神様のトモダチ
1998年、地方都市。何の変哲もない商店街のアーケードの下。
古びた喫茶店「エデン」のカウンターで、男は震える手でコーヒーを啜っていた。
男は、かつて「神」と呼ばれた存在。
今は、誰にも見向きもされない、ヨレヨレのトレンチコートを着た浮浪者に成り下がっている。
「……信じられない。あいつ、本当にやったのか」
男が視線を上げた先、街頭のテレビモニターには、一人の青年が映し出されていた。
輝くような笑顔。清潔なシャツ。何万人もの群衆を前に、彼は「愛と平和」を説いている。
かつて地獄の底で、最も卑怯で、最も残酷だと言われた「悪魔」だ。
「皆さん、もう安心です。悪いものはすべて私が消し去りました」
テレビの中の悪魔が、カメラの向こう側――つまり、この喫茶店にいる男をじっと見つめ、一瞬だけ、
口角を吊り上げた。
それは、「子供のような無邪気な邪悪さ」を孕んだ笑みだった。
街は変わった。
犯罪は消え、病人は消えた。……いや、「消された」のだ。
少しでも不幸せな顔をしている者は、翌朝にはどこにもいない。街全体が、強制された多幸感に包まれている。人々は皆、同じような薄笑いを浮かべ、お互いを監視し合っている。
「おい、あんた。さっきから暗い顔してるな」
隣の席のサラリーマンが、男の肩を叩いた。
その目は笑っていない。眼球の奥にあるのは、逃げ場のないシステムに組み込まれた者の、底知れぬ恐怖と、他者を道連れにしようとする加害性だ。
「『神様』に感謝しなきゃ。あの方は、僕たちの望みを全部叶えてくれるんだから」
男(元・神)は、逃げるように店を出た。
雨が降り出した。だが、その雨は温かく、甘い香りがした。
悪魔が演出した「完璧な世界」の雨。
男は路地裏で嘔吐した。
自分が愛した人間たちは、もういない。
今ここにいるのは、悪魔が用意したシナリオ通りに動く、精巧な操り人形だけだ。
ふと見ると、路地の奥に一人の少女が立っていた。
彼女は、かつて自分が人間に与えた「最後の良心」の欠片を持っているはずだった。
しかし、少女は無表情に指を差し、叫んだ。
「あ! 幸せじゃないおじさん、みーっけ!」
背後から、白い服を着た「平和維持局」の男たちが、足音もなく近づいてくる。
空を見上げても、そこには「神の不在」を象徴する、完璧すぎる青空が広がっているだけだった。
閉ざされたのは空間ではない。
「絶望することすら許されない」という、最も深い絶望。
男の呟きは、甘い雨の音にかき消された。




