promise
「――つぐ」
誰かが僕の名を呼ぶ。
強く、それでいて優しく。
その声に導かれるように、僕は目を覚ました。
「ようやく起きたか。朝だぞ、雅次」
起き抜けのぼやけた視界に、香月の顔が映る。
肩先より少し長い黒髪が、ふと僕の顔の前を横切った。
「何をぼっーとしてるんだ?」
香月が、呆れたような表情で僕の顔を見る。しかし、その表情はすぐに微笑みへ変わり……。
「相変わらずの寝坊助だな、君は」
香月の手が、ふいに僕の顔の輪郭を撫でる。
普段の香月は決してこの手の事はしないが、僕が寝ぼけている時や弱っている時はなぜかこういう事をする事が多い。本人曰く、自然と手が伸びる――そうだ。
「早く起きないと、君の朝食を取る時間がなくなるぞ」
「……それは困る」
そこで、ようやく僕はベッドの上に体を起こした。
本当はもう少し起き抜けのまどろみを味わいたかったのだが、さすがにまどろみと朝食を天秤に掛けたらわずかに後者の方に軍配が上がる。
「ほらっ、制服だ」
放られたそれを、僕は体を起こしたままの姿勢で受け取った。……というか、僕が座っていたら手の中に制服が勝手に飛び込んできた。
「先に下へ行ってる。君も早く降りてくるんだぞ」
香月が去り、部屋に静寂が訪れる。
このまま再びベッドに倒れ込むという選択肢が微かに頭の中を過ぎったが、すぐに朝食というキーワードがそれを一蹴した。やはり、朝食抜きでの学校生活はきつい。
「ふわぁ……」
欠伸をかみ殺し、制服に着替える。
階段を降りて一階のリビングに顔を出すと、テーブルの上にはすでに一人分の朝食が並んでいた。
白いご飯に味噌汁、そして焼き魚。
典型的な日本の朝食といったメニュー構成である。香月はこういう典型というものを大事にする傾向があり、そのせいで思考が若干偏ってしまう節があった。
「さぁ、召し上がれ」
降りてきた僕の顔を見て、香月は嬉しそうにそう言った。
僕と香月の関係は、所謂幼なじみという間柄だ。
高校時代同級生だった母親同士がお互い結婚して妻という立場で再会し、家が近かったため家族ぐるみの付き合いが始まり、そしてお互いの家に男の子と女の子がほぼ同時期に生まれてその繋がりは更に強いものへとなった――らしい。結果、互いのウチの子をどうぞよろしくという状態になり、今に至る。
まぁ、主に世話を掛けているのは僕の方で、世話を掛けられているのは香月の方なのだが。
ちなみに、現在僕の家に両親はいない。仲が悪くなって離婚したとかそういうのではなく、その逆で仲が良過ぎて父さんの長期出張に母さんが付いていってしまったのだ。
今回の出張期間は半年。家を出たのが二月の終わりだから、二人がこちらに帰ってくるのはちょうど夏休みが終わる頃になりそうだ。
更に補足すると、この手の話はウチでは然程珍しくない。
僕がまだ小学生だった頃はさすがに子どもを一人で家に置いておくのは心配だったらしく、両親が家にいない間僕は香月の家に預けられていた。そのため、もう香月の家にとって僕は半ば我が子同然らしく、一層義理の息子になるかという話が出ているとかいないとか……。その辺りは当人同士の問題なので、出来ればそっとしておいて欲しいのだが、そういう風に言ってもらえるのは正直有難い限りである。
「もうすぐ私の誕生日だが」
僕の正面の席に座った香月が、ふとそんな事を言う。
「ん? あぁ……。何か欲しい物でもあるのか?」
食事の手を止め、尋ねる。
「いや、プレゼントの選定は君に任せる。そうではなく……」
他に何があるというのだろう。
「もしかして、覚えて……ないのか?」
「何を?」
「……覚えてないならいい」
いいとは言いつつ、凄く悲しそうな表情で俯く香月。
これは不味い。
何かとても大切な事を僕は忘れているらしい。
誕生日。香月。
二つのキーワードに、僕の頭の中で何かが引っかかった。
「約束……」
そうだ。昔、何か約束をした気がする。
今年の誕生日、香月に……。ダメだ。思い出せない。
「思い出してくれたか?」
「え? あぁ……。うん」
本当は全然思い出せていないのだが、ここは頷くしかないだろう。
「そうか。良かった」
香月が先程とは打って変わって、今度はとても嬉しげな表情をその顔に浮かべた。
どう考えても、僕が昔香月と交わした約束は忘れたでは済まない類のもののようだ。
なんとしても、思い出さなければ。
