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二章 異変の予兆




 ◇ ◆ ◇


 雨が地面を叩く音に容赦がなくなり始めている。

 そんな中で自慢の金髪が濡れるのを厭う事もなく、倒れている人物に叫ぶ男がいた。

「おい! どうしたんだ! 大丈夫かよ!」

 誰もが分かる異常事態に、顔面を蒼白にしていた。

 こうなった経緯は数分前の偶然が生み出した産物だったのだ。


 学校から帰宅していた大地は、ひょんな事から外出する事を強いられてしまった。

 窓から見える景色は、誰もが躊躇してしまうほどに気分を鬱屈とさせる眺め。

 傘を手に持ち玄関の扉を開けるが、その光景には溜息が出るのを隠せなかった。

「姉ちゃんの奴……。いつも横暴なんだよ……」

 携帯電話に姉から着信があった時の嫌な予感が的中してしまった事に、軽く諦めを浮かべて大地は傘を開いた。

 断る前に告げられた、ビールを買い置きしておけという指示を投げ捨ててしまおうかと思うが、大地の脳内ですぐにその意見は棄却されてしまった。

 逆らうという事が、自分に齎す(もたらす)であろう悲劇を想像してしまったが為に。

 外に出て間もなく、靴に染み込んだ水の嫌悪感に顔を歪めながら、大地は歩を進めていた。

 そして、手に持っている物の存在理由さえ疑い始めていた頃だった。

「公園から行った方が早いよな」

 呟いて、公園を通り抜けようと足を踏み入れる。

 道路のようにアスファルトで整備されてないそこは、思った以上にぬかるんでいて歩きにくいようだ。

 そして、出口がそろそろ見え始める場所に差し掛かった時に、大地は動きを止めた。

 その理由は目に映る奇妙な物の存在だった。

「あれは……人か?」

 雨のせいで視界が悪いが、それは人に見えていた。

 少しずつ近づくにつれて、その姿がはっきりとし始める。

 そして、それが人だと確信する頃には走り出していた。

「あれ、うちの学校の制服じゃねぇか?」

 それに気がつくと、更に急ぎつつ駆け寄る。

その人物の場所に辿り着き、うつ伏せのまま倒れてる男をひっくり返すと、大地は愕然として言葉を失ってしまった。

そして、冒頭へと至るというわけであった。



 

――なんで翔がここで倒れてるんだよ!

戸惑いは焦りを伴って、冷静な判断力を失わせる。

大地は息をしているかどうかも確かめようともせずに、翔の体を掴み、

「翔! 起きろって!」

 雨の音を掻き消す程の声で叫ぶ。

 ――まさか、死んでるのか……?

 現実的に知り合いがこんな所で死ぬ姿など想像する方が少ないだろう。

 出来事として、あながち間違っていないのが皮肉な事ではあったが。

「翔! 死ぬな! 翔――――!」

 声を上げて、思い切り揺さぶると、

「うるっせーな。なんなんだよ……」


 翔は顔を顰めながらも、薄目を開いてそう呟いた。

 大地は反応があった事に本気で安堵し、翔の両肩に手を置きながら返事をしていた。

「生きてたか……」


「何を言ってんだよ。人を勝手に殺すな。なんで俺が死ななきゃなんね――」


 そこにふと翔の頭に疑問が浮かび上がった。

 ――なんでどこも怪我してないんだ?

