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四章 悲しき邂逅



 ◇ ◆ ◇


 二人は無言のまま歩みを進めていた。

 翔にとって対価の持つリスクは想像以上のものであり、ロスターという存在がこれほどまでに異質で、それでいて危険である事を再認識する事にもなった。

 ただ、一つだけ疑問に残る事がある。

 それは紫苑達が翔に言った『ロスターの枠組みの中でも自分は特別な存在である』という言葉。

 それが意味するのは翔がロスターであると言う事に他ならない。

 ロスターは対価を支払わなければならない。

 だとすれば、自分も何かを失っているのではないか?と、考えるのは当然の帰結でもある。

 翔はそれを訊く事はしなかったが……。



 しばらくして――

「不思議に思わなかった?」

「?」

 不意に向けられた主語のない紫苑の問いかけに、翔は首を傾げるしかなかった。

「あの子の見た目よ。どう見ても中学生ぐらいにしか見えないでしょう」

「ああ。姫ちゃんの事か」

 翔はやっと納得したかのように頷いた。

「あの子の実年齢は私達の二倍以上なの」

「……え?」

 翔は聞き間違いなのかと訝しげな視線を紫苑に向けるが、

「あれも対価によって齎される事象の一つなのよ」

 紫苑はさも当然と言った様子で淡々と告げる。

 翔達の年齢の二倍以上と言う事は、少なくとも三十歳は超えていると言う事になる。

 それを事実だと言われても現実味がないのは仕方のない事なのかもしれない。

「姫ちゃんが三十代のおばさん……?」

「間違ってはいないけど、千秋の前では年の事は触れない方がいいわよ。おばさんだとか口を滑らせた時の変貌ぶりは異常だから」

 翔は苦笑いを浮かべて、了解と返事をする。

 そして、ふと気付いたかのように気になった事を問いかけていた。

「姫ちゃんは対価のせいであんな見た目なんだよな?」

「そうよ」

「年を取らないって事なのか?」

「それは違うわ。あの子の場合は能力を使う事によって、時間が巻き戻っていくのよ」

「って事は、精神年齢は肉体に比例して戻るって事か」

 翔は一人納得したかのように口に手を当てていた。

 ところが、

「それは違うわね。時間の巻き戻りは細胞に限っての事。実際に時間が戻っているわけではないから、記憶や考え方は年齢通りよ」

 横を歩く紫苑はあっさりと告げたが、その事実に翔は顔を歪めていた。

 間延びした喋り方や、子供っぽい行動をするおばさんの図を想像してしまった為に。

「素……って事か」

「ええ」

 翔は溜息が出るのを隠さなかった。

 紫苑はそれを横目にするが特に反応は示す事は無い。

 そしてゆっくりと口を開いた。

「対価は大きく二つに分類する事ができるの」

 それが説明であるという事が分かると、翔は顔を向ける。

 少しでもロスターに関わる事を知っておかなければ、後々困ったことになるのは目に見えているのだから。

「……私のように力を手にする時に何か膨大な対価を支払う場合と、千秋のように力を使役する度に対価を支払うという二つのパターンよ」


 若干、自分の事を語る時に言葉に詰まった様子を見せたが、一息にそこまで説明する。

「難しい事はよく分からないけど、要はロスターになるのがいい事じゃないって感じだよな」

「……そうかもしれないわね」

 翔の言葉によって、紫苑の歩みに本人さえも気が付かない程の変化があった事を二人が気づく事は無かった。



 それから程なくすると、木々の合間から人工的なコンクリートの壁が見え始めていた。

千秋と別れてからそろそろ三十分程。

歩き続けた甲斐あって、すでに目的地は目前に迫っていた。

「あれは……」


「あれが私たちの研究施設よ」

 翔は紫苑が示す先を見ると、知らぬうちに足を止めてしまう。

 そんな翔の心には少しばかりの好奇心と、それと同時にこれからの不安が押し寄せていた。

 この一歩を踏み出したら、何かが変わってしまうような気がしてならない。

 停滞する事を人は悪と言うが、果たして盲目のままで進む事が必ずしも善になるとは言いがたいのではないか?そんな想いが心に生まれていた。

 それすらも踏み出してみないとわからないというのが、翔の生きている社会という枠組みなのだが……。


 ならば結局は進むしかない。

それがどんな結果を出すとしても、何もしないで後悔するのよりは幾分かはましかもしれないのだから。


