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一章 日常からの乖離



 ◇ ◆ ◇


 桜も散り、すでに梅雨の時期に入っている六月のことだった。

 学校を終えたしょうは高校に入ってから仲の良くなった悪友、佐藤大地さとうだいちと別れてから、駅前の繁華街を歩いていた。

 平凡な日常。

 それを多くの人間は退屈と呼び、それでも抜け出せない日々を生き続ける。

 別に悪いことではない。

 ただ、翔はそんな暮らしになんとなく不満を持っていた。

 つまらない日常を壊してくれる何か、そんなものを心の中で求めていたのかもしれない。

 そして、それが現実となった時に物語は動きだす。


「あーあ、一人じゃ何にもやる事ないな……」

 特に目新しい物も見当たらない繁華街の中で一人零した翔は、駅前のベンチに腰かけた。

 頬杖をついて何気なく辺りの様子を見てみれば、仕事帰りのサラリーマン、楽しそうに腕を組むカップル、社会復帰を諦めきったような薄汚れた男などが歩いていた。

「帰ろうかな」

 深く溜息をつき、呟く。

 家に帰ればいつも通りの生活が待っている。

 もしかしたら、という期待を込めて駅前に来てはいるものの、そんな事くらいで変わる日常などあるはずもない。

 そう――それは翔もそう思っていた。


 立ち上がろうとした翔が、横に置いてある学校の鞄を取ろうと手を伸ばした時の事だった。

「なっ……」

 急な頭痛が襲った。

 鞄を取ろうとする不自然な格好のまま、脂汗を浮かべ悶える。

『……ちゃん』

 本格的な激痛に幻聴まで聞こえる気がしていた。

 駅前という場所柄もあり、その様子に気が付いている人間も多数いるはずだが、誰も近づこうとはしない。

 触らぬ神にたたりなし、とはよく言ったもので、それが風習となっている事に一抹の寂しさを感じ得ないが、現代の社会の中ではこれもありふれている事だ。

 しかし、誰もが見て見ぬふりをする中、一人の少女が彼に近づいて行った。

 年の頃は十六、七といった所だろうか。

 肌理きめの細かそうな栗色の長髪は陽光に照らされて燦然と輝き、透き通るような手足は触れるだけで壊れてしまいそうな程に細い。

 小柄な顔は誰もが振りかえるほどに整っており、誰が見ても美少女と冠するのは間違いなかった。

 若干、冷たそうな印象を抱いてしまう蒼い瞳も、なぜか妙な魅力を放つ。

 その彼女が翔の蹲るベンチの前に立った。

 そして――

「……あれ?」

 彼女が手を翳すと、翔は小さく疑問を口にしながらゆっくりと起き上った。

 あれほど苛んでいた痛みも影を潜め、夢だったのではないかと勘違いしてしまいそうな程に何も感じない。

 そして、翔は目の前に誰かが居るのに気がつくと、

「君は?」

 逆光のせいで目を細めて彼女に問う。

「……」

 だが彼女は無言のまますぐに翻し、その場を離れようと歩み始めた。

「ちょ、ちょっと待――」

 慌てて声をかけようと立ち上がるが、彼女はすぐに人混みに紛れて見えなくなってしまう。

 逆光のせいで、顔も確認することもできなかった。

 分かったのは一瞬見えた瞳の中にある澄んだ蒼に、そして後ろ姿だけ。

「なんだったんだ……?それにまたあの痛みは……」

 いくら考えても答えは出ず、諦めるように溜息を吐くと、

「帰るか」

 そう呟き、彼女の消えた雑踏の中に足を踏み入れた。

 翔の事を遠くから見つめている事に気がつかないまま……。


 ◇ ◆ ◇


 「今考えれば、あれもそうだったって事か……」

 思えばあれも彼女だったのか、と翔は今更ながらに考えていた。

 それに気がつけたのは、自分を射抜く視線の蒼に見覚えがあったからだった。

 なぜもっと早くに気がつかなかったのかと、自分の鈍感さに軽い嫌悪さえ覚えてしまう。

 彼女は翔と目が合うと問いかけた。

「大丈夫かしら?」

 翔は頷きながら、隣で自分を守るようにして立つ彼女を見ていた。

 現在置かれている状況は、今までの日常とはかけ離れている。

 いや、何が起きているかも理解できはしない。

「なぁ、どういう状況なんだよこれ……」

 翔は自分が路地裏でこのように囲まれている理由を知っているであろう彼女に向けて訊く。

 彼女は一瞥をくれると、

「説明は後よ。さっきも言ったでしょう」

「それはそうだけど……」

 納得はしていなかったが、反論の余地も見せない彼女に向かってこれ以上何を言っても無駄だと感じ、翔は身を呈して男たちの攻撃を捌く彼女の邪魔をしないようにする。

 路地裏の濁った空気が鼻につき、妙な息苦しさを感じる。

 男たちは一様に同じ格好をしていて、只のチンピラには見えなかった。

「うわっ」

 不意に、翔が驚きの声を上げる。

 先頭に立つ男の一人が一気に迫り、金属のパイプを翔に目掛けて振りおろしたのだ。

