音姫における実用的利用の推察
音姫における実用的利用の推察
女子トイレで小川のせせらぎが聞こえるようになったのはいつの頃からでしょう。いえ、男子トイレというものを私が存知ないだけであって、もしかすると殿方のおトイレでもこの音を聞くことが出来るのかもしれませんね。それどころか、少し前にはお友達の家のおトイレにこの機能が付いていることを知ると、もう日本では標準装備になりつつあるのかと驚かされるばかりです。
私がこの音姫という機能を初めて使用したときは、ああ、こんなおトイレという身近な場所で、風流というものを感じることができるとはと感服しました。
便器に腰掛け目を閉じると、翠緑の木々から溢れ出す木漏れ日を受けて水面でゆらゆらと輝いて揺れる光、その傍らで気持ちよく愛の歌を歌う小鳥たちの可愛らしい姿が浮かんでくるではありませんか。
日本人というものはなんと雅な物を作ったのでしょう。こういった実用性に捕われない趣というものが人間の精神を遥か高みへと導くのです。私は人間の精神の高みをとにかく追い求めていたルネサンス期、人文主義の精神を受け継いだ大発明だとさえ思ったのです。
まさかその時は自らの排便の音をかき消す為に発明されたとは露ほども考えませんでした。後にそれを聞かされるにあたり、私はただただ煌びやかな物をあしらっただけのフランス、ブルボン王朝のヴェルサイユ宮殿のような見栄っ張りばかりで実用性のかけらもない発明だと認識を改めたのでした。
もう便器に腰掛けて目を閉じたところで、あの翠緑はさむざむとし、可愛らしい小鳥もどこぞへと飛んでいってしまい、空には暗雲が立ち込めているばかりです。その代わりにといってはなんですが、小汚い鳥が小動物の死骸をつつき、排水にまみれたドブ川の泡がぶくぶくといっている様が脳裏に浮かんできます。おまけに何やら排泄物の臭いもするではないですか! いえ、これはお隣の方でしょう。いくら策を弄したところで、悪事を働けばこの鼻をつく臭いが全てを物語るのです。
しかし、なんと珍しいことでしょう。この一階に位置するおトイレは以前、不幸にも自ら命を断ってしまわれた女子生徒が、何やらもの悲しげに、しくしく啜り泣くと専ら噂が立っているようでして、誰もあえて好んで近づこうとはしないおトイレだというのに。
「君は霊魂を気にしないのか、うら若き純心の乙女なら、そのような噂有らば、子犬のように震えるのではないのか」と疑問に思われる方もおられましょう。しかしそこは私も花も恥じらう青春の乙女。根も葉もない噂話に踊り、あれこれと夢見る妄想力逞しい女子高生でして、その辺は抜かりなく私も恐ろしいのです。火のない所に煙は立たないという言葉もありまして、噂を耳にした当初は私もそれはそれはひどく怯え、その女子生徒の不幸についてあれやこれやと調べました。ところが一向に調べようとも、その元ネタとなった事件がこの学校で起こったという記録はなく、そもそもこの校舎自体、区画整理で新しく移設してきたのが八年前のことだと、そして前校長は学校を通じて地域にも貢献した偉い方だと、学校についての有難い歴史を望まずともお勉強する羽目になってしまうばかりでした。いったいどこで煙が出ているのでしょうか。一向に探せど火元は見つからないのです。
だけれど、それもしかたのないことでしょう。「麻薬ラーメン」なる非合法のラーメン屋が校門を出たすぐ真向かいにあると噂が立っているのを聞いて、論理的にあれこれ思案するのは無駄だと、呆れと諦めを持って結論づけることにしました。
「麻薬ラーメン」とは主に体育会系の男子達の間で脈々と受け継がれている噂のようで、どうやら、味の方は「贔屓目に見ても普通」だそうです。にも関わらず一度口にすると、何度でも食べたいという欲求が後から後から湧いてきて辛抱ならん、となるらしく、麻薬が入っていると疑いを持ちながら抑えられない欲求に「俺はもうダメだ」と涙を浮かべつつ足しげく通うことになると言われています。偏差値の高い高校生なら、「これは部活終わりの空腹と、そこにラーメンの塩辛さがきいているのも重なって、その時のことを刷り込みのように脳が覚えていて欲するんだね」と実に明快な答えを導き出してくれるのでしょうが、悲しいことかな、我が校では「麻薬が入っている!」という定説がまかり通ってしまっているほど、学校の偏差値は低空飛行をしているのでした。
