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三章 新旧闘乱


 ◇ ◆ ◇


 あの後。

 大地の家で楽しい食卓を囲んだ翔は、二人に世話になった事に対する感謝を伝え、自宅へと帰っていた。

「結局、分からない事がいっぱいだな……」

 自分を襲った男の事、紫苑の言っていた事、里佳に伝えられた香苗からの自分への言伝、そのどれもが自分の理解が及ばない所で起きているのを知ってしまった。

 そして、そのすべての中心に自分が居るという事に少なからずの困惑を浮かべている。

「協力すればすべてを教えてくれる、か……」

 妙に疲れのたまった体は自分のものではないかのように動きからは精彩さを欠き、ベッドに寝転ぶ翔の視界は少しずつ暗闇が覆い始めていく。

 そう呟いた事さえ自分の意思なのか分からないままに、その部屋は小さな寝息だけが支配するだけの空間になっていった。




 朝を告げる日の光がカーテンの隙間から差しこんでいた。

 どんな不思議な事に巻き込まれようとも、万人に同じように朝はやってくる。

 それは翔にとっても例外ではない。

 目を覚ました翔が最初に目にしたものは見慣れた天井だった。

「夢を見ていた気がする」

 そう呟くが、それがどんな夢だったかはまったくと言っていいほどに覚えていなかった。

 ただ、妙に悲しい夢だった気がする。

 心にぽっかりと穴が開いたみたいな、手に持っていた大事な何かが指の隙間から零れ落ちていってしまったような虚無感。

 そんな気持ちを抱いてしまっていたのだ。

「用意するか……」

 翔はそう零すと、階下にある洗面所へと向かう。

洗面台の前に立つと、顔を洗うために蛇口を捻った。

 そのまま何気なく鏡を覗き込むと、

「これは……」

 毎日見ている自分の顔に違和感を持った。

 目の端から頬を辿り、顎までの軌跡を描きだしている一本の薄い線。

 それは、

「涙の……痕か?」

 当然の事だが、起きてから涙を流した覚えはない。

 必然的に寝ていた間に流したという事になるのだろう。

 それが先程から感じている寂しさの影響なのかは分かりかねるが、何かしらの関係があるとしても不思議ではなかった。

「おかしな事ばっかりだな」

 翔は自嘲的に吐くと、そのまま顔を洗い出だした。

 涙の痕が早く消えるように、と。


「あら翔、今日はちゃんと起きたのね。ご飯できてるわよ」

 洗面所を出てから部屋で制服に着替え、すべての支度を終えてリビングに行くと、既にテーブルには朝ごはんが用意されていた。

 海苔に納豆、白米とわかめの味噌汁。

 定番の和食メニューだ。

出来立ての味噌汁からは湯気が出て、普段であれば起きがけの体に染み渡り目を覚ましてくれるはずが、今日に限っては食べる気にさえならなかった。

「今日はいらないから」

「え?ちょっと、もう行くの?」

 リビングを出て玄関に向かおうとする翔に、エプロンで手を拭きながら母親が問いかける。

 現在の時間は七時半。

 確かに学校に向かうには早い。

こんな時間に学校に向かうために家を出るのは初めての事。

 母親としてもそれを不審に思うことは当たり前だろう。

「あぁ。今日はなんとなくだよ」

「そう……気をつけて行くのよ」

 翔の母親は何か感じるものがあるのか、妙に心配そうな表情を浮かべたままそう答える。

「いってきます」

 翔は玄関の扉を開きながらそう言うと、そのまま出ていく。

 母親は翔の出ていった玄関の扉をしばらく見つめたまま立ち尽くしていた。




「こうなる予感はしてたんだよ」

 翔は学校へ向かう途中にある公園のベンチに座っていた。

 もちろんそれは前日の事件があった公園。

 あんな事があったのに、そこに居る事ができる自分の楽観さに不覚にも笑ってしまいそうにさえなる。

 だが、なんとなくここで確認したかったのだ。

 昨日の事が幻や妄想の類ではないという事を。

 それが実際の出来事だと示すように、そこには生々しい傷跡を残していた。

 倒れた木は半ばから断たれており、大男が折った時のままになっている。

こんな相手によく生きていたものだ、と翔は薄く溜息をついた。

「考えは纏まったのかしら?」

 不意に後ろから聞こえてきた声が誰のものかなんて、確認するまでもなかった。

 そんな喋り方をするのが誰かも分かっていたし、このタイミングで来るなら彼女だという事は翔も理解していた。

「そうだな」

 後ろを向く事なく答えた翔は、そのまま続ける。

「最初は狙われてるって言葉も信用してなかったんだけどな。でも実際に昨日襲われてロスターという存在の脅威が身に染みて分かったんだ。もちろん紫苑たちの事を完全に信用した訳じゃないけど、このまま一人で悩んでても解決するとは思えない」


「……」

 紫苑は無言のまま翔の背中を見ていた。

「だからさ……協力するよ。何も分からないまま殺されるのも嫌だし。詳しい話を教えてくれ」

 紫苑は一瞬の間を置くと、

「賢明な選択だと思うわ。もしもあなたが断ったとしたら、強引な手段を取るつもりでいたから」

 そんな容赦のない言葉にも翔は笑みを浮かべていた。

 そんな言い方しかできない紫苑が、言葉の意味ほど冷たい人間には思えなかったからだ。

 ただ少し不器用なだけ、そう感じた。


「それで話してくれるんだろ?」

 翔はベンチから立ち上がると、後ろに振り返った。

 すると、

「その前に行かなければならない場所があるわ」

「行かなきゃいけないとこ?」

 紫苑はそうよ、と告げると、おもむろに携帯電話を取り出した。

「私よ。ええ。いいからすぐに来て」

 一方的な物言いで携帯電話に告げると、すぐに切ってしまった。

 あれでは電話の相手が大変そうだと感じつつ、翔は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 先程、自分が感じた紫苑は不器用なだけ、という考えに訂正を加えたくなってしまったが為に。

