第67話:前代未聞の移籍交渉と、聖女の退職届
大型貨物エレベーターが、重々しい駆動音と共に停止した。
デジタル表示板が示したのは、地上五十階。ギルド本部の最上層であり、一部の特権階級しか立ち入ることの許されない「役員フロア」だ。
プシュウゥゥ……という排気音と共に、巨大な鉄扉がゆっくりと開く。
そこには、真紅の絨毯が敷かれた豪奢な廊下と、十名以上のエリート魔導士たちを従えた恰幅の良い男が待ち構えていた。
「……よくも抜け抜けと上がってきたな、こそ泥ども」
ギルド本部の専務理事だ。先ほどモニター越しに激昂していた彼は、今度は直接、久我たちに殺意のこもった視線を向けている。
「こそ泥とは心外ですね。我々は正規の手続きを踏んで、地下五階の『不良債権』を回収しに来ただけです」
久我良平は、アタッシュケースを片手に、エレベーターから悠然と降り立った。
その背後には、聖女エレナを腕に抱いたガーゴイルが、岩山のようにそびえ立っている。
「不良債権だと!? エレナは我がギルドの最高資産だ! 彼女と結んだ『守護契約』は絶対であり、何人たりとも破棄することはできん!」
専務理事が吠えると、周囲のエリート魔導士たちが一斉に詠唱の構えを取った。だが、久我は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷ややかに言い放った。
「専務理事。あなたはビジネスの基本を履き違えている。契約とは、双方が義務を履行して初めて成立するものです」
久我はアタッシュケースから、分厚いファイルの束を取り出した。
「ギルド規約第七章、守護対象者の権利。そこには『適切な魔力回復の環境』および『生命活動の安全保障』が明記されている。……しかし、佐藤君の解析データによれば、彼女は過去三年間、一度の有給休暇も与えられず、睡眠時間すら削られて魔力を搾取されていました」
「そ、それは……新宿の平和を守るための、尊い自己犠牲だ! 彼女自身が望んだことだ!」
「自己犠牲を強要するのは、ただのブラック企業です」
久我の言葉が、氷の刃のように突き刺さる。
「さらに、魔力枯渇後に生命力を変換させるシステムは、明らかに労働安全衛生法違反、および殺人未遂に該当します。……これは重大なコンプライアンス違反だ。よって、当該契約は債務不履行により、既に無効となっています」
「黙れ! 詭弁を弄するな! エレナを置いていけば、お前たちの命だけは助けてやる。……やれ!」
専務理事が腕を振り下ろそうとした、その時だった。
「ニャ~オ(おっと、動かんほうがええで。ウチの爪には、即効性の麻痺毒が塗ってあるんや)」
いつの間にか、ケットシーのコトが専務理事の背後の飾り棚の上に陣取り、その首筋に鋭い爪を突きつけていた。
「ひっ!?」
専務理事が悲鳴を上げて硬直する。エリート魔導士たちも、主人の命を握られて動けなくなった。
「コト、そのまま制圧を維持してください。……結城さん、エレナ氏の容態は?」
「はい! まだ熱はありますけど、意識はしっかりしてます!」
結城陽菜が、ガーゴイルの腕の中で毛布に包まれるエレナの額の汗を拭いながら答えた。
「陽菜、油断するなよ。周りの連中が変な動きをしたら、スタン・ショッカーを最大出力でぶち込め」
佐藤が、PCの画面から目を離さずに忠告する。
「キャン、バウッ!(ボス、こいつら一番偉そうだけど、一番弱そうだぞ! 俺が一噛みで片付けてやろうか?)」
ケルベロスの幼体であるクラが、専務理事の高級な革靴に向かって唸り声を上げた。
「クラ、噛むのは禁止です。賠償金が高くつきますから」
久我が短く嗜めると、クラは「クゥン……(ボスがそう言うなら我慢する)」と鼻を鳴らして引き下がった。
久我は再び専務理事に向き直り、一枚の書類を突きつけた。
「さて、交渉の続きです。これはエレナ氏の『移籍承諾書』、そして貴ギルドへの『未払い残業代および慰謝料の請求書』です。……しめて、三十五億円になります」
「さ……さんじゅうごおく、だと!?」
専務理事の目が飛び出しそうになった。
