第一章
第一章
〔1〕
「あ……戻ってきた」
受付小屋の前を通りかかった時、ふいにそのような声がした。私は訝しむように小屋の窓に視線を投げる。窓の向こう側で私をじっと見つめる女――沙弥だ。
彼女は相変わらず暇そうにしている。小屋の中には沙弥の他は誰もいないようだった。彼女の父親、輝光は帰ってしまったらしい。
私はどこか安堵した心境になり、小屋へと近づく。窓から沙弥が顔を覗かせた。沙弥の綻んだ表情を見て、私は何かが変だと感じた。安心したような彼女の眼差し――
最初からそうだった。
ここで受付を済まそうとした際も、彼女はたった一人で風穴に来た私を訝しむが如く形相で見ていた。悲哀妄想などではなく、彼女はどこか私を不審視しているようだった。それに――
――だって、神様が居れば、あんなこと――
あの時、輝光の訪れによって苛まれた会話が唐突に蘇った。彼女はあの時、何を言おうとしたのか。
「どうでした? 洞窟の中は?」
彼女は小窓の向こうで訊ねる。私は髪の毛に付着した水滴を振りはらい、穴の中なのに雨が降っているみたいだった、と言った。
沙弥がクスクス笑う。
「ここに初めて来た人は皆さん、そう言います。それにがっかりする人も――」
沙弥はどこか哀しそうに言った。確かに。私も、がっかりした客の一人だ。
「確かに物足りなかった。鍾乳洞というよりかは、ただの洞窟って感じだったよ」
「本当はそんな事ないんですよ。第二層の向こうには、本格的な鍾乳洞が広がっています。一層、二層では普通の石灰岩しか見れないけど、その先には、つららのような鍾乳石や、石筍、それに石柱だって見られます。あと、地底湖だって――」
「どうして、普通の人は入れないんだ? ある程度、洞窟内の構造が分かっているなら、解放してもいいはずだろ?」
「お父さんが言うには安全の為だって言ってました。この洞窟が一体どこまで続いているのか、それが解明されるまでは、危険だからって。もし、軽い気持ちでお客さんを招き入れて、その途中で、中の岩が崩れたりしたら――何かの弾みで入口や通路の岩が崩れたら、中にいた人は閉じ込められてしまう。蒼湖風穴には入口はあります。けど、出口は未だに解明されていない。この辺りに纏わる逸話では、蒼湖風穴は三重県まで繋がっているみたいです」
「三重?」
私は思わず頓狂な声を上げた。
「ええ。でも本当かどうかは分からない。私も、中に入った事ないから」
「え? でも、君だって関係者だろ」
「ゲートの鍵を持っているのはお父さんだけだから、私やお母さんはここで働いているけれど、あの中には入れないんです。お父さん、危ないからって――」
なるほど。確かに何が起こるかも分らない洞窟内に、妻や娘を好んで入れる父親などいない。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
沙弥は伺うように訊ねた。頷く私に彼女は言葉を続ける。
「どうして風穴に観光しに来ようと?」
私は、鞄の中から取材用のノートを取り出した。A4サイズの大学ノートの中には風穴内の特徴や、私自身抱いた感想などが乱雑に書き綴られている。沙弥はそれを見て怪訝そうに首を傾げた。
「何かの取材ですか?」
「うん。小説のね」
「小説?」
私は、沙弥に色々と訊ねておいて、自分自身の事については何も話していない事に気づいた。疑問一色の表情を浮かべる彼女に対して、私は自分がここに来た理由を話して聞かせた。
話を聞き終えた彼女は、安堵の溜息を洩らす。
「――そう言う事だったんですね」
「そう。題材が無ければ、何も書けないからね。蒼湖風穴を舞台に何かホラー小説でも書いてみようと思ったわけさ」
「それで一人で――」
沙弥はそこまで言って、言葉を切った。気まずそうに私の顔を見つめる。
