第76話:未払い賃金の立て替えと、遠隔の聖女
水晶の洞窟に、張り詰めた沈黙が下りた。
新宿の大深度地下を支配する古老は、巨大な瞳を細め、足元の久我良平を値踏みするように見下ろしている。
『……面白い人間の小僧だ。契約の概念を理解し、我に「実利」を説くか』
古老の思念波が、先ほどまでの怒気を僅かに潜め、興味の色を帯びた。
『だが、小僧。百三十年だ。江戸の世から途絶えた「清め」の儀式と、蓄積した地脈の淀み。……我の体は、限界に近い。今からチマチマと家賃を払われたところで、この怒りと痛みは収まらんぞ』
古老が身震いすると、その岩と大樹で構成された巨体から、どす黒い瘴気のようなものが吹き出した。
「きゃっ……! な、何これ、息が……!」
結城陽菜が喉を押さえて咳き込む。
「プルルルッ!(毒だ! 悪いガスが出てる!)」
スラちゃんが陽菜の顔を覆うように薄く広がり、簡易的なガスマスクの代わりを果たした。
「キャン、バウッ!(ボス! このデカブツ、腹の中にすっげぇ悪いモン溜め込んでる! これじゃ話どころじゃねぇぞ!)」
クラが前足を突っ張り、毛を逆立てて警告する。
「ニャ~オ(こらアカン。結城はん、久我はんの後ろに下がりなはれ。地脈の『ストレス』が実体化しとるわ)」
コトがシルクハットを深く被り直し、杖(煙管)を構えた。
久我はアタッシュケースを盾のように構え、冷静に古老を見上げた。
「なるほど。長年の不当な契約放置により、貴殿の心身に深刻な『労働災害』……いや、環境被害が生じているわけですね。……誠に遺憾です」
『遺憾で済むか! 我の怒りを鎮めたくば、今すぐこの淀みを清めてみせよ! できぬなら、やはりこの街ごと……』
「できますよ。我々は、トラブル解決の専門業者ですから」
久我はスーツの内ポケットから、佐藤がセットアップした専用の通信端末を取り出した。
「佐藤君、聞こえていますか」
『……バッチリです、久我さん。そっちの地下深度、電波は死んでますが、僕が敷いた魔力通信なら遅延ゼロです。……で、デカいのが怒ってますね』
端末のスピーカーから、佐藤の呑気な声が響く。
「ええ。大家さんが『溜まったゴミを今すぐ片付けろ』と仰っています。……エレナ室長、ガル主任、出番です」
『はいっ、久我さん! 準備はできています!』
通信越しに、コンプライアンス室長・エレナの凛とした声が聞こえた。
事務所に残った彼女たちは、ただ留守番をしていたわけではない。久我はこの事態を予測し、事前に「ある仕掛け」を準備させていたのだ。
「ガル主任。事務所の基礎に繋いだあなたの魔力パスを、地下の地脈に直結させてください。そこを導線として、エレナ室長の『浄化の魔力』を現場へ転送します」
『……御意! 我が魔核の全出力をもって、エレナ様の御力を地下の底までお届けします!』
ガルの力強い返答と共に、通信端末が青白く発光し始めた。
「さあ、エレナ室長。ギルドに搾取されるための力ではない、あなた自身の意志で……顧客の苦情を解決するための力を!」
『……行きます! コンプライアンス室長、業務開始します!』
カッ……!!
久我の持つ端末から、目も眩むような純白の光が溢れ出した。それは、かつて新宿の結界をたった一人で維持していた「本物の聖女」の魔力。
しかし、以前のような悲壮感や痛みに満ちたものではない。温かく、力強く、そして「労働の対価」として真っ当に振るわれる、清浄な光だった。
光は洞窟全体に広がり、古老の体から吹き出していたどす黒い瘴気を、まるで朝日に溶ける霜のように浄化していく。
『……おお……おおおっ……!』
古老が驚愕の声を上げた。
百三十年間、誰も手入れをしてくれなかった地脈の澱みが、信じられない速度で洗い流されていく。岩と樹皮の隙間から、美しい水晶の輝きが戻っていく。
『この清らかなマナ……。江戸の世にいた、当代一の巫女にも劣らぬ……いや、それ以上に心地よい……! お前たち、一体何者だ……!』
痛みが引き、古老の怒気が急速に萎んでいく。
久我は端末をアタッシュケースにしまい、再び眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ただの事務屋ですよ。……今の浄化は、我々『久我ソリューションズ』からの、未払い賃料の一部立て替え(前払い)です。少しは、話を聞く気になりましたか?」
『……フン。小賢しい人間どもめ。だが……悪くない。我の痛みを見事に退けたその手腕、見事である』
古老はゆっくりと巨体を伏せ、久我たちと同じ目線になるように頭を下げた。
『よかろう、小僧。我の怒りは、ひとまず鉾を収めてやる。……それで? お前は我に、どんな「実利」をもたらすというのだ』
「キャン!(よし! デカブツが話を聞く気になったぞ! ボスのすっげぇ交渉術の始まりだ!)」
クラが誇らしげに胸を張り、陽菜も安堵の息を吐いてスラちゃんを撫でた。
「ニャ~オ(さすが久我はんや。これでようやく、本題に入れるっちゅうわけやね)」
久我は再びタブレットを操作し、新たな契約書のフォーマットを空中に投影した。
「ゼネコンの掘削工事は中止させません。彼らには莫大な資本があり、それを無駄にするのは経済的損失です」
『何だと? 我の頭上でまた鉄のモグラを這わせるというのか!』
「ご安心を。ルートを変更させ、貴殿の居住区画を『不可侵特区』として行政に登記させます。さらに、再開発によって生み出される地下街の膨大なマナを、貴殿への『定期的な家賃』として自動的に供給するシステムを構築する。……名付けて『新宿地下・人間と魔物の共生特区プロジェクト』です」
久我の提案に、古老は水晶の目を丸くした。
「貴殿はただ寝ているだけで、豊富なマナと快適な環境が手に入る。人間側は、貴殿の存在を『新宿の守護神(インフラの要)』として扱うことで、地震や魔力災害から街を守れる。……完璧な、ウィン・ウィンの契約です」
『……我を、人間の街の守護神にするだと……?』
「ええ。ただし、これには一つだけ問題があります」
久我は空中に投影された契約書の「甲」と「乙」の欄を指差した。
「人間側の代表として、この契約書にサインする『責任者』を引っ張り出さなければなりません。……ゼネコンの社長と、東京都の責任者をね」
久我の口元に、冷徹で事務的な笑みが浮かんだ。
大地の主の機嫌は直した。
次は、無知で傲慢な「地上の人間たち」に、法律と契約の恐ろしさを叩き込む番だ。
聖女の遠隔浄化により、古老との和解は成立。
久我ソリューションズの矛先は、再び地上へと向かう。
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次回お楽しみに。




