【対応記録:第07回】
練馬区の夜空には、都会特有の白んだ星がいくつか瞬いていた。
不発弾の回収と、巨大猪スタチュー・ボアの移送が完了した桜ヶ丘公園は、ようやく騒乱の余韻から解き放たれようとしていた。
久我は、土や埃で汚れたスーツの膝を軽く払い、手帳に最後のチェックを書き込んだ。
「現場復帰に向けた安全確認、終了。移送先への引継ぎ、完了。……よし、これで本日の業務は、ほぼ終了ですね」
「……おい、あんた。本当に、これで終わりにするつもりか?」
呼び止める声に振り返ると、そこにはCランクパーティ、アイアン・フィストのリーダーが立っていた。大太刀を鞘に収め、兜を脱いだ彼の顔には、隠しようのない困惑と、わずかな敗北感が滲んでいる。
「はい。立ち退きというお客様のご要望、並びに近隣住民の方々の安全確保。双方の目的は達成されました。何か、他にご不明な点でも?」
「そうじゃねえよ。……あんた、あの猪の足元に爆弾があったことを、なんで俺たちに教えなかった。それを知っていれば、俺たちだってあんな無茶な攻撃はしなかったはずだ」
久我は、眼鏡の位置をわずかに直し、静かな視線をリーダーに向けた。
「教えていれば、対応は変わったでしょうか? おそらく、あなた方は『爆弾を起爆させないように殺す』という、より難易度の高い討伐を選択されただけではありませんか?」
「それは……」
「それは対話ではありません。ただの、リスク管理を伴う排除です」
久我の声には、責めるような響きは一切なかった。ただ、事実を淡々と述べる事務的な響きだけがあった。
「お客様……あの猪は、我々が忘れていった『負の遺産』を、その身を挺して守っておられた。それを武力で排除しようとすること自体、組織としての礼節を欠いています。……それが、私の考える『現場の流儀』です」
リーダーは絶句した。
彼らにとって、魔物は倒すべき経験値であり、素材であり、驚異でしかない。そこに「礼節」などという概念を持ち込む人間など、これまで一人もいなかった。
「……礼節、か。魔物を相手にか」
「相手が魔物であろうと人間であろうと、そこに『不備』がある以上、誠意を持って対応するのがプロの仕事ですから。……さて、失礼します。これ以上遅くなると、駅前のスーパーの特売に間に合いませんので」
久我は軽く会釈をすると、唖然とする探索者たちを背に、夜の公園を後にした。
翌朝。
ギルド本部地下三階、苦情係のオフィスは、相変わらずの静寂に包まれていた。
佐藤が昨日の報告書を読みながら、椅子から転げ落ちそうになっているのを除けば。
「……久我さん。本気ですか、これ。不発弾の放置ルートを調査しろって、これ、当時の討伐担当だったAランクパーティと、それを受理した現場監督部署を敵に回すことになりますよ?」
「敵に回すのではなく、事実確認を求めているだけです。佐藤さん。遺失物の管理不徹底は、組織の信用を根底から揺るがす重大な不祥事です。前職では、これだけでセンター長が三人は飛びました」
「ここはコールセンターじゃないんですよ! ギルドの力学ってのがあって……」
「力学よりも、コンプライアンスを優先すべきです」
久我は、完璧に整理整頓されたデスクで、新たなファイルを広げた。
「適切な謝罪と再発防止策。それができて初めて、苦情係の仕事は完遂されます。……ああ、それから佐藤さん。不発弾処理の経費精算、私の判子を押しておきました。承認ルートへ回しておいてください」
「……はぁ。もう、好きにしてくださいよ。その代わり、上から怒鳴られても僕は知りませんからね」
佐藤は匙を投げたように背もたれに身を預けたが、その表情には、どこか呆れ以上の好奇心が混じっていた。
久我は、午前中のルーチンワークである「保留案件の精査」を終えると、少しだけ背伸びをした。
地下三階の空気は淀んでいるが、ここには彼が求めていた「自分の仕事に集中できる環境」がある。
昼休憩に入り、久我は持参した弁当を持って、気分転換にビルの裏手にある「資材廃棄区画」へ向かった。
そこは、ダンジョンから回収されたガラクタや、用途不明の魔導部品が一時的に集められる、ギルドのゴミ捨て場のような場所だった。
「……ここも、整理整頓の余地がありますね」
久我は、山積みになったコンテナや、乱雑に置かれた廃棄物を見渡し、職業的な不満を覚えた。
そんな時だった。
「……クゥ……」
微かな、震えるような声が、廃棄された魔導コンテナの陰から聞こえた。
久我は足を止めた。
普通の人間には、風の音か、錆びた金属が擦れる音にしか聞こえないだろう。だが、久我の耳は、それをはっきりと「命の訴え」として捉えていた。
(……痛い。寒い。暗い。……お母さん。どこ……?)