「すぐに来るはずだから、入り口で待ちましょう」

 翔はその言葉に相槌を打つと、既に歩き始めている紫苑に追随するように横に並ぶ。

「どこに向かうのか教えてくれないのか?」

「必要無いでしょう。着けば分かる事よ」

「確かにそうだけどさ……」

 腑に落ちないが、今はこれ以上何を言っても無駄だと感じ、翔は黙る事を選んだ。

それから、公園の入り口で迎えが来るのを待ってから数分が経った時。

「来たようね」

 紫苑は不意に顔を上げてそう言う。

 翔がその言葉に反応し、顔をそちらに向けると大通りの方から一台の大型の車がやってくるのが見えた。

 全体的に黒で塗り固められているその車は窓ガラスに至っても黒で、中が見えないようになっている。

 危なげなくこちらに向かうその車を見てみると、おかしな所があるのに翔は気がついた。

「誰も乗ってない……?」

 その呟きはもっともだった。

現に、前から迫りつつある車の運転席も助手席にも誰かが乗っているようには見えない。

 だが、それでも車が動いているという事は、誰かが操縦していると仮定せざるを得ないのは当然の事だった。

 誰も乗っていなければ車が動く事はないのだから。

「そんなはずがないでしょう。馬鹿ね」

 驚きに目を見開かせる翔を、紫苑はあっさりと切り捨てて言う。

「いや、俺だって本気でそう思ってる訳じゃないんだけど……」

 ふと漏らした言葉にそれほど辛辣な言葉が返ってくるとは思っていなかった翔は、若干不貞腐れたように零す。

 紫苑の視線はそれでも反応を示すことなく車へと向けられていた。

 そして車は二人の目の前に止まると、同時にエンジンの駆動音も消える。

 そのまま運転席側の扉が開き、中から出て来たのは、

「いきなり電話が来たと思ったら、言いたい事だけ言って切っちゃうなんてひどいですよー」

 頬を膨らませながら、先程の電話の対応について文句を言う少女の姿だった。

 いや、少女と言うのは語弊があるかもしれない。

 見た目は確かに少女と言ってもいいのだが、彼女は正真正銘の大人なのだ。

「思っていたより早かったわね?」

「紫苑ちゃんが急かしたんじゃないですかー!」

 翔は二人の会話を聞きながら、運転席に誰も居ないように見えた原因を理解していた。

 彼女の背丈ならばそう見えたとしても、それほどおかしい事ではない。

「まぁ、姫ちゃんが迎えに来るのはなんとなく予想してたけどな」

「随分と落ち着いていますねー? こんな事に急に巻き込まれてると言うのに。何かあったんですかー?」

「いや……」

 翔は一瞬頭に浮かんだ大地の顔を消すかのように首を振った。

 千秋はそんな翔の様子に首を傾げながら、二人へと告げる。

「とりあえず話は中でしましょー。乗ってくださいなー」

「ええ」

「分かった」

 翔と紫苑は返事をすると、車へと乗り込んだ。

 運転席に乗り込んだ千秋はキーを回しエンジンに火を入れる。

 そのまま千秋がアクセルを踏み込むと、車はゆっくりと発進した。


 それからしばらく経った時、翔が重くなっていた口を開いた。

「なぁ。二人は俺に協力しろって言ったよな?」

「それがどうかしたの?」

 助手席に座る翔に紫苑は答える。

「協力って具体的には何をすればいいんだ?」

 詳しい話も何も聞いていない以上、翔がその疑問を持つのは当然だった。

「簡単に言えば、研究の手伝いですかねー?」

 その質問には千秋が運転しながら答える。

「研究の手伝い?」

「そうですよー。私たちの研究の被検体として協力して欲しいんですー」

 翔が横に顔を向ける。

「はっきり言ってしまえば、私たちの研究所にとって翔君は最高の素材なんですよー」

「本当にはっきり言うんだな」

 千秋の言葉に悪意を感じ取れなかった翔は、素直にその言葉に苦笑いを浮かべた。

「隠してごねられる方が面倒なのよ」

「紫苑ちゃんー。そんな言い方しなくてもいいじゃないですかー」

 千秋はその言葉を諌めると、翔の方を向きごめんとばかりに少しだけ頭を下げた。

 翔は気にしていない事を手で示すと、紫苑に話しかける。

「あのよ。紫苑ってさ」

「何かしら?」

「なんか無理してないか?」

 翔の言葉に一瞬にして車には静寂が訪れる。

 千秋は素知らぬ顔で運転を続けているし、翔からは後部座席に居る紫苑の顔を見る事はできない。

 しばらくすると、

「……どういう意味かしら?」

 紫苑がやっとの事でその質問に答えた。

「その喋り方もそうなんだけど。意図的に人を遠ざけてるっていうか……言ってる俺もよくわかんないんだけどな」

「……」

 はは、と翔が頭を掻きながら言うが、結局、それに対する返答はなかった。




 既に公園を出て三十分程が経とうとしていた。

 その頃には周りを見渡してみると、すでに緑に囲まれた山道に差し掛かる所だった。

 この時期の山は緑に彩られ、すぐ下の川は太陽の光を反射し、静かな景観を映し出している。

 最初の頃は千秋がちゃんと運転できるかどうか翔も不安に思っていたが、取り越し苦労のようだった。

 前見えづらそうにしているが、一応は問題ないらしい。

「そういえば、体の調子はどうですかー?」

 各々が自分の世界に浸り始めている頃、千秋が不意に翔に語りかけた。

 翔は窓の外に向けていた視線を外すと、

「体の調子?」

 千秋の質問の意味が読み取れずに訊き返していた。

「そうですよー。右腕が折れてて痛そうだったけど、ちゃんと治ってるー?」

「ああ。特になんともな――」

 意識することなく答えようとするが、その質問のおかしさに気づいた翔が言葉を止める。

 驚きを顔に貼り付けて運転席の方に乗り出すと、

「なんでそれを知ってるんだ!?」

 叫ぶように声を張り上げ、更に続けた。

「気が付いたら痛くなくて変だとは思ったんだよ!まさかあいつも紫苑達の差し金なのか!?」

翔は千秋の肩を掴んで揺らす。

「ちょ、ちょっとー。危ないですよー! 運転してるんだからー!」


 翔の暴挙に車は大きく左右に傾ぐ。

「わりぃ」


 自分がいかに危ない事をしていたのか気づいた翔は、少し落ち着いて自分の席に座る。

すると、紫苑が千秋の代わりに答えていた。

「昨日、私たちも公園にいたのよ」

「ちょっと待てよ。だったら俺があいつに襲われてるのも見てたって言うのか?


