第69話:温かいスープと、コンプライアンス室長の誕生
ふかふかの布の感触と、どこからか漂ってくる出汁の匂い。
それが、聖女エレナが三年ぶりに味わった「当たり前の朝」だった。
彼女はゆっくりと目を開けた。
視界に入ったのは、無機質な実験室の天井ではなく、少しシミのあるプレハブの天井。そして、窓から差し込む柔らかな秋の朝日だった。
(……私、生きている……?)
エレナは上半身を起こそうとして、自分の体に繋がれていた忌まわしいチューブが全てなくなっていることに気づいた。足首を戒めていた重い魔力拘束具もない。
体は羽のように軽く、しかし芯にはひどい疲労感が残っている。
彼女がベッドから降り、おぼつかない足取りで仮眠室のドアを開けると、そこには岩山のような巨影が直立不動で立っていた。
「……エレナ様。おはようございます」
石同士が擦れるような、けれどこの上なく優しく、安心感のある声。
「……ガル……? あなた、ガルなの?」
エレナは目を丸くした。
彼女の知る守護像は、全身がひび割れ、泥にまみれていたはずだ。だが目の前にいるガルは、黒曜石のように磨き上げられ、背中には青白く輝く立派な光の翼を背負っていた。
「はい。こちらの佐藤殿に、修復と強化を施していただきました。……今のわたしは、久我ソリューションズの『警備主任』です」
ガルが誇らしげに胸を張る。
その言葉の意味を理解する前に、メインスペースの方から賑やかな声が聞こえてきた。
「あ、エレナ様! 目が覚めたんですね!」
エプロン姿の結城陽菜が、お玉を持ったままパタパタと駆け寄ってきた。
「体調はどうですか? 熱は? 吐き気とかありませんか?」
「……あ、ええと……大丈夫、です……」
他人にここまで無防備に心配されることに慣れておらず、エレナは戸惑いながら頷いた。
「キャン、バウッ!(ボスが助けたメスだな! 俺が護衛してやるから安心しろ!)」
ケルベロスの幼体であるクラが、エレナの足元に駆け寄り、尻尾を千切れんばかりに振って見上げた。
「……可愛い、犬……?」
「犬じゃないですよー。ケルベロスです。クラちゃん、エレナ様を困らせちゃダメでしょ」
陽菜がクラをひょいと抱き上げると、クラは「クゥン(後輩のくせにボス面するな)」と不満げに鼻を鳴らした。
「さあ、こっちに来てください。朝ごはんにしましょう!」
陽菜に手を引かれ、エレナは事務所のメインスペースへと足を踏み入れた。
そこでは、信じられないほど日常的な光景が広がっていた。
デスクでPCを睨みながらトーストを齧る佐藤。
ソファの上で、上品に焼き魚をほぐしているケットシーのコト。
そして、ローテーブルの上には、湯気を立てる野菜スープと、ふっくらと炊き上がった白米が並べられている。
「おはようございます、エレナ氏。よく眠れましたか?」
久我良平が、新聞から目を上げて静かに尋ねた。彼のスーツにはシワ一つなく、まるで昨夜の激闘などなかったかのようだ。
「……久我、さん……。あの、私……」
「まずは食事にしましょう。込み入った話はその後です」
久我が椅子を勧めると、エレナは恐る恐る腰を下ろした。
「結城さんの実家からいただいた野菜を使った、特製のポトフ風スープです。長年ポーションしか口にしていなかったあなたの胃腸にも、負担が少ないはずです」
目の前に置かれた温かいスープ。
ゴロゴロとしたニンジンやジャガイモが、黄金色のスープの中で輝いている。
エレナは震える手でスプーンを持ち、スープを一口だけ口に運んだ。
「…………あっ」
その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
野菜の甘み、肉の旨味、そして何より、誰かが自分のために作ってくれた「温かい食事」の味。それは、魔力回復効率だけを追求したポーションの無機質な味とは、対極にあるものだった。
「お、お口に合いませんでしたか!?」
陽菜が慌てるが、エレナは首を横に振り、涙を拭いながら何度もスプーンを口に運んだ。
「……美味しい……。すごく、美味しいです……。温かい……」
彼女は泣きながら、夢中でスープを飲み干した。
それを見ていたガルが、満足げに石の目を細める。