彼女は、私が風穴に来た理由よりも、独りでここに来た理由の方を気にしているらしかった。
「友達がいない奴って思ったんだろ?」
私は悪戯っぽく訊ねてみた。
「いえ、あのそう言う訳じゃないんです。ただ、風穴に観光しに来るお客さんの多くは大体大勢で来ることが多いから」
私の機嫌を宥めるような物言いである。しかし、事実、私には友人といえる存在が皆無に近かったのだから、沙弥の言っている事も強ち間違いではない。
「いいって別に。気にしてないから」
私は言って、表情を綻ばせた。余りに彼女が必死になって私を宥めようとするものだから、逆に私の方が彼女に悪さを仕掛けているのではないかと感じたのだ。
「本当に違うんですよ。あっ、そうだ。これ!」
彼女は話題を切り替えるように声を弾けさせた。彼女は窓際に置かれた作業机の引き出しから小さな封筒を取り出した。
彼女はそれを私に差し出す。
「――これ、第二層から向こう側を撮影した写真です。お父さんが、撮影したんですよ」
彼女は適当な説明を言いながら、封筒の中から数枚の写真を取り出す。そこには五枚の写真が入っていた。ゲート奥にあると思われる神秘的な光景がその写真の中に収められている。
地底湖。地下河川。獣の牙を彷彿とさせる鋭利な鍾乳石。何百、何千年もの時間の中で育ってきたと思わしき石柱。石筍。
なんと美しい。私の見たかった世界が、そこにあった。
「綺麗ですよね?」
「あぁ、本当に綺麗だ。これほど綺麗な鍾乳洞を生で見れないのは残念だけど」
沙弥は悄然としながら俯く。
それにしても、彼女は、先ほどからずっと私の相手をしている。よほど暇なのだろうか。私はふと小屋の周りを見回した。何かが可笑しい。ここは確かに観光地なのだが、この閑散とした雰囲気は何だ?
私が車を停めた風穴の駐車場にも、相変わらず、私の車しか停められていない。かれこれ、私がここにきて三時間以上は経っているのに、あれから客の一人も来ていないようだ。訝しむようにキョロキョロする私に向って沙弥は話を始めた。
「昔は、もっと沢山のお客さんがここに来たんですけど、最近はこの有様です」
「――と言うと?」
「私が幼い頃は、ゲートなんて無かったんですよ……」
私は目を見開いた。意味が分からない。しばらく私は考える。あぁ、そういうことか。単純に第二層から向こう側を観光出来たという訳か。その時、私は先ほど沙弥が言った話とつじつまが合っていないことに気づく。
「え、けど、中に入るのは危ないからお客さんは向こうにいけないんだろ?」
彼女は静かに顎を引く。
「ゲートが出来たのは、ここが観光地になって、随分後になってからなんです。最初は、あんなの無かった。けど、必要だった……」
「どうして?」
「人が居なくなるから」
彼女の神妙な物言いに身の毛がよだった。どういう意味だ。人が居なくなるから、ゲートが作られた? 私の脳内に無情な映画が流れる。
マンホールに閉じ込められ十五時間も彷徨っていた幼少期の自分。
あの時、偶然に作業員と出会えていなければ、私は今頃どうなっていたのだろうか。
答えは簡単だ。
私は今、ここに居ない――
「要するに鍾乳洞の中で、消息を絶った人がいるってことか?」
沙弥は「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。
私達の間で無言の会話が成される。二人の間に流れる空気は怖ろしく冷たく、哀しかった。それは、風穴の中で流れていた空気に似ていた。
私がしばらく、黙然としていると、遠くから足音が響いた。誰かが砂利道を踏んでいる音。私は左方に視線を投げる。駐車場と隣接する民家からこちらに向かう一人の女性。
天然パーマのかかった長い髪。小皺が入った顔。決して太ってはいないが、痩せてもいない。Tシャツとジーパン姿の彼女はその上にエプロンを纏っている。如何にも専業主婦を彷彿とさせる容貌だった。四十後半と思わしき女性は真っ直ぐ小屋の方へ向かって歩いてくる。私の視線を追うように沙弥は受付窓から、顔を出した。