 翔が、もう駄目かと思った矢先に、

「舐めないで」

 彼女は自分の目の前にいる男を蹴り飛ばすと、すぐに翔に向けて金属パイプを振りおろす男の腕を掴んだ。

 そのまま力任せに投げ飛ばすと、置かれていたゴミ箱などを粉砕しながら壁に衝突し、沈黙する。

 その様子をまざまざと見せられ、男たちは先程の勢いを失い、踏鞴たたらを踏んだ。

 中心人物と思しき男は歯噛みをしながら周りに目を向けると、

「ダメだ。撤退しろ!」

 残っていた数人の男たちも劣勢である事を感じたのか、その指示を受けると、一斉に散っていった。

 そして、その場に残されたのは翔と彼女のみ。

 一瞬にして静寂の訪れたその場で、やっとの事で翔は口を開いた。

「助かった……のか?」

「そういう事ね」

 ゆっくりと息を吐き、彼女はそれに答えると制服の裾をはたく。

 そのまま翔と視線を合わせ、表情を変えずに淡々と告げた。

「だから言ったでしょう? あなたは狙われているって」

 翔はその言葉にうんざりしながら、あの時の言葉が現実になった事を思い知らされていた。

 そう、あれは昨日の学校での事――


 ◇ ◆ ◇


 その日。

 翔は自分が通う高校への道を辿っていた。

 すでに二ヶ月も通いつめている高校には大分慣れ、友達も何人か仲のいい奴ができ始めて学校に行くのは楽しいと感じている。

 翔が通っているのは、地元でも普通というイメージしかわかないような中堅高校だ。

 創立二十年程の比較的新しく、校則も緩いため人気は高い。

全校生徒は約千二百人、建物がグラウンドを囲う形で建てられている。

 特に行きたい高校もなかったから選んだ高校だった。

 何も入っていない鞄を気だるくなった右手から左手に持ち替え、何気なく歩いているうちに周囲に学校の生徒が目立ち始めた。

そんなに時間が経ったように感じなかったが気づけば、いつの間にか学校の近くまで来ていたようだ。

「おいーす」

周りの雑音に紛れて聞こえてきた声は三連ピアスに制服も着乱れたれた、だらしない格好で現れたクラスメイトの佐藤大地のものだった。

大地は昨晩降った雨でできた水溜りを気にもせず駆け寄ってくる。

幸い今日は曇りで雨は降ってはいない。

「よう」

 片手を挙げて返事をしながらも歩く足は止めない。

 大地は追いついて横に並ぶと、親しげに肩に手を置き訊ねた。

「翔、聞いたか?」

「ん、何を?」

 ニヤニヤしながら見てくるが、翔には何のことかわからなかった。

「いや、実はな、俺のつかんだ情報で今日は転校生が来るって話を耳にしたんでね」

「こんな時期に?随分おかしくないか?まだ六月だぜ」

 例を挙げるなら親の仕事の都合などがあるが、それも勝手な推察に過ぎず、無駄な労力だと考えて翔は続ける。

「だったら最初からうちの学校に入ってればいいのにな」

「まぁそうだよな」

 そうする理由があるというだけの話なのだろう。

 翔は横で笑みを深める大地に軽く視線を向けると、

「お前がそういう態度ってことは女か?」

 訊ねるとイヤらしげに口を歪ませ、親指を立てた。

「昨日見たって奴がいてな、かわいかったらしい。しかも帰国子女なんだと」

 誇らしげに言い放ち、随分と楽しそうにしている。

「帰国子女の加点要素があるのかは謎だけどな」

「なんか言ったか?」

「いや、まぁどうでもいいさ」

 とそんなに興味のない様子で翔は歩き続けている。

 そのそっけない態度に不満げな顔でまだ何か言いたそうだったが、それについては見なかった事にしていた。

すでに学校の門は目の前。

「時間がやばいな、少し急ごうぜ」

 腕の時計ではすでに八時二十六分、三十分からホームルームが始まるので間に合わないかもしれない。

「そんなに気にすることないだろー。ゆっくりいこうぜ」

 と言って大地についてくる気配はない。

「先行ってるからな」

 翔が駆け出した瞬間『待ってくれよー』と聞こえたが、それを空耳だろうとあっさりと切り捨てた。

 大地を置いてきぼりにしたまま校舎の中に入り、なんで一年は四階なんだよ、と毒づきながらも階段を駆け上がる。

「ぎり、かな」

 と呟きながら教室の扉を開けた。

教室の中には生徒たちが思い思いの場所でくつろいでおり、自分の机に座って話している人や、朝食を本に目を通しながら食べている人もいる。

 端の方では三人の女の子が集まって談笑していたのが見えた。


 三人が楽しそうに話しながら翔が入ってきた方を向くと、その中の一人が手を振って声をかける。

「あ、おはよー。遅かったね、もう少しで遅刻だよ?」

「昨日はあんまり寝れなくってな」

 屈託ない笑顔を浮かべて話しかけた女の子は、小、中学の同級生の緒方茜おがたあかねだった。

 小学校の頃から明るくて、人見知りしない子だったので誰でもすぐに仲良くなっていたのだが、顔も良くもてる部類にあった茜は中学の始め辺りで一部の女子からは疎まれてもいた。

