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君と共に、死線の先で〜精霊使いの異世界叙事詩〜  作者: 美丹門 真徒
1.始まりの街、又は『森林都市フロン・ティグリア』
11/13

3.この街で暮らすために

「わぁ、このお肉口の中で蕩けちゃいます!」


「そいつは一角兎の肉だな」


「こ、この木の実、小さいけどみかんの味がします!!」


「そいつはエグナロの実だ。お前さんたちの国じゃミカンっていうのか?」


「多分、そうだったかな? 俺より智恵理のが記憶がハッキリしてるみたいで」


 ギルドの酒場で、瞳に星を瞬かせた智恵理が、興奮した様子で昼食を頬張る。

 ラグーソースみたいなものがかかった肉も、エグナロの実とかいうミカン味の葡萄っぽいものも確かに美味しい。


「あの、智恵理?」


「どうしたの澪司くん?! そんな小さな声で」


 おい、敢えて周りに聞こえないようなトーンで話し掛けたのに、台無しじゃないか。

 どうしてくれる。


「た、食べ物に喜ぶ気持ちは分かるんだけど、その、嘘がバレない程度にお願いね」


「あっ!」


 しまった! という顔をした智恵理が、慌てて口を抑える。

 寝起きなのに随分と元気だな。

 というか、智恵理ってこんなにテンション高い人だったっけ?

 今までの様子と随分違っているような……。


「ごめんね、澪司くん! そういえばわたしたち、記憶を失ってるっていう設てーーーーんぐ!?」


 だから、嘘がバレるっての!!


 何があった!? 俺がヘレナさんに精霊魔法を見せてもらってる間に、自白剤でも飲まされたのか?


「なんだなんだぁ!? レイジたちお前ら、アタシの前でイチャつきやがって。喧嘩売ってんのか、あぁ!?」


「ちょっ、姉貴!? いきなり横から絡んで来ないで下さい!!