「そうよ」

 にべもなく告げられ、翔は口を開いたまま言葉を失う。

 見ていたのならば、なぜ助けてくれなかったのかという考えや、それを黙って見ていた事に妙な疑いまで生まれてしまったが為に。

「まさかとは思うけど、紫苑達が仕向けたんじゃないよな?」


 紫苑達が公園にいて俺が襲われているのを黙って見ていたのならば、奴を差し向けたのがここに居る二人である場合も大いにあり得る。

 この後、研究所で同じような目に遭う可能性も否定できない。

 一回疑い出せば、思考の負の連鎖は留まる事を知らなかった。

「何を勘違いしているのかわからないけど、あれは私たちじゃないわ」

「そうですよー。私たちが駆けつけた時には、すでに翔君は倒れてましたからねー」

「駆けつけたって……。なんで俺がそんな事になってるって分かったんだ? もし紫苑達が関わってないんだとしたら、すぐに駆けつけるなんてことできるはずないだろ?」

 そうなのだ。

もしも紫苑達が目の届かない場所に居たとしたら、その状況を知り駆けつける事などできないはずなのだ。


「それはですねー。実は――」

「千秋」

 千秋がその質問に答えようとする時の事だった。

 紫苑が千秋の名前を呼ぶと、

「気づいてましたよー。随分としつこいお客さんのようですねー」

 答えると、千秋は一気にアクセルを踏み込んだ。

 急な加速は慣性の法則に従って翔を助手席に貼り付ける。

「ちょ、いきなりなんなんだよ!」

「黙っててくださいー! 喋ると舌を噛んじゃいますよー」

 千秋は先程とは打って変わった激しいハンドルさばきで山道を曲がっていく。

 人の手の加えられていない道は大きめの車が通るには細く、所々に飛び出た木の枝が車の側面に当たる音がする。

土の色が剥き出しの路面は、進むたびに不快な振動が三人を襲っていた。

「一体、何だって言うんだよ!?」

 激しい遠心力に左右に傾ぐ体を支えながら、翔は問いかける。

「追手よ」

 紫苑は言いながら後部へと視線を向けていた。

 翔がその答えに後ろを向くと、信じがたい光景が目に入っていた。

「冗談だろ……?」

 その呟きはもっともだった。

 これほどの悪路を苦にする事もなく、大型のバイクが砂塵を巻き上げて追いかけてくる様子が見て取れたのだ。

 ヘルメットも被らずに追いかけてくる大男の姿を翔は見たことがある。

あのスキンヘッドに黒のサングラスを忘れるはずもなかった。

 昨日、公園で翔に襲い掛かったあの大男だったのだ。


「なんであいつが……」

 大男の姿を見たらその時の恐怖が翔を襲う。

 腕をたった一振りしただけで、あの大きな木をへし折ったのだ。

 あの蹴りを自分で受け、その力は身を持って体験している。

よく生きていたものだ、と今更ながらに体に震えが生じていた。

一発で意識を持っていかれそうなほどの衝撃。

あの反則なまでの暴力に対抗する術など、あるのかどうかも翔には想像すらつかない。

「大丈夫ですよー」

 翔は意識しないうちに、強く握っていたのだろう。

握られた拳が震えていたのに気づいていた千秋はそう言っていた。

慰めにもならないその言葉だが、現状二人に頼るしかない翔はそのまま口を閉ざすしかなかった。

「あの程度の使い手に私達がやられる事はないわ」

「そーそー。私だけでも十分だよー」

 根拠のない言動。

 だが、二人の余りに飄々とした態度が、平気かもしれないという安心感を翔に与えていたのは確かだった。

 その時――

 大きな音と共に乗っていた車が揺れた。

 何が起きたのか理解できない翔とは違い、紫苑には見えていたようだ。

「随分と、下品な戦い方ね」

 そう言った紫苑の視線の先を確認すると、信じられない光景が翔の目に入ってきた。

 もはや笑う事しかできないのかもしれない。

 こんな悪路で大きなバイクを片手で操り、走っている途中でもぎ取ったのか、男は自身の腕の数倍はあろうかという大木を手にしていた。

 もはやすでに常識など通じない世界なのだろう。

 男が腕を振るうたびに車が大きく傾ぐ。

「んー……まずいですねー。さすがにこんな道ではバイクと車じゃ機動力が違いすぎますよー」

 言うや否や、顔に翳りを見せる。

抜群の運転能力を見せていた千秋だったが、限界が来ていそうだった。

 ますます細くなっていく道をかなりの速度で疾走していく二台。

 なんとか逃れていた翔達だったのだが、男が起こした次の行動でついに均衡がやぶられる事になる。

 先程まで振り回していた大木を、男は投げつけてきたのだ。

 車に当たるかと思われた大木は車から逸れ、助かったかと思いきや、

「どこに投げてるんですかねー。へたくそなんだからー……って、うぎゃー!」


 外れたと思われた大木は、翔たちの乗る車を越えて前に落ちた。

 かなりの速度を出していた車が急に止まるなどできるはずもない。

衝突する!と目を瞑った翔だったが、いつまで経ってもその衝撃は襲ってはこなかった。

 恐る恐る目を開いてみると、

「あれ……?」

 遥か後方で、車が木にぶつかり大破しているのが見えた。

 あの一瞬でどうやって脱出したのかなど、翔には理解する術はない。

「危なかったですねー」

 声がすると、翔の目の前には千秋の顔があった。

 翔は慌てて動こうとするが、足が地に着かない。

 不審に思い、自分の状況を落ち着いて見てみると、顔を引き攣らせた。

 翔は紫苑に猫のように持ち上げられていたのだ。

「ちょ、ちょっと離してくれ!」


 焦りと恥ずかしさから翔が頼むと、紫苑は掴んでいた翔の服を手離した。

