4.迷彩狼の夜襲
風にたゆたう髪。
人形のようなか細い肢体。
控えめな体つき。
翡翠石のように輝く、その瞳。
目の前に現れたのは、風を纏った半透明の少女だった。
西洋のゴーストから死者特有の冷たさを差し引いたら、こんな感じになるかもしれない。
「……何が、どうなって……?」
『ちょっとご主人、早く指示をくれない? じゃないと、アタシここから一歩も動けないの』
「し、指示?」
突然の出来事に動揺して、どもってしまう。
魔法が正常に発動しない?
というか、さっきと結果が違うじゃないか。
あの強そうな風の砲弾はどうした。
『標的は? 使用魔法は? 行動範囲は?
このご主人は命令一つ満足に出せないわけ?』
少女が不機嫌そうに言う。
ん? 待てよ。
ってことは、もしかしてこいつが精霊?
いや、だってさっきまで羽虫みたいな形してただろ。
突然の擬人化って……
『ほら、急がないとわんころどもに顔舐めまわされるわよ、ご主人』
「えっ?」
少女の声を聞いて我に返ってみれば、俺たちを急襲してきた魔物、ギリーウルフがもう直ぐそこまで迫って来ていた。
やつらの俊敏性は人間なんかとは比べものにならない。
だからこの距離まで詰められてしまうと、
「ーーっ、避けきれない!」
「澪司くん!」
地面を蹴り、飛びかかってくる迷彩色の狼。
万事休すか?
そう思って目を瞑る。
しかし鋭利な牙が、爪が、俺の身体に突き刺さる一歩手前で、狼が何かに弾き返された。
見えない何かが、ギリーウルフの攻撃を阻んだのだ。
「な、なんだっ!?」
硬い何かと正面衝突した狼は反動で弾き飛ばされると、驚いた様子で俺たちから距離を取った。
先ほどのイレギュラーを警戒しているらしい。
「しっかりして下さい! 意識は常に、目の前の敵に集中して! 死にたいんですか!?」
背後から智恵理の叱責が飛んでくる。
全くその通りだクソッタレ。
些細な変化に一々驚いていたらキリがない。そのことは、この数日で嫌というほど学んだじゃないか。
「悪い、智恵理。今のは君が?」
「障壁魔術です。ある程度の攻撃なら防ぐことができるはずです」
智恵理の所持している聖女スキルというのは、今判明しているだけでも治癒、解毒、障壁という三種類の魔術を扱えるらしい。
彼女のスキルは明らかに、他のやつらのものとは一線を画しているだろう。
やはり戦略的にも、ここぞというときのために彼女の魔力を温存させておくことが重要なのかもしれない。
「ありがとう。けど、もう必要ない」
そう言って、臨戦態勢に入っている智恵理を落ち着かせた。
無駄にヘイト値、つまり標的としての優先度を上げられると、敵が分散して困るから。
それから俺は正面へと向き直り、傍に待機している風の少女を見た。
俺の命令を欲しがっているのなら上等だ。
姿形が変化しようとも、使いこなせればそれでいい。
『それで、命令は?』
退屈そうに髪を弄びながら、少女は俺に尋ねてきた。
「命令だ、精霊。目視可能な範囲にいる全てのギリーウルフを、殲滅しろ」
『魔法はどうすればいいわけ?』
「なんだっていいさ。俺たちが五体満足で生き残れるなら、なんだって構わない」
『大雑把な注文を付けるご主人なのね。まあ、いいわ』
一瞬だけ呆れたような顔をした少女はそれだけ言うと、すいーっと俺の前に出た。
精霊が頭上に手を掲げるのと、智恵理の展開した障壁が破れるのとは、同じタイミングだった。
耐久性を失った魔力の膜が破れ、再び狼たちの行動範囲が広がる。
一瞬で間合いを詰めて来る十六の脚と、四つの頭。
狡猾で、素早い、森の狩人たち。
しかしその頭の良さも、速さもーー
『嗜虐趣味はないんだけどね。命令だから、切り刻まれなさい』
ーー圧倒的な攻撃範囲の前では無力なのだ。
シルフィが掲げた手を振り下ろす。
それだけで、水平に延びた真空の刃が、狼たちの脚を纏めて切り裂いた。
毛が毟り取られ、血飛沫が舞い、それらが風に流されて消えていく。
四肢を失い、苦痛に耐えかねて悲鳴を上げるギリーウルフたち。
精霊はそんな狼たちに向かって追撃を加える。
『大丈夫、すぐに楽になるわ』
今度は指を鳴らすだけ。
再度放たれた風の刃が、狼たちの命を簡単に奪い去った。
奴らの断末魔は風の音に遮られてしまって、俺たちの下には届かなかった。
地に伏す魔物たち。
目の前の脅威は、一瞬にして消え去ってしまった。
「凄い、です。今までわたしたちが散々手を焼かされてきた相手を、一瞬で……」
「これが俺の……いや、君の力なのか?」
驚愕する智恵理に、俺も同調する。
『そんな阿保面しないでよ、ご主人。あんたがアタシに任せた結果がこれよ』
精霊はさも当然といった口調で言うが、俺はまだ、目の前で起きた光景が信じられずにいた。