 紫苑は少し先で、翔の事を黙って待っている。

 視線が合うと翔は曖昧な表情で頷き、再びゆっくりと歩みを進めた。

「こんな場所に建ってるのか」

 外観はまるで軍事施設のような佇まいをするその建物は、周りの景色と相まって奇妙のコントラストの上に成り立っていた。

 切り立った崖の下。

山の窪みを利用して建てられたのか、その場所はまさに天然の要塞と言っていいかもしれない。

「随分と大きいんだな」

「こんな奥地にまで人が来る事はなかなかないから隠す必要もないのよ。もっとも、入る事ができないから見つかってもそれほど問題ではないけれど


 これだけの施設。

 セキュリティもしっかりしているのは当然とも言える。

 近くまで行くと、翔の目には入り口らしき場所が見えてきた。

 人が通るであろう扉の横には、車が通る為なのかもう一つ大きな扉が付いている。


 それから、紫苑は扉の前に立つとトランプほどの大きさのカードを差し込んだ。

『ピー』という音と共に、扉が開く。

 紫苑が中に入り、翔がそれに続いた。

外からは確認する事は叶わなかったが、入ってすぐの所は小さな広場みたいになっているようだった。

 広場の中心には噴水が設置され、その周りを囲むようにベンチが備え付けられている。

 そこでは笑いながら話している男女や、本を読んでいる人まで居た。

 殺伐とした雰囲気を予想していた翔は、予想外の光景に拍子抜けしてしまう。

「意外と普通なんだな?」


「この辺りは居住地区だから。こんな場所に建っているから、ほとんどの研究者は住み込むばかりなのよ。必要な物資は定期的にヘリで運ばれて来るから、そんなに不便な事もないわ」

 紫苑はそう言うと、携帯電話を取り出しどこかへ電話していた。

 こんな山奥で電波が届くのだろうか?と疑問に思い、翔は自分の携帯電話を確認してみるが、やはり圏外だった。

 紫苑の携帯電話は本体が特殊な仕様なのか、特別な回線でも使っているのかもしれない。

 そう判断を下し、翔は手の中の携帯電話を再びポケットへと押し込んだ。

「来たわ」

 紫苑は一番近くの建物から出てくる人を見ると、携帯電話を閉じた。

 紫苑の視線の方向。

翔は後ろを振り返ると、二人の人物がこちらに向かって来るのを確認する。

 まだ距離がある為、はっきりとは見えないが、背の高い方はどうやら日本人ではないようだ。

アジア系の顔をしているから中国とか韓国とか、大体そこら辺の国の生まれなのかもしれない。

 そして、翔がその横を並んで歩くもう一人の方を見ると、

「……え?」

 思わず言葉を漏らしていた。

 それもその筈だった。

こんな場所にいるはずのない人物がいるのだ。

紫苑達に出会ってから、物事に対する耐性はできていたつもりだった翔だが、それでも慣れたわけではない。

 驚くものは驚く。

 半信半疑で見ていたが、近くまで来ると確信せざるを得なかった。

「隆太郎……」


「おぉ、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」

 屈託なく笑顔で挨拶してきた男は、紛れもなく翔と同じクラスの委員長の如月隆太郎だった。

「元気そうじゃないだろ。なんでお前がここにいるんだ? というか、お前も研究者の一人だったのか? それに久々って、学校で会ったばっかじゃないかよ」


「おいおい焦らないでくれ。いっぺんに訊かれても答えられないぞ?」


 にじり寄る翔を両手で制しながら、隆太郎は苦笑いを浮かべる。

「そ、そうだな……」


 答えた翔はバツが悪そうに頬を掻いていた。

 疑問に対して感情的になるのは悪い癖なのは本人も理解していたが、また出てしまっていたようである。

「とにかく俺がここにいるのはロスターだからだ。それに研究者というよりは姫ちゃんと同じ諜報担当だな」

 あっさりと告げられるが、それは翔の驚きを誘うには十分だった。

 言葉を失って立ち尽くしてしまうのを責めるのは酷というものだろう。

 それほど翔にとっては衝撃的な事実だったのだ。

 確かに仲がいい人間でも知らない事の一つや二つあるのは当たり前なのだが、それも常識の範囲での事。

 当たり前のように日常にいた知り合いが、一つ違う場所で出会ったらすでに自分の知っている相手ではなくなってしまったようで、遠くに行ってしまったような、そんな感想を抱いていた。