 翔はあの出来事を思い返して自分の右腕に目を落とした。

 あの時。

スキンヘッドの男に蹴り飛ばされた瞬間に、自分の腕が折れる音を聞いたはずであった。

 少なくとも何も痛みもないのはおかしい。

 それにその男の姿がここにはないのも理解しがたい現実でもある。

 翔が考え込むように黙ると、大地は心配そうに声を掛けた。

「とりあえずさ、俺のうちに来てシャワーでも浴びろよ。なんでこんなとこに居たかはその後で聞くわ」

 大地は翔を支えながら立たせて、二人がちゃんと入るように傘を差す。

「……あぁ。わかった」

 翔は本当の事は話せないと思いながらも、そう答える事しかできなかった。

 右手の事が気になり、開いたり閉じたりを繰り返すが違和感もない。

夢だったのかと思いたかったが、近くに倒れた木があれを現実のものとして翔に突きつけていた。

「……」


 その様子を見ていた大地も何か言いたげであったが呑み込む。

 そして、大地は無理に笑顔を浮かべると、

「ここまで濡れてたら傘の意味ないな」

「そうだな……」

翔が相槌をして、そのまま二人は公園を去って行った。






二人がいなくなった後――

「よかったのかなー?彼に連れていかせちゃってー」

 誰もいなくなったはずの公園の自販機から声が発せられる。

 そして、一人の少女が自販機から顔を出した。

「ええ。今は彼に私の姿を見られるわけにいかないから。それくらい分かっているでしょう?」

 自販機のすぐ上の木から返事が聞こえると、一つの影が音もなく地面へと降り立った。

「まぁそうですよねー。イレギュラーで彼が来ちゃったけど、結果的に連れていってくれたのは正解なのかもですねー」

「そうね」

 雨が自分を濡らすのを気にもせずに女は答えると、静かに目を閉じた。




 大地の家は公園からそう遠くはない。

普通に歩けば五分もかからない距離だろう。

 翔は泥だらけの制服が肌に張り付いて気持ちの悪さを感じながらも、あまりに普段どおりの体の調子に逆に奇妙な感覚を味わう。

 二人は終始無言のまま歩き続けた。

しばらくして、二人は無事に大地の家に辿り着いていた。

「今開けるから」

大地はポケットに手を突っ込むと、鍵を取り出して扉へと差し込んだ。

『カチ』という音と共に扉が開かれ、玄関に入った大地は少し待ってろと言い残して奥へと姿を消した。

間もなくして上半身裸のまま戻ってきた大地は、バスタオルを翔に向かって放り投げると、

「上がれよ。今は姉貴がいないから脱いじゃってもいいぞ」


「悪い。っていうか初めてだな。お前の家に来たのは」


 翔はそう話しながら、濡れて張り付いたローファーを脱ぐのに苦戦していた。

やっとの事で脱いだローファーを玄関に転がすと、大地の言うように制服も全部脱ぎ、下着のみの格好となった。

「あー……。俺さ、家に人いれた事ないんだわ。姉貴と二人暮しってのもあってな」

「そうだったのか」

 渡されたバスタオルで体を拭きながら、先ほどから気になっていた右腕を見るが、

「痕すらないか……」

怪我らしい怪我もなく、どこを見てもそれらしき傷も体のどこにもなかった。

「……」


 あの出来事が夢ではないのだとしたら、なぜ自分は無傷なのか?その上意識を失っていたのはどうしてなのか?と、翔は一人で考えに耽る(ふける)。

 すると、

「とりあえず、そっちが風呂場だから入ってこい。着替えは俺のでいいよな?」

「あぁ。何から何まですまないな」

 翔は考えを一旦中断すると、申し訳なさそうに顔を歪める。

「何言っちゃってんのー。俺と翔ちゃんの仲じゃない」

「……」

 大地が屈託なく浮かべる笑顔に思わず呆けてしまっていた。

 そして、ゆっくりと翔も笑みを浮かべる。

 ――さっきまでの違和感はこれか。

 大地が普段と違うのにも気づく余裕さえなかったのか、と翔は考える。

