本州と九州を結ぶ歴史の海峡
九州と本州の間に狭い海峡があるんです。
関門海峡の東端に位置し、海峡で最も幅が狭くなって早鞆瀬戸は、山口県下関市(壇ノ浦)と福岡県北九州市門司区(和布刈)の間にある、関門海峡で最も狭い海域(幅約650〜700m)です。大潮の時には潮流が最大10ノット(時速約18km)を超えることがあり、複雑な渦潮が発生することもあります。
源平壇ノ浦合戦(壇ノ浦の戦い)は、1185年3月24日、長門国壇ノ浦(現在の山口県下関市)の海上で行われた源氏と平家の最終決戦です。この戦いで平家は滅亡し、源頼朝による武家政権誕生への決定的な契機となりました。
戦況を分けた主な出来事潮流の変化:関門海峡特有の激しい潮の流れ(東流れから西流れ)を利用して最初は平家が優勢でしたが、昼を過ぎると潮目が変わり、源氏が有利に転じました。
ここは、昔から激しい潮の流れで有名です。
約6000年前に本州と九州が分断され、関門海峡が形成されたといわれる。関門海峡は諸外国との関係では交流交易や防衛の拠点、国内交通では本州と九州の結節点、さらに日本海と瀬戸内海をつなぐ海上交通の要衝であり、しばしば歴史の舞台となってきた。
記紀
仲哀天皇元年 - 仲哀天皇が妻の神功皇后と九州の熊襲の平定のために関門海峡へ進軍。翌年、穴戸の国(長門国)に豊浦宮(御所)を置いた(今の忌宮神社の場所)。
仲哀天皇8年9月 - 仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征伐のため博多の香椎宮を訪れる。そこで、神懸かりした神功皇后から「新羅を攻めよと天照大神と住吉三神のお告げ(ご信託/託宣)を受けたものの、仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行う。しかし、ご信託の通り天皇軍は敗北し撤退。さらに翌、仲哀天皇9年2月、仲哀天皇自身が筑紫で熊襲の矢に打たれ崩じた。遺体は武内宿禰により海路穴門(※当時は関門海峡の一部は繋がっており、そこに巨大な穴が空いていて潮が行き来していたという説がある)を通って豊浦宮で殯された。
関門海峡は、本州(山口県下関市)と九州(福岡県北九州市)を隔てる海峡です。この名称は、両岸の地名である馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市門司区)の「門」を組み合わせたものに由来しています。かつては穴戸海峡、馬関海峡、下関海峡とも呼ばれていました。
2017年には、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件の文化財群が「『関門“ノスタルジック”海峡』〜時の停車場、近代化の記憶〜」として日本遺産に認定されました。これにより、関門海峡はその歴史的価値と文化的景観が再評価され、観光地としての魅力が高まっています。
関門海峡の地理
関門海峡付近は、最終氷期(約7万年前〜1万年前)には陸地でした。寒冷期には河川が発達し、それらの河川が花崗閃緑岩の岩石を削り、現在の海峡の基礎となる窪地を形成しました。気候が温暖化し海水面が上昇することで、窪地に海水が流れ込み、現在の関門海峡が出来上がったのです。
関門海峡の特徴
最深部の水深は47メートルに達し、潮流は大潮の時には最大10ノットを超えることがあります。関門海峡を構成する水路には、大きく分けて2つの主要な部分があります。本州と九州を隔てる水路は「大瀬戸」と呼ばれ、また彦島と本州を隔てる水路は「小瀬戸」または「小門海峡」と呼ばれています。大瀬戸の最狭部である壇ノ浦と和布刈の間は「早鞆の瀬戸」と呼ばれ、ここでは潮流が特に激しくなります。
一般的には、下関市と北九州市門司区の間を関門海峡と呼びますが、海運業界では、下関市彦島を迂回する形で門司区 - 小倉北区 - 戸畑区 - 若松区に至るルートを「関門航路」として、これを関門海峡と認識しています。
関門海峡の歴史
関門海峡の形成
約6000年前、本州と九州は分断され、関門海峡が形成されました。この海峡は、外国との交易や防衛の拠点として、また本州と九州を結ぶ交通の結節点として、さらに日本海と瀬戸内海を繋ぐ海上交通の要所として、長い歴史を通じて重要な役割を果たしてきました。
記紀における記述
仲哀天皇元年(192年)、仲哀天皇は妻の神功皇后と共に九州の熊襲の平定のために関門海峡へ進軍し、翌年には穴戸の国(長門国)に豊浦宮(御所)を設けました。これが現在の忌宮神社の場所とされています。また、仲哀天皇8年9月(200年)には、神功皇后の託宣に従わず熊襲征伐を行った結果、敗北し、翌年には天皇自身も戦死しています。
下関戦争と関門海峡