味噌汁を啜りながら、僕は密かにそう思うのだった。
……とは言ったものの、忘れている事をどう思い出したらいいのだろうか。
「そりゃ、正直に忘れてる事を告げて、香月ちゃん本人に聞くしかないだろう」
朝、自分の席に着き、前の席の友人・加藤孝昭に相談したところそんな身も蓋もない答えが返ってきた。
「それが出来れば苦労はしないって」
「だったら、なんとか自力で思い出せ」
「……薄情者」
僕が小声でそう呟くと、孝昭は溜め息を吐き、
「大体、その約束とやらはいつしたものなんだ?」
ようやくまともに話を聞く姿勢を取ってくれた。
なんだかんだ言っても、孝昭は気のいい奴なのだ。
「多分……十年以上前?」
「つまり、覚えてないと」
「まぁ……うん」
正直、子どもの頃交わした約束なんて幾つもあって、その全てを覚えていろという方が無理な話だ。
「でも、香月ちゃんにとって、その約束は本当に大切なものなんだろ?」
「……」
朝見た、香月の悲しそうな表情と嬉しげな表情が交互に浮かぶ。
香月があんな表情をするぐらいだから、彼女にとって本当に大切なものなのだろう。そして、おそらくは僕にとっても……。
「じゃあさ、香月ちゃん以外の人に聞いてみたら?」
「例えば?」
「香月ちゃんの親とか、友達とか……。ほらっ、確か、香月ちゃんのクラスメイトの良子さんと沙矢佳さん。あの二人は、お前や香月ちゃんと中学時代からの仲なんだろ?」
良子さんと沙矢佳さんか。……聞くなら、沙矢佳さんの方かな。
別に、良子さんに聞きたくないというわけではないが、敢えてどちらかを選ぶなら沙矢佳さんという話だ。当然、他意はない。
朝のホームルームが始まる前に、メールで沙矢佳さんを僕の教室に呼ぶ。
本来なら、僕が向こうに出向くのが筋なのだろうが、そうすると香月に知られてしまうので沙矢佳さんには申し訳ないが呼び出す形を取らせてもらった。
香月にはこちらに来る事を気づかれないように、と追伸としてメールの最後に付け加えておく事ももちろん忘れない。
一分もしない内に、沙矢佳さんが僕のクラスに来た。
僕と彼女たち三人のクラスは然程離れていない。さすがに、別の校舎や階ならこうして呼び出す事は躊躇われる。
「わざわざ、すみません」
「うんうん。で、何? どうせ香月絡みの話でしょ?」
頷き、沙矢佳さんに事情を説明する。
「約束……?」
「うん。香月から聞いた事ないかな?」
「うーん……。そういう話は香月あまりしないから。今現在の雅次君の話はよく聞くけど」
そう言うと、沙矢佳さんは楽しげに微笑んだ。
僕と香月を知る人間は、大抵がこういう表情を浮かべる。なんだが、大人に見守られる子どもの気分だ。
「さりげなく聞いておいてあげようか?」
「出来れば」
「あ、後、良子にこの話は……」
「……それも出来れば」
「だよね。うん。内緒にしとくね」
沙矢佳さんは察しのいい人なので本当に助かる。
「でも、こういう事は自分で思い出した方が本当はいいんだけどね。香月の様子からすると、大事な約束なんでしょ?」
「……すみません」
なんか、沙矢佳さんには常に頭が上がらない感じだ。……ま、良子さんにも別の意味で頭は上がらないのだが。
昼休み。
「雅次」
教室の外、ドアの外から香月が僕の名を呼ぶ。
もうこのクラスでは恒例の事なため、その事にいちいち反応するクラスメイトは今となってはほとんどいない。
「今行く。じゃあな」
前半は香月に、後半は孝昭に言い、立ち上がる。
「おみやげよろしく」
「そんなものあるか」
廊下に出ると、鞄を持った香月に出迎えられる。
「雅次。喜べ、今日のおかずは君の好きなハンバーグだぞ」
「僕の好きなって……」
一体、いつの話だよ。
小学生の頃、香月のお母さんが作るハンバーグが好きだったという話で、別に僕が特別ハンバーグ好きというわけではない。
二人並んで、いつもの場所に向かう。
階段を降り、昇降口を潜り、中庭に出る。
中庭には、ベンチなどに腰掛けて昼食を取る生徒の姿がちらほら見受けられた。
入学して何ヶ月かしてくると、大体昼食を食べる場所というのも決まってくる。かくいう僕たちも、今の場所に落ち着いたのは入学して二ヶ月程経った頃だった。
そもそも、入学したての頃の僕たちは、昼食を僕の方の教室で取っていた。しかし、次第に僕が周りの目を気にするようになり、僕の中で昼食を教室で取る事が恥ずかしくなり始め……。つまり、昼食を取る場所の変更は、ある意味僕の勝手で行われたというわけだ。