「はあ、どうしてこのようなことになってしまったのでしょう」
気が付けば、私は何度となく繰り返した自問をまた投げかけていました。そうしてこの入学してきた春のことを思い出すのでした。
皆さんは「鬱一番」をご存知でしょうか。
「新生活を期に、たくさんお友達を作ろう」「高校生になったのを境に、充実した学園生活をおくろう」などという変な熱を洗い冷ましてくれる冷たい風のことです。新学年、新入学のシーズンになってしばらくすると吹くと言われています。
かくいう私も自暴自棄に終えた高校受験でしたが、いくら偏差値の低い学校とはいえ、目の前にぶら下がる女子高生という甘い響きたるや何とも言葉にはできない思いでいっぱいいっぱいになったものです。眼前に広がるのは一面薔薇色の学園生活だと信じて止まなかったのです。そして鬱一番なる遅れた春風の存在を知ることになるのですが、それはもう少し後のお話です。
割り振られたクラスに入ってみると、既に同じ中学校出身の方々で集まっているようでしたが、私はそこそこ有名な私立中学校出身ということもあって同じ中学校の人間はおらず一人ぽつんとしていました。やはりというか皆さん各々が独自の美学を貫いておられるのが素行の悪さを象徴しているようでもありました。ピアスにダラリとシャツをだした恰好の男子に、キティちゃんのサンダルを履いた女子もいました。しかし、人を見た目で判断してはいけません。実際にキティちゃんのサンダルを履いた彼女は素行に少しばかり問題がある程度でとてもフレンドリーで友達思いの方でした。けれど、彼女に初めて話しかけられたときはまるで生肝をつかまれた様な気分で生きた心地がしなかったということを正直に告白しなければなりません。先入観というものは思いの外強く、私は子羊のようにふるふると震えるばかりでしたが、それを見て笑われたのをきっかけに、何故だか気にいってもらえたようで、彼女があれこれと世話を焼いてくれたおかげもあり、私はクラスから孤立せずにすんだのでした。
「ァンタ変な言葉使ぃだし、面白ぃね。ゥチらマヂでいいトモダチになれると思う」
そんな感じの事を言われたのをとても嬉しく思いました。私は祖父母の下で育った影響なのか、古風な言葉選びをすることがあるそうで、そのことに少なからずコンプレックスを感じていたのですが、この時はこの天与の一撃を授けてくださった祖父母に心の底から感謝しました。しかし、彼女の使う言葉も私にはとても珍しく、「どこかの方言なのでしょうかと」聞いたことがあるのですが、彼女はお腹を抱えて大笑いした後、私と同じ地区に生まれてこの方ずっと住んでいるというのですから、とても驚きました。親交を深めれば深めるほどに彼女には驚かされるばかりでした。対してそれは私の世間知らずさが露呈しっぱなしだということで、いつも私は恥ずかしい気持ちでいっぱいになるのです。色々と未知なるものに様々な夢を馳せている私とは対照的に彼女は実体験としての知識を沢山持っていて、私には彼女が女性としてとても大きな存在に見えました。そんな彼女を私は敬愛と畏怖の念を込めて、キティさんと呼びました。キティサンダルと敬称である「さん」をかけた我ながらにナイスなネーミングです。
そしてそんな学園生活も比較的、順風満帆かと思われた矢先でした。私がこのおトイレへ戦略的撤退を余儀なくされる原因もやはりキティさんだったというのはなんという運命の悪戯でしょうか。
押しの強い彼女はしばらくすると「女子高生ゎ彼氏がぃないとね、ぅちが紹介しちゃる」などとなかば強引に男性を紹介してくれました。そこは私も女子高生たる乙女、色恋にはそこはかとない憧れをもっています。根が人見知りのせいもあって中々男性と親睦を深める機会もないという悩みも少なからずあり、その時の気持ちをなぞってみれば少し浮かれていた自分がそこに居たのは確かなので猛省しなければなりません。
「ケンヂゎマジいい奴だから!」
そう言われて、私は初めて男性とメールをすることになりました。
その「ケンヂさん」なる人物はどうやら高校には進学されていないようで、何やら夢を叶えるために今は土木建築のお仕事をしているそうでした。その夢たるや何であったかは、ついぞ知ることはありませんでしたが、その時は私も浮かれていたのです。一抹とはとても言い難い不安を残しながらも私はケンヂさんなる人物と会うという約束をとりつけたのでした。いわゆるところのデートというやつです。