確かにうちの集団にも魔術師はいる。
彼らが長々とした詠唱を唱えて、炎や岩を飛ばしていたのはまだ記憶に新しい。
だからこそ、驚かずにはいられなかった。
複数の敵を一人で圧倒するなんて光景を初めて見たのだ。
『まだ何か指示があるなら早くちょうだい。こうやってただじっとしているのって、退屈だわ』
「そうかい」
せっかちな性格らしい精霊、シルフィは、まだ暴れ足りない様子だ。
こいつなら、この力ならいけるかもしれない。
本拠地で戦っている皆を、助けられるかもしれない。
「なら命令だ、シルフィ。俺たちに同行して、周辺にいる魔物を残らず退けてくれ。使用魔法は、人間に被害が及ばないなら何でもいい」
『分かったわ、ご主人』
「智恵理、行こう。俺たちの力ならきっと、被害を最小限まで抑え込める、と思う」
「はい! 負傷者の治療はわたしに任せて下さい」
シルフィと智恵理にそう促すと、俺は全速力でキャンプ地点まで戻った。
✳︎
不安定な足場をひたすらに走る。
その間に、俺の周囲で暴風が巻き起こる。
そしてその度に、獣の亡き骸が宙を舞う。
シルフィの放つ風魔法は圧倒的だった。
辿り着いたベースキャンプ周辺は既に荒らされるだけ荒らされ、無残な姿を晒していた。
テントは引き裂かれ、倒れた松明の灯りが辺りに引火し、食料や寝具を燃やしてしまっていた。
明日からは、今まで以上に厳しい生活を余儀なくされるだろう。
もし、明日まで生きていることができたらの話しだけど。
「シルフィ、殲滅状況って分かったりする?」
『パッと見で六割強ってとこじゃない?
生きたまま吹っ飛ばしたやつが何体かいるかもしれないけど』
この夜襲の中でまともに戦えているのは、吏人、真耶さん、魔術師スキル持ちの女子、それからシルフィぐらいだ。
あらかたの敵は、うちの精霊様が薙ぎ払ってしまわれたようだけど。
そういえば智恵理は、負傷者の傷を手当てするために俺とは別行動をとっている。
一時的に彼女を危険に晒してしまうが、万が一の場合は負傷者を見捨ててでも自分の身の安全を確保すると半ば無理矢理約束したので、大丈夫なはずだ。
そう、願いたい。
「澪司!」
シルフィが狼を屠るのを見届けたところで、森の入り口で複数のギリーウルフと戦闘中の狭山吏人から声がかかる。
吏人は盾を使って奴らの攻撃を防ぎ、槍でもってベースキャンプにこれ以上の被害が及ぶのを牽制していた。
だが、吏人が少し押され気味だ。
「吏人! 今援護にーー」
「ダメだ! この先で真耶がウルフリーダー相手に一人で戦っているんだ。そっちの援護に入ってくれ」
この先、というのは、ギリーウルフたちが潜んでいたと思われるこの森の中のことだろう。
「だけど、それじゃあ君が……」
「群れの頭が狙われたことでギリーたちのヘイトが真耶に集中しつつある。ボスが戦ってるんじゃ、奴らもそう簡単に退いてはくれないだろう。だから頼む!
俺は、もう少し粘ってから援軍引き連れて行くからよ」
息を荒げながら、苦し紛れに吏人が笑う。
彼の体力も、もう限界に近いんじゃないだろうか。
本当は、援護をするべき場面なんだろう。
けど今は、リーダーの言葉を信じるしかない。
「分かったよ。気をつけろ、吏人」
「お前がだろ、澪司」
俺と吏人の影がすれ違った。
「くっ! ったく、面倒な敵だよなぁ!!」
彼の、苦痛を無理矢理跳ね除けようとするかのような叫び声にも振り返らない。
俺が向かうべきはボスの待つ森の中なのだから。
「蘇生法なんて存在しない。死んだらゲームオーバーだ」
視界を遮る木の枝を掻き分け、へし折り、出せる限りの速度で森の中を進んでいく。
「だから死んじゃダメなんだ。智恵理も、吏人も皆も、誰一人として」
しばらく進むと、金属がぶつかり合うような甲高い音が聞こえてきた。
あの音の発信源こそが、戦闘地点に違いない。
「守れ、守れ、守れ! 報われずに死んでしまったやつらの命を」
木々の隙間から景色が映る。
剣を携えた真耶さんと、他のそれよりも二回り近く大きな迷彩色の狼が、ひっきりなしにぶつかり合っているのが見えた。
スキルのおかげで実力は拮抗、いや、それでも僅かながらウルフリーダーの方が上か。
体力面においては、ウルフリーダーの方が圧倒的に上だろう。
「皆を二度も死なせやしない。守れるだけ守ってみせる」
じゃなきゃ皆に顔向けできない。
戦力外でしかなかった俺を暖かく迎え入れてくれた、助けてくれた皆に。
今まで俺の命を繋ぎとめてくれていた皆に。
「俺は、報いなくちゃならないんだ」
木々の隙間に身を潜めてタイミングを伺う。
シルフィは俺の後ろに待機させておく。
できれば一度きりで済ませたい。
何故だか知らないけれど、さっきから身体がやけに怠いのだ。
頭もクラクラする。
病か? 過労か?