今の場所に決めた理由は、先にその場所で食べている人間がおらずまた人目に付き難かったから、というひどく単純なものだった。
中庭を素通りし、グラウンドの方に足を進める。
グラウンドが一望出来る校舎裏、そこが僕たちの昼食を取るいつもの場所だ。
校舎の壁の近くに、並んで腰を下ろす。
香月の鞄から取り出された二つの弁当箱の内、青い方の包みを僕が受け取り、赤い方の包みは香月の膝の上に置かれた。
弁当を作ってもらい始めた当初こそ気恥ずかしいものを感じていたが、今ではそれも普通になり何も感じなくなっている。
良くはないんだろうな、そういうのって。
色々な事を香月にしてもらっているというのに、それを当然のように受け入れてしまっている自分。香月が嫌な顔一つしないものだから遂そのままにしてしまっているが、本当は僕ももう少し香月の役に立たなければいけないはずだ。
「香月さ、僕にして欲しい事とかない?」
「急に何を言い出すんだ、君は」
香月が包みを解く手を止め、僕の顔を見る。
「ほら、僕って香月にしてもらってばかりじゃない? だから」
「そうだな。まずは朝一人で起きて一人で支度するところから――って、冗談だ。冗談だからそんな顔をするな」
香月の言葉が正論なだけに、僕の胸にぐさりと突き刺さった。
「正直、私が君に望む事はそう多くない。君が病気や怪我なく元気でいてくれれば」
なんだろう、凄く申し訳ない気分になってくる。後、涙が出てきそうだ。
「大体、君の世話は私が焼きたくて焼いてるんだ。昔の言葉にもあるだろ? ダメな子程可愛いって……今のところは、怒るところだぞ」
香月としては、フォローを入れてくれているつもりなのだろうが、実際は全くの逆効果で僕の心は凹む一方だった。
「……はぁ。私としては、別に見返りを求めた行動ではないのだが、君がどうしてもと言うのなら……」
「言うのなら?」
「放課後に少し付き合ってくれ」
「……は?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。それ程、香月の口にしたその言葉はあまりにも普通の事過ぎたのだ。
「もちろん、君の奢りだ」
「いや、別にいいけど……。そんな事でいいのか?」
余程の理由がない限り、香月からの誘いを僕が断る事はない。逆もまた然りだ。
「少し男の君には入り辛い店らしいんだ」
「それって、どんな店なんだ?」
まさか、ランジェリーショップとかじゃないだろうな。
「どんな店って。喫茶店だが」
「喫茶店?」
どんな店に連れて行かれるのかと身構えていただけに、少し拍子抜けする。
考えてみれば、香月がそんな店に僕を連れて行くわけがなかった。水着選びはたまに付き合わされる事があるが、それとはさすがに別物だろう。
「客のほとんどが女性らしい」
「あぁ……。そういう」
確かに、男である僕には入り辛そうな店だ。
とはいえ、一人ならその手の店には絶対に入りたくないが、香月と一緒なら別にそれ程問題があるわけではない。
「よし、分かった。放課後、僕の奢りで喫茶店な」
頷き、僕はようやく弁当の包みに手を掛けた。
というわけで、放課後。
香月に連れられ、僕は見知らぬ喫茶店に来ていた。
「最近、良子にこの店の事を教えてもらったんだ」と、香月。
前以って香月に聞いていた通り、店内にいる客層は女性が圧倒的に多く、男性客は今のところ僕一人だけだった。
注文を聞きに来た店員の女性に、飲み物とケーキをそれぞれ頼む。
この店に来る客のほとんどが、飲み物よりケーキの方を目当てに来るらしい。それ程、この店のケーキは有名で美味しいという話だ。
お手拭で手を拭き、まずは水を一口口に含む。
慣れない場所というのは、ひどく居心地が悪い。それが、自分に似合わない場所となれば、尚更。
覚悟はしていたが、これ程までの雰囲気とは……。
若干の後悔を覚えつつ、僕は注文した物が来るのを待った。
「すまない。無理に付き合わせてしまって」
「いや、僕は別に……」
「そう言うが、さっきから君は水ばかりに手が行ってる」
「ん? あ。あぁ……」
言われてみれば、確かに僕の手は先程から水の入ったコップによく伸びている。
口が渇いているというよりも、単純に手持ち無沙汰なのだ。