 マジで、色々当たってーーくっさ!!」


 右に智恵理、左にヘレナさん。最初は両手に花だとか思っていた俺がいたんだけど、ちょっと面倒になってきた。

 それにこの二人、さっきからどうも様子がおかしい。

 あとヘレナさんに至っては息が臭い。

 発酵した甘い匂いというか、家でカブトムシを飼ってた頃に嗅いだことのある感じのものだ。

 それの強烈なやつが、常時漂ってくるのだ。


 彼女たちをおかしくしているものの正体の候補として、このテーブルで心当たりがあるものといえば…………。


「こいつか」


 木製ジョッキになみなみと注がれた、シロップみたいな液体を睨む。

 こいつからアルコールの匂いが漂ってくるのだ。


「支部長、これって……」


「あん? 蜂蜜酒のことか?」


「やっぱりか」


「ここの蜂蜜酒は他の地方のと比べてキツめだからな。ある程度の耐性がないとデロンデロンになっちまう。丁度、うちの女みたーーっ!?」


 目の前で熱いキスが繰り広げられる。

 これはこれは、地上波ゴールデンタイム視聴者では絶対に見ることのできないほど濃厚な……。


「ああん、しぶちょっ! 何処を見ていらっしゃるのん? 貴方が見ていいのはあ・た・く・し、だけでいらしてよぉ?」


 シャロンさんマジビッチっす。

 口調も随分と変わってるし。


「こ、こんな感じになっちまうんだ。せいぜい気をつけろ」


「………ここのテーブルの女たち、揃いも揃って酒癖悪過ぎるでしょ」


 未成年で突然飲酒するはめになった智恵理は除くとしても、そこの受付嬢二人、あんたらはダメだ。


「くっそぉ、どいつもこいつも割りかしいい男捕まえやがって。今に見てろ、アタシも貴族の男前でも捕まえて成り上がってやっからなぁ!」


「だから姉ーーくっさいわ!!」


 今更だけど、こんな人に使役されているガルーダが可哀想になってきた。


「澪司くん、このお肉食べないならわたしがもらっちゃうよ?」


「ん? え? いや、まだ一口しか…………、いや、もう、どうでもいいです」


 これほどまでに早く食事が終わってくれと思ったのは、今日が初めてかもしれない。


 ✳︎


SIGEL(シゲル)ーー陽光は我が身を浄め育み給え』


 智恵理の指先が空を切り、魔術的な印が結ばれる。

 これは解毒魔術の詠唱だ。

 対象は、未だに酔っ払っているシャロンさんだ。


「…………? はて、さっきまで妙に気分が優れていた覚えがありますけど、どうしたんでしょう?」


 解毒魔術が効いたのか、シャロンさんが最初に会ったときの冷静そうな表情に戻る。

 第一印象は仕事のできる女だったのに、今では直ぐにデキる女に成り下がってしまった。

 どうしてこうなった……。


「本調子か、シャロン?」


 同じように、智恵理の解毒魔術によって酔いを醒ましたヘレナさんがシャロンさんに声をかける。

 酔いが醒めて、自分が痴態を晒していたと悟ったヘレナさんは、いつも以上に大人しい。

 それぐらいの方が大人のお姉さんっぽくて俺はいいと思います。


「ああ、ヘレナ。私は一体?」


「アタシら二人とも、はしゃぎ過ぎてぶっ倒れたんだよ。チエリがいなかったら明日の仕事に支障が出るとこだったぞ。感謝しとけ」


「そう、ありがとうチエリ。大人としてなんてはしたないことを……」


「いえ、わたしも恥ずかしい姿を澪司くんたちに……。お互い様です」


「いやぁ、いいねぇ。やっぱり女ってのは、恥じらってるときが一番可愛い」


 それは俺もこの世の真理だと思うけど、支部長が言うとただのエロ親父の戯言に聞こえるんだよね。

 というか支部長、さっきぶっ倒れた女たちの下着こっそり覗いてましたよね?

 智恵理のを見るとかなんて羨まーーいかがわしい。いい歳こいて若い女が好きな変態中年野郎め。

 俺がクラフタースキルを入手した暁にはピアノ線を作成して、恩も忘れて背後からあんたの頸を絞めて異世界転生させてやるから覚悟しておけよ。


「あの、それでここはどこでしょう?

 ギルドではなさそうですが」


 古びたソファーに寝かされていたシャロンさんが、辺りをキョロキョロと見回す。

 多分、泥酔していた間の記憶が曖昧なんだろう。

 彼女の言うとおり、ここはギルドじゃない。

 そこから遠く離れた街の外れ、茨に囲まれた古い屋敷に俺たちはやって来ていた。

 ここがこれから俺たちの住処となる場所だ。

 俺たちというのはもちろん、智恵理と俺の二人のことである。

 ああ、間違いだらけの悩ましい生活が待ち遠しい。

 大人は早く退散してくれないかな。


「ここは数年前に死んだイゴール氏の館だ」


 え? 立地的な問題で売れ残り続けていた手付かずの古い屋敷じゃなくて?


「あぁ、売れ残りの曰く付き物件ですか」


「曰く付きなんですか、ここ?」


 そんな話し、俺は一言も聞いてないぞ。


「決まってんだろ、レイジ。庭園付きのオークツリーハウスを普通に買うのに何枚の金貨がいると思ってやがる。掃除して内部の骨董品売りさばくだけで住まわせてもらえるだけありがたく思えってんだ」


「支部長、そりゃそうですけど。あの、幽霊、が出たりとかは……」


「霊なんて出ませんよ。ただ、時おり家全体が揺れたり、毎日夜中の決まった時間帯に玄関扉がノックされたり、たまに蛇口から出る水が赤くて鉄臭くなっているだけですから、ご安心下さい」


「澪司くん、わたし全然安心できないよ……」


 外の庭園も荒れ果てていたし、内部は内部で床板の隙間から地面が見えるし、本当にこの家大丈夫かな?


