第72話:未払い賃金の強制執行と、スライムのインク鑑定
久我の新事務所は、外見の違法建築ぶりとは裏腹に、内部は最新鋭のオフィスとして機能し始めていた。
その平穏な朝を破ったのは、分厚い内容証明郵便を携えてやってきた、ギルド本部お抱えの弁護士と数名の執行官だった。
「……エレナ氏。あなたが当ギルドと結んでいた『特別育成契約』の途中解除に伴う、違約金およびこれまでの教育費、並びにポーション代等の返還請求書です。……しめて、五億二千万円になります」
高圧的な態度で書類をテーブルに叩きつけた弁護士に、スーツ姿のエレナが一瞬だけ肩をビクンと震わせた。
五億円。かつての彼女なら、その数字の重圧だけで心が折れていたかもしれない。だが、今の彼女は「コンプライアンス室長」だ。
エレナの背後には、天井すれすれまでそびえ立つ石像、ガルが控えている。
「……エレナ様。ご安心を。いざとなれば、あの紙切れごと彼らを外へ放り投げます」
「ガル主任、物理的な排除は最後の手段です。我々は法と証拠で戦う事務屋ですよ」
久我良平が、淹れたてのコーヒーを啜りながら静かに告げた。
「しかし久我さん、五億ってふざけてますよ! ポーション代って、エレナ様に無理やり飲ませてた粗悪品じゃないですか!」
結城陽菜が怒って身を乗り出す。
「キャン!(そうだぞ! あんな泥水みたいな薬で金を取るなんて、ボスのジャーキーより安い価値だ!)」
クラも陽菜の足元で牙を剥き出しにして唸っている。
さらに、テーブルの端では、青く透き通ったスライムの『スラちゃん』が、怒りを表すようにプルプルと表面を波立たせていた。
「プルルッ!(あいつら、悪いやつら! 私が溶かしてやる!)」
「スラちゃん、落ち着いて。書類を溶かしちゃダメですよ」
陽菜が優しくスラちゃんを撫でて宥める。
「ニャ~オ(やれやれ、ギルドの連中も往生際が悪いなぁ。負け犬の遠吠えっちゅうやつやで)」
キャットタワーの上から、コトが冷ややかな視線を弁護士たちに送っていた。
ギルドの弁護士は、事務所の異様な面々に一瞬たじろいだが、すぐに咳払いをして胸を張った。
「吠えるのは勝手ですがね、久我さん。こちらにはエレナ氏本人が署名した『誓約書』がある。ギルドのポーション供給を受ける対価として、生涯の奉仕を約束した法的な証拠です。これを覆すことはできませんよ」
弁護士がドヤ顔で一枚の古びた羊皮紙を取り出した。そこには確かに、エレナのサインが記されている。
「……私、あんな書類にサインした覚えはありません……!」
エレナが青ざめて首を振る。
久我は眼鏡のブリッジを押し上げ、その誓約書を冷静に見下ろした。
「なるほど。一見すると古い契約書に見えますが。……スラちゃん、少しお仕事を頼めますか?」
「プルッ!(任せて!)」
久我の指示を受け、スラちゃんがテーブルの上を滑るように移動し、その羊皮紙の上にポンと乗った。
「な、なんだこのスライムは! 重要な証拠に触るな!」
「触っているのではなく、成分分析(鑑定)です。スライムの体液は、取り込んだ物質の化学組成を正確に分解・判別する特性があります」
久我の説明の通り、スラちゃんの体が淡いピンク色に発光した。
「プルル、プルー!(ボス、これ偽物! 紙は古いけど、サインのインクは昨日書かれたばかりの新しいやつだ!)」
「……と、スラちゃんは申しております」
久我が翻訳すると、佐藤がキーボードを叩きながら鼻で笑った。
「なるほどね。ギルドの地下書庫のデータと照合しました。その誓約書、昨夜の二十二時四十五分に、あなたのオフィスの魔導プリンタで偽造されたものですね。プリント履歴がバッチリ残ってますよ、先生」
「なっ……! 貴様、不正アクセスか!?」
「証拠保全と言ってください。……さて、エレナ室長」
久我が促すと、エレナは深く息を吸い込み、ピンと背筋を伸ばして弁護士の前に進み出た。
「私有文書偽造、および行使罪。さらに、架空請求による詐欺未遂。……ギルドのコンプライアンスは、一体どうなっているのでしょうか」
その凛とした声は、かつての弱々しい聖女の面影は微塵もなく、完璧な「久我ソリューションズの顔」だった。
「そ、それは……!」
エレナは自身のデスクから、分厚いファイルを取り出し、今度は逆に弁護士の前にドンと叩きつけた。
「これは、私がギルド在籍中に強いられた、不当な長時間労働のタイムカード記録。そして、ガルが記憶回路に保存していた、生命維持装置による強制的な魔力搾取の映像データです」
「……証拠なら、わたしの魂に刻まれている。いつでも法廷で再生しよう」
ガルが背後で重々しく宣言する。
「私からの請求は、既に労働基準監督署および裁判所に提出済みです。未払い残業代、深夜割増賃金、不当利得返還請求、そして慰謝料。……総額で、三十五億二千万となります。五億円の架空請求など、相殺してもまだお釣りが来ますね」
エレナが昨日作ったばかりの真新しい『実印』を、請求書の束に力強く押印した。
朱肉の鮮やかな赤が、彼女の決意の証として書類に刻まれる。
「……くっ……! 覚えておれ! こんな無法な請求が通るはずが……!」
「通りますよ。既に裁判所から『仮差押命令』が下りていますからね」
久我がトドメを刺した。
「ギルド本部のメインバンク口座は、今朝の九時をもって凍結されました。お支払いいただけない場合は、ギルドの施設そのものを強制執行の対象とさせていただきます。……お引き取りを」
完全に退路を断たれた弁護士と執行官たちは、顔面を蒼白にしてコンテナ事務所から逃げ出していった。
バタン、とドアが閉まる。
静寂が戻った事務所で、エレナはフーッと長い息を吐き、その場にへたり込んだ。
「……や、やりました……久我さん……」
「お見事です、エレナ室長。初仕事としては完璧な『事務処理』でしたよ」
久我が優しく微笑むと、事務所のメンバーが一斉に歓声を上げた。
「さすがエレナさん! かっこよかったですよ!」
陽菜が抱きつき、クラが「キャン!(俺の次に強かったぞ!)」と飛び跳ねる。
「プルルルッ!(私も役に立った!)」
スラちゃんが誇らしげに震え、ガルが「……エレナ様の御心の強さ、流石でございます」と感極まって石の涙を零しそうになっていた。
「ニャ~オ(これでギルドも、ウチらには手ェ出せへんやろ。完全勝利やな)」
コトが満足げに煙管の真似事をして笑う。
「まあ、凍結された口座の解除手続きで、連中しばらくは泣きを見ますよ。……ざまあみろって感じですね」
佐藤が缶コーヒーを開けながら、悪い顔で笑った。
久我はアタッシュケースを閉じ、窓の外の青空を見上げた。
「これでギルドの不当な干渉は終わりました。エレナ氏は晴れて自由の身であり、我々は莫大な活動資金(慰謝料)を手に入れた」
久我ソリューションズは、名実ともに新宿において無視できない「特異点」となった。
だが、この街が抱える本当の闇は、ギルドのような人間の組織ではなく、その足元――深く暗い地下にこそ眠っている。
未払い賃金問題、完全決着。
そして物語は、新宿という都市の存亡を揺るがす「深層」の事件へと繋がっていく。
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次回お楽しみに。