「ニャ~オ(よう食べなはれ。食べることは、生きることや。ギルドの連中は、そんな当たり前のことも忘れとったんやな)」
コトが尻尾を揺らしながら、ため息交じりに鳴いた。
佐藤もPCの画面から目を離し、少しだけ表情を和らげた。
「……おかわり、鍋にまだあるぞ。胃が驚くから、ゆっくり食べろよ」
「……はいっ、ありがとうございます……!」
エレナは満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、かつて「聖女」として作っていた微笑みとは違う、一人の少女としての純粋な喜びだった。
食事が終わり、エレナに少し血の気が戻ったのを見計らって、久我がアタッシュケースを開いた。
「さて、エレナ氏。今後のあなたの身の振り方について、事務的なご相談があります」
久我の言葉に、エレナは少しだけ体を強張らせた。
「……私、ギルドには……戻りたくありません。でも、私がいなくなったら、新宿の結界は……」
「結界についてはご心配なく。佐藤君が昨夜のうちに、ギルドのメインサーバーに『最適化プログラム』を強制インストールしておきました」
「え?」
佐藤がドヤ顔で振り返る。
「ギルドの連中、お前の高純度魔力に甘えて、結界システムの効率化をサボってたんだよ。僕がコードを書き換えて、周辺の自然魔力だけでも十分維持できるようにしてやった。……まあ、連中のメンツは丸潰れだろうけどな」
「つまり、あなたが命を削ってまであの場所にいる必要は、法学的にもシステム的にも『消滅』したということです」
久我は手帳を開き、一枚の書類をテーブルに置いた。
「とはいえ、あなたは現在『無職』です。戸籍上もギルドの管理下にありましたから、このままでは社会的な居場所がありません」
「……はい……」
「そこで、我が社からの提案です。……これを」
久我が差し出したのは、『久我ソリューションズ・雇用契約書』だった。
エレナは目を瞬かせ、書類に書かれた文字を追った。
「『コンプライアンス室長』……?」
「ええ。我が社は業務拡大に伴い、社内外の労働環境や契約違反を監視する『監査役』を必要としています」
久我は眼鏡のブリッジを押し上げ、真剣な眼差しでエレナを見た。
「あなたは、現代のダンジョンビジネスにおいて最も過酷な『ブラック労働』を経験し、生き延びたサバイバーです。その経験と、嘘を見抜く『聖女の直感』は、企業の不当な搾取を暴く上で最強の武器になる」
「私が、監査役……」
「もちろん、これは提案です。もしあなたが、どこか遠くで静かに暮らしたいと望むなら、そのための新しい戸籍と資金は手配します。……どうしますか?」
究極の選択。
だが、エレナの心は既に決まっていた。
彼女は、ガルの顔を見上げ、そして陽菜や佐藤、コト、クラの顔を見渡した。
自分を「人間」として扱ってくれた、温かいこの場所。
「……私、ここで働きたいです」
エレナは、しっかりと久我の目を見て言った。
「私みたいに、誰かの都合で搾取されて、泣いている人を……今度は私が、助けたい。久我さんたちと一緒に、戦いたいです」
「キャン!(よく言った新入り! 俺が鍛えてやる!)」
クラが吠え、陽菜が「やったー!」と拍手をした。
久我は満足げに頷き、ボールペンを差し出した。
「採用です、エレナ室長。……サインをお願いします。それから、午後には提携しているテーラーを呼びましょう。まずは、そのパジャマのような服を脱ぎ、戦うための『スーツ』を仕立てなければなりませんからね」
「スーツ……! はいっ!」
エレナは力強く頷き、雇用契約書に自らの名前をサインした。
こうして、久我ソリューションズに「警備主任ガル」と「コンプライアンス室長エレナ」が正式に加わった。
ただの事務屋と、現場調査員、ハッカー、ケットシー、ケルベロス、スライム、ガーゴイル、そして元・聖女。
新宿の片隅にある小さなプレハブ事務所は、気づけば、どんな巨大ギルドも真っ青になるほどの「最強の組織」へと変貌を遂げていた。
新生・久我ソリューションズの、新たな波乱の幕開けである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