「気、使わせちまったな……」


「なんの事だよ? いいから早く入れって。まさか! それとも一緒に……?」

 大げさに目を見開く大地に苦笑いを返し、

「それは勘弁だな」

 そう言いながらも、心の中では感謝していた。

そして、進められた通りに浴室へと向かっていった。


「あったまるな……」


 翔が浴槽に浸かりながら体を広げると、不意にあの痛みが襲った。

「ぐっ……」


 その痛みの事は色々ありすぎて頭から抜け落ちていたが、それはいつも急にやってくるものであった。

 ただ、いつものと違ったのは変な映像が目を瞑ったら見えた事だろう。

 こんな事は今までに経験したことはなかったのだ。

「これは……どこ、だ?」

 それも一瞬の事で、すぐにその映像は消えてしまった。

「湖……か?」

 幻想的な景色の中で湖のようなものが映った気がしていたが、翔にはそれが見覚えもないものであった。

 そして、次第に痛みも収まり、もやもやした気持ちのままで翔は頭ごと湯船へと沈めた。


 ◇ ◆ ◇


 茜たちはいつもの三人で喫茶店にいた。

本当はそのまま帰るつもりだったはずが、崩れ始めた空模様に雨宿りのつもりで学校の近くの喫茶店へと立ち寄っていたのだ。

「結局さぁ。どうなわけ?」

「え? 何が?」

 不意に自分に向けられた里佳の言葉の意味が分からず、茜は訊き返していた。

「とぼけなくっていいってぇ。翔の事だよぉ」

「な、何よいきなり」

茜は予想もしていなかった翔の話題のせいで狼狽し、手に持ったアイスティーを零しそうになっていた。

倒れそうになったコップを支え、軽く睨みつけると里佳は悪びれもせずに続ける。

「だってさぁ、見ててバレバレなんだもん。いつも幼馴染って誤魔化すけどぉ、ぶっちゃけ好きなんでしょ?」

「……っ!」


 そう言われ、黙りこんでしまう茜。

 だが、すぐに慌てたように両手を振ると、

「ち、違うの!」

茜の頬に朱が差す。

黙るという事が肯定することになると思い否定するが、すでに里佳には通用しないようだった。

ふーん、と疑わしい目を向けた後。

里佳はニヤニヤと笑いながら隣に座っている香苗に話を振った。

「香苗だってそう思ってるよぉ。ね? 香苗」

「え、えぇ……」


「?」

 いつもとは様子が違う香苗の歯切れの悪い回答に、疑問符を浮かべる里佳と茜。

 互いに目を見合わせると、

「そういえば、最近元気ないよね?」

「どうかしたぁ?」

 ここぞとばかりに、話題を変えようと茜が問いかけ、里佳も香苗の方に興味が向いたのか続いた。

 香苗はハッとしたように驚いた顔を浮かべると、

「な、なんでもないよ。気にしないで」

「??」

 その様子に、ますます疑問に思ってしまうが、

「このケーキおいしいね」

 微笑みながらおいしそうにケーキを頬張る姿は、すでにいつもの香苗だった。

その為、この後は茜たちも大して気にせずに会話を楽しんでいたのだ。

 あの変化にもっと早く気がつけばよかったと、後に後悔する事になるとは知らずに……。


 ◇ ◆ ◇


 時を同じくして――

「結局なんだったんだ?」

 図らずも茜と同じような質問を受けた翔はすでに風呂から出て、大地の部屋で胡坐を掻いていた。

 茜の受けた質問とは、内容の明るさが正反対ではあったが。

「見なかった事にしてくれってのはなしか?」

 大地はその回答にしばらく考え込んだかのように黙った後。

真剣だった顔を崩すと軽い調子で言った。

「いんや。お前が話したくないって言うなら深くは聞かないぜー」

「すまない……」


 翔が顔を俯かせる。

「ただよ?お前が困ってるのを指を咥えて見てるだけ、なんていう付き合い方をしてるつもりはないんだぜ?なんか事情があるならしょうがないけど、話してくれないってのは友達としては寂しいもんだ」

