに、頷いてから答えれば、一変させてホッとしたように笑う。


「良かった」

「勿論、本家が良いなら取り寄せるけど」

「日本語で大丈夫でーす」


目の前で右手が小さく揺らされる。

仮に日本語以外で書かれた本を持って来ても、崎代くんはきっと調べに調べて読めるようにするのだろう。

辞書と睨み合う崎代くんを、思いの外、簡単に思い浮かべる事が出来た。


「素直なのは、良い事だよね。じゃあ、行こうか」


手を差し出せば、崎代くんの目が、今日一番に見開かれる。

赤とオレンジの混ざり合う瞳が丸々と、ビー玉のようだと思う。

え、とか、あ、とか母音を漏らしながらも、結局は「うん……行こうか」と素直に手を取るのだから、やはり、素直が一番である。


控えめに添えられる手を緩く振りながら、件の『椿姫』のラストを思い浮かべた。

自身の肖像画を、アルフレードに渡して次に想う人が現れたら渡せと告げたヴィオレッタ。

アルフレードを崎代くんとして、ヴィオレッタをボクとして、ボクは絶対に有り得ないな、と思う。


硬い蕾を急かすように、風が吹く。

ボクなら、肖像画を燃やし、アルフレードに満面の笑みを向けてやると思った。

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