「ええ。二十四時間稼働の深夜割増、休日出勤手当、そして生命を危険に晒した精神的苦痛。これでもかなり温情をかけた数字です」
「ふざけるな! 誰がそんな法外な金……!」
「お支払いいただけない場合は、先ほどの『地下実験室の映像』に加えて、佐藤君がハッキングで入手した『ギルドの裏帳簿』のデータを、マスコミと特捜部に一斉送信することになりますが」
久我の背後で、佐藤がニヤリと悪魔のような笑みを浮かべ、エンターキーの上に指を置いた。
専務理事の顔から、完全に血の気が引いた。
「お、お前たち……狂っている……。ギルドを敵に回して、この東京で生きていけると思っているのか……!」
「我々は事務屋です。敵に回すのは常に『不当な規約』であり、組織ではありません」
久我は冷たく言い放ち、ボールペンを差し出した。
「さあ、サインを。エレナ氏の所有権を放棄し、我が社への移籍を認めるのです」
専務理事がわなわなと震えながら、ペンを受け取ろうとした時だった。
「……待って、ください……」
微かな、しかし芯のある声が廊下に響いた。全員の視線が、ガーゴイルの腕の中に集まる。
毛布に包まれた聖女エレナが、ガーゴイルの助けを借りて、自らの足で床に降り立ったのだ。
「エレナ様! 無理しちゃダメです!」
陽菜が支えようとするが、エレナは首を横に振った。
彼女は真っ直ぐに、かつて自分を道具として扱った専務理事を見据えた。
「……私は、もう……あなたの、お飾りには、なりません……」
途切れ途切れの、掠れた声。だが、そこには明確な「個人の意志」が宿っていた。
「……私を、人間として、扱ってくれる……。この人たちの、ところで……働きます……」
エレナは久我の方を振り返り、深く、痛ましげにお辞儀をした。
「……久我、さん。私を……久我ソリューションズで、雇って、いただけますか……?」
それは、世界を救う聖女の言葉ではなく、ブラック企業から逃げ出してきた一人の少女の、切実な「就職希望」だった。
久我は眼鏡を外し、懐のクロスで丁寧に拭いてから、再びかけ直した。
「……結城さん。我が社の就業規則、第一条を彼女に教えてあげなさい」
「はい!」
陽菜が背筋を伸ばし、元気よく答えた。
「久我ソリューションズ就業規則第一条! 『社員の生命と健康を最優先とし、不当な労働要求には法と実力をもって徹底抗戦する』! です!」
「キャン!(ボスの言うことは絶対だ!)」
クラも尻尾を振って同意する。久我は満足げに頷き、エレナに向かって微笑んだ。……それは、冷徹なコンサルタントの顔ではなく、頼れる上司の顔だった。
「採用です、エレナ氏。ようこそ、久我ソリューションズへ。……本日の業務は『有給休暇の消化』です。まずはゆっくり休んでください」
「……はい……っ」
エレナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、呪縛から解放された安堵の涙だった。
ガーゴイルが、そっと彼女の肩を抱き寄せる。
「……よかったですね、エレナ様……」
「ニャ~オ(ええ話や。……で、専務はん。サイン、してもらいまひょか)」
コトが爪をわずかに立てると、専務理事はヒッと息を飲み、震える手で『移籍承諾書』にサインを書き殴った。
「よろしい。契約成立です。請求書の方は、後日改めて経理担当から送付させていただきます」
久我は書類をアタッシュケースに収め、踵を返した。
「撤収します。佐藤君、脱出ルートは?」
「屋上に手配した民間ヘリが待機してます。……ギルドの防空レーダーは、僕が五分間だけ眠らせておきました」
「完璧ですね」
一行は、完全に戦意を喪失したギルド幹部たちを背に、屋上へと続く階段を上り始めた。新宿の夜空に、ヘリコプターのローター音が鳴り響く。
彼らは見事に、巨大な城から「囚われの姫」と「無骨な騎士」を奪い去ったのだ。剣と魔法ではなく、圧倒的な論理とコンプライアンスを武器にして。
交渉妥結。
かくして、久我ソリューションズに二名の規格外な新入社員が加わった。
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次回お楽しみに。