「それと、翔と会うのは一ヶ月ぶりぐらいだな」

 そして、隆太郎は更に妙な事を口走る。

「どういう事なんだ?」

 疑問に思った翔が訊き返す。

 正直、隆太郎の言葉の意味が分からなかったからだ。

 説明を求めるように視線を向けると、

「翔はさ、こういう話を知っているか?」

 隆太郎の語り出した言葉は、その答えになっていないものだった。

「人間って、例えば只の鉛筆を腕に押し付けただけで、火傷する事もあるんだ。それは脳が熱い物だと判断する事によって体が感じてしまうものなんだよ」

「それがどういう――」


「まぁ聞けって。それでな? それと同じようにそこにあると脳が認識さえしてしまえば、人間はそれに触れる事もできるんだ。そこに何もないとしても、それはすでにそこにある事となんら変わりはない」

 確かに、そんな話を翔も耳にした事はあった。

 だが、翔にはそれが自分の質問になんの関係があるのかは分からない。

 それが顔に出ていたのか、隆太郎は仕方がないといった風に笑みを浮かべた。

「要するにだ。俺はこの一ヶ月の間、学校にはいなかったって事なんだよ。確かにいたと思ったかもしれないが、それはそう思わされていただけって事なんだ」

 ――そういうことか。

 ロスターには常識が通用しない。

 とっくにその事は理解していたはずだが、改めて人間が行える事象を逸脱している事に舌を巻いていた。

「それが隆太郎のロスターとしての能力なのか?」

「いや、それは俺の力じゃない。学校には翔が知らないロスターが常駐しているんだ」

「まだ居るのか?」

 ロスターの絶対数はそれほど多いものではないと思っていたが、それは早計だったかもしれないと翔も考えを改め始める。

「なんか知らないだけで、どこにでもロスターがいるみたいだな」

「それほどあなたが重要な人物って事よ」

 今まで黙って二人の会話を聞いていた紫苑が話に加わり、そのままの流れでもう一人の男の紹介を始めた。

「こっちの彼の名前はヤン・イー。元々は刀剣術の達人だった上に、ロスターとしての力もかなり上で、この組織でも一・二を争う実力者よ」

 どことなく漂う雰囲気は、獣が牙を隠しているような鋭さがあった。

 細いながらも引き締まった肢体は、それだけで彼の実力を示しているかのようだ。


 ヤンと呼ばれた男は、一歩近づくと、

「よろしく」

 見た目に似合わず流暢な日本語で話し、すぐにそのままどこかへと行ってしまった。

 その様子を見ていた隆太郎は翔の方に向き直り言った。

「一回見ておきたかったそうだ。自分までも出なきゃいけないほどの人物の顔を」

「そう言われても実感は全然ないんだけどな。少なくとも俺には自分がそこまで重要な存在とは思えない」

 ただ日々を怠惰に過ごしていた翔にとって、自分が特別な存在であるという言葉には実感が持てなかった。

 他人と比べて賢い頭を持っているわけでもなく、並はずれた運動神経を持っているわけでもない。

 平凡。

 それが翔を表すのには適した言葉だった。

 そして、それは本人が一番理解している事でもあるのだ。

 隆太郎は困った表情を浮かべる翔の肩に手を置くと、

「それを確かめる為にここに来たんだろ?」

 そう言い、笑みを浮かべる。

「それもそうだな」

 答えながら、翔も同じように笑っていた。

「そろそろいいかしら?」

 二人の会話がキリのいい所だと判断を下したのか、紫苑は無表情のまま口を開いていた。

 その言葉に二人はお互い目を合わせ、すぐに隆太郎が申し訳なさそうな表情をして紫苑の方に顔を向ける。

「すまない。時間を取らせてしまったようだ。では行こうか」

「ええ」


 答えた紫苑を先頭にして三人はそのまま居住区を抜けると、一際大きい建物へと近づいていく。

 この辺りは居住区とは違い、機能性を重視しているのがよく分かる。

 必要外の物を限界まで排除しているのだろう。

随分とシンプルなイメージしか感じさせない周囲の光景に、翔は物珍しげな表情を浮かべて左右に目を馳せていた。

「それらしくなってきたな」

 最初は研究所と言われても、想像していた場所とかけ離れていた為に拍子抜けしたものだが、人工的な建造物のみが視界に入ると途端にその印象を大きく変える。