「あ、お母さん」
その女性は、沙弥の母親である。冬籐皐月は、私に向って軽く会釈をすると、裏口から小屋の中に入った。と、思ったら、またすぐ、受付窓の向こうに現われて、小屋の中央に置かれた木製テーブルの上に布で包まれた小さな小箱のような物を置いた。
「お弁当、ここに置いとくよ」
皐月は、窓の前に座る沙弥に向って声を放った。取りとめもない普通の親子のやりとりだった。ということは、皐月が出てきた、あの古い木造家屋が冬籐一家の根城ということなのだろう。瓦屋根が特徴的な家で、庭には松の木が二本聳え立っている。
あそこから、沙弥はここに通っているようだ。
「ありがとう」
窓の前で、茫然と立ち尽くしている私と皐月の視線が再び重なった。はっとした私は挙動不審に会釈をした。私は輝光の歪んだ形相を思い出していた。が、皐月は輝光のようなあからさまに不快な態度は浮かべてはいない。彼女は、私に向ってにっこりと微笑み「つまらなかったでしょ?」と訊ねた。
「あの――いえ、その」
私は視線を泳がせ、曖昧な返事をした。
「いいんですよ。ここに来た人は大概、がっかりして帰られます。二層目から向こうになんとか入らせて貰えないか?って頼みに来るお客さんもいるぐらいですから」
「そうなんですか?」
「えぇ。ミステリースポットが好きな人とか、洞窟好きなお客さんは特に熱心に頼みこんで来られます。金なら幾らでも出すってね、そう言えば、昨日も変な電話が掛かってきたわ……」
皐月は思い出したかのように言った。
「変な電話?」沙弥は怪訝そうに訊ねる。
「何でも、人を探したいから、ゲートを開けてくれって――女の人みたいだったけど、彼女が嘘を言っているのは明らかだったし、断ったわ。ゲートはもう何十年もの間、封鎖されているんだもの。人が入るわけない。ほんと、気味が悪かったわ」
「そうなんだ」
「どっちにしろ、私に決定権なんてないしね」
皐月は言って笑う。
「そうだよ。お父さんが許すわけないよ」 沙弥が言った。
「――あの人、頑固だから」
確かに、初めて山から下ってきて彼は、陰険な目付で私を睨んできた。あの時の彼は私にあるものを連想をさせた。
あれは、そう――鬼だ。
山から下ってきた鬼――
それが私が彼に抱いた第一印象だった。
しばらくすると、皐月はまた家に戻った。私は、彼女の後姿を見送ると、再び、話題を巻き戻す。
「人が消えるって、嘘じゃないんだ?」
沙弥は相変わらず黙っている。これ以上、この質問を投げかけるのは野暮かもしれないと思った私は、ごめんと彼女に対して詫びたのだった。
沙弥は黙って首を横に振り、私に封筒を差し出す。
「なに?」
「これ、良かったら。小説、書くんですよね?」
言って、沙弥はにこりと微笑むのだった。
その写真を手に入れられただけでも、ここに来た意味はあったのではないか。私はしばし高揚とした気分に浸った。
〔2〕
蒼湖風穴の取材を終えた私は、駐車場に向っていた。ふと、後ろを見返ると、沙弥が小屋の窓から手を振っている。
車に乗り込んだ私は、エンジンを掛け、ハンドルを握った。サイドを下ろしアクセルを踏み込んだ瞬間――
「うん、何だ?」
私は、ある異変に気がついた。車体が傾いているのだ。アクセルを踏む込む度、車体が大きく揺れた。おかしい。私はエンジンを切り、車の外に出る。車体の横にしゃがみ込んだ。
「パンクしてる……」
左の前輪が無残に凹んでいる。空気の無いタイヤは砂利に飲み込まれ、とても走れるような状態ではなかった。予期せぬ事態に私は頭を抱えた。一体、どうしたものか。霊仙山の麓に位置するこの辺りには民家が数軒あるだけで、その周りには田圃や畑しかない。