現在は元々の性格の良さからそのような虐めなどはなく、むしろ人気者と言ってもいいくらいである。

「あ、先生来たよ」

 チャイムが鳴ると同時に担任が入ってきて、いつものように教卓に日誌を置きながら話し出した。

「あー、みんな知ってると思うが今日は転校生が来る。いつものようにあんまり騒がないようにな」

「俺なんか今日知ったぞ」

 溜息をつきながら鞄を机の横に掛ける。

「いつも先生の話なんか聞いてないじゃない」

「大地の言ってた情報ってこれかよ。みんな知ってたんじゃねぇか」

「かもね」

 鞄を掛けた後、頬杖をつきながら面倒そうに言う翔に茜は微笑みを浮かべる。

「女の子なんだってねー、仲良くなれたらいいな」

「んー、茜は誰でも仲良くなれるんじゃないか?」

 特に何も考えずに返答するが、その言葉を聞いた茜は嬉しそうに笑みを濃くする。

 それを見て翔も薄く笑みを浮かべた。

 ――周りまでも幸福な気分にさせるような笑顔が茜の魅力なんだよな。

 と、翔が考えていると、彼女が何か言ってきている事に気づく。

「ねぇ聞いてる?」

「あ、あぁ、わりぃ。考え事してた」

「もう来るみたいだよ」

 茜の示すように、教室は妙な静寂に包まれていた。

「ん、では来たようなので挨拶してもらおうか」

 担任もそれに気がついたのか、扉の人影に言葉を向ける。

 そして、教室の扉が勢いよく開いた。


「遅れましたー。すいませーん」

ところが、そこに来た人物を見てみな声を失った。

 現れたのは転校生ではなく大地であり、だらしなく立つその姿はまさに現代の高校生を顕著に示している。

 緊張の面持ちでいた教室内の生徒たちは落胆し、呆れ顔。

 気持ちの空振りの効果は思いのほか大きいようだった。

「あ、あれれ? みんなどうかしたの?」

 少々馬鹿っぽいこんな所もみんなから結構好かれているのかもしれない。

 現状では望まれていないが。

 大地はみんなの視線を受け、微妙な気まずさに包まれたまま、おずおずと教室内に入ってくる。

「相変わらずだね」

 と言う茜もちょっと楽しそうにしている。

 担任にいいから座れと言われ、前に座った大地の背中を見ながら、翔はつまらない感傷だなと結論付けた。


「ん?」

翔がそんな風にぼーっとしていると、いつの間にかクラスの雰囲気が変わっていることに気づき、ざわざわとする級友たちを一瞥すると前を向く。

すると転校生がすでに来ていた。

「おい、あれはSSクラスだぞ……」

「は? 何がだよ」

 翔が脈絡のない事を言う大地に問うと、

「おま、あの子を見て何も感じないのか?」

「あいにく俺は目がそんなに良くないからな。こんなに後ろの席じゃはっきりは見えねぇって」

翔は興奮する大地に呆れつつ、周囲の反応を見るが、はっきり言ってみな固まっている。

右隣にいる茜まで呆けている始末だった。

「すごい、可愛い」

 頬に手を当てながら足をバタバタさせている。

 ローファーが床に当たり規則正しく音を立て、翔の周りを級友のざわめき。ローファーの鳴らす音。大地のバカ会話が包む。

 茜までもがそんな事を言うからには、それほどのものなのだろうか? と思い、翔は再び教卓の方へと視線を向けた。

 挨拶するように担任は指示を出しているようだが、一向に話そうとはしない転校生を見ると、自ら紹介を始める。

「えー。この子は月島紫苑君だ。家族の方がまだアメリカの方に残らねばならない為、先に来ているらしい。色々困った時はみんな手助けしてあげてくれ」

「一人暮らしか」

 珍しく大地は真剣な顔で言うのだが、考えていることはくだらない。


「席はそうだな。あそこの一番後ろの席がいいか」

 担任がそう言うと、自分の席の方へと向かっていく。

 翔のいる席の方へ。

 周りではざわざわとしているが、本人はまるで気にする事もない様子で歩いている。

「……!」

 確かに可愛い。

肩よりも下にある髪が綺麗な軌跡を描き、腰へと流れていた。

 触れるだけで零れそうなその髪は、歩くたびにサラサラと流れ、一本一本が可視できるほどに艶やか。

だが、何故か分からないが奇妙な既視感がある。

「なんだ……?」

 変な違和感があったがそれが何かまでは分からない。

 自分では理解しているのに、いざ言葉にして他人に伝えるのが難しいもどかしさと似たような感覚が支配していた。

 転校生が翔の横に来た瞬間――視線が交錯する。

 彼女の目は色素が薄いのか若干蒼い。

その青は空の色とかではなく深い海の底のような色に感じる。

なんとなく憂いを持つ、寂しげな色。

 彼女は足を止めて翔を見ていて、図らずとも二人は見つめ合うようにも見える。

 しばらく時が止まったように二人はそのままだった。


「あっ……」

 翔はそう零すと、周囲の視線に気づき、ばつが悪そうに前を向いた。

 ずっと見ていたら、周りからそれだけで咎人にされてしまいそうな勢いだった。

 大地までもが責めるような視線を向ける。

「なんだ?」

「べっつにぃ」

不毛な会話をする翔は、横の茜の視線には気づかない。

そんな中。

紫苑は何事もなかったかのように机に鞄を置き、自らの席に座り鞄の中身を取り出す。

 その仕草を見てもなにか気にかかる。

普通ではあるのだが、敢えて言うなら動きが機械的とでも言えばいいのだろうか。

ホームルームに終わりを告げるチャイムが鳴り、まだざわついた雰囲気のまま担任が出て行く。

 彼女の横顔を見れば、周りの様子にも気づかないかのような無関心。

 その様は人間が道端にいる蟻に気づかないのと同じ。