翔は浮いていた体が重力に引かれ落ちていくのを感じ、受身を取ろうとしたが無様に顔から落ちてしまう。


「ぐえ」

 ――あんな細い体のどこにこんな力があるんだろうか……。

 段々と現実離れした状況を目の当たりにしている翔は感覚が麻痺し始めているのか、冷静にそんな事すら考えていた。

 そんな矢先に、

「悪いが状況が変わったんでな。そいつを渡してもらおうか」

 翔が声のする方に顔を向ければ、大男がこちらに近づいてくるのが見えた。

 すると、翔を庇うように紫苑と千秋が前に出る。

「それは残念でしたねー。上司の方に仕事は失敗したとお伝えくださいなー」

 男を嘲るように言う千秋と、視線だけで射抜く紫苑を見ても男は怯む様子も見せない。

相当の自信があるのか、その歩みには迷いなど一切感じられない。

 あれだけの技量を持っているのだ。

当然といえば当然とも言える。

「千秋」

 一人現状についていけてない翔が全員の行動を少し後ろで見ていると、紫苑が千秋に向けて言い放つ。

それだけで千秋は理解したのか一度だけ頷くと、大男の方に一歩近づいた。

「ここは私の仕事みたいですねー。悪いですけどお帰り願いますー」

 そう言うと翔の方をちらっと見て、笑顔で言う。

「大丈夫ですから、先に行って待っててくださいねー」

「大丈夫って……」


 いくら本人が平気とは言っても、あんな大男を相手に一人で立ち向かうのを黙って見過ごしていいのか疑問に思う。

 確かに役に立つ事などできないはずだし、ここに居るのが逆に足手まといになるかもしれない。

だが、このまま置いていくなど、本能が許しても理性が納得できるものではなかった。

翔が困惑に顔を歪めていると、

「行くわよ」

 紫苑はその場で動けなくなっている翔を、強引に引っ張って奥に進んでいく。

「ちょ、ちょっと待ってって! 本当に大丈夫なのかよ!」


 留まろうと力を込めても全く効果がない事に、半ば諦めながらも紫苑に問う翔。

「いいのよ。あれが千秋の仕事だから。私の今の優先事項はあなたを無事に研究所まで届ける事なのよ。それにあなたがあそこに居ても邪魔になるだけだわ」


 納得したわけでもないが、それは事実なのだ。

 翔はあの男になす術もなく、ねじ伏せられたことを思い出す。

 そのまま苦々しげに口を歪めると、翔は体に込めていた力を抜いた。

「くそ……」

 紫苑は無言のまま、そう吐き捨てて大人しくなった翔を引っ張っていった。




 二人の様子に本能で何かを感じ取ったのか、鳥たちが逃げ出していく。

 風が擦る木々の揺らめきも、妙に周囲にはっきりと響く。

「随分親切なんですねー。黙って行かせてくれるなんてー」

 二人は静かに向き合っていた。

これから戦うとは思えないほどの落ち着きを見せて。

「知れた事を言う。二人同時に相手するのは俺でも骨が折れる。お前を倒した後に追いかければいいだけの話だ」

「あらあらー? 私のことを随分甘く見てくれるもんですねー」

「甘くなど見てないさ。知っているぞ、新島千秋。別名ハイド・ザ・スナイプと呼ばれるお前の事はな」

 余裕の表情を見せていたはずの千秋の目元がピクリと動く。

 そして、すぐに笑みを顔に浮かべて答えた。

「懐かしい名前ですー。知っていても向かって来るんですねー?」

「ふっ、お前たちは古い。主の下で力を授かった我らに負ける要素などない」

「じゃあ試してみましょうかー」

 言動こそ変わりないが、男の言葉に一つの可能性を見出し、千秋は誰にも聞こえる事はないほど小さな声で一人呟いた。

「思ったほど簡単ではないかもしれませんねー……」

 息を吐くと、千秋は地面を蹴って飛び出していた。




 拳が生み出す風圧がうねりとなって千秋の髪を掻き乱していた。

 二人が激しく動いた後に残るのは、踏みしだかれてその身を横たえた草花たちの姿だった。

「っととー」

 千秋は大男の力任せな攻撃を避け続けている。

 拳が通り過ぎた後に聞こえる風斬り音だけで、その威力は窺い知る事ができる。

 だが、それも当たらなければその効果を発揮する事はなかった。

 確かに大きな体とは不釣合いなほど俊敏な動きは、常人からしたら反応できる速度を逸していた。

 ただ、千秋にとってはこの程度の攻撃を避ける事は、児戯にも等しいものだったが。

「当たらなければ、ただの扇風機ですねー」

「言ってくれるな。だが、避けてるだけじゃ俺は倒せないぞ」

 確かにその通りではあった。

 避ける事が可能でも、避けているだけでは目の前にいる男を倒す事は出来ない。

 相手の実力から言って、そうそう隙を見せるとも思えなかった。

しかし、はっきり言ってしまえば、千秋からすれば倒す事よりも時間稼ぎが優先なのだ。

自分たちの目的地である研究所に二人が着いてくれれば、とりあえず敵も簡単には攻め込むのは不可能。

翔の近くには紫苑も一緒にいるので、その点も問題はない。

「ちょこまかと」

 男は呟くと、千秋を掴もうと腕を振るう。

 千秋はそれに気がつくと、男の腕を蹴り飛ばして力の方向を変えた。

 その反動で男が踏鞴たたらを踏んだ瞬間に、千秋が蹴った勢いに身を任せて踵を叩きこもうとする。

ところが男は無理に体勢を整えてそれを叩き落とした。

 お互い、そう簡単に決定打を与える機会が訪れない事を悟り、一度離れる。

そのまま相手の出方を探る為に二人は沈黙した。

目を相手に向けながらも千秋の思考は、男の更に奥、乱立する木々の向こうへと飛んでいる。

すでに翔と紫苑は自分の居る場所からかなり離れているだろう、と千秋は考えていた。

もう少し経てば、自らも逃げる事が可能ではあった。