 隆太郎は翔の様子を横目で確認しながら、

「俺も初めて来た時そう思ったな。今でもこの雰囲気は苦手だ」

 過去を思い浮かべているのか、薄く息を吐いた。

「そうか? 随分似合ってると思うけどな」

「俺が冷たそうに見えるって事か?」

 隆太郎が冗談まじりの口調で翔に言うと、

「そういう意味じゃない。ただ勉強もできるお前はこういう所に居ても違和感がないって事だ」

「どーだか」

 二人は学校にいる時となんら変わりなくお互いに接していた。

 翔は自分が秘密にしていなければいけない事を知っている友達に妙な安心感があるようで、素の自分で接する事ができているようだ。

 大地にさえ話せない事が、本人も気がつかないうちにストレスとなっていたのかもしれない。

 そうこうするうちに、三人は一番大きな建物に辿り着いていた。

 翔たちの目的の建物は他の建物と違い、窓が少ないように見える。

 ただの錯覚ではないだろう。

研究所と言うより、一種の監獄のような様相をしている。

 入り口の前に立ち、紫苑がドアの横にある機械にカードを通すと、静かに金属製のドアが横へとスライドした。

 二人が入っていったので翔も中に入ってみると、ひんやりとした空気が体に纏わりついてくる。

 この感じた寒さが外界との気温の差によるものなのか、それ以外の理由によるものなのかはわからないが、正直こんな所に長く居たいとは思える筈もなかった。

「とりあえず報告がてら準備してくるから、少し待っててくれるか?」


「わかった」

 翔が返事すると、隆太郎は正面にある大きなエレベーターに乗りこんでいった。

 翔は隆太郎が乗り込んだのを確認すると、横を向いた。

 すると、

「あれ? いない」


 ほんの少し前まではそこにいたはずの紫苑の姿がそこにはない。

 入り口の方を見ても誰もおらず、周囲にも人影すら存在しない。

 こんな場所に一人にされた事に妙な孤独感を覚え、翔は当てもなく紫苑を探すために歩き始めていた。

 結構歩いている筈なのに、他に誰ともすれ違う事もない。

 静かな通路は、それだけで異質な空間を簡単に作り出してしまっていた。

「居住区の方には結構人がいたのにな……」


 自分の足音しかしない通路を翔がしばらく歩いていると、拓けた場所に出た。

恐らくここはロビーみたいなものなのだろう。

「あれは……」


 ベンチが並ぶロビーの壁際で、少し上を向き何かを見ている人影がある。

 それが誰なのかはわかっていたので、翔は近づいて横に並んでいた。

「こんなとこにいたのか」

 翔が声を掛けると紫苑は見ていた物から視線を外し、横を向くが、すぐに視線は壁に掛けられている絵へと戻されてしまった。

「この絵が好きなのか?」

 翔も同じように絵を見上げる。

「……」


 ところが返ってきたのは無言。

 その絵は片方の翼を失った天使が落ちていくのを、もう一人の天使が手を伸ばし掴もうとしている様子が描かれている。

 書きかけなのか、それともこれで完成なのかわからないが、手を伸ばし掴もうとする天使の表情は描かれていない。

能面のような顔からは何も読み取る事ができなかった。

 片翼を失っている方は落ちようとしているにも関わらず表情は穏やかで、相手の天使への配慮さえあるような優しい顔をしている。

 この絵が示したい事が何なのかは見る人によって違うはずだ。

 紫苑にはどういう風に見えているのかは翔には想像すらつかなかったが……。


「いたいた。探したぞ? 準備ができたから行こうか」

 二人が無言で絵を見ていたら、後ろから先程別れた隆太郎の呼ぶ声が聞こえ、二人は同時に振り返った。

 困った表情の隆太郎は勝手に動き回るなと言いたげに、苦笑いになっている。

 悪いな、と翔は手を合わせると、隆太郎へと近づいていった。

「どんな検査するんだ?」

 隆太郎の所まで辿りつくと、翔は開口一番にそう尋ねる。

「血液検査と脳波とかだな。血液から遺伝子情報の読み取りをしたり、睡眠時に特殊な体の変化などがないかどうかを調べたりする。他にも調べなければいけない事はあるんだが、それはまたの機会になるんじゃないか?」