 いや、いるのに気づいても気にも留めないのと変わらない表情だ。

 これさえもあっているか分からない。

翔も見ただけで分かるほど達観しているわけでもなく、曖昧なまま結果は時間とともに過ぎていった。



 それから程なくして、彼女の周りには人垣ができようとしていた。

 この現状は当然ともいえた。

こんな可愛い転校生相手に、話しかけようとする者がいないはずもなく、何人も生徒が話しかけようと機会を伺っていた。

だが、それも結局は誰にも叶う事はない。

彼女が放つオーラのようなものに躊躇し、誰も話しかける事などできはしなかったのだ。

むしろ話をするどころか、まだ誰も声さえ聞いていないのだが。

そして最初の授業が始まった時の事。

翔は体育の授業中に紫苑を見ていたら気になる事があった。

その日は、女子は持久走が課題で千五百メートル走らされていた。

コースは一周が三百メートルのグラウンドを五周。

特に代わり映えのしない景色の中で走り続けなければならない。

紫苑は特にタイムがすごかったわけでもなく、目立ってはいなかった。

だが、なんで必要以上に気になったのかといえば、他の生徒は疲れてクタクタな様子で、地面に座り込む女生徒までいる始末。

その中でも、紫苑はなぜか汗一つかかず平静を保っていた。

走る前となにも変わらずに。

これほど異彩を放っているのだが、本人がどう感じているのかも理解できない。

何より本気で走っている様子もなく、翔にはあのタイムも当てにならないような気がしていた。


「すごいな」

「ん、そうだな」

 校庭の傍らの縁石に座り込み、スニーカーが土を食む感触を味わいながら淡々と言う翔だが、大地の言葉に内心深く同意していた。

「なんて綺麗な足なんだ……」

「……」

続く言葉には言葉を失うしかなかった。

翔は自分と同じ感想を抱いたのか、と感心した事に後悔し、嘆息する。

大地の思考はどうしてもそちらの方に向いてしまうようだ。

「で? お前らは授業中に何をしてるんだ?」

と、不意に後ろから声をかけられた二人は同時に振り向く。

「隆太郎か」

言っている事とは裏腹に、責めるでもなく笑んでいるのはクラス委員長の如月隆太郎きさらぎりゅうたろうだった。

隆太郎はこの高校に剣道のスポーツ特待生で入ってきた男で、勉強もできるまさに文武両道が服を着ているような人物。

だからといってお堅いわけでもなく、翔にとってはクラスの中でも大地と並んで話しやすい奴のうちの一人。

「相変わらずだな。お前らも体育は嫌いじゃないはずだろ?またサボりか」

「またってなんだよ。毎回さぼってるわけじゃないし」

「体育は好きなんだけどな。あいつが苦手なんだよ」

特に気にした様もなく答える大地に続いて翔も答える。


「姫ちゃんか」

翔が指し示す先にいるのは、体育教師の新島千秋にいじまちあき

身長が百四十センチメートル台の小柄な体格で、顔も童顔。中学生と言ってもわからないのではないかと思われるほどにあどけない姿から、生徒からは姫ちゃんと呼ばれている。

体育教師が一番に遠い仕事に思えるが、本人曰く『これぞ天職です!』らしい。

「何かと指示してくるんだけど、なんか妹とおままごとしているような感覚になってくるんだよな」

言う翔に向かって、あれ?という表情の隆太郎が続く。


「翔って、妹いたんだっけ?」

「いや、いな――」

いない、と言おうとした翔が不意に言葉を途切れさせ、動きを止める。

怪訝に思った二人が、何か声をかけようとした時に翔は頭を抱え黙り込んだ。

「お、おい大丈夫か」

「すごい汗だぞ」

慌てた様子で話しかける大地と隆太郎をよそに、翔は自らの体の中にある空洞に、何か得体の知れないものが、無遠慮に手を突っ込んでくるような不快感に体を苛まれていた。

胸に楔が打ち込まれたような錯覚。

耐えがたい苦痛は永遠にも続くかと思われたが、それも長くは続かない。


苦痛がすぐに去った事で、何事もなかったかの様に振る舞おうとしている翔はゆっくりと息を吐くと、

「なんでもない。それより委員長のくせにこんなところでサボってていいのか?」

「いや、それよりも本当に大丈夫なのか?」

 翔の言葉を受け流して質問を返す。

「気のせいだって。とにかく戻ったほうがいいんじゃないか?」

 それでも翔は平静を装い、隆太郎に視線を向ける。

一瞬は不服そうな顔を浮かべるが、隆太郎は『確かに』と言うと、その場を後にした。

翔はその後ろ姿を見つめながら、さっきの事を考えていた。

今までにこのような事がなかったわけではない。

今回のも一週間前の駅前での時と同様に、耐えがたい程に激しい衝動が押し寄せてきて、自分でもどうしようもなかった。

「ほんとに平気か?」

 そんな翔を心配してか、大地も不安げな表情を浮かべる。

 そこにはふざけている雰囲気などは一切ない。

「ああ、それよりそろそろ終わりだろ」

翔はそんな大地に気取られないよういつもの通りに話し、この話は終わりだとばかりに立ち上がった。

 さっさと行ってしまう翔を見て、大地も仕方なしに後へと続く。

まさかその姿を見ていた者が二人いることなど翔たちが気づくはずもなく、この日は放課後を迎える事となった。



授業に終わりを告げるチャイムが鳴り、生徒たちは散り散りになっていく。 

 翔も同じように帰ろうかと準備していた。

 ところが、

「翔」

ふいに隣から声をかけられ、そちらを向くとノートを持った茜が覗き込むように立っていた。

「どうした?」

「えっとね。今からあの月島さんにこの学校案内してあげようと思うんだけど、一緒にいかない?」

