国王時代2
軍の再編を始めてから一月。
こちらの動きを察知したのか、グランス皇国でも動きがあったという報告があったのは間もなくの事だった。もっとも、何のための再編なのかは分かっていないらしい。俺の意図に感づいている者はいるかも知れないが、それでも宰相や将軍達にすら一言も教えていないのだから当然ではある。
だが、皇国の方は流石、と言えるだろうか。あるいは、単細胞と言うべきだろうか。……まあ、どちらでも良いか。
延々と互いに戦争をやっている隣国が、軍の再編を始めたのである。良くて防衛力の強化、悪くて自国への進撃を予測しないようでは、危機意識に欠けると言わざるを得ない。……我が国の貴族連中には危機意識というものが常備されていなかったようだが。
幸い、防衛部隊の再編から優先的に行っていたこともあり、グランス皇国に先手を取られる事もなく、軍の再編は進んでいた。
「準備は順調のようですね」
事を終えた閨の中。布の一枚もかけていない火照った裸体を惜しげもなく晒した女神がそう宣う。
「何の準備だったかな?」
冗談交じりにとぼけてみたが、
「ふふっ……待ち遠しいですね」
答えは返ってこなかった。
まあ、お互い答えは知っているのだ。
そもそも、軍の再編を進めるにあたり、反対派の貴族を説得するために女神の力も借りている。もっとも、人の心を大きく操るような力はないらしい。せいぜい、元々持っている感情を強めたり、弱めたりするくらいのものらしい。だが、反抗心を鈍らせて貰うだけでも、反対派の貴族の説得は十分スムーズに進むようになった。
「予定通り事が進めば、彼女が滅ぶ……とまではいかなくとも、随分と弱ってくれるはずです。ほんと、待ち遠しいですね」
女神が言う彼女とは、グランス皇国の女神レイフェルのことだ。
神話の通りお互いの仲は非常に悪いようで、自分たちに十分な力が残っていれば、今すぐにでも滅ぼしに行って差し上げるのに、などと剣呑な台詞を聞かされた事も一度や二度ではない。
ただ、今の人間にとっては幸いな事にと言うか、神話で語られる時代の争いで女神達の力は大きく削がれており、今となっては直接相手をどうこうする力は、互いにないらしい。その代わりにそれぞれの民を削る事で、相手の力をさらに削ぎ、叶うならば滅ぼしてしまおうとしている。
つまり、この女神が俺に望んでいる事というのは、グランス皇国の民を虐殺するなり、セラスティア信仰に改宗させるなりして、グランスの女神レイフェルの力を間接的に削ぐ事なのだ。
可能ならば、聖剣ドットムート――神殺しの剣だが、確かにこんな神々を殺すための物なら、立派に聖剣と呼べるだろう――でレイフェルに一撃を加える事まで望まれているようだが。
いつも通り、夜明け前には女神の姿は消えているのを確認すると、俺は湯浴みを済ませる。
日が出る前に城で働く使用人達が住んでいる区画へと足を運び、セシルの部屋の扉をノックした。
「はい」
中から返事が聞こえると、許可を待たずに扉を開ける。
「おはようございます」
良くある事なので、既に一分の隙もなくメイド服を着込んだセシルがそこにはいた。
セシルは侍女としてここに入ってはいるが、実はほとんど仕事はさせていない。何しろ、妊婦である。なので、本当ならこの時間はまだ寝ていてもいいはずなのだが、いつ訪ねてきても身支度を万全にして迎えてくれる。
「今日も早いな」
「陛下こそ」
そう言いながらテーブルについて、ローディ(セシルの世話をして貰うために同室になるように手を回した)がいれてくれた紅茶を俺に勧めてくる。
ありがたくそれを頂きながら、
「体調はどうだ?」
「大丈夫ですよ?流石にもうしばらくしたら、ここにはいられなくなりますけど……」
ここ最近、来るたびにしていた質問に、いつも通りの答えが返ってくるかと思っていたが、今日は少し違った。
「そうか」
セシルの腹に視線をやり、俺は頷いた。
まだ、そう目立つような事にはなっていないが、よく見ると確かに少し膨らみ始めている。エプロンで誤魔化すのもそろそろ無理なのかも知れない。
「いつ、屋敷に戻る事になりそうだ?」
ローディにそう訊くと、
「出来れば今日明日にでも。下手な噂が立つ前の方が良いでしょうから」
とのこと。
それを聞いた俺は、軽く頷くとセシルに視線を戻した。
「しばらくはこうして会う事も出来なくなりますね」
「ああ、そうだな」
寂しそうなセシルに、それ以上かける言葉はない。
こうして、確かにお腹がふくれ始めたセシルを見ていても覚悟が揺らぐ事はないが、やはりどこか気が重たくなってくるのだ。
「屋敷に戻っても、暇を見つけては様子を見に行く」
何とかそれだけ絞り出すと、俺は席を立った。
(もう、あと半年か……)
人に見られないように使用人達の居住区画を離れた俺は、上階にあるテラスに向かいながら、今後の事を考えていた。
その筆頭が、セシルのお腹にいる子供の事だった。
俺の計画は、子供が生まれないと話にならない。
グランス皇国に攻め込むのは、子供が生まれ、その顔を見た後になる。
セシルの妊娠が分かってからまだ二ヶ月弱。今のセシルは妊娠四ヶ月ちょっとという事なので、ローディ曰く、子供が生まれるのは半年後になるはずだ。
(それだけあれば、部隊の準備は整うか?)
