第65話:契約の更新と、開かれた鉄扉
特別霊安室と呼ばれるその場所は、死のような静寂に包まれていた。
壁一面に埋め込まれた計測機器が、無機質な電子音を刻んでいる。部屋の中央には、透明な円筒形のカプセルが鎮座し、その中に一人の少女が浮かんでいた。
聖女エレナ。
かつて白銀に輝いていた髪は色あせ、透き通るような肌は青白く病的に痩せこけている。彼女の体には無数のチューブが接続され、そこから淡い光――彼女の生命力そのものが、外へと吸い出されていた。
彼女の意識は、深い泥沼の中にあった。痛みは既にない。あるのは、果てしない疲労感と、ゆっくりと自分が削り取られていく感覚だけ。
(……ああ、もうすぐ終わる)
彼女は薄れゆく意識の中で、安堵にも似た感情を抱いていた。
このまま消えてしまえば、もう誰も傷つかなくて済む。私が我慢すれば、新宿の街は守られる。そう言い聞かされてきた。
だが、その微睡みを破るように、懐かしい声が響いた。
『……エレナ様! 聞こえますか! 私です!』
それは、幻聴にしてはあまりに鮮明で、そして悲痛な響きを持っていた。
(……石像さん?)
彼女が唯一心を許した、寡黙な守護者。彼もまた廃棄されたはずなのに、なぜ声が聞こえるのか。
エレナが重い瞼を微かに開けた。カプセルの外、分厚い隔壁のスピーカーから、今度は別の男の声が聞こえてきた。
『……聖女エレナ氏。聞こえていますね。私です、久我良平です』
冷静で、事務的で、この絶望的な状況には似つかわしくないほど平坦な声。
(久我……さん?)
記憶が蘇る。あの時、唯一自分を「聖女」としてではなく、「労働者」として心配してくれた、変わったスーツの男性。
『現在、あなたの守護者であるガーゴイル様より、あなたの救助要請を受理しました。これより契約解除の手続きに入ります』
スピーカー越しの声は続いた。
『ですが、この扉を開くには、最後の認証キーが必要です。それは、あなた自身の「意志」です』
エレナの心臓が、ドクリと跳ねた。
『あなたは、今の状況に同意していますか? 自分の命を削り、組織の燃料として消費されることに、心から納得していますか?』
(……納得なんて、してない)
心の中で叫ぶ。けれど、声にならない。
『もし「NO」なら、そう願いなさい。誰のためでもない、あなた自身のために。「助けてほしい」ではなく、「ここから出せ」と怒りなさい。それは労働者の正当な権利です』
怒り。
聖女である自分には許されないと思っていた感情。
でも、久我の言葉は、彼女の心の奥底にあった小さな種火に油を注いだ。
(私は……道具じゃない。私は、人間だ!)
カプセルの中で、エレナの手が微かに動いた。
その瞬間、部屋中の計器がけたたましいアラームを鳴らし始めた。
「……久我さん! 内部の魔力パターンが変化しました! 『拒絶反応』が出ています!」
扉の外で、PCを操作していた佐藤が叫んだ。隔壁のコンソールが赤く点滅し、ロック機構がガタガタと震え始める。
「いい傾向です。彼女は今、初めて雇用主に対して『ストライキ』を起こしている」
久我はマイクを握り直し、最後のひと押しを加えた。
「さあ、エレナ氏。我が社へいらっしゃい。ここよりも待遇は良いですよ。少なくとも、休憩時間と有給休暇は保証します」
その言葉が決定打となった。
カチリ。
重厚な隔壁のロックが外れる音がした。
プシュウゥゥゥ……ッ!!