すでに準備を終えた茜と、仲良しである他の二人が翔の返事を待っている。

翔はそれに対してあまりいい顔はしない。

正直言って、翔としてはなるべく面倒なことはやりたくなく、まして茜と仲がいいとはいえ特に話もほとんどしていない二人がいるからだった。

翔は自分の記憶を辿り、二人に目をやる。

ポニーテールをしている大人しい雰囲気の方が渡瀬香苗わたせかなえで、ショートカットのギャルっぽい方が影塚里佳かげづかりかだったはずだと思い出した。

この二人とも一緒というのも少々気まずいと感じ、断ろうと口を開こうとしたところで思わぬところから横槍が入った。

「話は聞いたぜぇ!俺も行く」

どこから現れたのか、いきなり参加した大地が告げる。

「いいんじゃなーい?」

「おっし、決まりな!じゃあ行こうぜ」

「ちょっと、あんたが仕切らないでよねー」

楽しそうに言う影塚と大地をよそに、翔はもう断れる雰囲気ではない事に内心落胆していた。

こうなっては自分だけが抜ける事は出来ない事を、肌で感じてしまったが為に。


 結局、同行することになった翔を含め、五人で紫苑の元へと向かう。

紫苑は帰る支度を終えたのかちょうど席を立つところで、そこに現れた翔を見ても気にも留めずに、鞄を持って去ろうとしていた。

何かしらの反応がもらえると思っていた翔はその行動に焦り、思わず腕を掴んでしまう。

「何か?」

咄嗟の事とはいえ強引に止めるような形になっていた。

気まずい雰囲気が流れるのを感じたのか、茜が口を開く。

「あのね。月島さん来たばっかで学校の事が全然わかんないと思って。よかったら、私たちに案内させて貰えないかなって思ったんだ」

「そうそう、せっかく同じクラスになったんだし、仲良くしよーぜ」

お節介にならない程度に引いた物腰で言う茜に、大地が続く。

「興味ないわ」

しれっと言い、立ち去ろうとする。

しかし、翔に腕を掴まれていたのを思い出したのか、放すように視線を向けた。

「あ、ああ。すまん」

そう言って翔は腕を放した。

すでに紫苑は興味を失っているのか、教室を出る為の扉に手をかけている。

その時――またあの痛みが翔を襲ったのだ。

「ぐっ」

誰にも悟られないように表情を消し、堪えていた。

幸い、茜達は断られて残念というのを話していたが為に、翔の様子を気にしているものはない。

翔も痛みがすぐになくなったので、誰にも気づかれていないだろうと安心していた。

だが、予想もしていない方向から声がかかる。

「やっぱり、お願いするわ」

 紫苑は言いながら、五人の所へ近づいていった。

どんな心変わりかは知らないが、茜達にとってそんなことはどうでもいいらしく、やったねと無邪気に四人は喜んでいた。

翔はそんな茜たちの様子を見て、まぁいいか、と考える。

そのまま顔を紫苑の方へ移すと、視線が交錯する。

一瞬目が合ったが、なぜかすぐに逸らされてしまった。

「なんなんだ?」

 翔が呟く頃にはすでに皆は動き始めていて、疑問に首を傾げながらも小走りに後を追いかけた。


 それから案内する為に六人が並んで歩いていると、すでに話題にあがっているらしい美少女転校生の噂のせいか、そこかしこから無遠慮な視線が向けられる。

「やっぱ目立つんだねぇ」

「この顔だからね」

 周りの様子を見ながら言う茜に、軽い調子で渡瀬が答える。

「でもさ、なんでこの学校に?」

 ぽん、と思いついたかの様に前を歩いていた影塚はつま先だけで半回転。ターンの要領で紫苑の方に向きなおり、問いかけた。

「この場所は、私にとって都合のいい事が多かったから」

「んー。家から近い感じか!」

 なるほどなるほど、と一人で納得して、『あ、だったら』と続けようとするところに、見かねた茜が、

「ちょっとちょっと。月島さんも困ってるって」

「そんな事ないよねー? 私達ラブラブだし!」

 紫苑の顔を覗き込むようにして同意を求める。

 会ったばかりの相手に対して、それだけの態度で接する事ができるのも珍しい奴だが、

「はしゃぎ過ぎだ、影塚」

 翔の言葉に反応し、ムッとした表情になった影塚が詰め寄る。

「私のことは里佳って呼ばなきゃダメだよ!」

「そこかよ」

 まるでコントのような対応に、渡瀬や大地たちも乗る。

「じゃあ、私の事は香苗って呼んでね」

「俺はジェームスでいいぜ」

「わかったわかった。里佳に香苗それとポチな、案内するんだろ?早く行こうぜ」

 先に進もうとする翔に置いて行かれないように茜と紫苑が続く。

「ちょ、ちょっと待ってよー。置いてかれちゃう。早くいこ香苗!それとポチ!」

「うん。いこポチ」

 香苗と里佳も早足で追いかける。

その後にポツンと佇むのはポチだけだった。

「……ひどくね?」

 誰にともなく呟く大地を待とうというものは、当然の如く存在しなかった。


 そんなこんなで購買部、食堂、体育館、音楽室、美術室など授業や日常的に使う場所を案内した後、六人は最後に屋上へと向かった。

「この学校の屋上は珍しいんだよ?」

 そういう茜の言う通り、ここの学校の屋上は少し変わっている。

 ここの理事長の趣味なのか、屋上なのに生徒の出入り自由。

何より、ガーデニングガーデンの様に花壇が設置され、生徒たちの意外な憩いの場として機能を果していた。

「ここの花、結構綺麗なの多いもんね?」

 赤白と咲き誇る花に触れながら話す茜に、里佳と香苗も座り込み談笑して、特に興味もなさそうなポチ……、もとい大地は欠伸を噛み殺し、近くにあるベンチへと向かっていった。

