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蜉蝣の家  作者: 識島果
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レヴィンの手紙・5

 

「私がいなくなって、両親がひどく心配したのか、それとも厄介払いできたと内心喜んだのかは分かりません。まあ、でも、きっとばあやとナイジェルは馘になったでしょうね。確かなことがひとつだけあるとすれば、私は残していった彼らのことをまったく気にかけなかったということです。


 あのあと私は、リカードと共に長いこと列車——当時はまだ国鉄どころか、その前身たるビッグ・フォーもまだありませんでしたが——に揺られることになりました。狭いコンパートメント車に乗って移動している間、リカードは特別私に構うようなことはありませんでしたが、途中でチョコレートと紙ハンケチの包みをくれたことだけはよく覚えています。

 リカードのくれたチョコレート!

 きみはチョコレートが好きでしたっけ。今は随分と美味しいチョコレートが手軽に手に入る時代ですけれど、この頃はまだそうではありませんでした。きみは知らないでしょう、これ以前にはまだチョコレートは飲み物として扱われることの方が普通だったのです。時は十九世紀……四大技術革命を経て、漸くチョコレートは家族的な小企業や職人による生産から大企業による工場での大量生産へと移行していったところでした。キャドバリー社、ロウントリー社などといった大チョコレート企業が誕生し、漸く一般市民の手に届くようになったばかり、そういう時代の話です。リカードがくれたものは、かつて両親が持ってきてくれた高価なチョコレートよりずっと粗悪な品でしたが、それでも今までに食べたどんなお菓子よりも美味しく感じました。

 私が時間を掛けてチョコレートを食べる間、リカードはじっと頬杖をついて私を見つめていました。彼のようなうつくしい男が長い脚を組んで座る様子は絵になっていましたが、私はなんだか妙な感じがしました。というのも、日の光の中で見るリカードの姿はまるきり普通の人間のように見えて、私が彼に抱いていた印象——一種悪魔的な妖しさがまったく感じられなかったからです。彼の繊細な睫毛とアンバーの瞳とは昼の陽光を浴びて穏やかに輝き、あたたかみのある光沢を放っていました。

 紙ハンケチで口の周りに付いたチョコレートをすっかり拭うと、私は『これからどこへ行くの?』と尋ねました。

『エディンバラだよ、きみ』とリカードは答え、ゆるりと笑いました。



 十九世紀のエディンバラ——このときには人々は旧市街地から新市街地へと移り住み、大きな発展を遂げていました。駅の前には出来立てのザ・バルモラル・ホテルが宮殿のような豪奢な佇まいで燦然と輝き、古代ギリシャの建築様式を取り入れた新しい建物たちが軒を連ねます。

 旧市街地といえば、その古色蒼然とした街並みが観光客に人気であるとか。ところが、私に言わせれば当時は世界遺産として遺されるべき街だとは到底思えなかった。寧ろ、この街はスコットランドの衰微の象徴であったともいえます。人口は過密化し、通りは常に悪臭を放ち不衛生で、おそろしい病が蔓延し……下水道が普及し始めてからというもの随分とましにはなりましたが。もし私がリカードと共にここを訪れていたのがもう百年前であったら、病弱な私はとても暮らしてはいけなかったでしょう。しかし、薄汚れたエディンバラの旧市街でさえ、このときの私には清々しく新鮮に感じられました。つまり、私は私を取り巻く清潔で澄み切ったうつくしい世界に飽き飽きしていたのです。


 湖を埋め立てた新市街と違って、私たちが住み着いた旧市街は坂の多い街でした。上へ上へと積み上げられた石造りの住居、そしてその間に数フィート分の幅しかない狭い小路クローズが張り巡らされた、石の街。岩山の上にはかつて強固な要塞として築き上げられた城が聳え立ち、通りは山のうねからゆるやかに下っていきます。いつも空は厚い鈍色の雲で覆われ、強い風が肌に吹き付けます。そんなエディンバラの細い通りの一角に、私たちが住む家はありました。小さな窓がついた、猫の額ほどの狭い部屋でしたが、二人が住むには十分でした。