圧縮された空気が抜け、巨大な扉がゆっくりと内側へと開き始めた。
「開いた……!」
陽菜が声を上げる。
「突入します! 佐藤君、生命維持装置のカットを! 結城さんは搬送の準備! コト、周囲の警戒を!」
「了解!」
「ニャッ!(任しとき!)」
一行が部屋の中になだれ込む。
そこに広がっていた光景に、全員が息を呑んだ。
病院の手術室よりも無機質な部屋。そして、カプセルの中に浮かぶ、骨と皮だけのようになった聖女の姿。
「……ひどい……」
陽菜が口元を押さえる。
ガーゴイルは、言葉もなくカプセルに歩み寄った。その石の拳が震えている。
「……佐藤君、カプセルの強制開放を」
「やってます! ……でもこれ、急に開けるとショック死するかも……魔力供給のバイパスを作って、徐々に慣らさないと……」
佐藤が必死にキーボードを叩く。
その時、カプセルの中のエレナが、薄く目を開け、ガラス越しにガーゴイルを見つめた。
「……たす……け……て……」
口の動きだけで、そう伝えた。
「ガァァァァッ!!」
ガーゴイルが咆哮した。
彼は佐藤の解除プロセスを待たなかった。その巨大な腕を振り上げ、魔導強化されたガラスを真正面から殴りつけたのだ。
パリンッ!!
けたたましい音と共にカプセルが砕け散る。中から培養液と共にエレナの体が崩れ落ちてくる。
それを、ガーゴイルは優しく、壊れ物を扱うように受け止めた。
「……ああ……せき、ぞう……さん……」
エレナの震える手が、ガーゴイルの冷たい頬に触れる。
「……おむかえに、あがりました……。エレナ、さま……」
ガーゴイルの声が震えていた。
久我はすぐに二人に駆け寄り、エレナに接続されていたチューブを手際よく引き抜いた。
「ポーション漬けですね。離脱症状が出るかもしれませんが、今はここから離れるのが先決です。……結城さん、毛布を」
「はいっ!」
陽菜が持ってきた毛布でエレナを包む。
佐藤が冷や汗を拭いながら立ち上がった。
「久我さん、まずいです。カプセルを破壊したせいで、緊急警報が作動しました。ギルドの上層部に完全にバレましたよ」
「構いません。どうせ正面玄関を突破した時点で手遅れです」
久我はアタッシュケースから『移籍承諾書』を取り出し、エレナの目の前にかざした。
「エレナ氏。意識はありますか。……これは形式上の書類ですが、あなたがここから出るための『パスポート』です。同意していただけますね?」
エレナは虚ろな目で書類を見つめ、そして小さく頷いた。
「……つれて、いって……。どこでも、いいから……」
「契約成立です」
久我は満足げに頷き、書類をケースに収めた。
「キャン……(ボス、来るぞ! 上が騒がしい!)」
足元でクラが警告の声を上げた。
同時に、部屋のモニターが一斉に切り替わり、一人の男の顔が映し出された。
恰幅の良い、ギルド本部の専務理事だ。顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている。
『き、貴様ら! 何をしている! そこはギルドの最重要機密エリアだぞ! その娘はギルドの資産だ! 泥棒め!』
「泥棒ではありません。ヘッドハンティングです」
久我はモニターに向かって、涼しい顔で答えた。
「専務理事。聖女エレナ氏は、たった今、貴ギルドとの守護契約を破棄し、久我ソリューションズへの移籍に合意しました。以降、彼女に対する一切の干渉は、我が社への業務妨害とみなします」
『な、何をふざけたことを! 警備班! 何をしている、全員捕らえろ! 生死は問わん!』
廊下の方から、多数の足音が近づいてくる。先ほどのパワードスーツ兵とは違う、さらに重い金属音だ。
「……どうやら、話し合いの時間は終わりのようですね」
久我は眼鏡の位置を直し、振り返った。
「ガーゴイル様。歩けますか? あなたの主を守りながら」
「……もちろんです。この命に代えても」
ガーゴイルがエレナを抱きかかえて立ち上がる。その瞳には、かつてないほど力強い光が宿っていた。
「では、退勤しましょう。……強行突破です」
契約成立。
最強の石像と最弱の聖女を連れて、久我ソリューションズは敵中枢からの脱出を開始する。
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次回お楽しみに。