「お前ら宿を取る金も、どっかの家で働く能力もないだろ。レイジはアタシとの約束で最低でも一年はこの街に留まる必要があるわけだし」


 そうだ。ヘレナさんの言うとおり、一年も宿で部屋を借りていたらきっと金額が洒落にならないだろう。

 それにこの世界の文化は知らないし、文字による意思疎通が出来ない。どこかの家庭で即戦力になれるほどの能力があるわけでもない。


「そうね。なら、曰く付きとはいえ格安の物件を借りて、滞在期間中に少しずつ家賃を払っていく方が賢い選択だと思うわ」


 冷静な状態のシャロンさんが言うならきっとその方がいいに違いない。


「智恵理は、それでも構わない?」


 しっかりと智恵理の意思も確認しておく。

 居住地の確保っていうのは俺一人だけの問題じゃないからな。

 俺が強行したために彼女のストレスが溜まるなんてことになったら目も当てられないし。


「わたしはここでも構わないよ。何か怖いことがあっても、澪司くんが傍にいてくれるんでしょ?」


 そう言って首を傾げる智恵理。

 その仕草に連動して、髪留めで束ねられたポニーテールが揺れる。


「…………え?」


「聞いてた?」


 ぼんやりと揺れる尻尾の先を目で追っていた俺の顔を智恵理が覗き込んでくる。


「あ、ああ、うん大丈夫。任せて」


 マズイ、今完全に思考は停止してた。

 何を任せられたのか全然覚えてないや。


「む、ぼーっとしてる澪司くんはちょっと頼りないよ」


 まともな返事をしない俺に、むくれた顔をする彼女。

 くっそ、この街に着いてから、智恵理の可愛いさが倍増してないか?