「緊張してるんだよ。僕には場違いな場所だから」
「まぁ、確かに、私もこの雰囲気は得意ではないな」
香月は、自分の事を女らしくないと思っている節がある。僕にしてみれば、それは過小評価の類以外の何物でもないのだが。
カランコロンと小気味いい音がして、店内に新たな女性客が入ってくる。
香月は扉を背にしているため反応しないが、入ってきた女性客は僕にとっても香月にとってもよく知る人物たちだった。
「か、づ、きー」
入ってきた二人の内の一人が、背後から香月に抱きつく。
それに対して香月は特に反応を示さず、
「沙矢佳たちも来たんだ」
ともう一人の女性客に冷静に話しかけた。
「うん。っていうか、止めなさい、良子。香月にいきなり抱きつくの。雅次君もごめんね。騒がしくて」
「いえ」
どう返していいものか困り、苦笑する。
「はーい、彼氏。こんな可愛い彼女と放課後デートとはいい身分だね」
いつも元気いっぱいの良子さん。
「もう。邪魔しないの」
一方、沙矢佳さんはそんな良子さんを嗜める常識人。いや、決して良子さんに常識がないという意味ではなく。
「はいはい」
ようやく、良子さんが香月から離れた。
そのまま素直に向こうに行くかと思いきや、良子さんは僕の近くに歩み寄ってくると、
「沙矢佳には相談して、なんで私には言わないかな」
僕にだけ聞けるように小声でそう言い残して言った。
驚き、視線を沙矢佳さんの方に向ける。
沙矢佳さんは申し訳なさそうに僕に手を合わせ、良子さんの後に付いて行った。
「良子は君に何を言って行った」
「……世間話?」
「私には言えない事か」
「あはは……」
とりあえず、笑って誤魔化してみた。
「まぁ、いい」
香月は誤魔化されこそしなかったが、それ以上深く追求してこようとはしなかった。
「そんな事より、雅次。来週の月曜日だが」
「月曜日って、お前の誕生日の日だろ?」
「ああ。いつも通り、夕食からそのまま私の誕生日会に移行するらしい」
「うん……」
香月の家の誕生日会は常にそんな感じである。なぜ香月は、今更そんな当たり前の事を確認するのだろう。
「だから……」
何か言いたげな顔で、上目遣いで、僕の顔を見る香月。
「……なんでもない」
しかし、結局何も言わず口篭る。
どう考えてもなんでもない様子ではなかったが、僕は何も聞けずそのままその話はお流れとなってしまった。運悪く、そのタイミングで店員が飲み物を持ってきてしまったのだ。店員が下がると、もうその話を続ける雰囲気ではなく香月の方からも話を切り出す様子は全くと言っていい程なかった。
翌日。
朝のホームルーム前の教室での事だった。
孝昭と毒にも薬にもならない会話を繰り広げていると、沙矢佳さんが現れた。わざわざ、報告に来てくれたらしい。
「やっぱり難しいね。本人にばれないように聞くのは」
「ご迷惑をお掛けします」
「そんな、止めてよ。香月も雅次君も私にとっては大切な友達だもん。協力するのは当たり前でしょ」
そう言うと、沙矢佳さんは優しく微笑んだ。
「でも、その約束が、香月にとって本当に大事なものだって事は間違いないみたい。そういえば、最近の香月ってぼっーとしてる事が多いもん」
「へぇー……。僕といる時はそうでもないんだけどな」
「そりゃ、雅次君といる時は……ねぇ?」
「?」
僕といる時は一体なんだと言うのだろう。
「それにしても、幼なじみとの約束ね……。私と良子も小学校入学当初からの付き合いだから、幼なじみと言えなくはないけど、男女の差もあるし見当もつかないなぁ。十数年越しの約束か……。タイムカプセル、とか?」
「さすがにそれは」
「ないよね。分かってる。言ってみただけ」
恥ずかしいからか、少し早口気味にそう捲くし立てる沙矢佳さん。
「ま、引き続き、探りは入れてみるよ」
「頼みます」
この件が終わったら、沙矢佳さんにも何か返さないといけないよな。何がいいんだろ? 食べ物……辺りが無難かな。
「じゃあ、雅次君も自力で思い出せるように努力してみてね」
「あ、はい」
「うん。なんにせよ、香月を泣かせないように」
沙矢佳さんはそう言い残すと、教室を後にした。
香月を泣かせないように、か。
もちろん、そのつもりだ。だが、今のままでは……。
「やっぱり、いざとなったら本人に聞くしかないんじゃないか? そのままにしておくよりは、その方がよっぽどいいって」
