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8.それでも前に

 白い部屋と、白いベッドと、花瓶に添えられた白い花。そして、窓枠に映る青い空。

 わたしの世界は、それだけで出来ていた。


「おめでとう、由香里ちゃん。元気になってよかったわね」


 今日は、同じ病室に入院していた女の子が退院する日だ。

 無機質なリノリウムの牢獄から解放される、記念すべき一日。

 わたしたち弱者は、大切に守られているんじゃない。ただ、外に出て面倒ごとを起こさないように、隔離されているだけなのだ。

 外出すれば人の手を煩わせてしまう、それが目に見えているから。


「ばいばい、お姉ちゃん」


 由香里、と呼ばれた幼い女の子がわたしに小さな手を振る。

 わたしは笑顔を作って、それに応える。

 わたしは彼女とは違って、まだ囚人のままだ。

 患者さんとの付き合いはだいたい一週間程度だから、一ヶ月という今回のお友達期間は随分と長いものだった。

 わたしはその間に彼女と一緒に絵を書いたり、折り紙を折って遊んだりした。

 わたしとしてはその二つばかりをやらされて退屈ではあったけれど、それでも由香里ちゃんが楽しそうだったから満足だ。

 自分のことは二の次でいい。

 わたしは、誰かの役に立てれば満足なのだ。

 いつも、この身体のせいで迷惑を掛けるだけだから。


「智恵理ちゃんも、もう少しだからね。最近身体の調子もいいみたいだから」


「……はい」


 この部屋を担当する看護師さんが、由香里ちゃんがいなくなったベッドの後始末をしている。

 この人との付き合いも、もう二年になる。

 随分と長い間、このベッドを占領している。療養のために。

 本当は良くなる見込みなんてないのに。


「嘘つき」


 わたしは、病室から出ていく看護師さんの背中に向かって、そう呟いた。


 ✳︎


 生まれたての頃は元気だった。はいはいが出来るようになった時期は、わたしがすぐ何処かへ消えてしまって、お母さんを随分と心配させたらしい。

 それがわたしにとって、唯一元気な時間だった。

 わたしは生まれつき、体外から侵入してくる異物に対する免疫が弱い。

 だから少しの怪我や病気で、危険な状態に陥る。

 下手に外を出歩くことも出来ない。

 随分と不自由な身体で生まれたものだ。

 わたし一人が嫌な思いをするなら、まだよかった。


 家のお金の殆どは、わたしの入院費と治療費に充てられた。そのせいで、お母さんは専業主婦ではいられなくなった。

 弟には、欲しいものも碌に買ってもらえないような生活をさせてしまっていた。

 彼がお年玉をわたしのために使ったと聞いて、辛くて泣いた。

 本当はお友達とゲーム機で遊びたかった筈なのに。


 わたしが死んでしまえば、皆楽になれるかもしれない。そう思った。

 介護から解放され、お金を払う必要もなくなる。

 そういえば、人が死ぬと保険金というものが降りるんだっけ?