「そろそろ話しを進めてもいいかい、お二人さん?」


「ど、どうぞ支部長」


「は、はぃ、ごめんなさい……」


「ったく、俺はチエリの方に随分と嫌われちまってるな」


 俺の背中に隠れる智恵理を見て、グレイン支部長がため息をつく。

 智恵理が男性恐怖症になっていることを除いたとしても、生傷の絶えない体を曝け出している上裸のオヤジを目の前にしたら怖いよな。


「まあいい。それじゃお前さんたち、この物件にするんだな?」


「そうしたいんですけど、その前に一つだけ確認を」


「なんだ?」


「借りている間は、俺たちがこの家を好きにしていいんですよね?」


 現世で家庭菜園を持っていた身としては、自宅の庭が荒れ果てた状態っていうのは気に食わないからな。

 どうにかして元通りにしたいんだ。


「ああ、ぶっ壊したり売っぱらったりしなきゃ問題ない。あと、増築も無しの方向で頼むぜ」


「だったら、よろしくお願いします」


「お、お願いします……」


「そうと決まれば、俺は中の骨董品を運び出しにいくかね」


「じゃあ俺も」


 男子として、ここは肉体労働を買って出るべきだろう。


「では私は近々ここ一体の土地の除霊が行えるよう、主教様に話しをつけておきましょう」


「シャロンさん、教会の人と親しいんですか?」


 もしそうなら、智恵理の聖女スキルの訓練をしてくれる人に心当たりがあるかもしれない。


「こう見えて私、ギルドの仕事が非番のときはシスターとして教会に勤めておりますので」


 こんな淫らな人が聖なる場所に? それでいいのか教会。


「んじゃ、アタシは土地貸し商人に値切りにでも行ってくるかな」


「大丈夫ですか、姉貴?」


「はん、当たり前だろ。万が一の場合はアタシの最大の武器であるこのーー」


 そう言いながら、ヘレナさんは凹凸の激しい自分の身体を撫で回す。

 その仕草がなんとも艶かしい。

 というかそれってまさか、奥義カラダで払っ……。


「ーー精霊魔法で現実(マテリアル)態のガルーダをけしかけて脅してやるから」


「なんたる神の無駄遣い……」


 今の仕草と精霊に何の関係があったんだよ。気になるだろ。


「それじゃあ、日暮れ前に終わらせようぜ」


「はい」


「では、行って来ますね」


「そんじゃアタシも」


「えっと、わたしは何をすれば……」


 各々が自分の持ち場へ行こうとしていたそのとき、俺の背後に隠れていた智恵理がおずおずと手を挙げた。

 自分だけ手持ち無沙汰なことにご不満な様子だ。


「そうだな……」


「チエリは休んでればいいんじゃねえか?」


「まだ疲れている様子ですしね」


「それは……うぅ……」


 申し訳なさそうな表情のまま、智恵理が黙ってしまう。

 本当は自分も何かしたいんだろう。

 この世界で人の役に立つことをしたいって言ってたし。

 だから、ここで彼女の意志を無駄にしてしまうのは良くないことだと思うんだ。

 何か、力やコネのない、普通の女の子にもできる仕事は……。


「掃除」


「え?」


「智恵理には、この部屋の掃除をお願いしたいな。日が落ちるにはまだ時間があるだろ? だから、出来るとこまででいいからさ」


「うん! 任せて!」


 智恵理が満面の笑みを浮かべて、力強く頷いた。

 やっぱり、笑ってるときの彼女が一番可愛いな。


「掃除道具はどこでしょう?」


「近くの家からお借りして……、往復するだけでだいぶ時間が掛かりますね」


「一応富豪の家なんだぜ? そこらへんにいいのが転がってんだろ」


「わたし、探してきます」


 男でなければ他人との意思疎通も問題ないか。受付嬢たちとも上手くやれているみたいだ。


「レイジ、女のケツばっか見てないで、俺たちも始めるぞ」


「俺はそんなことしてないですよ……」


 俺も俺で、これまでのことをなんとか飲み込んで、新しい生活に慣れようと努力出来ている。

 それも全て、この街のギルドの人たちが親戚にしてくれたからだろう。

 最初は受け入れられなかったとはいえ、今では支部長のおかげで受付嬢たちも普通に接してくれているし。


「グレインさん」


「あん? なんだ、改まって」


「今日は本当にありがとうございました。俺たちみたいなよそ者を受け入れてくれて」


「礼なんざいらねぇっての。そこは、これからよろしく、だろ?」


「はい、これからよろしくお願いします!」


 いつか、俺たちが人並みに暮らせるようになったそのときは、俺が嘘をついていたことを明らかにしよう。

 そして、俺たちが異世界から来た人間であるということを、話すんだ。

 たとえ、彼らが信じてくれなくても、その事実を。


 ✳︎


 イゴール邸に関する用事を終わらせた俺たちはギルドの酒場にて再び合流し、夕食を摂った。

 今度は、昼みたいになることはなかった。

 ヘレナさんはなりかけてたけど。


「おいレイジ、明朝、明けの鐘が鳴り次第ギルド前に集合だかんな。忘れんなよ」


「はい、姉貴」


 精霊召喚の訓練は明日から始まる。

 今日はしっかりと休まないと。


「チエリの件についてはもう少し時間が掛かると思われます。それまでは療養に励みなさい」


「はい」


「といっても、除霊前のこの家にいたのでは落ち着かないでしょう。ギルドにいらっしゃい。貴女にこなせる仕事も少しぐらいはあるはずだわ」


 智恵理も、シャロンさんに頼み込んで教会で働かせてもらう手はずになっている。

 けどそこは神聖な職業であるからなのか、すんなりと手続き終わるわけではないみたいだ。

 それまで智恵理にはのんびりとしていてもらおう。


「それじゃ帰るぞ、お前ら。ここからは夜の時間だ。これ以上二人の仲を邪魔してやるな」


「ああ、そういえば……」


「はっちゃけ過ぎて初日から遅刻したらただじゃ済まないからな、レイジ」


「そういうの察しなくていいですよ。というか、変な誤解はしないで下さい」


「誤解な」


「誤解ね」


「そういうことにしておくか」


 ニヤニヤと笑いながら、大人たちが元来た道を引き返していった。


「ったく、からかうのもいい加減にしてくれないかな……」


 そりゃあ、俺だって間違いだらけの同棲生活を所望してはいるけど、初日からそんなことになるとは思っていない。

 第一、智恵理ともっと関係を深めないとそこまで発展しないだろ。

 道は長いな。


「あの、澪司くん」


「ん?」


「シャロンさんたちは、何を察して帰って行ったの?」


「あ、あぁ。正直、俺にも良く分からない」


 ホント、道は長いな。


 支部長から受け取った松明を片手に庭園を進み、木の一部で出来た扉の前に立つ。


「そういや鍵ってどこだっけ?」


「わたし、分かるよ。今開けるね!」


 そう言うと智恵理は、指で木の扉に記号を刻んでいく。


MANN(マン) OTHEL(オセル) EOLH(エオロー)