 妙な違和感があった。

 そう、案内するといってここに連れて来たはずなのに、茜も里佳も香苗も大地でさえ紫苑に話しかけようともしないのだ。

 翔が不思議に思いみんなを見ていると、横から声を掛けられた。

「あなたは触れた事があるのね」

「何を言って……」

 翔は驚きを顔に乗せて体を向ける。

妙な寒気が肌に纏わりつくような気がしていた。

 それが只の錯覚であって欲しいと思ったのは、紫苑の目が何かを伝えようとしているのが分かってしまったからだった。

 だが、それが何かまでは分からない。

「忘れては駄目。あなたはすでに人ではないのだから」

 意味のわからない事を言う紫苑に動揺し、反論しようと口を開こうとするが、

「……!」

 目が合った瞬間――世界が変わった。


「忘れないで。あなたは狙われている」

 紫苑の言葉が翔の止まっていた時間を、ついに動かしてしまった……。



 ◇ ◆ ◇


「説明してくれるんだろ?」

 自分たちの周囲に転がる男たちを見まわしながら、翔は紫苑に問いかけていた。

 こんな事に巻き込まれるとは夢にも思っていなかった翔にとっては、この現在の状況は筆舌に尽くしがたいものがあった。

 それも当然の事で、あなたは狙われていると急に言われても、はいそうですかと簡単に割り切れるものでもない。

 屋上での出来事の後。

 まるで存在さえ気がつかないかのような態度だった大地たちの反応も戻り、案内する場所もなくなった翔たちは各々帰宅する運びになった。

 方向が同じだったのか、紫苑と翔が二人きりで帰っていた矢先での出来事。

 その結果がこれでは、一緒に帰った事にも何かしらの作為があったのかと感じてしまう。

 それは紫苑も理解しているようで、

「分かってるわ。ちゃんと説明はするつもりだから安心なさい」

 言いながらポケットから何かを取り出す。

 それは現代社会での必需品とも言える無機質な部品で作られた通信機器。

 簡単に言えば携帯電話だった。

 偶然なのだろうが、手に持つその携帯電話は彼女の瞳の色と同じ青を基調としている。

 そしてどこかに連絡を取ると、静かにそれを閉じた。

「学校に戻るわよ」

「……はっ?」

 紫苑の言葉に思わずといった感じで出た感想だった。

 説明を聞けると思っていただけに、その言葉は予想外だったのだ。

「聞こえなかったのかしら? 学校に戻ると言ったのよ」

「聞こえてるけど、どういう事だよ」

 その答えを聞くと、無表情のまま紫苑は翔を見続ける。

「な、なんだよ」

 妙な居心地の悪さからか、翔は目線を逸らして呟いた。

「あなたは神経が太いのか、それともただ単に馬鹿なのかどちらなのかしらね」

「なっ……! いきなりなんだよ!」

 余りの暴言に驚きを隠せない翔は声を荒げる。

 だが、

「だってそうでしょ?自分が襲われたというのに、あなたはまだここに居るつもりなの?」

「……」

 ごく当たり前の意見に何も言い返せなくなってしまう。

 反論できない事を見越してか、紫苑はそのまま歩きだした。

 結局、説明を聞く以外に方法のない翔はどこか憮然としたまま、その後についていくしかなかった。



「なぁ。あいつらはそのままで大丈夫だったのか?」

 学校が視界の端に見え始める頃に、翔は口を開いた。

 隣を歩く紫苑はちらりと翔を確認すると、

「問題ないわよ。後の処理は滞りなく終わっているはず。あなたはそんな事を心配する必要ないわ」

 その言葉にビクリとして、翔の足が止まる。

「処理って、まさか……」

「安心しなさい。あなたの想像しているような意味ではないから」

 翔はあからさまにホッとした表情を浮かべると、前で待つ紫苑の隣まで駆け寄る。

 歩みを再開すれば、もう校舎は目の前にあった。

 下校時刻もとうに過ぎている学び舎は、普段の様な人の匂いを感じさせない。

 どこか寂しげな雰囲気すら醸し出している。

 それからしばらくすると、校舎の中に入っていった二人はある部屋の前に立っていた。

「なぁ。ここって……」

 紫苑は翔の言葉が聞こえていないのか、それとも無視をしているのか、返事もせずにその扉を開く。

 そこを通りぬけると、翔はどこか落ち着きのない様子で周囲を見回していた。

 こんな場所に出入りする機会がなかった翔にとっては、中の光景が物珍しく映ったようだ。


 中は想像以上に豪華な作りである。

 樫で作られた机は黒光りし、備え付けの数人掛けのソファは座っただけで抵抗なく体を沈めてくれるだろう。

 棚には仰々しく飾られた数々の優勝カップ。

 壁にはどこで手に入れたのか、立派な角を持つ鹿の頭部の剥製が掛かっていた。

 そうここは学校の長の部屋。理事長室であった。

「なぁ。もうそろそろ説明してくれてもいいんじゃないのか?」

 振り向いた翔は紫苑に問いかけていた。

 それは紫苑が一体何者であるかについてなのか、それとも先程の事なのか、その言葉だけでは分からない。

 恐らくは後者なのだろうが、もしかしたら両方なのかもしれなかった。

「そうね。あなたには聞く権利がある」

 真っ直ぐに向けられた視線は射抜くが如く翔を貫いた。

 翔は暑くもないのに額に浮かぶ汗を拭うと、喉を鳴らす。

 聞いてしまったら何かがおかしくなってしまう。

 そんな妙な予感が翔の鼓動を速くしていた。

「その前に紹介しなければならない相手がいるみたいね。……隠れてないで出てきなさい」

 翔はその言葉に疑問符を浮かべ、眉を寄せていた。

 間違いなくここには二人以外は誰もいない。

 隠れる場所があるようにも見えなかった。

 何を言っているんだ?といった様子の翔が、口を開こうとしたその時の事だった。

「やっぱり分かってましたかー。紫苑ちゃんも人が悪いですねー」

 翔は不意に響いた明るい声に体を強張らせる。

 声は聞こえてくるが、姿はどこにもない。

「だ、誰だ!」

 驚きを隠せない様子で翔が叫ぶと、

「私の事忘れちゃったんですかー? 先生とっても悲しいですー」

 舌足らずな言葉と共に声の主は姿を現していた。

 いや、正確に言えば少し違う。

 そして、

「う、うわあああぁぁぁぁ!!」

 絶叫が室内を包み、恐怖に顔を歪めた翔は尻餅をついていた。

 それはごく当然の事で、翔でなくても似たような反応を示していた事は間違いない。

 なぜならそこには、頭だけを床から覗かせた少女の姿があったのだ。

 それを平然と見ていられる人間がいたとしたら、その人間は頭のネジがどこか抜けているか、よほどの大物なのだろう。

 或いは、同種の人間――

 敷き詰められた絨毯を乱しながら後ずさる翔は、すでに恐怖で言葉もでない様子。

 平静を保ち続ける紫苑は冷めた目で翔を見てから、その元凶に視線を移した。

「ふざけるのも大概にしなさい。話がややこしくなるわ」

「ごめんなさいー」

 言いながら隠していた全身を床から現して、笑顔のまま舌を出す。

 ちっとも反省している様子はないが、紫苑は慣れているのかそれにも反応は示さない。

「あなたもいい加減こっちへ来なさい」

 紫苑は隅の方で壁に張り付いている翔にも言葉をかけた。

「そうですよー翔君。こっちでお話しましょー」

 笑顔を湛えてはいるが、それも翔にとっては自分を貶める呪いの言葉に感じてしまった。

 相手の顔を見て相手が誰なのかは翔も分かっていた。

 だからやっとの事で出た言葉はこんなものだった。

「姫ちゃん……お前一体なんなんだよ……」