ここに来る時も、ガソリンスタンドや、カーショップなどは見かけなかった。要するに電話を掛けて、新しいタイヤを持ってきて貰わないと私は帰れない。
私は呆れた様に溜息を一つ零す。
しかし、おかしな話だ。風穴に来た時、車はパンクしていなかった。停まっている車がなぜパンクしてしまったのだろう。私は、破裂したようにしぼんだタイヤをじっと見つめる。
刃物で切り裂かれたように、線状に破れたタイヤの面――これは、自然に割れたものではない。人的な悪戯だった。
誰がこのような馬鹿げた真似をしたのだろうか。私は周囲を陰険に見回す。もしこれが悪戯なら、犯人はどこかで私が困り果てている姿を見て嘲笑している筈だ。
だが、周りには誰もいなかった。
斧川のせせらぎが人の嗤い声のように聴こえる。
「――どうかしたんですか?」
私は、唐突に聞こえた声で我に返った。
駐車場で立ち往生している私を心配したのだろうか。沙弥は目をまん丸にして、私の顔を覗き込んでいる。
「いや、あの、車がパンクしているんだ」
「え?――パンク」
「変なんだよ。ここに来た時はパンクなんてしてなかったのに、戻ってきたら、この有様さ」
沙弥は、私の車の前でしゃがみ込み、わぁ……と悲痛な声を漏らした。
「誰かの悪戯ですかね?」
彼女も私と同じ結論に至ったようだ。
「こんなパンクの仕方、普通じゃあり得ない。きっとナイフか何かで切られたんだ」
「――でも、変ですね。私、ずっとあの小屋で受付していましたけど、誰も見かけませんでしたよ」
言って、彼女は小屋の方へ視線を放った。
駐車場と対面するかのようにひっそりと佇む受付小屋。確かにあそこに居れば、この駐車場に人が来た時には絶対に気がつくはずだ。ましてや、駐車場には私の車しか停められていない。私の車に何かしている人物が居たものなら、気づかない筈がない。
「君がトイレに行っている間を狙ったんじゃないのか?」
「それはないですよ。私、ここに来てからトイレ行ってませんから。それに、もし犯人が居たとしても、この辺の家に住んでいる人がやったとは思えません。だって、ここらへんには年寄しか住んでませんし……」 沙弥は神妙な面持ちである。
訳が分からなくなった。観光客の乗ってきた車に悪戯して楽しむ年寄が居るだろうか。いや、それは無い。ましてや俊敏さを失った老人が、沙弥の目を盗むことなど出来るはずがないのだ。――では一体誰が? 私は考えることに疲れてしまった。
「犯人探しなんて、もういい。それより、これからどうするかだな」
「この辺りには、ガソリンスタンドはありませんからね。一番近くだと、ここから車で三十分ほど行ったところに一件あるぐらい」
「結構遠いんだな――電話番号とか分かるか?」
私が訊ねると、沙弥は少し悩んだ後、あっ! と思いだしたかのように声を上げた。
「私、インターネットで調べてきます」
「その手があったか」
私と、沙弥は小屋に向かう。
小さく寂れた雰囲気の木造家屋でも、流石に最低限の設備は整っているらしかった。ふと窓から小屋の中を覗くと、パソコンや、書類、そして風穴に関する冊子が本棚に並んでいた。
沙弥は、パソコンが置いてある隅のデスクに着き、カチャカチャと不器用な手つきでキーボードを叩き始めた。
「あ、ありました」
沙弥は言い、コード付き電話の受話器を手に取る。それから十分ほど話した後、沙弥は溜息を吐きながら受話器を置いた。
「どうだった?」
「ここに来れるのは、明日の朝ぐらいになるそうです。何でも今日中に終わらせなきゃいけない車の修理に皆、手を取られているらしくて、駄目だって」
「そんな……じゃあ、帰れないじゃないか。まいったな」
私は、困り果て、後ろ髪を搔き毟った。
他に当てはないだろうかと、沙弥に色々と調べて貰ったが、結果としてどこも曖昧な返事をしていたらしく、すぐにはここに来れないと言っていたそうだ。