そして、逃げる事や隠れる事に関して言えば、千秋の能力は他に追随を許さない程に適しているのだ。

千秋が持つ能力。

それは『同化』と呼ばれるもので、無機物と自身の体を一体化させる能力であった。

要するに『生』を持たない物ならば、体をその中に隠す事が可能なのだ。

逆もまた然り。

物質を体の中に隠す事もできる事から、その能力の利便性は多岐に渡る。

同化している物質を破壊されればそのダメージが自分に返ってくるという欠点を差し引いても、十分に強力な能力であった。

それ故に、逃げる事はいつでもできると考えた千秋は選択肢を変える事にしたのだ。

「少し頑張っちゃいましょうかねー」

 千秋はそう零すと、大男を倒す為に一歩前に出た。

後の憂いを無くしておくのも吝か(やぶさか)ではないと思考する。

少なくともここで倒しておけば、次に翔がこの男に狙われる事はなくなるのは確かなのだ。

その考えを内に秘め、千秋は一気に飛びかかった。

 当然、様子を見ていた男は迎え撃つ体制を取っている。

「見えているぞ!」

「ですよねー」

 男は裏拳を放つ要領で、楽しげに声を上げる千秋に向かって腕を振りかざす。

 顔面を狙ったその拳を千秋はしゃがみ込む事で避けると、そのまま立ち上がる反動を利用し、無防備に晒された顎に向けて拳を繰り出した。

「甘い!」

 だが、男もすでに反応していた。

 掬い上げるようにして放たれた拳を迎え撃つ為に腕を十字にして、下からの攻撃に対して防御をする。

 しかし、その直後――

「何!?」

男は千秋の姿を見失った。

 千秋が顎に向けて放った拳はフェイント。

殴るように見せかけた瞬間、先程までの速度とは比べる事もできない速さで後ろに回りこんでいた。

「っていー」

 千秋は背を向ける男の後ろで二メートルほど跳躍すると、空中で横に一回転しながら男の首筋に蹴りを叩き込んだ。

 瞬間――男は数メートルほど吹き飛び、近くにあった岩へと頭から衝突する。

 手ごたえはあった。

 牛くらいなら首に叩き込めば絶命するくらいの力で放ったのだ。

 いかにロスターといえども、延髄にあれほどの蹴りを放たれて無事であるはずがない。

「意外と呆気なかったですねー」

 千秋は音もなく着地して呟くと、倒れている男へと近づいていく。

 パラパラと、衝突した岩から小さな石が男の背中に零れ落ちていた。

 すぐ近くまで行き、男の生死を確かめるべく手を伸ばす。

その時――

「!」

 千秋は腕を掴まれていた。

 あまりにも不用意に近づきすぎたのだ。

 焦り、掴む腕を振り払おうとするが、男の想像以上の力に成す術もない。

 男は何事もなかったかの様に立ち上がると、そのまま千秋をぶら下げるかのように片手で持ち上げていた。

 正直、千秋は男の事を侮っていた。

まさか無傷だとは思ってもいなかったのだ。

ただ、蹴り飛ばした瞬間の違和感。

 あの金属を蹴りつけたような硬さに疑いを持つべきであった。

「随分とタフですねー」

 状況だけを鑑みれば生殺与奪は男にありそうだが、持ち上げられても余裕の態度だけは崩さなかった。

 これが戦うべき者の覚悟と在り方であると千秋は考えているのだ。

「ふっ、俺は自分の筋肉を硬質化できるんだ。そのまま攻撃すれば岩を砕き、防御する時には鉄のように硬い体がダメージを受けさせん」

 そう言いながら、男は腕に力を込めていく。

 万力に潰されているかのような圧倒的な握力に、掴まれた腕が悲鳴をあげていた。

「っ……! 女の子に乱暴すぎじゃないですかー」

 痛さに顔を歪めながらも、弱みを見せようともしない千秋に、

「誰が女の子だ。年増のババァがよく言うもんだな」

 その言葉と共に男は握っていた腕を振り回し、投げつけた。

 そのまま千秋は木にぶつかると、背中の衝撃に息を詰まらせる。

 衝撃で木の枝からは数枚の葉が宙を舞っていた。

「楽にしてやろう」

 とどめを刺そうと近づこうとしていた男。

 だが、後数メートルという所で千秋の纏う雰囲気が変わっている事に気がつき、その足を止めた。

 先程までとは千秋から滲み出る気配が明らかに変わっている。

「誰が……」


 両手をぶら下げて、ゆらりと立ち上がる。

 顔は俯くようにしており、前髪が表情を隠すように揺らめいている。

「年増……?」

 そして、その言葉を機に顔を上げた千秋はまるで気が狂ったかのように笑っていた。

 微笑むや、普通に笑うのとはわけが違う。

 顔は笑っているが、目だけは笑っていなかった。

 裂けそうな程に口を横へと広げると、両手を胸の前で交錯して左右に広げる。

そんな千秋の両手には数本のナイフが握られていた。

 

 ◇ ◆ ◇


 千秋と男が向かい合っているその頃――

「なぁ」

 前を走る紫苑に遅れないように走りながら翔は話しかけた。

「何かしら?」

「姫ちゃんはあんな筋肉バカにどうやって勝つつもりなんだ?」

 翔のその言葉を合図に紫苑は走るのをやめた。

 急に立ち止まった紫苑にぶつかりそうになりながらも、翔は慌ててブレーキをかける。

 休みなく走り続けていた為、翔の体に圧し掛かる倦怠感は凄まじいものだった。

 紫苑は振り向くと、息切れをしている翔を透き通るような蒼い目で見つめる。

 彼女は疲れなど一切ないのか、汗一つ浮かべてはいない。

「あなたは何か勘違いしているようね」

「どういうことだ?」

「そもそも、ロスターというのは普通の人間とは次元が違う身体能力を有しているの。確かにあの力は私や千秋とは比べ物にならないほどの腕力かもしれないけれど、これくらいなら私にも可能よ」