ケンヂさんとのデートを無事終えた翌日、のべつまくなしに来るメールに恐怖を覚えた私はキティさんに「私のことは夢であったとお忘れくださいまし」と伝えてもらうよう頼みました。頼むというよりは、鳴り続ける携帯電話に涙目であわあわとしている私の様子を見て心配に思った彼女が理由を問いただして、私が泣きつく形になったというのが本当です。
「そっかー、本当に変なことされてない? もし何かされたんだったら、ゥチにすぐ言いな。ほんまケンヂのやつブチ殺しちゃるから。でもあんたみたいな引っ込み思案ゎケンヂみたいなのがちょうど良いと思ったんよね。でもタイプじゃないんだったら仕方なぃねえ。どうせジャニーズみたいなんがタイプなんでしょ」
「なんというか、ごめんなさい。今回のことで気づいたのですが、私はどちらかというと体力溢れる方より、聡明で愉快なお話をされる方に魅力を感じるのかもしれません。それと、愛玩動物に甘んじているような方もちょっとタイプではないと思います」
発言してから、しまったと思わず口に手をやりました。私たちの会話を耳にしていた何人かの乙女達から刺すような視線を感じたからです。アイドルというものは無闇矢鱈につついてはいけないという女性社会をうまく生きていくための鉄則を忘れておりました。
この「ケンヂ事件」なるのを皮切りにキティさんは私にどんどん男性を紹介したいというのですが、正直な所、私の好みはあまりに彼女とかけ離れているらしく、尽くお断りをしていました。しかし、何かあればキティさんは私に男性をあてがおうとするのでした。
そんなある日、私はキティさん一派とは食事をせず、先生とアルバイトのことについてなにか斡旋してもらえないだろうかと相談を持ちかける形で昼食をとりました。食事を終え教室に戻ってみると、キティさんが、悪戯っぽい顔をして言いました。
「お、どうしたん? 今日は連れないね。彼氏と一緒にお昼?」
このとき私に悪魔がささやきかけてきたのを鮮明に覚えています。しかし男性を紹介されるのにほとほと困り果てていた私にはその悪魔の囁きがまるで天の助言であったかのように聞こえたのです。
(ここで彼氏ができたことにすれば紹介されなくてすむ)
私はその内なる悪しき言葉に二つ返事で頷いてしまったのです。
「それは秘密です」などと、思わせぶりな態度をとり、こちらもまた悪戯っぽい顔をしたのでした。すると今度はどうでしょう、翌日からキティさん達は「お昼は彼氏と食べるものだ」と言ってきかないのです。はじめこそは何やら嫌われたのではないのかという思いも過ぎりましたが、短いけれども彼女らとの付き合いの中で、それは彼女らなりの親切心であるとすぐに私はわかりました。実際に学園内での交際をしている乙女達は皆そうしているようで、よくお昼を一緒していた女の子も彼氏さんができてからは、お昼を共に食べることも無くなっていたのです。そうしてお昼を御一緒する友人が減ると、その都度、傷心の乙女をキティさんが「ぅちらが話きいちゃる!」とお昼に誘っていたのを今更ながらに思い出します。なぜあの法則が自分に適応されないのかと思ったのか不思議でなりません。
こうして存在しない「学内の彼氏」の為にお昼の時間を友人と一緒することもできず、尚且つクラスメイトの目に付く場所にもいれないといった理由で私はこの個室に戦略的撤退を余儀なくされることとなったのです。別の言い方では「便所飯」とも言うそうです。
乙女の青春というものはごく短く、一秒も貴重だというのに、この唾棄すべき現状はどういうことでしょう。幽霊が出ると噂される人気のないおトイレで一人黙々と昼食をとるのですから、それは本当に乙女にあるまじき行為です。一刻も早くなんとかしないといけない当面の最重要事項なのですが、そう思いつつも、この状況に甘んじて早一ヶ月が経とうとしています。
この春からの回想を一通り終え、私は隣の個室に意識を向けました。しばらく籠っている所を察するに、彼女のお腹の具合は余程急を要する事態だったのでしょう。しかし、音姫とは別に水の流れる音がしても、隣の彼女が個室を出る気配は一向にありませんでした。それどころか、音姫の音の奥で何やらしくしくと啜り泣くような声が聞こえるではありませんか。私は、噂は真実だったのだと背筋を凍らせました。思わず逃げようと立ち上がると、便器がカランと鳴り、隣から「ひいいいぃ」という呻き声のような押し殺した悲鳴があがりました。その声に私も危うく同じような悲鳴を出しそうになりましたが、そこは私もこのトイレット生活を長くしている身です。経験の差というのでしょうか、なんとか醜態を晒さず声を押さえ込むことができたのでした。