沙矢佳さんが去り、再び孝昭が僕の方に体を向ける。
「うん……」
孝昭の言う事も分かる。
しかし、昨日の朝香月が浮かべたあの表情がどうしてもそれを拒む。おそらく、僕の思い出せないそれは、香月本人に尋ねてはいけないものなのだ。
「後は、考え方を変えるか、だな」
「考え方を変える?」
「だからさ、その約束が例えば物に纏わるものなのか場所に纏わるものなのか、それだけでも分かればヒントぐらいにはなるだろ?」
何に纏わるか、か。
物にしても場所にしても、当然その時期の僕たちにある程度は関係した何かのはず。物の方は絞るのは難しそうだけど、場所なら……。
「うーん……」
「何か浮かびそうか?」
「全然……」
「ま、そう簡単にはいかないか。とはいえ、あんまりのんびりしてる時間もないけどな」
香月の誕生日はもう三日後に迫っている。僕に残された時間は、すでにあまり多くはなかった。
その週の土曜日。
なぜか僕は、良子さんと一緒に買い物に出掛けていた。
「そりゃー、まさつぐんが、私に香月へ贈る誕生日プレゼントがまだ決まってないから、選ぶのを手伝ってて泣きついてきたから」
……よくもまぁ、そんな平気な顔して嘘が吐けるものだ。
後、まさつぐんって誰?
実際のところは、自室で漫画を読んでくつろいでいた僕の携帯に良子さんから電話が掛かってきて、良子さんの方から香月に贈る誕生日プレゼントの話を切り出してきて、更に勝手に待ち合わせ時間と待ち合わせ場所を決められ――今に至る。
「大丈夫、大丈夫。香月には私とデートした事は黙っておいてあげるから」
「別に、香月に知られたところで問題はないけど」
「おっ。それは、香月に自分はそれだけ信頼されてるという自負かね?」
「……」
というか、良子さんの性格を知っていれば、自ずと僕が巻き込まれた事は誰の目にも明らかである。
商店街を二人で適当にぶらつく。
良子さんは女性にしては背が高く僕も特別背が高いわけではないため、並んで歩くと二人の肩がほとんど同じ高さに並ぶ。
「元々は何を贈るつもりだったの? 当たりぐらいは付けてたんでしょ?」
「うーん……。正直な話、香月には十年以上誕生日プレゼントを贈ってるから、段々とプレゼント選びが難しくなってくるんだよね」
「あぁ、それは分かる。私も沙矢佳に何を贈ろうか毎年悩むもん。形のないプレゼントを贈るとか色々考えてるわけよ」
「形のないプレゼントって?」
「どこかに連れてったり、サプライズを仕込んだり……」
なるほど。そういうプレゼントも有りだよな。
「参考までに聞くけど、今まで香月に何を贈ってきたの?」
「最近だと、ぬいぐるみとかアクセサリーとかストラップとか……」
「もしかして、香月の携帯に付いてるくまのストラップって?」
「ああ。うん。去年僕が贈ったやつ」
二人共高校入学を期に携帯を買ったので、時期的にちょうどいいだろうと思い贈ったのだ。
「ふーん。それで」
「え? 何が?」
「以前、香月の携帯に付いてたストラップを無造作に触ったら、香月に怒られたのよ」
「へぇー」
そんな事が。大事にしてくれてるんだ……。
「アクセサリーって、具体的には何を贈ったの?」
「ネックレスに、チョーカー。後はブレスレットかな」
「指輪は?」
「それは、まだ……」
僕の中で女性に指を贈るという行為がどうしても特別な事のように思えてしまって、敢えて毎年プレゼント候補から外して考えているのだ。
「香月、今年で十六歳だよね」
「良子さんもそうでしょ?」
当然、僕も。
「いや、そういう事じゃなくて……。十六歳って女の子にとっては、結婚出来るようになる年齢じゃない?」
十六歳。結婚。指輪。
なんだろう? 僕の中で何かが引っかかる。
「どうかした?」
「いえ、それで?」
「だからさ、予約の意味を込めて指輪を……何よ」
良子さんの反応を見るに、僕の顔は自然とにやけてしまっていたようだ。
「私のガラじゃないのは、分かってるわよ。でも、意外と香月ってそういうのが好きなんじゃないの?」
「まぁ……」
確かに、ああ見えてロマンティックな一面が多々見受けられる。
「そこがまた、雅次君としても可愛いのよね?」
「まぁ……」
同意してからしまったと気づく。良子さんが僕の事を、もの凄く楽しそうな表情で見ていたのだ。
「ごちそうさま」
「……」
今日一日、こういうのが続くんだろうな。