 この前観たサスペンスドラマの再放送で、犯人の女の人がそう言っていた気がする。

 まあそれも、数年前に観たことがあったんだけど。


「わたし、このままここにいていいのかな……」


 自分の存在が許されていることに、疑問を感じた。


 通信教育でどうにか中学校の勉強をしていたわたしには、一つだけ夢があった。


 先生になりたかった。


 人の役に立てる一番の仕事を考えたとき、お医者さんが最初に浮かんできた。

 でも、わたしの身体じゃ、何も出来ないことは分かっていた。

 それどころか、このままだと二十歳を迎える前に死んでしまうことも知っていた。

 お母さんたちは必死に隠しているみたいだったけど。

 だからせめて、わたしみたいな子供に勉強を教えて上げられるような人になろうと思った。

 人の役に立つ側になりたかった。


 それに、いつか奇跡が起きて、わたしの身体が良くなったら、一度でいいから学校に行ってみたかったんだ。

 一度や二度じゃない。毎日のように、皆がいる憧れの場所で、過ごしてみたかったんだ。


 でも、わたしの夢が叶うことは遂になかった。


 十五歳の秋、わたしの身体はとうとうダメになってしまった。

 余命は残り三ヶ月。そう言われていた。

 どうせ無理なら、最後ぐらい家で皆と過ごしたい。

 わたしは看護師さんに、そうお願いした。

 わたしの願いは聞き入れられ、遂に、退院の日が決まった。

 やっとこの牢屋から抜け出せる。

 お母さんのご飯を食べて、お父さんの弾くギターを聴いて、弟に色々なことを教えて上げられる。わたしの家で。

 そんな幸せな生活が始まろうとする矢先に、それは起こった。


 病院で、火事が起きた。


 原因は知らない。ただ、病院の一階で火事が起きたことだけが知らされた。

 わたしはお医者さんに、他の元気な人たちを優先させて欲しい、と頼まれた。

 だから、快くそのお願いを聞き入れた。

 それで役に立てるなら、この病院に恩返しが出来るなら、それでよかった。

 このまま死んだって、悲しくない。

 そう思っていた。

 なのに……。


「智恵理ちゃん、行くわよ!」


 看護師さんが、わたしを助けに来た。

 辺りはもう火に包まれている。窓の外では、駆けつけてきた消防士さんたちが必死に消火活動を行っていた。

 あの人たちは忙しいから、わたしを助ける余裕なんてないんだ。

 そう納得して、死を受け入れようとしていたのに、看護師さんがやって来てしまった。


「これを付けて。目を瞑って」


 口に応急処置用の酸素マスクが当てられる。これで呼吸困難を防ぐつもりらしい。


「でも、看護師さんの分は?」


「もうこれしか余りがなくてね。大丈夫、私は元気だから強いのよ!」


 そう言って笑った看護師さんのナース服は、もう煤けていた。


 看護師さんにおんぶされたわたしは、そのまま階段を降りた。

 エレベーターも、非常用の滑り台も、患者さんたちで埋めつくされていたから、ここしか逃げ道がなかった。


 けどきっと、この判断が間違っていたんだと思う。

 煙は下から上に向かって移動するらしい。そして階段は、その通り道になるらしい。

 階段を下り始めたわたしたちは、いつの間にか煙の中にいた。

 わたしの病室があった八階まではまだ煙が来ていなかったから、こんな事態になっているなんて気がつかなかったんだ。


 突然、わたしを背負っていた看護師さんの身体から力が抜け落ちた。

 それをきっかけに、わたしたちは階段から転がり落ちた。

 何度も何度も床に叩きつけられて、途中で酸素マスクが外れる。

 けどわたしは、それを取り戻す力を持ち合わせていなかった。


「智恵理……ちゃん……」


「ーー!?」


 看護師さんの頭から血が流れていた。見たことのない、苦しそうな顔をしている。

 あんなに明るい人だったのに。


「マスクしてたのにね、煙が……ゲホッ!」


 きっとマスクの隙間から、煙が入ったんだ。両手はわたしを抱えるために塞がっていたから、マスク押さえることが出来なかったんだ。

 わたしのせいで、看護師さんが……。


「逃げて……智恵理ちゃん。這ってでも、転がってでも……ここから逃げて……」


「いや……ゲホッ!! ゲホッ、ゴホッ!?」


 少し煙を吸い込んだだけで、咳が止まらなくなってしまった。

 どうしてなの?

 なんでわたしは、こんなに弱いの。

 わたしがもっと元気だったら、誰も苦しまなくて済んだのに。

 わたしが、皆の役に立てたのに。

 このままじゃわたしは、何も出来ないまま死んでしまう。

 そんなときだった。


「大丈夫ですか!?」


 ヘルメットを被った、消防士さんがやって来た。

 ああ、これで看護師さんは助かる。

 わたしはもう長くないから、ここで看護師さんが助けてもらえばいいんだ。


「この娘を……先にお願いします……ゲホッ!! 患者さん、なんです……」


 違う。違います!