 言葉の終わりきらないうちに彼女はすでに行動に出ていた。

 紫苑は一歩横にステップしたかと思うと、そのまま足裏を木に叩きつけた。

「すげぇ……」


 翔はその流れるような蹴りに、不覚にも見惚れてしまっている。

 細く長い脚の線が扇情的な動きを伴って地面に戻る頃には、大きな音と共に、紫苑が蹴りつけた木は蹴った場所を中心にして折れてしまっていた。

「千秋にもこれくらいはできるわ。ただ千秋の場合は力と言うより速さと、経験の高さ、それに武器の使い方がうまいのが強みなの」


 スカートの埃を落とすように両手で払うと、紫苑は歩き出す。

 置いていかれないように紫苑の後に続き、翔は訊き返していた。

「武器? 例えそうだとしても、持ってなかったら意味ないだろ?」


「持っているわよ」

「え……?」

 予想外の回答に翔が漏らす。

翔達が千秋と離れた時に武器を持っていなかったのは事実。

 千秋の能力をはっきりとは知らない翔からすれば、そう思うのは当然の事とも言えた。

「あの子は体内に武器を隠す事ができるのよ」

「……それもロスターの能力なのか?」

 紫苑は頷くと続ける。

「あの子は身を物体に隠す事ができるように、物を体内に隠す事もできるのよ」

「その力で武器を隠し持っているのか」

「そういう事よ」

 少し後方にいた翔が小走りで紫苑の横に並ぶと、

「ロスターの力を得るには対価が必要って前に言ってたよな?」

 ずっと考えていた事を口にした。

「ええ」

 紫苑は翔の方に視線を向けることなく答える。

 その先の質問がどのようなものか想像がついているのか、どことなく冷たい言い方だった。

「対価って言うのは一体なんなんだ?」

 翔がそう問いかけると、紫苑は足を止めて翔の方を向いた。

「……だいぶ距離も離れたし、少し休みましょうか」

 紫苑はその問いに答えず、横たわった大木に腰を落ち着けると、翔も戸惑いながらその横に座る。

 どのような意図を持って紫苑が休みを申し出て来たのか、翔には理解ができなかった。

 距離があるとはいっても、安全とは言い難いこの状況での休憩に疑問を持ってしまっているのだ。

 そんな翔を一切気にすることなく紫苑は語り始めた。

「ロスターは人の持つ力を超えた存在であると確かに言う事が出来るわ。……ところがその力を得るという事は人の尊厳さえ失いかねないものでもあった」

「……」

「それは人として誰もが持っている筈の何かを失わなければならない事なのよ」

 紫苑が冷静に告げた事で翔は彼女が何を言いたいのか分かり始めていた。

 紫苑は先程の翔の質問に答えようとしていたのだ。

 ところが、

「……抽象的すぎてよく分からないな」

 翔は眉を顰めて紫苑に顔を向ける。

 翔から見た紫苑の横顔はいつもと変わらないように見える。

しかし、どこか寂しげに感じてしまったのは自分の思いこみなのか、それを確認する術を翔は持たない。

ただ見つめるだけ、という形でしか答えが出せないのがその証拠でもあった。

「……あなたは冬の雨の中、捨てられて震えている子猫を見たらどう思う?」

「え?」

「どう思うの?」

 紫苑は翔の方を向く事はなかった。

 翔は正面の緑へと視線を移すと、

「そりゃあ……可哀想だし、どうにかしたいと思うけど」

「それが普通の人間の反応だと思うわ」

 紫苑はそう告げると、立ちあがった。

 やっとの事で紫苑は視線を下へと向けると、