「全部いっぺんにできないのか?何度も来るのは面倒なんだが」


 翔の提案に、んー、と隆太郎は顔を顰めつつ答えた。

「体に負担がかかり過ぎる検査もあるからな。きついけどやってみるか?」

「いや……。やっぱりやめとくわ」

 隆太郎の表情から嫌な予感を覚えた翔はそう答え、歩みを進める。

二人の後ろを追随するようにしていた紫苑が一瞬振り返り、ロビーにある絵をもう一度見ていた事を翔が気づく事はなかった。




  その後――翔は地下にある病院の施設のような部屋で血液検査やCTスキャン、レントゲンなどを撮られ、変な質問に答えるテストみたいなものまで受けさせられた。

 検査と名のつくものがある程度は退屈なものだとは翔も理解してはいたが、予想以上に暇すぎる事に不満の声を漏らしていた。

「だああ! だるいー!」

 そう言う翔が今いるのは別室の休憩所みたいな所だ。

 そこにはテレビもなく、雑誌もない。

 誰も居ないから話し相手すら存在しない。

「紫苑は何やってるんだろうな……」

 ボーっと手の中にある紙コップに目を落とし、翔は呟いていた。

 一人になると考えてしまう。

 協力とは言っていたが、結果次第では自分の扱いがどうなるかなど分からない。

 問題があると判断されれば、それは翔にとっておもしろくもない結末を用意されるかもしれないのだ。

 安易にここに来た事を後悔してしまいそうだったが、今更それについて考えても仕方がないと、翔は再び紙コップを口に運ぶが、

「空、か……」

 翔はそれを握りつぶすと立ち上がり、ゴミ箱へと放り込んだ。

 そのまま欠伸をしながら椅子へと戻ろうとすると、

「暇そうだな」

 急に掛けられた問いに翔は振り返っていた。

 いつの間に部屋に入っていたのか分からなかったが、そこには壁際で腕を組んで寄りかかっている男がいたのだ。

「いつの間に居たんだ?」


「さっきから居たぞ。そんな顔してるなんてらしくないな。不安なのか?」


「そういう顔してるか?」

 翔の質問に隆太郎は笑みを浮かべる事で答えた。

 本人も自覚していた事でも他人に指摘されると反発したくなる事も多々ある。

普段であれば不安じゃない、と答えていたかもしれないが、この時ばかりは翔も素直に認めてしまった。

「正直、これからどうなってしまうのかわからない。不安だよ……確かに」

 いつもの対応との違いに隆太郎は驚きを顔に貼り付けるが、すぐにそれを崩すと、

「ははは! お前でもそんな風に弱音を吐くんだな。俺にはいつも肩肘張って生きてきたように見えてたんだけど」


「……」


 翔はそう言う隆太郎から逃げるように視線を逸らした。

「俺はそんな強い人間じゃない。ただ流されて生きてきたんだ。何かがあった時にも人のせいにして自分の弱さは認めてこなかった」

 その様子を見ると隆太郎は寄りかかっていた壁から背中を剥がし、翔の下へと近づいていく。

「自分の弱さに気づける人間って本当は誰よりも強いんだよ。いきなりこんなことに巻き込まれて普通にしてられたら、そいつはただの馬鹿か精神破綻者だ」

 隆太郎は軽く言い、翔の肩をぽんと叩いた。

「お前は弱くないさ。初めての事に戸惑っているだけだよ。何かがあった時にお前なら逃げずに自分の答えを出せる時が来るはずだ」

「隆太郎……」


 翔は俯いていた顔を上げ、隆太郎の目を見た。

 こいつがここにいてよかった、と思える相手が居る事に少なからず感動を覚えていた。

 単純な奴と思われるかもしれないが、それだけで気分が幾分かましになる。

実際に自分が強い弱いかなんて関係ない。

逃げるなよ、と言われている気がした。


それから隆太郎は思い出したかのように手を叩く。

「今、紫苑の奴が翔の血液のサンプルを元に色々調べているみたいだ。後で結果がでると思うが、それまでに最後の検査をやっておくからな」

 その言葉と共に翔の視界では隆太郎の顔が歪んでいた。

 自分の意思とは無関係に周囲の景色が二重に揺れて見えている。

「最後の検査って……どんな、やつ、なんだ……?」

 翔はふらつく自分の体を倒れないよう留めながらそう言うと、自分を襲う急な睡魔に抗っていた。