 その呪文に反応して、木の扉に裂け目が生じた。

 智恵理がその裂け目に沿って指なぞれば、扉は独りでに開いてしまった。


「魔法の言葉が鍵なんてロマンチックだよね?」


「今のが鍵なの?」


「うん。ルーンの組み合わせで解除の合言葉を作ったんだって。後で教えてあげるね」


 にっこり笑ってそう言うと、智恵理は先に家の中へと入っていった。

 確かに、自宅が木の中にあるっていうのはロマンチック、というよりむしろメルヘンチックかもしれない。


「灯りは……」


「これじゃないか?」


 大広間のテーブルに置かれた、ランタンを手に取った。


「うぉっ」


 俺がそれに触れた途端、身体の中央から指先かけて、電流のようなものが走った。

 それは丁度、俺が精霊を召喚する際に感じる衝撃を小さくしたような感覚だった。


「あ、火が灯ったね」


「これ、魔術かな?」


 そう思って覗いてみたけど、ランタンの中は新品の蝋燭が取り付けられているだけだった。

 しかしガラスの一部に、小さな傷跡のようなものを見つけた。

 いや、これは正確には傷じゃない。

 ちゃんと意味を込めて彫り込まれた、幾つもの記号だ。ルーンとは別物の。

 それらが円環状に配列されていたんだ。


「これが魔術陣か。人から魔力吸って、発火するものみたいだ」


「異世界版チャッカマンってこと?」


「そんなとこじゃないかな?」


 部屋幾つか置いてあったランタンを手に取ると、それらに次々と灯りが灯っていった。

 充分な視界が確保出来たところで、俺たちはソファーに腰を下ろす。

 何かの皮で出来たソファーは思っていた以上にふかふかで、中古のものなのにそこまで使い込まれていない感じがした。

 テーブルを挟んだ向こう側にはテレビなんてない。

 ただ、暖炉が取り付けられているだけだった。


「広いねぇ。二人で住むにはちょっと大き過ぎるかも」


 周りを見渡しながら、智恵理が呟く。

 俺たちが住んでいるのは現世では見たことのないサイズの大木だ。

 大広間と幾つかの小部屋のある根元。

 そして螺旋階段を登った先にある、屋根やら外壁やらベランダやらが木の幹から飛び出している構造の二階。

 これが俺たちに与えられたイゴール邸の内部構造だ。


「探索は明日にしよう。俺はもう疲れたよ」


「そうだね。今日は朝早くから動いてたもんね」


 今朝といえば、智恵理が涙ながらに過去のことを教えてくれて、そのまま二人で手を繋いで街まで……。


「あ、あの、澪司くん?」


 おずおずといった感じで、智恵理が話しかけてくる。

 見れば、彼女の顔も心なしか赤くなっていた。

 俺と同じ光景でも思い出していたんだろうか。


「今日は、ううん、昨日も、ありがとうございました」


 ソファーの上で正座しながら、智恵理が深々と頭を下げる。


「なんだよ、急に改まって」


「だって、澪司くんがいなかったら、きっとわたし……」


「それは俺も同じだよ」


「本当?」


「ああ、当たり前だ。助けたのが他でもない君だったから、俺は生きながらえることが出来たんだ」


 今でも、罪の意識はしこりみたいに残り続けている。

 何人もの仲間を見捨ててしまったことへの罪悪感。

 きっと、これが消えてなくなることはないだろう。


「この世界に来て楽しいって思うと、あいつらの顔が頭にチラつくんだ。その度に、皆に恨まれてるような気がしてさ、辛いんだよ」


 皆の分まで生きる、ってあの森で誓ってはみたももの、俺は未だにその生き方を実行出来そうにない。


「弱いよな」


 何度となく仲間の死を見届けて来たあいつらなら、この状況をどうやって乗り越えるだろう。

 全部背負って、その重圧に耐えて生きていたのだとしたら、麻耶さんや吏人はどれだけ強かったんだろう。


「じゃあ、忘れちゃお?」


「え?」


 智恵理の言葉に、俺は耳を疑った。

 だから無意識のうちに聞き返していた。


「今、忘れる、って言ったのか?」


