第70話:聖女の戦闘服と、魂の刻印
新宿の空に、抜けるような秋晴れの青が広がっている。
久我ソリューションズのプレハブ事務所の入り口には、昨日まではなかった巨大な「彫像」が鎮座していた。
黒曜石のような光沢を持つ、翼のある異形の像。新たな警備主任として雇用契約を結んだガルである。
彼は微動だにせず、鋭い眼光で通りを監視していた。時折、通りかかる通行人が「新しいオブジェか?」と足を止めるが、ガルが微かに石の羽を動かすと、皆一様に顔を引きつらせて立ち去っていく。
「……ガル主任。あまり威圧感を出さないように。近隣住民からの苦情は、今のところ必要ありません」
事務所から出てきた久我良平が、手帳を確認しながら告げた。
「……はっ、失礼いたしました。久我殿」
ガルは岩が擦れるような重い声で答え、再び彫像のように静止した。
事務所の中では、昨日提携先の仕立て屋に特急で用意させた、濃紺のビジネススーツに身を包んだエレナが、鏡の前で当惑したように立ち尽くしていた。
「……あの、久我さん。この服、少し……その、動きにくいというか、胸のあたりが窮屈で……」
「それは『責任感』の重さですよ、エレナ室長」
久我は平然と嘘を言った。
「スーツは戦闘服です。ギルドの法衣のように物理的に身を守るためではなく、交渉相手に『私はプロフェッショナルである』と無言で圧力をかけるための装備です。慣れてください」
「は、はい……頑張ります」
エレナは緊張で頬を赤くしながら、慣れないパンプスで一歩を踏み出した。その足取りはまだ覚束ないが、瞳には昨日までの絶望は微塵もない。
「よし、エレナさん。似合ってますよ! これで立派な事務屋の仲間入りですね!」
結城陽菜が、掃除の手を休めて親指を立てた。
その横では、ケルベロスのクラが、新入社員の真新しいスーツを念入りにクンクンと嗅ぎ回っている。
「キャン!(ボスの仲間が増えたな! けど、挨拶が足りないぞ後輩。俺の尻尾を振ってやろうか?)」
「コラ、クラちゃん。エレナさんはコンプライアンス室長なんだから、失礼なことしちゃダメですよ。……あ、久我さん、お昼までには戻りますか?」
「ええ。佐藤君に午後からのネットワーク監査を頼んでいます。……佐藤君、聞こえていますか?」
デスクの上のモニター裏から、死にそうな顔をした佐藤が顔を出した。
「……聞こえてますよ。エレナ室長の個人端末のセットアップは終わりました。ギルド本部の追跡プログラムは根こそぎ削除して、僕の特製ファイヤーウォールを噛ませてあります。これで彼女のプライバシーは法的に、かつ物理的に保護されました」
「完璧です。では、行きましょうか」
久我はエレナを促し、外へ出た。
ケットシーのコトも、シルクハットを被り直し、二本足で優雅に久我の足元へ寄り添う。
「ニャ~オ(久我はん、行き先は決まってますのやろ? 聖女はんの門出には、相応の『銘』が必要やで)」
猫の鳴き声にしか聞こえないが、久我は的確に意図を汲み取った。
「分かっていますよ、コト。向かうのは、新宿三丁目の老舗『印籠堂』です」
辿り着いたのは、高層ビルに挟まれた路地裏にひっそりと佇む、時代錯誤な木造建築の印鑑店だった。
店内には数千種類もの印材が並び、独特の木の香りと朱肉の匂いが漂っている。
「いらっしゃい……おや、久我の旦那じゃないか。今日はまた、珍しい連れを……」
奥から出てきたのは、分厚い眼鏡をかけた小柄な老人だった。彼は一目で久我の横に立つエレナの「質」を見抜き、目を見開いた。
「……ほう。こいつは驚いた。これほど清浄な魔力を宿したお嬢さんは初めてだ。まさか、ギルドの……」
「店主。余計な属性鑑定は不要です。今日は、彼女――エレナ氏の『実印』と『銀行印』、そして『認印』を誂えに来ました。我が社のコンプライアンス室長として、相応しい一本を」
久我は迷いなく、最も高価なショーケースを指差した。
「印材は、霊峰富士の裾野で百年眠らせた『神代欅』。それに、魔力伝導率を高めるための白金の芯入れを。書体は、偽造不可能な『久我流印相体』でお願いします」
「く、久我さん……そんなに高いもの、私には……」
エレナが慌てて袖を引くが、久我は振り返ることもなく答えた。
「エレナ室長。印鑑は、あなたが『私』という個人を社会に示すための武器です。これからあなたは、数多の契約書にその印を押すことになる。その一突きが、誰かの人生を変え、不当な契約を粉砕するのです。安物で済ませるわけにはいきません」
エレナは息を呑み、久我の真剣な横顔を見つめた。
店主はニヤリと笑い、注文書を広げた。
「合点だ。魂を込めて彫らせてもらおう。……お嬢さん、名前をここに書いてくれるかい?」
エレナは震える手で筆を持ち、白い紙に自分の名前を記した。
たった三文字のカタカナ。だが、それはギルドの備品番号でもなく、偶像としての称号でもない。彼女自身の、魂の名前だった。
「……はい、承った。夕方には仕上げておくよ」
店を出ると、秋の涼風がエレナの新しいスーツの裾を揺らした。
「……久我さん、ありがとうございます。私、自分の名前が、あんなに特別なものだなんて……今まで思いもしませんでした」
「名前は、あなたがこの世界で戦うための座標です」
久我は歩きながら、ふと足を止めた。
「さて、印鑑を待つ間に、もう一つ『社会人』として必要な場所へ向かいます。……佐藤君がセットアップした端末に、最初の連絡先を登録する必要がありますからね」
「連絡先……ですか?」
「ええ。久我ソリューションズの全社員共通のホットライン、そして……」
久我はスーツの内ポケットから自分の名刺を取り出し、エレナに差し出した。
「私の直通番号です。何かあれば、二十四時間いつでも連絡しなさい。……もっとも、業務時間外の連絡は、緊急時を除いて残業代を請求しますがね」
エレナは一瞬きょとんとした後、今日一番の明るい笑顔を見せた。
「……はい! よろしくお願いします、久我さん!」
新宿の雑踏の中、元・聖女は一人の事務屋として、力強く地面を蹴った。
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次回お楽しみに。