原因はなんだっていい。
俺の意識があるうちに、あいつの息の根を止めなければ。
剣閃が瞬き、獣の爪が鈍く輝く。
刃がぶつかり合う度に、火花が散る。
そして幾度目かの衝突の瞬間、
「ーーッ!?」
バキリ、と、真耶さんの剣が真ん中からへし折れた。
折れた刃がくるくると宙を舞い、近くの地面に突き刺さる。
彼女の手から武器が消えた。
その瞬間、狼が少しだけ嗤ったのを、俺は見た。
確実に女を殺せる。やつは今、そう思っているに違いない。
弓矢を何度も躱し、吏人の刺突さえも華麗なフェイントで翻弄し続けてきたギリーウルフの、その親玉。
そいつが油断しているのだ。
きっと、絶好のチャンスっていうのは今みたいなことを言うのだろう。
ならば、やるしかない。
「隕星の如く煌めけ、シルフィ。この戦いに、けりをつけろ!」
これは召喚した精霊を霊界に送り返すための呪文だ。
つまり俺は、唯一の戦力を自分の意思で手放したことになる。
だが、その呪文には一つだけ、大きなメリットがあった。
それは俺が夕方唱えたときと同じように、精霊そのものを魔法に変えて放つことができるのだ。
『送還命令ね。お疲れ、ご主人』
俺の後ろで待機していたシルフィが、風の魔法陣へと姿を変える。
そしてそこから、風の砲弾が放たれる。
それはちょうど、油断し切ったウルフリーダーが、真耶さんに喰らいつこうとしている瞬間だった。
狼の瞳が驚愕に見開かれる。
ああ、その反応を待ってたんだ。
俺はそのとき、勝ちを確信した。
やつの脇腹に、砲弾が命中。
そして着弾地点から、無数の風の刃が飛んで散る。
ゴォオオオオオーー!! とあの日の嵐のような音を上げながら、風が狼を喰らい尽くす。
「お前も、俺たちみたいに一遍死んでみろよ」
狼を平らげた魔法は、その場から自然と掻き消えた。
後に残されていたのは、無惨に食い荒らされたウルフリーダーの亡き骸だけ。
「なんとかなったんだよな?」
ふらついた足取りで、真耶さんの下へ歩いていく。
酷い頭痛だ。
それにもう、身体に力が入らない。
「篠宮!」
真耶さんが、俺の下へと駆け寄ってくる。
色の抜けた、ウェーブがかった髪が、俺の顔にかかった。
少し顔が近いな。あとで吏人に怒られたりしないだろうか。
「あんたが、助けてくれたのね?」
金地真耶さん。
俺より二つ上で、リーダーの吏人の幼馴染らしい。
この集団の斬り込み役で、初日からずっと俺のことを励まし続けてくれた人だ。
その真耶さんが、膝から崩れ落ちた俺のことを抱きとめる。
戦闘で昂ぶった彼女の体温が伝わってくる。
そう、彼女にはまだ体温がある。
まだ、真耶さんは生きている。
「……あぁ、そっか。俺、守れたんですね」
「ありがとう。ありがとう、篠宮」
真耶さんの目尻から涙が零れる。
この人に感謝されたのは、今日が初めてだった気がする。
「真耶さん、なんかすみません。俺、ちょっと疲れたんで、このまま寝落ちします」
「ちょっと、篠宮? 篠宮まさかあんた!?」
「きっと死にはしませんって……。本当に、疲れただけなんですから……」
気が抜けてしまった。
幾度となく戦いを繰り返したのは俺ではなくて、精霊のはずなのに。
シルフィの疲れが主にまで移ったのだろうか。
「分かった。好きなだけ眠るといいわ。吏人たちが来るまで、あたしがあなたを守ってあげるから。
だから、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
あれ、結局俺、真耶さんに守ってもらうことになってるじゃないか。
折角頑張ったってのにこれじゃあ情けないな。
そんなことを考えていたらいつの間にか、俺は眠りに落ちていた。
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