 わたしは、もう、生きられないから。

 だから看護師さんを!!


 そう言いたいのに、喉からは咳しか出て来なかった。


「分かりました。他の隊員に救助の要請をしますので、出来るだけ姿勢を低くして! マスクを両手で押さえて下さい!」


「ありがとう……ございます」


 わたしは消防士さんに抱きかかえられる。口には濡れたハンカチ。

 これで煙を防ぐらしい。


 看護師さんが、段々と遠くなっていく。

 それが嫌で、耐えられなくて、わたしは彼女に手を伸ばす。


「生きて……生きてね……智恵理ちゃん……」


 看護師さんの声が聞こえなくなった次の瞬間、後ろで何かが爆発した。


「そんな……くそっ!」


 消防士さんが足を速める。赤い光がどんどん迫ってくる。

 看護師さんが遠くなる。


「い、や……いやぁ……」


 わたしの手は、誰にも届かなかった。


 次に視界に映ったのは、家族の顔だった。

 病院外、新鮮な空気の中で、皆にまた会えた。


「お姉ちゃん!」


「智恵理!しっかりしなさい、智恵理!!」


「智恵理、ねえ、智恵理!!」


 皆、わたしのことを呼んでいる。

 泣きながら、わたしの名前を叫んでいる。

 でも、もう答えられないの。

 わたしにはもう、そんな力もないみたいだから。


「お母さん……お父さん……コウちゃん……。ずっと、迷惑ばかりかけて、ごめんねーー」


 ありがとう。


 そう、最後に言うつもりだったのに、言えなかった。

 わたしにはもうそんな気力もなかったからか。それとも、わたしには感謝を述べる資格がなかったからか。

 思い返してみればわたし人生は、謝ってばかりだった。


 こんな形で死ぬなんて、最悪だ。


 人に大切にされるのは、もうたくさんだ。

 それで皆に苦労をかけてしまうなら、代わりにわたしが、皆の役に立ちたかった。


 ✳︎


「もう、いいよ……」


 震えながら話す智恵理に、俺はそう言った。

 もう充分だ。

 智恵理がどんな思いで生きていたのか、よく分かったから。


「ほら、嫌いになったでしょう?」


 潤んだ瞳で見つめてくる彼女に向かって、俺は首を振った。


「そんなわけないだろ。悪者は全部、神様じゃないか」


 こんなに一生懸命だった女の子が、どうして死ななければいけなかったんだ。

 少しの救いぐらい、あっても良かったはずだ。


「なんで、そこまで優しいの? こんなわたしなのに……、ただ、誰かに苦労をかけることしか出来なかったわたしなのに。どうして、澪司くんは……」


「だって、智恵理は何一つ悪くない。優しいのは、君の方だろ。全部自分の負い目だと思い込んで」


「わたしは、何も返せなかったんです! あの人たちに、何一つ……」


「いいだろ、それで。相手の善意に責任なんて感じるなよ。全部受け取って、感謝しておけばいいんだよ」


 そんなこと言ったら俺なんて、両親にも姉さんにも、何一つ恩返しをしようともせずに死んでしまった。

 生きようとも、思わずに。

 それと比べたら、智恵理のほうがよっぽどよく出来た人間じゃないか。


「それに、智恵理にはまだこれからがあるだろ」


「これ、から……?」


「そうだよ。俺たちは生き残った。幾つもの命を足場にして、まだこの世界に立ってるんだ。だったら、これから返していけばいいじゃん」


 もう、現世で生きる人たちに会うことは出来ないのかもしれない。

 けど、この世界でその分何かをすることは出来るはずなんだ。


「今まで何かしてもらった分を、この世界で、精算していけばいいじゃん」


「いいの、かな? わたし、それで許されるのかな?」


「きっと、誰も君のことを怒ったりなんかしてないよ。けど、もし智恵理自身が今までのことに責任を感じてるってんなら、その人たちと同じくらい相手に尽くせばいいんだよ」