「あ、あの、誰かいるんですか」
隣から涙声の乙女がノックと共に声をかけてきました。隣からのノックというのはなかなか新鮮な感覚です。私はここでどう応じれば良いものかと思案し、とりあえず名前を名乗らないよう、こちらから質問を返すことにしました。
「そんなにしくしくと悲しそうにして、一体どうしたのですか」
今はこんなに落ちぶれてはいますが、私もギリギリで乙女というもの。乙女たるものそこに困窮した者あれば分け隔てなく慈悲を与えねばなりません。
すると隣の彼女は「幽霊ではないんですか」と可愛らしい質問をした後「あの」とか「えっと」という言葉を挟んで、ぽつぽつと語り始めました。
ここに不思議な人生相談所が誕生した瞬間でした。
まず彼女は一年生だと言いました。私と同じクラスではありませんでしたが、もしかしたら見かけたことのある子かもしれません。曰く彼女には密かに想いを寄せる先輩がいるそうなのですが、彼はもうすぐ海外へ長い留学に行ってしまうらしく、それを知るにあたりやり場のない感情が溢れ出して止まらないというのでした。
ああ、やはりいつでも乙女とは恋に悩みを抱えて生きているものなのですね。私はこの学校から海外の学校へ留学できるほどの学力や才能をもった生徒が存在するのでしょうか、という疑問をひとまず頭の片隅に追いやってから、恋する乙女の心情に深く考えを巡らせました。しかし、そこは恋を知る現実主義者のみが立ち入って良い禁断の秘所。恋をしたことのない私には到底理解できようはずもありません。だけれど、これは私自ら乗りかかった船、彼女になんとかして一歩を踏み出せる勇気を与えねばなりません。私は何やらよくわからない使命感が内から湧き上がってくるのを感じました。恋愛の分からぬ私にできることはただ一つしかありません。詭弁を持って彼女の魂を先輩から解き放つのです。
「では質問しますが、あなたは私の言葉を自分の言葉だと思って聞いてください。そして内なる礼節の声に静かに耳を傾けて聞いて欲しいのです。」
私ができるだけ落ち着いた調子で離すと、彼女も「はい」といって私の言葉に耳を傾けてくれているようでした。お互いに顔が見えないというのは相手のイメージを勝手に都合のいいように作ってしまう分、言葉に深みをもたせる作用があるのかもしれません。
「あなたは本当にその男性に惚れているのですか?」
「はい」と彼女は怪訝そうに答えます。
「ではどんなところに惚れたのですか?」
「優しくていつも笑顔でいるところです」
「あなたは笑顔をもって優しくされれば惚れてしまうのですか。ならば先輩である必要性があるのですか?」
このあたりになると彼女の怪訝さもなにやら苛立ちに変わりつつあるようでした。そこですかさず「先程の言葉を思い出すように」と注意を促します。
「私はあなたに自問自答し、考えて欲しいのです。私はそのためのヒントを与えているのです。では考えてください、あなたは高校生にもなれば、恋人ができるという世の風潮に流されたのではありませんか? あなたの心の空虚にたまたまタイミングよく先輩という存在が入ってきたのでは? あるいは先輩という存在を利用して心の空虚を埋めようとしているだけなのではないですか?」
私はおよそ考え得る詭弁の全てをもってして彼女に問いかけました。いいえ、それは単純に私から彼女への問いでもありました。なにせ私が恋愛において知りたかった全てなのですから。この問題を私自身も解決しないかぎり、私の恋が成就することは永久に有り得ないと半ばそんな確信があったのです。
しばらく考え込むように押し黙った後、彼女は言いました。
「でも、そんなことを考えていたら、恋愛なんてできないと思うんです。確かに私は先輩のことを都合の良い恋愛対象として見ているのもあるのでしょう。周りの恋人がいるお友達のことを羨ましく思っているのもあるでしょう。女の子はみんなカッコイイ男の人にすがるし、たとえ邪魔だっていわれても女の子はそんな男の人にすがりつく。それを『一途』だと勘違いして。決して物語のような綺麗な形ではないかもしれない。でもいいんです。好きという感情が動いたら、それは好きなんです。だったら逆に純粋な出会いや感情ってなんでしょうか。理由のあるものなんでしょうか。そうやって客観的に考えていたらずっと恋愛なんて、この薄暗いトイレからも、ずっとでられないような気がするんです」