「お前はないんじゃないですかー? 仮にも先生なんですよー!?」

 頬を膨らませているが、あまりに幼すぎるその容姿のせいなのか怒っているようには見えない。

 そう、彼女は中学生のような見かけではあるが、れっきとした真道学院の体育教師である新島千秋その人だった。

 翔は困惑を浮かべたまま、ゆっくりと顔を上げ、

「説明……してくれるんだよな?」

「ええ。実は――」

 紫苑はその言葉に頷くと語りだした。



 ◇ ◆ ◇


あの後。

説明を受けた翔は、ただ無感情に相槌を打つ事くらいしかできなかった。

それも当り前の反応だった。

あまりにも突拍子もないその話を信じるという方がどうかしている。

それほどにその話は常軌を逸していたのだ。

「意味が分からねぇよ……」

 そう零した翔は、自宅に帰る為に一人で歩いていた。

 あんな話はデタラメで、ただの性質の悪い冗談だ! と、吐き捨てたい気持ちを抱えたまま。

 ただ、それができなかった理由もあったのだ。

 それが路地裏での出来事。

 確かにあれを仕向けたのが紫苑たちだというのなら話は別だが、からかうにしては手が込みすぎているとも感じていた。

 そこまでする意味すら理解できない。

 それにあの床から顔を出していた千秋の存在。

 あのような現実離れした光景を目の当たりにしてしまった以上、簡単にそれが冗談だと言えないのも偽りがたい気持ちでもあった。

「はぁ」

 深い溜息を吐き、重くなった足を引きずるようにして歩を進める。

 辺りはすでに夕暮れを過ぎ、夜の風が吹き始めていた。

 そして、いつの間にか意識せずに立ち入っていたのは家の近くにある公園だった。

 あの話の事について考えるのにはちょうどいい、と翔はゆっくりとベンチへ近づいていく。

「俺が特殊な存在……か」

 翔はベンチに腰かけると呟いた。

 二人の説明は実に簡単なものだったのだ。

 千秋のような特殊な能力を持つ者をロスターと呼ぶ事。

 翔がロスターという枠組みの中でも特別な存在である事。

 そして、命を狙われているという事。

 ロスターというのは人にはない特殊な力を持っているが、それを得る為には条件が二つあると紫苑は語っていた。

 一つは適性があるかどうか。

 これについては試さなければ分からないらしく、ロスターになった者は適性があったと判断するしかないという話。

 もう一つは対価を支払わなければならないというもの。

 その対価というものが何を指すのかは翔には判断がつかなかったが、楽しげなものでもないだろうと考えていた。


「結局、分かったのは俺が狙われてるって事だけじゃねーかよ。しかも、それが本当なのかもわかんねーし」

 手を額に当てて目を瞑ると、柔らかな風が奏でる葉の音が耳に入る。

 他の音がここに混ざれば、簡単にこの静けさは壊れてしまう事だろう。

「協力すれば助けてくれるらしいし、更に詳しい話も聞かせてくれるらしいけど……。どうすっかな」

 観点は紫苑たちの事を信用するかどうか、その一点だった。

 もしも彼女たちの言っている事が本当ならば、協力するのも吝か(やぶさか)でもないと考えていた。

 だが、仮に命を狙っているのが紫苑たちだとしたら?と、そんな思いに至るのも当然の事。

 答えのでない思考のループに迷い込んだ翔は、正面を呆然と見つめている。

 しばらくそうしていると、不意に鼻の頭に雫が落ちた。

「雨か」

そのまま頭上を見ていると、霧のような細かい水滴が着ていた制服を容赦なく濡らしていく。

六月とはいえ濡れた体は肌寒く、鬱屈した気分をさらに落ち込ませるには十分だった。

「保留……だな」

 熟考した上で翔はそう言うと、帰ろうとベンチから腰を上げようとしていた。


その時―― 

「一人で居るとは好都合だな」

 翔は急に掛けられた声に驚き、そちらの方を向く。

すると、そこには異様な格好で立つ男の姿があった。

 歳の頃は三十半ば、背の高さは百八十前後。綺麗に剃りあげられた頭部に黒いサングラスをしている顔は表情を伺い知る事はできない。

 黒い革でできたジャケットとパンツは体にフィットし、その体の線をこれでもかとばかりに強調していた。

 服の上からでも分かる筋骨隆々の体は見るものを威圧し、圧倒的な存在感を佇ませている。

「ちょうどいい。付き合ってもらうぞ」

 男はぬかるんだ地面を踏みしめ、ベンチの方へと近づいていく。

「あっ……」

 知らぬ間にベンチから立ち上がっていた翔は、何を言っていいのか分からず一歩後ずさっていた。

 暴力が服を着て歩いているような錯覚の中、無言のまま歩を進める男に恐怖を抱いた翔はそのまま逆の方へと走ろうとしたが、

「逃げるんじゃねぇ!」

 翔は信じられない光景を目にした。

 男の振った丸太のような腕が、そこに生えていた太さ八十センチはあるだろうと思われる木をへし折ったのだ。

 目の前で起きた事を理解できない頭とは違い、体は素直に反応していた。

 この場にいては危険だという本能が、考える前に体を突き動かしていたのだ。

 男から逃げるように走りだしたのはいいが、後ろから追いかけてくる男に対する恐怖が足を動かすのを邪魔している。

「はぁ……はぁ……」

 息を切らしながらも走る事をやめる訳にはいかなかった。

 捕まればどうなるか想像できないほど、翔も馬鹿ではない。

「こいつが……。俺の命を狙ってる……奴なのか……?」

 急げ!急げ!と、心の中ではそう思うも、鈍重そうな見た目とは裏腹な男の足の速さに焦っていた。

 そして致命的なミスをしてしまう。

横道に逸れようと急な方向転換が災いしたのか、大量に水分を含んだ地面に足を取られて転んでしまったのだ。

「ぐっ……」

 転んだ拍子に手の平などに擦り傷ができていたが、そんなのに構っている場合じゃないと翔が立ち上がろうとしたその時――

「手間をかけさせるな」

 翔が自身の体が浮くような感覚に目を見開くと、自分が胸倉を掴まれて持ち上げられているのだと気づいた。

 六十キロはある翔を片手で持ち上げる腕力に恐怖を抱き、顔が引きつってしまう。

「ぐぁ……くるし……い……」

 翔は胸倉を掴む男の手を引き剥がそうと暴れるが、全然ビクともしない。

 自由になっている足で、男の体を蹴りつけてもコンクリートの壁を蹴っているかのような感触がするばかり。

「おとなしくしとけ」

「!」

 そう言うと、男は腕を横に振って翔を投げつける。

 すごい勢いで後ろにあった木にぶつかった翔はあまりの衝撃に、四つん這いの姿勢のまま息を詰まらせて噎せ(むせ)込んだ。

「げほ……げほっ……」

 だが、それで終わりではない。

翔が息を整える間もなく、男は五メートル程あった距離を一瞬で詰めた。

 そのままサッカーボールを蹴る要領で横から蹴り飛ばす。

 瞬間――

 ボキッという嫌な音が翔の右腕から聞こえ、そのまま吹き飛ばされる。

 最初は何が起きたのかわからなかった頭が働き出した頃には、尋常じゃない痛みが翔を襲い、

「ぐあぁぁぁぁ!!」

 あまりの痛さに絶叫する翔は地面を転がる。

男はその様子に、まるでゴミでも見るかのような瞳を向ける。

「あーあ、余計に五月蠅くなっちまったな」

 そのまま男は笑みを浮かべ、翔を持ち上げた。

「あ……あ……」

 言葉にならない呻きを漏らす翔に、

「さよならだ」

 断罪の言葉が告げられる。

 そして翔が最後に見た光景は、男が振りおろす死の香りを漂わせる拳だった……。


 ◇ ◆ ◇


 ――ここは、どこだ……?