どの道、後、数時間もすれば、日も暮れる。そうなれば、田舎のカーショップや、ガソリンスタンドは閉店時間を迎えることだろう。今日中にこの問題を解決するのは聊か無理があるようだった。
「この辺にどこか泊まれる場所はないか?」
私は質問の内容を変えた。どうせ帰れないのなら、宿の確保が必要だ。夜になれば気温も低くなる。車の中で過ごす気にはなれなかった。
沙弥は再び、パソコン画面に見入っていたようだが、やがて首を横に振り、すっかり悄然としてしまった。
「駄目です。この辺りに、宿泊施設はありません」
「漫画喫茶とか、インターネットカフェもか?」
「はい……」
「凄い村だな……」
平成という時代を迎えているというのに、泊まれる場所も無いとは、私は呆れ果てた揚句にすっかり感心してしまった。
「――大体のお客さんは、ここに来て、びっくりしますからね。――本当に何もないところだって。この風穴は、この辺で唯一の観光地です。だけど、本当にごめんなさい。私がもっと警戒していたら、こんなことにならなかったのに」
沙弥が余りに哀しそうな表情を浮かべるものだから、逆に私の方が悪い気がしてならなかった。
「いや、別に君が悪いわけじゃないよ。悪いのはタイヤをパンクさせた奴だ。ほんと、酷いことをする人もいるもんだ」
やはり、車の中で一夜を過ごさないといけない。そう思った矢先に、沙弥はこんな提案をしてきたのだった。
「この小屋、夜になると誰も使わないので、良かったら泊まって行きますか? こんな事になったのも私の責任だし、それに、暖房設備だって一応あるので」
沙弥は、ストーブや、エアコンを指差した。テレビもある。確かに一夜を過ごすだけなら、困ることはないように見受けられた。
「いいのか?」
「はい。タイヤ持って来てくれるのは、明日の八時ぐらいになるって言っていましたから、それまでなら誰かが来ることも無いと思いますし、この受付小屋を使うのは、私達家族だけだから。明日も私が当番なので、問題無いと思いますよ」
「当番?」
「私が休む時は、お母さんが受付をするんです」
私は納得した。輝光は風穴の安全確保や設備の管理。愛想の良さそうな皐月や沙弥が、接客をするといった、それぞれの役目があるのだろう。
私は沙弥の言葉に甘えることにした。
〔3〕
その日の夜、私はストーブの前で身を屈めていた。それにしても寒い。小屋の壁に吊られた、温度計を見ると、九度だった。この夜を乗り切るのには、ストーブだけでは無理かもしれない。
私は毛布を体に羽織り、エアコンのスイッチを入れた。室温が一七度ぐらいまで上昇した頃、私はようやく動けるようになった。
改めて見ると本当に汚い部屋だ。デスクの上に散乱した書類。棚の上で横たわる本。よく使うパソコンの周りは片付けられている。傍らの冷蔵庫の中には、沙弥が残してくれた夜食がある。とは言っても、決して豪華なものではなく、彼女が家から持ってきてくれたインスタントのカレーや、惣菜だった。
そして、その冷蔵庫の隣には黒くて頑丈そうな金庫がある。固く施錠されている金庫はダイヤル式になっているようで、番号を知っているのは輝光だけだと沙弥は言っていた。壁掛け時計の針に視線を投げると、午後九時半を過ぎている。
やけに静かだった。
静けさを畏れた私は、テレビの電源を入れる。画面の中で、漫才を繰り広げる芸人達に私は黙然と見入っていた。外は風が強くなってきたのか、コン、コンと、小屋の外壁に小石や小枝がぶつかっている音が聴こえた。
私はテレビの音量を上げる。
唯一、外が見える受付用の小窓にはシャッターが下りていて、裏口には固く施錠がされている。小屋の入口は、その裏口だけだった。
私は、ふとテレビの前に置いてある一枚の資料に気を取られる。それは風穴内の構造に関する書類だった。私はそのA4サイズの資料を手に取り、活字を追いかけた。