満面の笑みの良子さんを横目に、僕は心の中で密かに溜め息を吐くのだった。
結局、良子さんがプレゼントに指輪を強く推すものだから、間を取って指輪付きのペンダントを買う事にした。
「悪いね、わざわざ」
「一応、良子さんも女の人ですし」
「一応?」
「いえ、立派な」
良子さんの凄みに屈し、僕はすぐに前言を撤回する。
今、僕は良子さんを家に送っていくために、自分の家とは逆方向とも言える方向に歩を進めていた。
「雅次君は、普段あまりこっちの方には来ないよね」
「小学校の時に来た覚えはあるけど、中学校に上がってからは……」
とはいえ、この辺りは住宅街なので、昔も行く所はそう多くなかったが。
「教会……。そういえば、この辺りに教会ってなかったっけ?」
「教会? うん。あるよ。ここからそんなに遠くないし行ってみる?」
きっかけは僕だし、今更少しくらい帰りが遅くなったところでそう大差ないだろう。それに、昔自分が行った場所に行けば何かを思い出すきっかけになるかもしれない。
その教会は、住宅街から少し離れた場所にあった。
鬱蒼と茂る森のような並木道を抜けると、ようやく教会の建物が見えてくる。
「久しぶりだなあ、ここに来るのも」
「僕は五年以上ぶりかな」
と言っても、実際にここを訪れたのはたったの一度きりだが。
木々に囲まれたその場所は、神聖かつ神秘的な雰囲気に満ち、この周辺だけ別の世界から切り取ってきたかのような違和感を覚えた。
「ここって、人住んでるのかな?」
「うんうん。住んではいないみたい。もちろん管理してる人はいるんだろうけど」
良子さんが教会に近づいていくので、僕もそれに続く。
建物に近づくにつれ、その存在感は次第に増していき、目の前に立った時には圧迫感すら覚えた。
「昔はよくここで遊んだなあ。今考えてみれば、みんな神社やお寺と同じような感覚でここに来てたんだろうな」
――その健やかなるときも、病めるときも、
ふと、そんな言葉が頭の中に過ぎる。
――これを愛し、これを敬い、
なんでこんな言葉が今? 教会に来たからか。教会と言えば結婚式。ただ単にそういう事なのか。
ふいに、頭の中に一つの映像が浮かぶ。
幼い女の子と向かい合う自分。
自分と女の子が何か言葉を口にする。
女の子はおそらく幼い香月。
なら、この記憶は……。
「そろそろ帰ろうか?」
「え? えぇ……」
良子さんに話し掛けられた事によって我に返り、その瞬間掴み掛けていた何かがするりと僕の手の中を擦り抜けていった。
教会から離れ、木々の間を抜けていく。
「そういえば、ごめんね」
「なんの事?」
「約束の事。結局、香月から聞き出せなくて」
「あぁ……。ま、本当は僕が自分で思い出せばいいだけの話なんだから」
「思い出せたの?」
「……いや」
香月の誕生日まで今日を入れて後二日。本格的にもう時間がなかった。
香月の誕生日当日。
僕はまだ約束を思い出せずにいた。
朝から悪足掻き気味にずっとその事ばかり考えているのだが、全くと言っていい程約束の内容が思いつかない。そして、そのままついに時間切れを迎える運びとなった。
午後六時半に後十分程でなるという時間。
僕は香月の家の前で立ち尽くしていた。
もうここまで来たら腹を括るしかない。分かっている。分かっているのだが、どうしても足がこれ以上前に進まない。
香月悲しむよな。
こうなるぐらいなら、孝昭の言うように最初の内に香月に謝っておけば良かった。
「……はぁー」
溜め息を一つ吐き、ドアノブに手を掛ける。
いつまでもこうしていても仕方ない。
ドアを開けると、リビングの方からいい匂いが漂ってきた。
「おじゃまします」
リビングに入り、キッチンの方に顔を出す。
「あ、雅次君。ちょうど良かった」
おばさんが料理の手を止めて、僕の方を向く。
「どうも。何か手伝う事あります?」
「うんうん。それより、香月がまだ帰ってきてないのよ。雅次君の家には……行ってないわよね」
「えぇ。帰ってきてないっていうのは、学校に行ったままという事ですか?」
「うんうん。学校からはちゃんと帰ってきたんだけど、その後ちょっと出掛けてくるって行って……。雅次君、悪いけど探してきてくれる?」
「あ、はい」
とりあえずリビングの方に戻り、香月の携帯に電話を掛けてみる。
コール音はするが、香月は出ない。
一体、どこに行ったんだろう?