 中途半端に覚醒している頭を揺り動かし、翔は周りを見渡すがそこには何もなかった。

 そう、何も。

 見渡すという行為ができているのかもわからないほどの暗闇。

深淵に抱かれるという表現が似合いそうなほど何も見えない。

 自分の手も、足も、体も、本当にそこにあるのかわからない希薄な存在のように感じ、翔は自分という存在にすら疑いを持った。

 ――自分は本当にここにいるのだろうか……。

 そんな錯覚さえ抱きながら、後ろに両手をついた格好のままだった翔は立ち上がった。

「……?」

 ふと、何かに気づく。

「地面は……ある……?」

 そう呟き、つま先で地面を軽く叩いてみると、コンコンという無機質なプラスチックでも叩いているような音と感触が返ってきた。

「ここは、どこだ?」

 口に出して言ってみても、もちろん回答はどこからもない。

 周囲を改めて見回してみてもあるのは闇、闇、闇。

 恐怖が体を包むのは当然の事、ここを動くのが怖いと思うのは仕方ない。

「絶対にここを動かない……」

 翔はそう呟くと、一歩踏み出していた。

「動いたら何が待っているか分からないんだ。とりあえずここで誰かが助けに来るのを待ってよう」

 そう言って、更に一歩を踏み出す。

 そして次第にその足を迷いなく動かし始めていた。

翔は自分の起こしている行動の矛盾にもはや気づいてさえいない。

「こっちだ」

何故か進むべき方向だけは分かっている。

それが何を意味するのかはまったく理解していなかったが、それだけは確信していた。

これほどの暗闇の中。

目の前に何があっても見えない状況では、普通なら人は前に進む事を恐れる。

すぐ先に壁があるかもしれない。

一歩先は足場がないかもしれない。

何者かが自分を待ち構えているかもしれない。などと思うものだ。

だが、そんな憂いは翔の心には一切なかった。

その事にも一切の疑問も持たず、翔は何かに導かれるかのように歩を進める。


 しばらく進んだ後。

先程まで何もなかったはずの遥か先に光が見えた。

「……」

 無言のまま、さも当然のようにその光の下へと向かう。

ここには時間や、距離という概念自体が存在しないのかもしれない。

それを証明するかの如く、遥か遠くにあるように見えたその光の玉と翔の距離は、いつの間にか目と鼻の先にあった。

 翔はそこで立ち止まると、直径三十センチほどのその光の球体を包み込むかのように両手で支える。

 その瞬間――周りを支配する闇に亀裂が入り、爆ぜた。



 闇がまるでガラスを砕いたかのように崩れ落ちると、そこには美しい光景が翔を待っていた。

「ここは……」

 先ほどまでの無意識の心は急に離れ、自分を取り戻した翔は不思議な感覚に囚われている。

「暖かい……」

 ダイヤのような輝きを持つ木に囲まれた森の中、なぜか涙が流れ落ちる。

 そのまま何かを抱きしめるかの様に両手で自分を抱き、目を閉じて立ち尽くす。

 何かが起きなければ永遠にそうしていたかもしれない。

 ところが翔はバッと顔を上げる。

「……なんだ?」

 驚いたような顔を浮かべる翔は左右へと視線を向けた後、耳に手を当て、音を逃さないように集中する。

 すると『ピチャ』という水の跳ねる音が聞こえた。

 導かれるかのようにそちらの方を向くと、再び『ピチャ』という音が。

 翔は気がつくとその音がする方へと歩き出していた。

 透明な砂のような物を踏みしめながら進むと、透明な木の向こうに何かが見える。

「ほんとのガラスみたいに硬いわけじゃないんだな」

 生えている葉っぱを一つ摘み、握ってみると簡単に砕けてしまった。

 手からは破片が零れ、キラキラと光に反射している。

 見た目は水晶でできているような木を掻き分けると、そこには今まで以上に美しい光景が翔を待ち構えていた。

 小さな湖のような水面はゆらゆらと揺れ、そこから空気中に浮き出すように大小の淡い光の珠が空へと向かってゆっくりと舞い上がっている。

 そこは表すならば、光と水が織りなす美術館のようだった。

 一部を切り取って枠に組み込めば、それは最高の芸術品として誰もが目を奪われてしまう。

 そんな光景であった。

 翔はその光景に見惚れながらも、視線を中心へと向ける。

湖の中に下半身を沈め、上半身を水面から出した裸体の少女がいるのに気がついた為だ。

 すると、後ろを向いていた少女がゆっくりと振り返る。

 二人は無言のまま見つめ合うと、少女の方から口を開いていた。

「また……お会いできましたね……」

「また?」

 まるで愛を形にしたかのような優しい微笑み。

だが、天使のような笑顔の裏に何か含みを感じたのは、自分の考えすぎなのかどうか翔には分からない。

 一瞬の躊躇はしたものの、翔はゆっくりと近づいて湖に入っていった。

「……」

 一歩一歩、水をかきわけて少女へと近づいてゆく。

 少女はその様子を見ていても、笑みを崩さずにその存在を誇示し続けている。

 そして翔が目の前まで来ると、少女は両手を求める様に伸ばした。

手を翔の首に回してぶら下がると、二人の瞳は数センチほどの距離を残して見つめあう形になっていた。

 突然の事に少し驚きながらも、翔は抗うことなく二人の鼻がつきそうな距離のまま問いかける。

「君は……誰だ……?」

 その言葉を聞くと、少女は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべる。

 幻想的な風景も相まってか、酷く心を抉る顔だった。

「何か傷つけるような事を――」

 翔は堪らず言葉を掛けようとしたのだが、

「!」

言葉を途切れさせたのは、少女の無理に浮かべた笑顔と頬を伝う涙を見てしまった為だった。

一粒の雫が湖に落ちて微かな波紋を引き起こす。

それは少女の感情を映す鏡のように、小さい揺らめきを残していた。

 その瞬間――翔の頭の中に痛いくらいの情動が駆け巡る。


 雷に打たれた様な衝撃を受け、すべてを思い出したかのように、

「おまえは!み――」

 何かを続けようとした翔の唇は、少女の唇に塞がれていた。

 頬を伝う涙を拭う事なく数秒の邂逅を終え、ゆっくりと体を離すと少女は告げる。

「愛しています。誰よりも」

 その言葉を告げた瞬間――景色が揺らぐ。

「待ってくれ!俺はまだ!」

 何か言おうとする翔の思いを打ち砕くように、静かに世界は崩れた……。

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