「私はそれを見ても何も感じない。悲しい、嬉しい、悔しい、そんな気持ちはとっくに無くなってしまったわ」

 翔はその言葉の持つ意味が槍となって脳を貫いた気がしていた。

 紫苑の告げた事は、人が持つ当たり前のものを否定する事に他ならない。

 楽しいと感じる事も、辛いと感じる事もできないとすれば、それはどのような苦しみになるのか翔には想像すらできなかった。

 いや、それを苦しいとさえ感じないのかもしれない。

「感情が……ないのか?」

「……」

 紫苑の答えは無言だった。

 言葉にしなくてもそれが事実であると、彼女は告げている。

 翔はそう感じた。


 ◇ ◆ ◇


 身を低く沈めたかと思うと、千秋の姿が掻き消えた。

 消えたと言っても実際に消えたわけではなく、あまりの速さに消えたように見えただけだ。

「上か!」

 男は叫ぶと、今まで居た場所から飛びのく。

 千秋が木の上から突き刺すつもりでいた両手のナイフは空を切った。

そのままの姿勢で着地する。

 男を一瞥すると、千秋はまた木の枝に飛んで身を隠した。

「やっかいだな。あの速さは」

 男は言い、先程までの余裕の態度から一転して迎撃の態勢を整える。

 見えづらいのを察したのか、男は掛けていたサングラスも外していた。

 その様子を見ていた千秋は何かを確認するかのように頷くと、木から木へとムササビのように移動した。

 千秋の手に持つナイフが移動する度に白い軌跡を残している。

 それを男は目で追うが、そのあまりの速さに男の顔からも笑みが消え始めていた。

 飛び出す瞬間の木の揺れ、着地後の揺れで、大体の位置は男にも確認する事はできていたが、正確な位置まで特定する事は不可能。

 更に、あの速さでは特定できたとしても男から攻撃を仕掛けるのは容易な事ではなかった。

 そして、移動を続けていた千秋が遂に攻撃の手に出た。

「むっ」

 木から移動する際、手に持っていたナイフを投擲する。

 移動するたびに放たれるナイフの軌道は不規則。

横から、上から、はたまた後ろから。

 次々に放たれるナイフを男は避け続けていた。


 男の並はずれた身体能力の高さには、驚嘆せざるを得ないだろう。

 すでに放たれたナイフは数十本にも及び、未だ無傷で避け続ける男の戦闘能力はロスターの括りの中でさえ、卓越している。

 その男を相手に攻勢を保つ千秋の力量も言わずともがな、並大抵ではないのだが。

「どうして?」

 木から木へと移動し、ナイフを放つ手を休める事なく繰り返しながらも、千秋は問いかけていた。

「避けているの?」

 言葉と同時に、三方向からナイフが放たれた。

 男は転がるように避け、すぐに立ち上がる。

 ところが、

「ちっ!」

 男の頬からは一筋の血が流れ落ちていた。

 あれほど見事に避けてはいたが、さすがに同時に三方向から放たれたナイフを完全に避けることは出来なかったようだ。

 男は鬱陶しげに腕でその血を拭うと、攻撃の手を休めて木の枝から見下ろす千秋を視界に収める。

「やっぱりおかしいと思った。あれだけの防御力を持ちながらも、なぜ避けなければいけないのか」

 千秋は気が狂ったような表情から普段の顔に戻り、そのまま続ける。

「あなたは確かに鉄壁とも言える防御力を持っていますが、ある程度の速度になると間に合わなくなるんですねー。たったコンマ数秒のラグかもしれませんが、それだけあれば私なら対処できそうですー」