「……」


「なーんちゃって! 柄にもない事言って悪かったな。話したくなったらしょうがないから聞いて、や、る、よ」

 にしし、と屈託なく笑う大地を見て、思わず翔にも笑みが零れる。

――これでいい。大地まで巻き込みたくはない……。

 その後は二人でゲームをしたり、漫画を読んだりして時間を潰した。

 大地のおかげで、さっきまでの沈んだ気分は大分よくなっていた。

 そんな時間をしばらく過ごした時の事だった。

「ただいまー」

 玄関のドアの開く音と共に、女性の声が家の中に木霊する。

「げ……今日は遅くなるんじゃなかったのかよ」

「お前の姉さんか?」

「あぁ。あいつが帰ってくると多分めんどくさい事になるんだよなぁ……


 心底嫌そうな顔をしながら言い、深い溜息をつく。

「そうなのか?」

「まぁ……見てれば分かるって」

ペタペタとスリッパの音を響かせて大地の部屋の前で音が止まると、

「大地ー。私とってもお腹空いたんだけどー……ってあれ、どなた?」

部屋のドアが開かれ、そこに立っていたのは大地のお姉さんとは思えないほどの長身の美人だった。

茶髪の髪に着崩したスーツが、奇妙なコントラストと共に逆にその魅力を引き出しているようにも見える。

普通ならば敬遠されがちな赤という派手なスーツも、その大人の雰囲気によく馴染んでいた。

「お邪魔してます」

「あら、大地が友達連れてくるなんて初めてじゃない? へー、随分とかわいい子を連れてきたじゃないの……」


 翔は向けられた視線になぜか妙な震えを覚える。

 艶っぽく潤んだ唇が小さく『おいしそう』と動いたのは錯覚だと信じて、その視線から目を逸らした。

「うるせーな。飯は作るからあっち行っててくれよ」


「ふーん……。そういう態度を取るんだ」

「い、いや。とりあえず待っててくれよ」

 強気な態度で接したと思ったらすぐに弱気になる大地を見て、翔は手で口を押さえた。

 笑い声を噛み殺しながら、視線を二人に向ける。

まだ続いている会話を聞いていれば、なんとなくその姉弟の力関係を察する事ができる。

翔は恐らく完全に上下関係ができているのだろうと思いながらも、その光景を妙に羨ましく感じていた。

何故? と問われれば、その答えは持ち合わせてはいないと感じつつ。

「分かったわ。あっちで着替えてくるから覗かないでね」

「誰が覗くか!」

 大地の姉はバタンと扉を乱暴に閉めるが、同時に部屋の外からは声が聞こえてきた。

「そっちのかわいいお友達は大歓迎よー」

 語尾にハートマークさえ付きそうな程に弾んだ声。

 翔にはなんとなく大地がめんどくさい事になる、と言った意味が理解できていた。


「台風みたいな人だけど綺麗な人だったな」

 突然現れ、一瞬にして部屋の空気を変えていった大地の姉に、ある種の感嘆を含んで翔は呟く。

「外見だけだよ……。中身は男だ」

 大地のその言葉には苦笑いしつつも、

「姉弟……か」

「なんか言った?」

「いや、なんでもないよ」

 不思議そうにこっちを見る大地に、首を振り否定する。

 姉弟という言葉を口にした瞬間の心を締め付けるかのような寂寥感。

 翔には、なぜこのような気持ちになるのか自分でも分からなかった。

「なんでこんなに切ない気持ちになるんだろうか……」

 翔が誰にも聞こえない様に口の中で呟くと、

「とりあえず飯を作ってくるわ。早くしないとうるさいからな。お前も食っていくだろ?」

 大地の問いに思考を中断させて顔を向ける。

「あぁ。そうさせてもらうかな」

 大地の誘いに断る理由もない翔は素直に頷いていた。

「了解。適当に待っててくれ」


 そのまま部屋を出て行く大地の後ろ姿を見送った後の事だった。

「ん?」

一人きりの部屋で何かが震えているような物音が聞こえたのだ。

 音源を探そうと視線を周囲に巡らせると、それが何かに気がつく。

 自分が置きっぱなしにしていた携帯電話が着信を知らせていたのだ。