 リカードが何の仕事をしているのかは分かりませんでしたが、何らかの仕事をして生活費を稼いでいたことは間違いありません。私たちの暮らしが、この旧市街ではそれほど貧しいものではないということはすぐに分かりましたから。彼は日中は家にいたり居なかったりしましたが、日が暮れると一人でどこかへ出掛けていきました。けっして私を伴うことはありませんでした。夜遅くなってから、ときには東の空がしらじらと明ける頃になってから、彼は帰ってきました。私はベッドの中で、いつもひっそりと目を覚ましていましたが、彼に声を掛けたりはしませんでした。そういうときの彼はきまってひどく疲れたようすで、とても話しかけられる雰囲気ではなかったのです。彼の帰宅とともに空気にほんの僅か混ざり合う鉄錆のような臭いが、あれは血液の臭いだと気付いたのは随分と後になってからの話です。結局、私は彼と居る間にそのことについて尋ねてみることはありませんでした。私はこうして彼に対してある程度無関心な素振りを保つことで、最適な距離感を測っていたように思います。

 だから、尋ねませんでした。彼が少し離れたベッドに潜り込む前、シャツを脱ぐときに見える、酷く目立つ背中の火傷痕に関しても。



 ところで私の病気はといえば、当然喜ばしくない経過を辿りました。何せ、エディンバラは空気が悪いのです。それは十九世紀になってもそう簡単に変わることではありませんでした。特にこの街にやって来たばかりの頃、私は頻繁に咳の発作を起こしました。それはもう酷く、リカードが手に入れてきてくれた薬を使っても簡単には治まりませんでした。明け方に起こりがちなこの発作は私に弱気の風を運んでくるようでした。考えてみれば、仕事から帰ってきたリカードはようやく寝付いたばかりの時間帯です。こうやってけたたましい発作によって起こされることは非常に迷惑だったに違いありません。けれど、リカードは文句一つ言わず、黙って私のそばに居てくれました。

 発作を起こした夜、私はベッドに腰掛けるリカードに言いました。

『どうしてぼくを一緒に置いてくれるの。あなたには何の得にもならないのに』

 リカードは困惑したように眉尻を下げ、適当な言葉を探しているようでした。

『友だちだからだよ』

『嘘』

 私は厳しく言いました。リカードが溜息を吐きました。

『得になるかならないかは、私が決めることだよ、レヴィン』

『でも、ぼくはいつ死ぬかも分からない。病で死ななくたって、その前に自分で死ぬかもしれない』

『人はみな死ぬ』

 リカードは無感動に言いました。

『そうだろう?』




 それでもリカードは、私の加減がいいときを選んで、時折私を家の外に連れ出しました。彼は細くこみいったクローズの殆どに通じており、様々なルートを通って魔法のように目的地に辿り着いてみせるのでした。

 あるとき、リカードは薄暗いクローズの真ん中で突然立ち止まりました。あまりに唐突だったので、私は彼の肩にぶつかりました。彼は鼻を押さえる私に気を払わず、しずかに言いました。

『この下だ』

『下?』

『地下都市がある』

 私は首を傾げました。何のことだか分からなかったのです。きみは知っているでしょうね。エディンバラの地下都市……かつて黒死病ペストの流行と共に生き埋めにされた、貧しい人たちのことを。その事実と地下都市の存在は、長い間、慎重にスコットランドの歴史の闇の中に隠されてきました。当時からすればほんの百年ばかり前の出来事ではありましたが、既にこの街は悍ましい過去を葬り去り、人々の心はニュー・タウンへと向かっていました。

 リカードは誰かに聞かれることを恐れるように、ひそやかな声で私にそれを教えました。

『病と汚物と、痩せさらばえた多くの人々が、まさにこの下に詰まっている。耳を澄ませてごらん。聞こえないか……助けを求めるおそろしい叫び声が』

『そんな、まさか』

 私は眉を顰めました。彼がでたらめなことを言って、私を怖がらせようとしているのだと思いました。

『それに、本当にそれが事実なら——』

 そこで私は少し躊躇いました。

『もうみな死んでいるんでしょう。声なんて聞こえるはずがない』

『そうだな』と彼は認めました。『でも、私には聴こえるんだ』

 彼は目を瞑り、手を耳の後ろに添え、微かな声を聴き取ろうとするジェスチャーをしました。私も息を潜め、しんとしたクローズの中に立ち尽くしました。それは単に戯けただけのようにも見えましたが、なんとなく邪魔をしてはいけないような雰囲気も感じられたのです。彼と私は暫くそうしていたように思います(勿論私には風の音のほかは何も聞こえませんでしたが)。やがてリカードは琥珀色の目を開き、私に背を向けると、元の通り歩き出しました。視線が逸らされる直前のリカードの瞳を、その鈍く沈んだニュアンスを、私は覚えています。

『友人が一人いた』

 クローズを抜ける直前、彼はそう小さく呟きました。私は聞こえなかった振りをしました。」


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