 へへへ、と笑う姿は先程までの千秋と同一人物とは思えないほど。

 その変わりように、気を削がれたのか男は口元を吊り上げて笑む。

「ふっ、確かにそのとおりだ。だがな、その手加減した状態で俺が倒せるとでも思っているのか?」

「手加減するつもりなんてないですよー。ただ、それさえ分かれば対処の方法もあるって事ですよー」


 言うや否や、そのまま木の枝から飛び降りる。

「私の攻撃は確かに軽いかもしれませんがねー。速度に重点さえおけば、この通りー」

 いつの間に出したのか、千秋の両手には脇差程度の長さの刃物が握られていた。

「面倒な事だっ!」


「お褒めに与り光栄ですー」

 まるで舞を踊るかのように繰り出される二本の乱撃に、攻撃する暇もなく男は回避を続けるが、段々と追い詰められていく。

 千秋が腕を振るう度に、生い茂る草木がその生命を散らす。

 まるでそこは暴風雨の中心のように断ち切られた緑が宙を舞っていた。

 人が作り出した武器が千秋という媒体を得て、その自らの役目を果たそうと男に容赦なく向けられ続けている。

 そして、それは遂に大男へと届こうとしていたのだ。

「っ!」

 男が一瞬見せた隙。

 千秋がそれを逃す様なミスを犯す筈もない。

 腹を狙った一撃は、回避行動を終えたばかりの男に吸い込まれるようにして向けられる。

 当たる! と、千秋もそう思っていただろう。

 しかし、

「いくら当たる場所を硬くするのが間に合わないとは言っても、先に手を変化させておいて掴む事くらいはできるってのは分からなかったのか?」

凶刃が男の生命を終焉へと導く。

 その筈が、男が刃の部分を手で鷲掴みにする事によって阻まれていた。

当然、出血はない。

硬化している事を示すかのように、男の手は薄く光沢を放つ。

 そのまま男が少し力を込めると、千秋が右手に持っていた脇差は砕け散っていた。

「それくらい分かってましたよー」

 焦るかと思いきや、最初から分かっていたかの様に千秋は気にした様子を見せない。

 柄だけになった脇差を捨てると、新たに出した刀で下から斬り上げた。

「甘く見てくれるなよ」

 男はそれを左腕で受けると、右手で殴りかかる。

 千秋は迫りくる拳を視界に収めると、体を逸らす事で避け、そのまま両手に持つ刀を手離す。

 彼女は二つの刀が地面に落ちるよりも早くに行動に出た。

流れるような動きで男の腕を抱きかかえるように掴むと、浮き上がった反動を使いそのまま蹴りを顔に繰り出す。

「そんな蹴りなど!」


 閃光のような速度で繰り出された蹴りを紙一重で避け……たはずが、男の額からは鮮血が垂れていた。

「……」


 男は自分の腕に掴まっていた千秋を振り払う。

 千秋はそのまま空中で猫のように半回転しながら着地して、距離を取った。

「便利な能力だな」

 千秋の踵からは一本のナイフが出ていたのだ。

 靴の隠し刃ではない。

 正真正銘、それは千秋の肉体から生えていた。

「私がどこからでも出せるっていうのを考えてませんでしたねー」

「忘れていたよ。お前の戦い方は暗器使いみたいなものだったな」

 額から血を流しながらも、強敵に出会えた嬉しさからか男の表情は楽しげなものであった。

「使うつもりはなかったんだがな。そうも言ってられないようだ」

「!」

 瞬間――空気が凍りつくような錯覚に陥る。

「これは……」


 すでに血は止まっているのか、男の額からは新しく血が流れている様子は伺えない。

 ――あれは毛……なんですかねー。

 千秋は男の額に視線を向けると、そう思考する。

 傷口を隠すように生えているのは恐らく毛であろう。

 こんな短時間で生えるはずもないが、どんな事が起きてもおかしくはない。

 それがロスター同士の戦いなのだから。



 言い知れぬ、体を蝕む悪寒。

 千秋は対峙する男にそんな気持ちを抱き始めていた。

 ――これが、戦い始める前に予感していた不測の事態なんでしょうか……。

 そして、

「続きを始めようか……」

 男が閉じていた瞳を開く。

「う……」


 男の瞳孔は黒から赤へ変色していた。

 来る!そう思っている筈なのに、千秋の体は動かない。

 心を支配しているものが、久々に感じた恐怖であると千秋が自覚した、その時――

「やめなさい!」

 その声が響くと、男は千秋の顔面の数センチで手を止め、そちらへと顔を向けた。

 声がする方に立っていたのは、いつの間に現れたのか分からない白の仮面を被った女だった。

 戦っている最中も集中を途切れさせていなかった千秋からしても、驚きを隠す事は出来ない。

 なぜなら、声が聞こえるまでは気配がまるで無かったからだ。

 寸前までそこには人が居なかった。

 それは間違いないと千秋は思っていた。

「聞こえているよね?」

 彼女は仮面からしておかしいのに加え、抜群のスタイルを見せ付けるかのようなレオタードで立つその姿は場違いな事この上ない。

「ちっ」

 男は振りかざしていた拳を下ろすと、水を差された事で興味を失ったのか、千秋の事も見ずにその女の方へと歩いていく。

「そこまでの許可は出てないはずだけど」


すれ違う瞬間――仮面の女は横目で男を見ながら言った。

「使おうとした事は謝る。ただ、使わなければ倒せる自信がなかったがな」

 男は懐にしまっていたサングラスを掛け直すと、鬱蒼と生い茂る葉を掻き分けながら木々の中へと姿を消す。

 仮面の女といえば、千秋の方に向き直ると、

「次に会う時が楽しみだね」


 その言葉だけ残し、男が進んでいった道を引き返していった。

 二人が去って行くのを呆然と見送った後――

「助かったんですかねー……」


 へたり込むように座ると、難を逃れた事に溜息を漏らす。

あの得体のしれない力。

そして、謎の白い仮面の女。

「報告しなければいけない事がまた増えてしまいましたねー……」


 呟くと、暖かいお茶を飲みながらぽりぽりと煎餅を齧る。

横に置いてあったポットを体の中に戻しながら正座をし、いつも通りの様子で千秋は和んでいた。

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