 座ったままの姿勢で手を伸ばして携帯電話を手にすると、

「誰だ……?」

 着信していた番号は登録すらされていない初めて見る番号だった。

 出るかどうか迷ったが、ずっと鳴っている電話に仕方がないと思い、通話ボタンを押して耳に当てる。

それは思わぬ相手からの電話だった。

「里佳?」

「出るの遅いっての。すぐに出なさいよぉ」


 相変わらずの態度だが、翔はふと疑問に思った。

「なんで俺の番号を知ってるんだ?」

「悪いとは思ったんだけど、茜の携帯見せてもらったのよ。それでね、さっきまで茜と香苗の三人でお茶してたんだけどぉ、二人が消えちゃったのよねぇ」

「消えた……?」

 突然電話をしてきたかと思えば、会話の内容も常軌を逸している。

 里佳の性格から鑑みればふざけているのかと思ったが、それも違うようだった。

「二人してトイレに行くって言ったまま帰ってこないから、さっきトイレ見にいったんだけどぉ、誰もいないのよねぇ。しかも二人とも鞄も置きっぱなしで、どうしろって感じぃ」

「ならすぐ戻ってくるだろ?」


「でももう一時間だよ?」

 その話が本当だとしても、翔にはなぜ自分に電話をしてきたのかが分からなかった。

 わざわざ茜の携帯電話を調べてまで翔を選ぶ理由がないのだから。

 翔はそれを里佳に問いかける。

「だからってなんで俺に電話してくるんだ?」


「それがね、香苗が少し前に言ってた事思い出したんだぁ」

「どういうことだ?」

「私にはよくわかんなかったんだけど、なんか不思議な事あったら翔に伝えといてって言われたのよぉ」

「俺に……?」

 翔と香苗との接点はそれほどないはずだった。

 いや、無いと言っても過言ではない。

 成り行きで紫苑の学校案内の時に一緒にはなっていたが、それまでは挨拶すら数えるほどしかしていなかった。

 それなのに何故翔にそんな事を伝えろと言ったのか。

「どういう事なんだ?」

 言葉にしてもその答えなど見えるはずもない。

だが、今日一日で味わった奇妙な出来事のせいか、それほど驚くほどの事でもなかった。

ただそれが、今日の出来事になんらかの関わりがあるのかどうか、というのは気になる所ではあったが。

「どういう事って言われても分からないしぃ。香苗にもなんで?って訊いたんだけど何も言わないしさぁ。まぁいっかなぁーって気にしてなかったぁ」

「……そうか。分かったよ」

 何かしらの理由はありそうだと考え、翔が黙りこむと、

「あたしはどうすればいいと思う?」

 里佳が翔に問いかける。

「それは自分で決めてくれ。俺はしらん」

「何それぇ! つっめたーい」

「とりあえず、話は分かったから切るぞ」

「ちょ、ちょっと待ってよぉ!」


 慌てる里佳の言葉などすでに聞いていないようで、翔は通話終了のボタンを躊躇することなく押していた。

その結果、里佳の持つ携帯電話からはツーツーという切断を示す音だけが聞こえてくる。

里佳は手に持つそれを見つめながら、翔の容赦ない扱いに唇を尖らせると、

「まったくなんなのよもぉー」

 周りの身勝手さに苛つき、残っていたジュースを一気に飲み干す。

そのまま里佳は訳も分からない思いを抱き、テーブルにへたり込んでいた。




 電話の後。

翔はさっき里佳と話した事について考えていた。

 香苗から聞かされたという不思議な事があったら翔に伝えて欲しい、という言葉。

 それをなぜ翔に伝える必要があったのか?

 それに不思議な事とは一体なんなんなのか?

 重大な何かを見落としている気がしていた。

 翔が考えすぎてショートしそうな頭を抱え、一人悶えていると、

「!」

 その時、稲妻に打ち抜かれたような衝撃が頭に響いた。

「俺の周りに起きている事も含めてそう言ってるんだとしたら、香苗は何か知っているのか……? しかも、これから何かが起きると知っていたからこそ、そんな事を里佳に伝えたのか?」