1863年、攘夷を主張する長州藩は関門海峡に砲台や軍艦を配備し、アメリカ商船やフランス艦などを砲撃しました。これに対して、フランスやオランダ、アメリカの艦隊が報復攻撃を行い、海峡を封鎖しました。さらに、イギリスも加わり1864年には集中攻撃を行い、下関戦争が勃発しました。この戦争により、長州藩は降伏を余儀なくされ、攘夷政策は終焉を迎えました。
第二次世界大戦と関門海峡
関門海峡は、1895年から下関要塞司令部が設置され、戦略的な防衛拠点となっていました。第二次世界大戦中には、壱岐要塞や対馬要塞とともに朝鮮海峡全体を防衛していました。1945年、アメリカ軍は飢餓作戦の一環として関門海峡に大量の機雷を敷設しました。この機雷により、海峡の通航量は大幅に減少し、最終的には113隻が触雷するという甚大な被害を受けました。
戦後も下関防備隊は掃海部として残り、関門海峡の掃海作業を続けました。1948年には全国の掃海部が解隊されましたが、関門海峡の掃海作業は終了の見通しが立たず、作業は継続されました。現在も自衛隊下関基地隊が散発的に見つかる機雷の処理を行っており、約1700個の未処理機雷が残っているとされています。
関門海峡の交通
海上交通の要衝
関門海峡は、最狭部で約500メートルしかないため、航路としての利用は非常に困難です。S字に屈曲して見通しが悪く、潮流が速い上に岩礁や暗礁も多いため、遭難事故が絶えません。それにもかかわらず、古くから本州と九州、日本とアジア大陸を結ぶ重要な航路として利用されてきました。現在でも多くの船舶が行き交い、漁業も盛んに行われています。
近現代においては、工業地帯としての発展に伴い、商業航路としての役割も大きくなり、多くの物流がこの海峡を通過しています。また、観光船も運航しており、関門海峡の景観を楽しむことができます。
陸上交通の結節点
関門海峡は、陸上交通においても重要な役割を果たしています。1942年に開通した関門鉄道トンネル、1958年に供用開始された関門国道トンネル、1973年に開通した関門橋、そして1975年には山陽新幹線の新関門トンネルが開通しました。これにより、本州と九州が陸上でも結ばれ、人や物の移動が飛躍的に便利になりました。
関門海峡の年表
約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。
1185年(元暦2年/寿永4年)3月25日 - 壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水、平家一門が滅亡。
1592年(文禄元年) - 豊臣秀吉が文禄の役出征のために通過、暗礁で船が座礁する事件が発生。
1612年(慶長17年)5月13日 - 宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘が行われる。
1863年(文久3年)5月10日 - 長州藩が攘夷決行しアメリカ商船を砲撃(下関戦争)。
1945年(昭和20年) - 関門海峡に機雷が敷設され、終戦までに113隻が触雷。
1975年(昭和50年)3月10日 - 山陽新幹線新関門トンネルが開通。
山口県と福岡県の間にある関門海峡は、海底の歩行者用トンネル「関門トンネル人道」を利用して徒歩で渡ることができます。全長は780メートルで、所要時間は約15分。歩行者は無料で通行でき、トンネルの中央には山口県と福岡県の県境ラインがあります。
関門トンネルは、歩行者専用の海底トンネル「関門トンネル人道」が整備されており、徒歩で渡ることができます。全長780mの道のりを約15分で通り抜けることができ、海底で山口県(本州)と福岡県(九州)の県境を越えるユニークな体験が人気です。
「関門トンネル」は、山口県下関市と福岡県北九州市を繫ぐ全長780メートルの海底トンネルです。同名の鉄道用トンネルと区別するため「関門国道トンネル」と呼ばれることもあります。
上下の2層に分かれており、上部が車道、下部は歩道となっていて、人道トンネルは徒歩15分ほどで通り抜けることができます。
自動車や鉄道であればあっという間に渡れる関門海峡ですが、ここでは海底を徒歩で渡るという珍しい体験ができるんです。トンネルの中程には山口県と福岡県の県境があり、線を跨げば「県跨ぎ」の面白い写真が撮れる注目のスポット!歩きだからこそ発見できる面白ポイントですね。
下関側の「関門プラザ」には関門トンネルや関門橋の建設時の写真や模型など貴重な資料が展示されているので、チェックするとより深く楽しめます。
人道トンネルの両側エレベーターホールに設置されたスタンプ台で、専用用紙に記念スタンプを押しましょう。観光案内所やカモンワーフに提示してアンケートに答えると、海峡を徒歩で渡った証明書「関門TOPPA!記念証」がもらえます。「恋愛成就手形」「合格手形」「恋人の聖地」「勝利の神社」「健康祈願」「武蔵・小次郎」「英語」「台湾語」の8種類から、お好きなデザインの記念証を1枚プレゼントします。