 俺の胸に体を預けるようにして座っていた智恵理の頭を、ゆっくりと撫でる。


「きっとそれで、君自身が報われるから」


 それから、小さく笑ってみせた。


「澪司くん、わたし、ごめんなさい! ……ううん、違う、よね」


 智恵理は、嗚咽を漏らしながら、両手で涙を拭う。

 そして、


「助けてくれて、慰めてくれて、ありがとう」


 そう言って、天使みたいに微笑んだのだ。

 ああ、やっぱりそうだ。

 俺が他の誰でもなく、智恵理を選んだのは、きっと、この笑顔をもう一度見たかったからなんだ。

 そんなくだらない理由で、俺は皆を犠牲にした。

 よくある、守りたいこの笑顔ってやつだ。

 もしこれが女の子を守るヒーローのやり方だったのだとするなら、それはど三流のやり方に違いない。

 まあ、それでもいいさ。

 そのやり方で智恵理が守れるなら、俺はもう多くを望みはしない。


「ああ、これからも、いつだって助けるよ」


 俺は頷いて、もう一度笑った。


 いつの間にか霧は晴れ、空はうっすらと白み始めていた。

 そろそろここを出よう、と智恵理に言って、俺たちは森の中を進み始めた。

 その途中で見つけた林道らしきものを頼りに、道なりに進んでいく。


「澪司くん、あのね」


 智恵理が話し掛けてくる。

 その間も彼女は俺の後ろにくっついて、繋いだ手を離そうとはしなかった。

 きっと俺たちの間にあるのは、突然芽生えた恋愛関係、なんていうものじゃないんだと思う。

 ただの信頼関係。

 この世界で、お互いしか信じられないから、二人でくっついて、一緒にいることしか出来ないのだ。


「わたしもいつか、澪司くんと一緒に戦えるようになるよ。肩を並べられるぐらい、強くなってみせる」


「無理に智恵理が戦う必要なんてない。手を汚すのは、俺一人で充分だ」


 智恵理はただ、清らかであればいい。

 聖女のように、清らかに。

 君が側にいてくれることが、両手を血で染めた俺にとっては何よりの救いだから。


「わたしも、強くならなくちゃいけないから。この世界で、生きていくために。ここで皆から貰った恩を、返すために。澪司くんと、これからも一緒にいるために」


「俺も、生きるよ。最後が来るまで生きてやるよ。

 君と共に、死線の先にあるこの世界で」


 陽が昇る。

 新しい朝がやって来た。希望の朝かどうかは、まだ定かではない。

 だけど、あの辛い一日を乗り越えたことだけは確かだ。


 木々が連なる道の向こうに、丸太で出来た大きな門が見えた。

 その手前には、鎧を着た人の姿が見える。


「見えたね」


「ああ、街だ」


 俺たちはようやく最初の街、フロン・ティグリアに辿り着いた。

 ここがきっと、俺たちにとっての『始まりの街』に違いない。


「行こうか」


 そう言って、走り出す。

 それでも繋いだ手は離さない。

 おそらくこれからもずっと、俺から離すことはない。


 ✳︎


 これから先がどうなるかなんて分からない。

 俺がこの世界で何をすればいいのか、答えの出ない毎日が待っているのかもしれない。罪悪感に苛まれる日々が続くのかもしれない。

 それでもきっと、俺は皆のために生きていかなきゃならない。

 脆くて、壊れそうな道を、一歩ずつ前に。

 いつか、その答えが出ると信じて。


 沢山の屍を後ろに置いて来た。そんな俺に、生き残る資格があったのかは今でも分からない。

 それでも、もう後戻りは出来ないから、ここから始めようか。

 報われなかった俺たちが幸せになるために、偉業を成す。

 そんな、ありふれた異世界叙事詩をーー

第一部はここで終了です。ここまでご愛読いただきありがとうございます!

今後もなるべく更新していこうと思いますので、気が向いたときにでもまた覗きにいただけたら幸いです。

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