私ははっとしました。まるで自分に向かって言われているような気がしたからです。
心が動く、意中の人を目で追うなどといったことを、まだ経験したことのない私にはその言葉が本当に意味する所というものを完全には理解できませんでしたが、彼女の迷いが吹っ切れたなら、それは良いことをしたのだと、少し誇らしい気持ちになりました。
「これからどうするべきか、答えを見つけたようですね」
彼女はすっかり調子を取り戻したように「はい」と元気よく答えた後、おずおずと「あのう、もしかして神様ですか」とこれまた可愛らしい質問をしてくるのでした。これには私も悪戯心が踊りだし、一層荘厳な口調で「何故そう思うのでしょう」とお返事したのでした。
「おばあちゃんが言っていたんです。トイレにはそれはそれは綺麗な女神様がいるんだって」
これまで受けてきた数えられるほどの賛辞のなかで、「綺麗な女神様」という言葉をいただいたのは初めてでした。だけど今の私には勿体無さすぎるお言葉です。
「いいえ、残念ながら私はそんな有難い女神様ではありません。いうなれば便器の……」ここで咳払いをケフンと一つうち
「いえ、詭弁の神様でしょうかね」
「ふふ、お上手ですね」
そういって笑ったかと思うと、休憩の終わりを告げるチャイムがなりました。私は人見知りの身分も忘れて、彼女と顔をあわせてお話がしたいと思いました。
そうして私は便器から立ち上がり、この個室のドアを開けて愕然としました。私の入っていた両隣の個室はどちらも開けっ放しになっていて、そこに少女の姿はなく、音姫のじゃあじゃあという音が流れているだけでした。鼻をつくと思っていた臭いは開けっ放しになった窓を通って外から漂ってきているようで、そこから校舎裏にバキュームカーが一台とまっているのを見つけました。
私はたちどころに恐ろしくなり、すぐさまこのおトイレを後にしました。
こうして翌日からあのおトイレに立ち入れなくなった私は、行く宛もなく、ポツンとしているところキティさんに拾われました。彼女は多くを語りませんでした。
「よしわかった!ァンタがちゃんと言えるようになってからでぃいから、聞ぃて欲しいことがぁったら、言ぅんだよ。その時はちゃんと慰めちゃる」
それはとても力強く、だけど優しい言葉でした。とたんに嬉しさ、恐怖、自分の惨めさ、様々な感情が心の中を駆け巡り、涙となって出ていきました。気が付けば私は事の顛末を包み隠さず話していました。それを聞いた皆さんがお腹を抱えて笑い転げたのは言うまでもありませんね。中には涙まで流して笑う人もいました。耳まで真っ赤にし、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる私を皆さんは「お前は可愛いやっちゃなあ」と言って頭をなでてくれました。だけど、それがまた一層恥ずかしさに拍車をかけて、まるで赤鬼のようになった私はその場を逃げ出し、二階のトイレに立て籠ってじゃあじゃあという音を流しました。そこで私はしくしく啜り泣きつつ、音姫は排泄音だけでなく、乙女の心の傷さえも隠すのだと思いました。そうしているうちにも、この水音が私の高ぶった感情を綺麗に流しているのだと、そんな清々しい気持ちにしてくれていることにも気がつきました。私は音姫とはこういった様々な悩みを抱えた乙女たちにとって大変必要不可欠なものだと考えを改めました。この間約30秒ほどでした。
一瞬、もう一度このおトイレ生活を余儀なくされるのかといった妄想が頭の中を過ぎて行きましたが、今度はキティさんという人情派の交渉人もいて、私は簡単に籠絡されてしまいました。
今思えば、一階のトイレで会った彼女こそ音姫の化身だったのかもしれませんね。そういって麻薬ラーメンを食べる私の隣でキティさんは言いました。
「そんな音姫にメルヘンを馳せるのゎ、ァンタくらぃよ」
そして私は恥ずかしい気持ちを押さえて可愛らしく舌を出すのでした。
「てへぺろ!」
吹き出したラーメンといくつかのゲンコツが飛んできたのはいうまでもありません。
終