続けて良子さんと沙矢佳さんにも電話を掛けるが、二人共香月の行方は知らないという。二人にはお礼を言いつつ、大事ではないと説明した。
香月は僕が見つけないといけない。
なぜだか無性にそう思った。
僕は携帯をズボンのポケットに捻じ込むと、行く当てもないまま外に出た。香月が行きそうな所を近い順に片っ端から訪ねる。
コンビニ、本屋、スーパー……。
香月を探しながら、僕はひどく自分が不安を覚えている事に気づいた。
香月はもう高校生だ。少しの時間いなくなったぐらいで、ここまで必死になる事はないのかもしれない。だが、今日いなくなった事に僕は何かを感じていた。十六歳の誕生日である今日いなくなった事に……。
――その健やかなるときも、病めるときも、
なぜ今その言葉が頭を過ぎる。
――これを愛し、これを敬い、
走っていた足を止める。
教会? なんで今その場所が思いついた?
……教会。そうか。教会か。
確信はない。ただ、香月と交わした約束が良子さんの言った類のものである事は間違いないと思う。だったら、香月が教会にいる可能性もなくはない。
教会に香月の姿はなかった。
どうやら、僕の予想は外れたらしい。
携帯で時刻を確認すると、もう香月を探し始めて三十分近くが経過していた。
一度戻るか。
携帯をズボンのポケットにしまい、辺りを見渡す。
それにしても、さすがに暗くなり始めてきたな。
この辺りに人工の光はなく、唯一の光は月の照らす自然の光だけだった。今の季節が夏だからいいものの、これが冬だったら普通に歩くだけでも苦労しそうだ。
「ん?」
ふと遠くに光を見つけた。
光? 確か、あの方向にあるのは……。
光に導かれるように、歩を進める。
教会から少し離れた所に、公園があった。
その中に陸上グラウンドもある、かなり大きな公園だ。
サッカーグラウンドや体育館もあり何もない日でも日中はそれなりに人で結構賑っている公園も、平日のこの時間になると人の姿は疎らだった。
――実際に……。
そう。実際に教会を訪れたのはたったの一度きり。
僕は、僕たちは、教会を遠くから、公園の高台からいつも見ていた。
「ここにいたのか、香月」
その場所は暗闇の中、煌々と人工の電灯に寄って照らされていた。
――舞台みたい。
昔、香月がそう言ったのを思い出す。
「香月」
木のベンチに体育座りをして教会の方を見つめる彼女に、名前を呼びながら近づく。
香月は振り向かない。
僕はそんな彼女の隣に腰を下ろす。
依然、香月の視線は教会の方に注がれていた。
「お前、携帯は?」
「部屋に忘れた」
「おばさんが心配してたぞ」
「うん」
違う。僕が言いたいのはこんな言葉ではない。本当に、僕が言わなければいけない言葉は……。
「……ごめん」
そう。謝罪の言葉だ。
「……うん」
香月がようやく僕の方を向く。
「七時になる前には家に戻るつもりだった」
現在の時刻は六時四十分過ぎ。
ここから香月の家まで十分と少し。
僕の到着は本当にぎりぎりだったわけだ。
「戻って、全部なかった事にして、何事もなかったように十六になって……」
香月は僕が約束を忘れている事に気づいていた。
だから、ここにいたのだ。僕が思い出すという少ない可能性に掛けて。
「大体、小学生の時にした約束を、十年以上経った今まで覚えてろというのが無理な話だったんだ」
「でも、お前は覚えてたんだろ」
僕の言葉に香月が頷く。
「だったら――」
「もういい。君はこうしてここに来てくれた。それだけで私には十分だ」
香月がベンチから腰を上げる。話は終わったとばかりに。
そうか。こいつはまだ僕が約束を思い出してないと思っているのか。
「その健やかなるときも、病めるときも、」
「雅次?」
香月の顔に驚きの表情が浮かぶ。
「喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、」
「……」
俯く香月。
僕は構わず言葉を続ける。
「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、」
この言葉を最初に覚えたのは、香月だった。
香月の家で見た、結婚式の風景が撮影されたビデオ映像。