〔蒼湖風穴に関する報告〕
昭和六十年以前、蒼湖風穴の全長は約六キロと断定されていた。
しかし、昭和六十一年、プロジェクト探索チームによる厳密な調査によって、風穴の全長は約九キロに更新された。風穴内には更に奥へと続く穴が発見されており、詳しい構造は未だに詳しく分かっていない。出口がどこにあるのか、風穴がどこに繋がっているのかは、今だ不明である。
第一層【1190㎡】、第二層【215㎡】、第三層【33㎡】、第四層【116㎡――ここから先は深い迷路のような構造になっている。
シアターホール、ドリームホール、美和ホール、石切場、三神殿、森の間、地底湖、地下河川――探索チームは、巧みに区切られたそれぞれの空間にそのような名称を付けた。神秘的かつ美しい、自然の織り成す奇跡を一般人に見せる事が出来ないのが、非常に無念である。
冬藤輝光
書類に度々出てくるプロジェクトチーム――恐らく彼らの洞窟内探索によって風穴内の構造は解明されてきたのだろう。
その探索結果を輝光は資料に纏めていた。そのような書類は、小屋の至るところで見られる。しかし、これらの資料を読んでいるだけでも、好奇心を擽られる。ゲートの向こう側には、まだ私の知らない世界が広がっているのだ。
私は、沙弥から貰った写真を、机の上に広げる。蒼い地底湖を写した写真が私の鼓動を高ぶらせた。
入ってみたい――
と、思った瞬間、沙弥が言っていた言葉が頭蓋内に蘇る。
人が居なくなるから
全長九キロ。洞窟内は、更に奥へ、奥へと続いている。出口があるかどうかは分からない。沙弥は曖昧に言葉を濁していたが、あの時の彼女の眼は、何かを知っている眼だ。
あの、絶壁の下に突如として開く、小さな穴は、人の命を飲む込んでしまう、獣の口なのだ。
私の創作意欲は狂うしいまでに掻き立てられた
朧になっていく意識。私は、数分後に眠りに堕ちた。
延々と鳴り響く電子音。途切れる事を知らない電話のコール音を私は寝ぼけ眼を擦りながら遮った。苛立ったような面持ちで受話器を握ったところで私ははっと我に返る。何をしているのだ? 私は? ここは風穴の受付小屋だ。私はここの従業員などでない。
「――もしもし?」
しかし、一度出てしまった電話を無骨に切ってしまっては、明日の朝、クレームの電話が沙弥に掛かってくるかもしれない。私は、仕方なく適当に相槌をうとうとした。幸いなことに、風穴の関して私は無知ではない。今日一日、色々と取材したおかげなのだが。
だが、電話の主は一向に口を開こうとはしなかった。終始、無言を貫く相手に、私は悪戯電話かと疑い始めた。
「あの――もしもし?」
再度、訊ねると、相手はぼそり、ぼそりと小さな声を漏らす。
開けろ、開けろ、開けろ、ゲートを開けろ……
低く、鈍い声音。男かも女かも分らぬ不気味な声音に私は怖気づき、受話器を置いてしまった。全身を鳥肌が覆う。何だ今のは? 何かを訴えかけるような怨霊の如き呻き声。私はすっかり怖くなってしまった。壁に背を預け、毛布に躰を埋める。それからしばらくすると、不気味な音が聴こえるのだった。
コン……コン……コン……コン……
最初は風が更に強くなってきたかと思った。が、それは間違いだった。裏口を誰かが叩くような音。鳴りやまない音。
今度は何だ?
私は表情を歪めた。ホラー作家である自分が怯えてどうする? と、厳しく自分を叱咤したが、それでも怖いものは怖いのだ。
ふと時計の針を見ると午後十一時を回っている。こんな時間に、しかもこんな寂れた場所に誰が来ると言うのだ。
コン……コン……コン……コン……
私は恐る恐る扉へと近づく。扉に浮き出る染みのような木目柄が、なんだか不気味だった。ノブを握る。冷たい感触が掌に伝った。響くノック音を遮るように、一気に扉を引いた――
わぁっ!