 しかし、それも長くは続かない。

「効いてきたみたいだな。さっき飲んでいたコーヒーに睡眠薬が入っていたんだ。言ったろ?睡眠時の脳波も見なければいけないんだ」


 翔の体から力が抜けて倒れこむ。

それを隆太郎は支えながら呟いた。

「安心して眠ってろ。すぐに終わるさ」

 朦朧とする意識の中で、翔は最後にその言葉を聞いた気がしていた。


 ◇ ◆ ◇


――ここは、どこだ……。

ゆっくりと立ちあがった翔は、自分の体がある事を確認するように手を見つめていた。

 こんな所に自分がいる理由が分からない。

「確か、俺は隆太郎と話をしてて――」

 翔は記憶を辿る様に呟くと、気がついてから続いている鈍痛に顔を顰めながら額に手を置く。

 だが、その痛みはすぐに治まり、翔はゆっくりと顔を上げた。

「どこなんだここは……」

 翔が立っているのは幻想的な森の中。

 森と称してはいるものの、それは翔が知っている木とは程遠い。

 見たこともない程に美しいガラス細工のような木が乱立し、どこから差し込んでいるのか分からない淡い光に照らされた地面は、見る角度の変化によって虹色に光っていた。

「あれは、湖……?」

 そして、すぐそこに見えたのは光が織り成す芸術のような光景だった。

 近づく為に歩くと踏みしめた地面がシャリシャリ、と砂浜を歩く様な感触を返してくる。

 細かいガラス片が敷き詰められたかのように広がっているようで、それが光に反射してこのような色を生み出しているらしい。

 翔は湖の端でしゃがみ込むと、水の表面に触れた。

「っ……!」

その瞬間――そこから生まれては宙に浮かんでいく光の珠が水面に反射し、小さい月を無数に映し出していた。

 そんな現実離れした現象に呆然としながらも、翔は周囲を見回す。

 これは夢なのか?と考えている辺り、現実の物ではないと言う事だけはなんとなく理解はしているようだった。

 そして、翔の目はある一点で止まった。

他よりも一回り大きな木の下に座り、微笑んで翔を見ている少女が居るのに気がついた為だ。

「あの子は……」


 手繰り寄せられるかのように、ふらふらとそちらに歩いていく翔。

 近づくにつれて、少女が全裸である事も分かっていた。

 すでに体の線が見えているのに、なぜかいやらしい気分にはならない。

それどころか、少女の纏う神々しい雰囲気に何故か感動さえしている気がしていた。

 翔が少女と視線を交錯させたまま目の前までくると、

「座りませんか?」

 右手を地面へと指し示し、少女は座るように促す。

「あ、あぁ」

 翔は戸惑いながらも短く答え、地面へと腰を落ち着けた。

 見た事もない少女相手に素直に従っている自分に疑問を抱く。


 彼女の顔をもう一度確認する為に少女へと視線を向けると、

「少し……」


 少女は青い水晶のような色の瞳を閉じ、数秒瞑ると、ゆっくりと開きながら正面を見てこう言った。

「ある女の子の昔話を聞いてはもらえませんか……?」

 見つめてくる視線には、有無を言わさず黙らせる力があった。

 それ故に、翔は意識することなく頷いてしまう。

 強制ではなく聞かなければいけないような感覚に囚われて……。

 そして――少女はゆっくりと語り出した。


「その子は小さい頃から体も小さくて病弱だったんです。そのせいで、学校にもろくに行けず、友達はいませんでした」

 翔の隣で語る少女はずっと視線を湖へと向けている。

 その憂いを帯びた横顔は、見た目よりもずっと大人びていた。

「でもその子は寂しくはなかったんです。なぜならいつも優しく頭を撫でてくれる人がいたから」

 少女が仄かに笑みを浮かべると、周りの風景と相まって絵画の様に見えた。

 儚げで……壊れそうで……消えそうで……。

「本当に大好きだったんです。もしかしたらあれは恋だったのかもしれません」

「……」


 なぜ少女がこんな話を始めたのかは翔には分からない。

 それを自分に伝える事になんの意味があるのかも、語る事で何を求めているのかも理解はできない。

 しかし、それでも耳を傾けてしまうのは、何か感じるものがあるからなのか。

 それすらも分からなかった。