その映像を香月は気に入り、僕は隣で何度も同じものを見せられた。そして、何度もごっこ遊びに付き合わされ、僕もいつの間にかこの言葉を覚えてしまっていた。
「「その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」」
僕の声に香月の声が重なる。
「覚えて、いてくれたんだな」
「約束の全てを思い出したのは、本当についさっきだけどな」
「雅次、私は……」
何か言い掛けた香月の唇を、自分の唇で半ば強引に塞ぐ。
「ん!」
香月が目を見開き少し暴れるが、僕が腰に手を回すとすぐに大人しくなった。
どのくらいの間、そうしていただろうか。
香月が息苦しそうにし出したので、さすがに僕は彼女の口を開放した。
「――ぷわぁ」
まるで潜水から浮上した人間のように、香月が息荒く呼吸を開始する。
「君は私を殺す気か!」
香月が本気で怒鳴る。
「くくく……」
その様子があまりに可愛らしくて、僕は笑いが込み上げるのが止められなかった。
「全く、君は」
苦笑を浮かべる香月。その顔に浮かぶ表情には、様々な感情が混ざっていた。
「教会の見えるこの丘で、誓いの言葉を言いキスをする。それが約束だっただろ?」
「本当に、全部思い出してくれたんだな」
「ああ。しかし、香月は昔からやる事がロマンティックというか女の子というか」
ま、そこがまた、香月のいいところでもあるが。
「……雅次。言い難いんだが、そもそもはこれを言い出したのは君の方だぞ」
「え?」
僕がこれを……。
「小学生の時、男女の結婚出来る時期について君が不平等だと言い出して、それで」
先に結婚出来る年齢になる香月の誕生日の日に、結婚式の真似事をしてある種の予約を入れるというわけか。
恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。出来る事なら、昔の自分を殴ってやりたい気分だ。
しかし、そんな昔の自分の恥ずかしい行動があったからこそ、今の僕たちの関係があるわけだから、文句ばかりも言っていられないか。
「あ、そうだ」
もうついでだ。この場でプレゼントも渡してしまおう。
上着のポケットから、誕生日用に包装された長細い箱を取り出す。
「ん」
「これは?」
「今年の誕生日プレゼントだ」
「この場で開けた方がいい代物か?」
「まぁ……」
でなければ、今渡す意味があまりない。
箱を受け取ると、香月は丁寧に包装を解いて蓋を開けた。
「指輪……の付いたペンダントか」
結果的には、今年のプレゼントに一番ぴったりな物ではないかと、自分では思っている。そういう意味では、良子さんにも感謝しなければならない。
徐に、香月がペンダントを箱から取り出し、それを自分の首に回す。
「どう、かな?」
「……いいんじゃないか」
「えへへ」
ふいに、香月が幼い子どものような笑みを浮かべた。
その笑顔に、僕は不覚にも心を奪われてしまう。
そして、同時に僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。そんな自分の顔を見られたくなくて、僕は顔を香月から逸らす。
「? どうかしたか?」
「いや、それより早く帰ろうぜ。おばさんが待ちくたびれてるぞ」
夕食の準備はとっくに終わっているだろうし、もしかしたらもうおじさんも仕事から帰ってきている頃かもしれない。
あの人は、家族の誕生日の日には出来るだけ早く帰ってこようとする。
ちなみに、その家族には僕も含まれている――らしい。
「雅次」
「ん?」
僕の名前を呼ぶと、香月は次の瞬間何を思ったか、僕の腕に自分の腕を絡めて寄り掛かってきた。
「……」
「……」
少しの間、無言で見つめ合う。
……ま、いいか。
僕は香月の行動について何も反応をせず、前を向いて歩き出す。
なんと言っても、今日は香月の誕生日。香月が主役の日だ。ある程度の事には目を瞑るし、……正直香月に腕を組まれて悪い気はしない。
「雅次」
「ん?」
再び香月が僕の名を呼ぶ。
「約束、だからな」
「?」
「今日から、私は君の――」
首から下げたペンダントに付いた指輪を触りながら、香月は恥ずかしそうにその言葉を僕に告げた。