恐怖の限界に達した私は、扉を開けた瞬間、思わず大きな声を上げた。
小皺の刻まれた顔面。海藻のような長い髪。般若のように目を見開く女――
どうやら、驚いたのは彼女のほうだった。私の大きな声で、彼女は怯えたように身をかがめている。その女は皐月だった。
恐れたじろぐ、皐月を見て、私は手を差し出す。すみませんと、何度も詫びの言葉を重ねた。しかし私が突然の来客に怯えるのも無理は無かった。先ほど、あのような電話が掛かってきたのだから。私は皐月を暖の効いた小屋の中に入れた。
皐月は、私の為を想って、晩御飯の残りを持って来てくれたらしい。彼女は、花柄の布で包まれた弁当箱を机の上に置くと、深い吐息を一つ吐いた。
「びっくりしましたよ。もう……」
「すみません」
「なんで、あんな大声出したんです? もしかして幽霊でも来たと思ってたとか?」
彼女は訊ねて、悪戯っぽい微笑みを浮かべた。そのまさかである。
風穴内に消えた人々の怨霊が、他所者の私の突然の現れに怒り、ここに来たと感じたのだ。私は恥しそうに、彼女に先ほどの悪戯電話について聞かせた。その話を聞いて、皐月の表情はどんどん翳っていく。ついさっきまで私をからかっていた彼女はもうそこに居なかった。
「その声の主って、女の人でしたか? それとも男の人でしたか?」皐月が問うた。
「分かりません――ただ、低くて呻くような声でした。何かを訴えかけるような哀しい声。皐月さんが来たのが、その直後だったので、なんだか怖くなってしまって。ほんと、驚かせてしまってすみません」
「そのことはもういいんです。その声の人は、何て言っていました?」
「え? あぁ――確か、開けろ。ゲートを開けろって、言っていたような……」
「多分、あの人ですわ……」
「あの人?――あっ」
私は、今日の昼、皐月と沙弥の間で交わされた会話の事を思い出していた。
――何でも、人を探したいから、ゲートを開けてくれって――女の人だったみたいだったけど、彼女が嘘を言っているのは明らかだったし、断ったわ。ゲートはもう何十年もの間、封鎖されているんだもの。人が入るわけない。ほんと、気味が悪かったわ――
昨日に掛かってきた一本の電話。ゲートの向こう側で人を探したいと懇願してきた女。そう言われてみれば、あの低い呻き声は、女の声だったような気もする。
「――そんな呻くような声で電話を掛けて来たんですか?」
「呻くと言うか・・・…低くて暗い声で話していたような気もします。ゲートの向こうに人がいるから。入れて。お願い。あの人を助けて……とか言ってたような……」
「その人が等々我慢できなくなって、さっきみたいな電話を掛けてきた……」
「決まったわけじゃないですけど、多分、そう思います」
しかし、その電話の主は、ゲートの向こうに誰がいると言うのか。さっぱり理解出来なかった。
「変な話です。ゲートは大昔から封鎖されたままだって言うのに、人なんか入る訳ないんです。あそこに入れるのは夫だけですから。夫の許可が無い限り、部外者はゲートの向こうに決して入ることは許されない」
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
「何です?」
「あのゲートが出来たきっかけ……人が居なくなるからって、沙弥から聞きました」
皐月は虚ろな表情を浮かべる。沙弥よりもずっと昔からここに居る彼女の方が風穴についての知識はある。沙弥は意味深に言葉を濁していたが、皐月なら、どういう答え方をするのか、私は気になったのだ。部外者である私に怖い思いをさせてしまった。そんな後悔の想いから来たものかは分からないが、皐月は私に風穴の歴史について聞かせてくれた。
「――昔、私は、今の沙弥のように、ここの手伝いをしていました。こんな田舎なのですから、私は世間知らずで愚かな娘だったと思う。私は、昔から、蒼湖風穴を見続けてきた――ずっと、見続けてきたの。風穴の平穏が打ち砕かれたのは、あの日からだった――」
「あの日?」
「沙弥から、慰霊碑の事は聞いていませんか?」
「あ」
私は、沙弥から聞いた山の大神と刻まれた慰霊碑の話を思い出した。
「確か、樹齢千百年の神木が伐採されたのを機に出来たって聞きましたけど」
「そう。確かに沙弥の言っている事は間違っていない。けど、本当は違うの」
「違う?」
「――あの石碑は、自殺者の無念の想いを鎮める為に建てられた……」
それは、私の想像を超えた物語だった。
昭和六十一年四月――