幸い、大軍全てを鍛え上げるつもりはない。むしろ、軍の大半は防衛用に振り向けている。グランス皇国に攻め込む部隊は精鋭のみに絞る予定であり、彼らの訓練だけなら何とでもなる。
とは言え、クリアしなくてはならない問題は数多い。
(移動に使う足、あちらの情報網の切り崩し……そろそろ何人かには打ち明けないといけないな)
どうしても一人では出来ない事や、他の理由では準備させる事が出来ない事もある。
(まあ、相手を降伏させて、戦争を終わらせるんだからな。無茶と言われるかも知れないが、勝算さえあれば説得は出来るな)
問題は、勝てるだけの戦力を整えられるかどうかということだった。
そして半年が経ち、軍の再編と訓練も一段落した頃。
俺は久しぶりにグラスティ公爵邸に足を運んでいた。
前にここに来てから一月以上が経っていた。
「お帰りなさいませ」
馬車を降り、玄関ホールに入ると、手の空いていた使用人達が俺を出迎えに集まっていた。
「マクシミリアンは?」
集まった使用人達の中に、セシルと一緒に屋敷に戻ったはずのマクシミリアンの顔がない事に気づき、手近な使用人に訊ねる。
「マクシミリアン様は、セシル様についておられますが、人を呼びにやりましたので、すぐにこちらに見えるかと」
実際、その通りだったようで、彼女の返事が終わる前には誰かが走ってやってくる足音が俺の耳に届いていた。
「お帰りなさいませ、陛下」
決して狭くはない屋敷の中を走ってやってきた割には、息一つ切らさずにそう言ってのけるマクシミリアンは大した物だと思う。だが、今はそんな事に感心している場合ではなかった。
「もう、産まれたのか?」
「はい。助産婦達が言っていたよりも早くに」
そう受け答えしながらも、俺はマクシミリアンを連れ、セシルの寝室へと向かう。
だが、早く顔を見たいと思う気持ちと、出来れば顔を見たくないという気持ちが半々の中途半端なままだ。こればかりは、もうどうにもならないのかも知れない。
もやもやしている間に、すぐにセシルの部屋に着いた。入り口に控えていた使用人が頭を下げている間に、マクシミリアンが扉をノックする。
部屋の中には、ベッドに横になっているセシルと、その隣には布にくるまれた小さな赤ん坊がいた。
部屋でセシルについていた侍女は、マクシミリアンと共に静かに部屋を出て行った。
「見て下さい……私たちの子です」
誇らしげにそう言ったセシルの姿に、胸が締め付けられる思いをしながらも、何とか頷く。
「ああ」
とても、「よく産んでくれた」とは言えない。
セシルはきっと、その言葉を望んでいるのだろうが、それだけは言えない。
それどころか、俺はこの赤ん坊を数としか見てはいけない。
そうしないと、この赤ん坊に情が移ってしまう。
この、「俺とフィリーの子供」であり。
ドットムートの末裔でもあり。
そして、最後の生け贄でもある、この赤ん坊に。