「ある日、その子はその人と一緒に家の近くの森を散歩していたんです。たまたまいつもより体の調子のよかったその子はちょっと悪戯をしてみたくなって、彼がこっちを見ていない隙に隠れました。すぐ見つかるだろうと思っていたのだけど、しばらくしても見つけてもらえない事に段々と不安になってしまうんです。だから隠れていた繁みから出て大声で何度も叫ぶんです。でも……彼は現れませんでした」

「迷子になっちまったんだな」

 翔がそう言うと、少女は頷いて続ける。

「そうですね。そのまま探し回ってるうちに自分がどこにいるのかも分からなくなり始め、少しずつ暗くなっていく空に余計に不安になって走り回って探したんです。そんな事をすればどうなるか想像つきませんか?」

 少女は地面に積もる粉を手で掬う。

 指の隙間からサラサラと破片が零れ落ちた。

「病弱な子だったんだよな……?」

 翔は言葉を濁しながらも、少女の言おうとする事を汲み取る。

 少女はそれが分かると、

「その子も自分の体が弱い事は分かっていたはずなんですが、すでにパニックになっていたんでしょうね。気が付いた時には、呼吸もままならないほどに衰弱して倒れてしまったんです」

 寂しそうな表情で告げた。

 確かに小さい子が一人で暗い森で迷子になってしまったら、と翔も納得していた。

 その時の不安といったら尋常ではないだろう。

 取り乱してしまうのも無理からぬ事だった。

「そのままその子も自分は死ぬのかな……って諦めかけていました」

 翔はその子の事を考えると、何かが引っ掛かる感じがしていた。

 こんな話は聞いたことがないのに、何かを知っているようなそんなもやもやとした感覚。

「その時でした。その子の前に知らない男の人が現れたんです」

「知らない男?」


「はい。その人はすごく優しい目をしていました。なぜか大丈夫な気がして安心したんです。それで男の人はその子に聞いたんです。生きたいか? と」

「それでどう答えたんだ?」

「もちろん死にたくない! って答えましたよ。そしたらその男の人はその子に力と病気に勝てる体をくれました」

 少女のそんな突拍子もない話に翔は顔を歪める。

 現実味のある話から、いきなり理解しがたい話に変わってしまった為だった。

 そして、それを少女に問う。

「力と病気に負けない体をくれるっていうのは、どういう意味なんだ?」

「そのままの意味ですよ? 少女は人間の存在を超えたんです……」

「……」

「どういう意味か分かりませんか……?」

 翔はそんな存在を知っていた。

 人間では不可能な力を持つ存在が居る事を。

「……ロスター」

 翔が小さく呟くと、

「そうです。その子はそこでロスターとして生まれ変わったんですよ」

 少女は立ちあがった。

 穏やかな風に流される髪が少女の表情を隠す。

 翔はそれを見上げながら、言葉を失っていた。

 掛ける言葉が見つからなかった。

 少女の言う『その子』とはここに居る少女の事だとなんとなく感じ始めていたから……。

「そして少し経ったら彼がその子を見つけてくれて無事に帰れたんです。見つかって安心したのか、少し涙ぐんでいましたけどね」

 嬉しそうに語る少女の姿に、先程の考えが正しい事を確信する。

「その日からです。その子は今までの病弱だった体が嘘のように元気になりました。友達もできて楽しい日々を送っていましたよ。毎日が幸せの連続でした。あの日までは――」


 微笑んではいるのだが、どこか悲しそうな少女の姿を見て、なぜか翔は心の奥に痛みが走ったような気がしていた。

 翔はその表情を見るのが辛いのか、目を逸らした。

「その子が元気になって初めての旅行でした。彼女の乗っていた車は事故に遭ってしまいます。その時にその子は一番大事な人を失ったんですよ」


「いつも一緒だったっていう?」

 翔は俯いたまま訊いていた。

「はい……。その事故の時に、彼は咄嗟にその子に覆いかぶさる事で庇ったんです。その子が気がついた時には彼は頭から血を流して亡くなっていました……。ただその子は自分が生きていた事よりも、彼が死んでしまったショックで呆然としていました。信じられなかったんだと思います。涙さえ出ませんでした」