 そう考えれば説明する事は出来る。

 ただ、それは想像にしか過ぎないのだ。

 想像の域を出ない思考は偏見を生み、偏見は虚偽を真実として認識してしまう恐れすら孕んでいる。

 それはとても危険な事であり、真実に対して盲目になるという事は悲しい結果を生み出す事もあるのだ。

「考えても無駄、か」

 翔は呟くと、ベッドに寝転んだ。

 すると、

「おーい。できたぞー」

 その声と共に部屋の扉が開かれ、エプロン姿の大地がそこに立っていた。

「おう。わかっ――」

 翔が体を起こして返事をしようとするが、その言葉は途中で止まった。

何故なら、その姿がとてつもなく似合ってないからだった。

 知り合いでなければ不快にさえ思ってしまうかもしれない程に。

 金髪にピアスの男(しかも大地)にエプロンがこれほどに最悪な組み合わせとは、翔も思っていなかった。

 そんな呆けた顔の翔の姿に眉根を寄せ、大地は手に持ったおたまを部屋の外へと向ける。

「飯ができたから早く行こうぜ」

 これがとどめだった。

自分は料理が大好きです、と大地が言っているような錯覚を起こしてしまったのだ。

「あははははは!」

 もはや、隠すことなく声を上げる。

 目の端には薄く涙を浮かべ、大地を指を差して仰け反っていた。

 そんな翔の姿に大地は顔を赤くしながら、

「笑うな! 失礼な奴だなぁ」

「だってお前、その格好……」


 翔は大声で笑っていた。

 さっきまでの真剣な考えなど吹き飛ばしてしまうほどに。



 