久我の胸の奥が、わずかに疼いた。
それは、かつて理不尽な理由で切り捨てられていった、心優しき同僚たちの声に似ていた。
久我は弁当を横に置き、慎重にコンテナの隙間を覗き込んだ。
そこには、泥と油にまみれ、ぐったりと横たわる、真っ黒な毛玉のような生き物がいた。
掌に乗るほどの小さな体。だが、その背中には、冥界の番犬の特徴である、三つの首の「芽」のような突起が、不格好に盛り上がっていた。
「……不法投棄、ですか」
久我の言葉に、小さな黒い影がびくりと震えた。
それは、深層にしか生息しないはずの、魔獣の幼体だった。なぜこんな場所にいるのか。おそらくは、希少な魔獣として密輸されたか、あるいは実験材料として持ち込まれた挙げ句、使い物にならないと判断されて捨てられたのだろう。
久我は、ハンカチを広げ、その小さな命に手を伸ばした。
(……こないで。また、痛いことするの? 捨てられた私は、もういらない子なのに……)
「いいえ。お客様」
久我の声は、地下の冷たい空気の中に、穏やかに響いた。
「遺失物の届け出は、まだ受理されておりません。……つまり、今のあなたは誰の所有物でもない。……ならば、とりあえずは私の『預かりもの』ということで、よろしいでしょうか」
久我は、怯える魔獣の幼体を、優しくハンカチで包み込んだ。
小さな命は、最初こそ震えていたが、久我のスーツの温度と、そこに漂う「一切の敵意がない安らぎ」を感じ取ると、力尽きたようにその腕の中で眠りについた。
「佐藤さんには、備品の一つとして報告しておきましょうか。……名は、そうですね。この場所で見つけたのですから、『クラ』……暗がり、から取って、クラでいいでしょう」
久我は、自分の弁当から一切れの卵焼きを取り出し、そっと幼体の口元に置いた。
これが、後に世界を震撼させる「調停者の盾」となる黒い魔獣と、一人の苦情係との、奇妙な出会いだった。
久我は、小さな重みを感じながら、地下のオフィスへと戻っていった。
彼の仕事は、苦情を処理することだけではない。
零れ落ちた「不備」を拾い上げ、あるべき場所へと戻すこと。
それが、彼自身の決めた「現場の流儀」だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
猪事件の完結と、運命のマスコット・クラとの出会いを描きました。久我の「遺失物へのこだわり」が、新たな縁を引き寄せる回となりました。
【今回のこぼれ話】
久我がクラに名付けた「クラ」。実は彼、前職で使っていた「不備案件用フォルダ」の名前も「蔵」にしていました。彼にとって「整理すべき大切なもの」を入れる場所、というニュアンスが名前に込められていたりします。
【次回予告】
「久我さん、そのカバンの中から……ワンって聞こえませんでした?」
クラとのドタバタな日常が始まります。ぜひブックマークや星評価で応援していただけると嬉しいです!