「うん。辛いなら、皆のこと忘れちゃお」


「そんなの、無理に決まってるだろ。俺たちを生かしてくれたあいつらを忘れるなんて、そんなこと……」


 許されていいはずがない。

 辛い過去から目を逸らすことを、正当化しちゃいけない。

 あいつらを忘れるっていうことは、過去から逃げることだ。


「皆のことを覚えたまま生きられるほど、わたしたちはまだ強くないよ。だから、そのときが来るまで、わたしたちが皆の顔を真っ直ぐ見れるようになるまで、忘れよう?」


「そんなこと、出来ない。俺には無理だ」


「だって不公平だよ!」


 智恵理が声を荒立てたので、俺は思わず驚きの声を上げてしまった。

 彼女にしては珍しい光景、というより出会って初めてのことかもしれない。


「皆は仲間が死んでも、忘れようしてきた。そうしないとまともに戦えないぐらい、皆心が弱かったから」


「皆が?」


「なのに、わたしたちが皆を忘れようとするのは許されないの? もう戦う必要がないから? わたしたちが最後の生き残りだから? そんなの、おかしいよ……」


 昂ぶっている感情を押しとどめるようにして、智恵理は両目に涙を湛えたまま唇を固く引き結んでいた。


「少しは休ませてよ。わたしたちだって、辛くて、痛い思いをして。少し荷物を置くだけだから。また歩けるようになったら、ちゃんと背負うから、だから……」


 半ば懇願するような口調で、智恵理は溜め込んでいた感情を吐き出し続けた。

 きっと今日一日中、彼女は平静を装おうとして無理をしていたに違いない。

 俺だってそうしたい。

 僅かな時間でいいから、全力で手抜きをした生活を送りたい。

 でも、無理だ。


「……そんな簡単に出来るわけない。嫌でも考えちゃうことだってあるだろ」


「それならーー」


 智恵理が、自らのか細い両腕をいっぱいに伸ばして、俺のことを抱き寄せた。

 突然のことで一切の抵抗が出来なかった俺の身体は、彼女の手の動きに導かれるようにして、胸の中へと落ちていった。

 布越しに伝わる柔肌の感触と体温が、恐怖と後悔に強張った俺の身体を癒していく。

 人の暖かさによほど飢えていたのか、俺は無意識のうちに智恵理の背中に腕を回していた。

 見上げた先に映るのは、小さな桜色の唇だ。


「ーー今は、こうしてわたしのことだけを考えていて」


「ちえ、り?」


 すぐ近くから聞こえてくる優しい声が、耳元をくすぐる。

 母親のような、それでいてまだ幼い子供のような、そんな微笑みが俺に向けられる。


「辛いことは全部忘れて。わたしのことだけを考えて。あなたが救ったものがここにあるんだって、確かめて」


 俺が救ったもの。

 たくさんのものを犠牲にして、それでも守りたかったもの。

 それはまだここにある。

 まだ、俺の近くで笑っている。


「わたしは今夜、あなたのことだけを考えて眠るから。澪司くんも、わたしのことだけを考えて。そうしたらきっと、安心して休める気がするんだ」


「ああ、そうだな……」


 智恵理が、こうして俺の傍にいてくれるうちは、彼女のことだけを見ていよう。

 そして、この世界でなんとか生きていけるって確信が持てたそのときは……


「必ず、いつか必ず受け止める。真っ正面から、あいつらの死を受け止める。それで、ちゃんと礼言うよ。助けてくれてありがとう、って」


「そうだね……わたしも、お礼を言わなくちゃ」


「だから今は、俺は君のことだけを考えて眠るよ。怖い夢を見ないように」


「うん。それじゃあーー」


「ああーー」


「「おやすみ」」


 そのままの状態で、俺たちはソファーの上に横たわった。


 今はあいつらのことを忘れる。

 そして必ず思い出す。

 それまで必ず、二人で生き残る。


 ランタンの通気口を閉めて、灯りを消した。

 それからすぐに、俺は眠りに落ちていった。

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