 それからやっと笑いの収まった翔が大地の後に続き、居間に辿り着く。

するとそこには、二人が来るのを待っていたのか、ビールを片手にして胡坐を掻いてテレビを見ている大地の姉が居た。

 翔はその姿に唖然とする。

 誰でも同じような反応をしたに違いない。

 彼女の格好は肩の開いたTシャツ一枚に、下は……下着のみなのだ。

 露わとなっている太腿は細くしなやかな曲線を描き、Tシャツを盛り上がらせる膨らみは見る者の脳髄を掻き乱す。

 はっきり言って目の毒としか言いようがなかった。

 翔が居間の入り口で立ち尽くしていると、

「友達居る時くらいはちゃんとした格好しろよな。まったくよぉ」

 大地が食事を並べながら姉に向かって言う。

だが、本人はその言葉に全く気にする様子もなく、

「やーよ。暑いじゃない」

 しれっと言い放った。

 ビールを手にしながらテレビを見ている様子や、堂々とした態度は確かに男みたいではある。

 ところが、見た目がまったくそれに伴っていないのだ。

 時折覗かせる鎖骨には色気が漂い、ビールを飲む下す時の喉の動きからは何故か目を離す事が出来ない。

 その存在感は、既に才能と称してもいいほどに昇華されていた。

「まぁ、姉貴はいつもこうだから気にしないでくれよ」

 そんな姿にもう慣れてしまっているのか普段どおりにしている大地の言葉に、翔はハッとして目を背ける。

 自分がどれだけ失礼な事をしていたのかに気づいたからだった。

 それから皆が食事を取り囲むように座ると、

「私は詩織って言うの。よろしくね、ぼーや」

「水鏡翔と言います。夕飯まで頂いてすいません」


「大地だ。みんな俺の前にひざまず――」


「「黙ってろ」」


 二人が全くの同時に言うと、翔と詩織はお互い目を合わせて笑った。

「なんでいつも俺だけこんな……」


 がっくりと肩を落とす大地だが、その様子を見て楽しんでいる二人の事にも気づいていた。

 大地は横目でそれを確認すると、口を横に広げる。

 家に辿り着いたばかりの時に浮かべていた翔の表情。

 それは大地にとっては見たくもないものだった。

 翔に何が起きて、何に悩んでいるかは大地には分からない。

 話したくもない事を無理に訊くつもりもなかった。

 ただ、少しでも笑っていて欲しい。

 少しでも気が紛れれば、と思っていたのだ。

 それは根が優しい大地のささやかな想いだった。



 ◇ ◆ ◇


既に雨は上がっており、それが地面を打つ音はしなくなっていた。

「分かっているわ……」

 小さな呟きが寒々しい空間に響く。

 暗闇に包まれたここで彼女は誰かと会話をしていた。

そこは最近完成した新しいマンションで、オートロックも完備。

防犯対策は一階の入り口に警備室があるほどの徹底振りで、安全面ではSクラスの建物である。

 当初、建設するにあたり周辺住民の反対が多数あり、去年の暮れには完成するはずだったこのマンションは最近になりようやく完成する事となったのだ。

 この騒動の一端は二十四階建てという高さの為、周辺の住民が自宅の日照権を巡っての争いだったと言われている。

 彼女が居るのはそんな高級マンションの最上階にある一室。

 電気もつけずに窓が開け放たれた部屋の中には、外から生暖かい風が流れ込んでいた。

 彼女の前髪は風に揺らめき、隠していた瞳を映しだす。

 周囲の闇を吸い込むかのように本来の色を失った瞳には、映し出されるものは何もない。

それもそのはず。

見た目からも二十畳はあるこのリビングには何もないのだ。

テレビも、コンポも、食事するのに使うはずであろうテーブルでさえも。

 少女は壁に寄りかかり、片膝を抱えるようにして座りながら右手に持つ携帯電話へと話しかけていた。


「大丈夫よ。彼があまりにも危険な立場にいるのかは分かってるわ。既にどうやっても戻れない事も」

 聞こえてくる彼女の声は淡々とし、告げている内容はあまりにも異質。

 一片の優しさも含まないその声に、もしもこの場に他の者がいれば言い知れぬ恐怖を覚える事だろう。

「何も知らない今はいいけど、全てを知った時に彼がどちらに転ぶかはわからないわ。えぇ……できる限りはするつもりよ。心配しなくていいわ」

外では雲に隠された月が、時折その姿を覗かせる。

部屋に差し込む月光に照らされた少女の横顔は美しいが、儚げだった。

消えてしまいそうなほどに……。

 もし、笑顔で皆を暖かな気分にさせる茜のような女の子を太陽と例えるのならば、彼女は月だ。

美しさとは裏腹に冷徹とも思えるその表情は、身も心も貫く冷たい一本の氷の矢。

誰もが目を細める太陽の輝きは眩しいもので、その存在を強く感じるもの。

その逆に月はその存在を誇示しない。

目を向ければその素晴らしさに目が向くものの、その存在を意識する事は少ないのだ。

どこか寂しさを覚えてしまう。

そんな存在。


「ええ、そうよ」

 一点に向けられる少女の瞳は何を映しているのか分からない。

簡単に他人に理解できるような世界が見えているのなら、このような空気を作りだすこともないだろう。

「彼が受け止めきれないようなら……。それは平気、最悪の事態にはならないわ。安心して……」


 彼女はその言葉を最後に、通話終了のボタンを押して携帯電話を閉じた。

 不意にまた月を雲が覆う。

部屋にあった唯一の光源がなくなり、少女の顔を窺い知る事はできない。

明るい太陽の下であっても、彼女の本当の素顔は誰にも見る事などできはしないのだが……。


「もし、対処できないようなら私が……」


 彼女は呟き、ゆっくりと立ち上がる。

そのまま制服のスカートを払い、リビングを出ると洗面所へと向かった。

 その途中。

朝に制服に着替えるときに脱ぎ捨ててあった寝着を抱え、洗面所の電気をつけて中へと入る。

洗面所に入ると手に抱えた寝着を洗濯籠に入れ、彼女はおもむろに制服を脱いで入浴の準備を始めた。

すべて脱ぎ終えた後、傷ひとつない裸体を晒す。

触れれば壊れてしまいそうな細い体躯は、何かを背負うにはあまりにも頼りなさ過ぎで、あまりにも小さい……。

そして彼女は鏡に映る自分を見つめながら、先程の言葉の続きを囁くような声の大きさで口にした。









「私が……殺すわ……」

 こうして長い、本当に長い一日は終わりを告げた。


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