第5話 初恋クレイジー
「失礼しまーす」
ガラガラッと保健室の扉を開けると、僅かに煙草の匂いがした。換気はしているんだろうが完全ではないらしい。
(教頭に怒られても知らねーぞ…)
当の保健室の主は、生徒が入ってきたにも関わらず、のんびり眼鏡を拭いている。呆れながらも俺は養護教諭の机の前に置かれた丸椅子にどっかりと座った。
「おう、どうしたこんな時間に」
吾郷先生が眼鏡をカチャリとかけなおしながら振り向く。
「先生、どうやら俺……不治の病にかかったらしいんだ」
「………頭打ったか?」
確かに部活の練習中に顔面ボール喰らって倒れたけど。頭もぶつけたけど。
「ま、いいや。ここに名前書いとけ。
名簿が挟まれたクリップボードを渡され、さらさらと書く。うーん、上出来。
「アホか、誰が芸能人みたいなサインにしろっつった!
……えーっと、何…すがいきし?」
「菅井騎士だよ」
言われて吾郷先生がサインを二度見する。
「何だ、今流行りのキラキラネームってやつか」
「人の事言えんのかよ?先生の名前の方が読み方分かんねーよ」
保健室入り口のネームプレートを思い出す。「吾郷」も大概珍しい部類だったが、下の名前はさらに難解だった気がする。
「ふん、不治の病の割には元気そうじゃねえか。バスケやってんだろ?」
そう言って俺の着ているユニフォームをじろっと見やる。
「別にバスケ部に入部してるわけじゃなくて、ただの助っ人だよ。不治の病はそれとは……ゲホッ」
鼻に違和感を感じて咳をすると、手には点々と赤い水滴が…
「うわっ、吐血した!!死ぬ、死ぬ!!」
「バーカ、そりゃ鼻血だよ……コブできてんな」
先生はティッシュを無理やり俺の鼻に突っ込むと下を向けさせ、後頭部を確かめる。そして席を立つと、氷嚢を用意し始めた。
「で?コートのど真ん中でボーッと突っ立ってボールぶつけられたのも、その不治の病とやらのせいか?」
いきなり見透かされ、俺はドキリとして立ち上がった。
「先生、エスパーか?俺が練習中に心あらずだったってわかるなんて!」
「いや…お前の有り様を見たら想像つくだろ」
「そうなんだ、あれから俺は恋という病にかかってしまったんだ!!」
ここ最近のもやもやを吐き出す俺を、唖然としながらも見ていた吾郷先生は、「まあ座れ」と俺を椅子に座らせると、頭に氷嚢を押し当てた。ズキズキする。
「先生、聞いてくれるか?俺はある女の子の事が、頭から離れないんだ。これって恋だよな?」
「よく分かんねえけど、そうじゃないのか?」
「だよなぁ!?その子、うちの学校の子じゃない…と言うか年下なんだけど、すっごく可愛いんだ。でもアイドル的な可愛さじゃなくて素朴な、誰かの姉ちゃんとか妹的な、微妙に親しい関係にいそうな可愛さと言うか」
「幼馴染み、みたいな?」
「そう、それ!でも気軽に声かけられるような立ち位置じゃなくてさあ。芸能人ってわけじゃないんだけど……先生、ユーチューバーって知ってる?」
「たまにTVで見るな……その子、ユーチューバーなのか」
「そう。いや、普段は顔出ししないんだけど、この間彼女が撮った動画で一瞬、素顔が出てたんだよ。それから俺………何しても彼女の事ばっかり考えちゃってさー」
「ふーん」
生徒の真剣な悩みに適当な返事を寄越す吾郷先生にムッとなり、文句を言おうと顔を上げたその時。
「にゃー」
保健室の開けられた窓の向こう側、塀の上を野良猫がとてとてと歩いていく。
「あ……あああ!!!」
「うっせー!」
ビシッ
思わず立ち上がった俺の頭を、氷嚢で殴られた。痛い。
「先生、あいつだよあいつ!ほら、窓の外!!」
「へ……猫??猫がどうした」
「彼女が撮ってる写真に、あの猫が映ってた!!あの子、この辺に住んでるんだよ!!」
指さして喚く俺にビビッたのか、猫は塀からひょいと飛び降りて行ってしまった。
「……ああいう猫なんて、どこにでもいるんじゃねーの?」
「いや、あんなふてぶてしくて目付きの悪い猫なんてそういねぇよ!!」
お気に入りの猫なのか、俺の暴言に吾郷先生は眉根を寄せた。
「そうかね……少なくとも汗臭い男子高校生よりは可愛いよ。
ほれ、腫れが引いたら帰った帰った」
にべもなく追い出そうとする吾郷先生に入り口を指さされ、
「絶対あの猫だと思うんだけどなぁ…」
と窓の外を振り返っていた俺は、ふと、近くの机の上にある物に気付く。
飲みかけの赤い紅茶缶。
(あの、紅茶だ)
彼女が好きだと言っていた「グレートアフタヌーン」のストレートティー。あの動画でも、彼女の勉強机に置かれていた。
(………あれ?)
ふと、何かが引っかかるような気がした。
「先生、この紅茶…」
「何だ?そこの自販機で買ったんだよ、お前も見た事あるだろ」
「あるけど…」
この間、自分も同じ物を買った。この学校備え付けの自販機で。
(けど……見かけた事がないんだ、学校の外では)
商品としては、コンビニでも売っている。ただしペットボトルとして。こんな、缶という状態は学校でしか入手できないのだ。
彼女は、祟堂レイはこの学校の生徒なのか?いや、でも……
「おいっ!!」
怒号と共に、気付けば飲もうとしていた缶を引っ手繰られる。直前に、きつい吸い殻の匂いがした。どうやら飲み終わった後、灰皿として使っていたようだ。…何てヤツだ。
「何やってんだ、飲みたきゃ自販機で買えよ!」
「先生…スドウレイって子、この学校にいない?」
人の話聞けよ…と溜め息を吐きながらも、吾郷先生は頭をガリガリ掻いた。
「そいつがお前の言う、ユーチューバーなのか?俺はおっさんだから、ネットはちょっとな…」
肩を竦める先生に、俺の視線は机の上に戻された缶に行く。
「俺のこの気持ちって、恋なのかな…?」
「よく分かんねえけど」
吾郷先生の眼鏡が反射し、表情が見えなくなる。
ただ、淡々と答えられた。
「ネットアイドルなんだろ?麻疹みたいなもんだよ」