観光客の通行の邪魔になるからという動機で、樹齢何百年にもなる神木達は風穴近辺に住む村人によって伐採された。そして伐採された木々達に代わり、道路が開通した事によって、大勢の観光客が風穴に足を運ぶようになり、住民達も村の繁栄を覆いに喜んだ。
その中には、生まれたばかりの沙弥や輝光もいた。冬藤皐月の家に養子として迎えられた輝光は何も知らずに皐月の父親から風穴の責任者を任せられたそうだが、彼は冬籐家の風習に従った。
風穴に多くの人々が訪れる度、冬藤家の収入も安定し、少しずつ栄えていった。邪魔な木々達を葬れて良かった。冬藤家に住む者達は誰もがそう思った。
しかし、霊仙山の大神は、村人達の愚行を赦さなかったのだ。
「観光客がどんどんと風穴内で消息不明になってしまったの。この辺に住む人達は風穴内の構造を大体だけど理解しています。けど、他所から来た人はそれが分からない。だから――」
「中で彷徨って、出られなくなった……」
私がそう言うと、皐月は神妙な形相で頷いた。
一体、消えた人間達は、どこに行ってしまったのか? 当時、村人たちの間では風穴内の構造を全長六キロメートルと断定していた。しかし、それは大きな間違いだったのだ。真実を確かめる為に、洞窟散策のプロジェクトチームが結成され、消えた人間の散策に当たったという。
私は、先ほど目にした文献を思い返していた。輝光が書いたと思わしき書類にも、そのような内容が書かれていた。――ということは、その時に洞窟内の全長が九キロと判明したのだろう。そして、消えた人々は、村人達が知らない未開の地に足を踏み入れてしまった。
まだ生きている人がいるかもしれない。助けを待っている人がいるかもしれない。プロジェクトチームはそんな儚き想いを抱き、未開の地に潜入する。だが、彼らが見たのは、想像を裏切る結末だったのだ。
鍾乳洞の中で、横たわる死体の山。何体もの首つり死体。地底湖に浮かぶ溺死体。石灰石でカチ割られたように頭蓋骨が陥没した骸。
「――惨劇でした。集団自殺に、孤独死。受付担当をしている私ですら、知らない間に蒼湖風穴は自殺スポットになっていたの。私は、何の疑いもせず、風穴に観光客を招き入れてしまった。その人たちが自殺を目論んでいるとも知らずに」
私は言葉を喪失してしまった。
風穴内で起こった悲劇――村人たちは、大神の怒りに触れたと想い、自分たちの愚行を後悔したのだった。山の大神の怒り、そして死んでいた人々の為にあの慰霊碑は建てられた。と、同時に頑丈なゲートが洞窟の第二層に作られた。これ以上、自殺者を増やさない為にも。
「――その事件があってから、一人で来るお客さんには特に警戒するようにしています」
私は、沙弥と最初に出会った時の記憶を呼び覚ます。確かに、あの時、彼女は一人で風穴内に入っていく私を心配しているようだった。あの時は、なぜ彼女は、それほど、私に関わりたがるのか分らなかったが、皐月の話を聞いて合点がいった。
彼女は、私を自殺志願者でないかと疑っていたのだ。だから、念入りに私の身の上について訊ねてきた訳か。なんとか死を踏みとどめようと彼女は必死になっていたということだ。
その話をすると、皐月はクスクスと微笑んだ。
「――あの子にも小さい頃から言い聞かせてますから。ゲートがあるから大丈夫だとは思うけど、職業病みたいなものです」
「そうですか・・・…」
「沙弥には、詳しい話はしてません。ただ昔、あの洞窟内で何人かの人が自殺したり、行方不明になったとしか――本当の話したら、あの子、恐がると思うし、ここの仕事辞めたいとか言い出したら厭ですから」
なるほど。だから、沙弥は詳しい話を出来なかったわけだ。彼女は知らなかったのだ。
「あの子にここを継いで貰えなかったら困るのは、私らです。だから夫と相談して黙っていようという事に。ただでさえ、この村には若い人が少ないっていうのに、あの子まで居なくなかったら、風穴は終わりです」
冬籐家は古くからこの地を守ってきた。この哀しい真実を知れば沙弥はどう思うのだろう。神の存在を恐れるだろうか。
「じゃあ、どうして、僕にそんな話を?」
「さぁ、どうしてですかね……けど、何て言うか、貴方達、仲良さそうに見えたから。夫の後を継ぐ人、そろそろ欲しい思ってましたし」
そう言って皐月は悪戯っぽく笑った。貴方達とは、沙弥と私の事だろうか。私は妙に恥ずかしくなり、頬を赤くしてしまった。
私は、「違いますよ」 と声を張り、視線を伏せた。
皐月は冗談を詫びた後、小屋から姿を消した。私は裏口に鍵を閉め、皐月が置いて行ってくれた弁当箱の蓋を開ける。中には肉じゃがや白飯が詰められていた。
私は沙弥がくれた惣菜と弁当を我武者羅に口の中にほうばった。