 本当に痛いときに痛いと言えないように、本当に悲しいときは涙も出ないものなのかもしれない。

 自分では経験したことがない為に、それについて明言する事ができないのを理解しつつもそう結論付けていた。

 少女はゆっくりと足を進め、湖の縁に立つと、

「思い出したんです」

 翔に背を向けたまま呟いた。

 その背を見つめながら、翔はゆっくりと腰を上げる。

 そしてズボンに着いた破片を払いながら、少女の隣に並んだ。

「何をだ?」

 そう問いかける翔に、少女は目を合わすことなく答えた。

「元気な体と一緒に与えられた力の事です。誰かに教えられたわけではありませんが、ただ漠然と、どうすれば使えるのか、どのような報いがあるのかがわかりました。それでもその子は願いました。彼を救いたいと……」


「……」


 あまりに真剣な表情に、口を挟むことさえ憚られる。

「そして、その子は使いました。その力を……生命を与える力を」

「生命を、与える……?」

 思わず口から出ていた言葉に少女は頷いた。

「そうです。死する者に生命を与え生き返らせる力です。そして――その子は対価によってこの世から存在が消えました」

「!」

 少女の告げたその言葉の意味に愕然とした。

「ロスターの能力が強力であればあるほど、その代償も大きいものなのです。死する存在を蘇らせるなんて、その子の存在だけで見合っているのかさえ疑わしいです」


 少女は自分の顔が泣き顔に歪んでいくのを止める事が出来ない。

 必死に下唇を噛みしめて耐えているその姿を見てしまっては、翔がこんな行動をとってしまった事も仕方がない事なのかもしれない。

 それが更に少女を苦しめる事になるかもしれないなどと、翔に分かるはずもないのだから……。

「あ、あの……」

 少女は自分を包み込んでいるのが翔だと気がつくと、動揺に言葉を震わせていた。

 優しく抱きしめられる事を甘んじて受け入れてしまえば、決壊したダムのように湧き上がる感情に押し潰されてしまう事が分かっていたから。

 少女は押し返す様にして、翔の胸に手を当てる。

 ところが、

「苦しかっただろうな……」

 翔が優しく言葉を掛けると、少女はビクリと肩を震わせた。

 その話が自分の事だとは一言も言ってはいない。

 だが、少女にだって分かっていた。

 気がつかれても仕方がない態度を取ってしまっている自分が居る事を……。

「な、何を言って……」

 もはや少女の声は聞きとる事すら困難なほどに小さく弱々しい。

 少女は翔の胸に顔を埋めたまま、もう顔を上げる事などできなくなっていた。

 見せる事になるのは、もう泣き顔でしかないのだから。



 それからしばらく経つと、少女はゆっくりと翔から離れていった。

 若干目は赤いものの、すでに瞳には涙は浮かんでいなかった。

「お恥ずかしい所をお見せしました……」

 少女は照れを隠す様に俯き、頬を朱に染めている。

 感情の制御が出来る様になったのか、そこには先程の様な弱々しい姿は見られない。

「いや、俺の方こそなんか勢い任せであんな事を……ごめんな」

「そんな! 私があんな風にしてしまったから!」

 少女が慌てた様に否定すると、二人は目を合わせて押し黙る。

 そしてどちらともなく、

「はははっ」

 二人は声に出して笑っていた。


 周りの光も祝福するかのように明るさを増し、それが別れの時だと翔にも何故か分かっていた。

 少女も理解しているようで、少し離れたのが分かる。

「……彼に会えるといいな」

 そのまま翔は優しく笑んで言う。

「そう……ですね!」

 少女が一瞬浮かべた曖昧な表情には気がつかない。

そして、翔は再び口を開いた。

「じゃあ、またな」

「はい。また……」

 その時にはもう少女の笑みに翳りは無い。

 小さく手を振る少女に翔が頷くと、その世界はゆっくりと形を失っていった――彼女だけを残して。







「さよなら」

 少女の呟きは風に流されて消えた。

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