第61話:聖女の消失と、石像の嘆願書
神去村への慰安旅行から、季節は一巡りしようとしていた。
新宿の街路樹が色づき始め、ビル風に混じる冷気が冬の到来を予感させる頃。
久我ソリューションズの事務所には、いつものように静謐な業務時間が流れていた。だが、その静けさは平和なものではなく、嵐の前の重苦しい気圧低下に似ていた。
デスクに向かうCTOの佐藤が、珍しく苛立ちを露わに貧乏揺すりをしている。
「……おかしい。数値が合わない」
彼が睨んでいるのは、新宿エリア全体の魔力濃度を示すモニタリング画面だ。
「どうしました、佐藤君。朝から眉間に皺を寄せていると、そのうち戻らなくなりますよ」
久我良平が、完璧に淹れたコーヒーを片手に尋ねた。
「久我さん、ここ数日、新宿のダンジョン結界が不安定なんです。まるで、切れかけた蛍光灯みたいにチカチカしてる。……普通なら、ギルド本部が魔力供給量を調整して安定させるはずなんですが」
「調整していないのではなく、できないのかもしれませんね」
久我はコーヒーを一口啜り、窓の外の曇天を見上げた。
「……以前ご挨拶した時、彼女の顔色は既に限界を超えていましたから」
久我の脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。
聖女エレナ。
ギルド本部が擁する「歩く聖域」。かつて挨拶を交わした際、彼女の瞳には生気がなく、まるで精巧な人形のように微笑むだけだった。あの時、久我は既に彼女の腕に見えた「点滴の痕」と、足首に隠された「魔力拘束具」の存在に気づいていた。確か欧州から移り、新宿で浄化をしているはずだが。
その時、ソファでテレビを見ていた結城陽菜が、悲鳴に近い声を上げた。
「ああっ! 久我さん、見て! ニュース速報!」
彼女の膝の上で、ケルベロスの幼体であるクラがビクリと跳ね起きた。
「キャン?(なんだ? 敵襲か?)」
テレビ画面には、『速報:聖女エレナ氏、体調不良により無期限の療養へ』というテロップが踊っていた。
画面の中で、ギルドの幹部が殊勝な顔で頭を下げている。
『えー、エレナ氏は連日の激務により心身の疲労が蓄積しており……当面の間、一切の公務を離れ、静養に入られます。ファンの皆様にはご心配をおかけしますが……』
その白々しい会見に、陽菜がクッションを抱きしめて震えた。
「そんな……。エレナ様、やっぱり無理してたんですね。あんなに痩せてたのに……」
「……結城さん。これは『静養』ではありません」
久我が冷徹に言い放った。
「これは『隔離』です。あるいは、在庫処分の前段階と言ってもいい」
「えっ……?」
「佐藤君、裏取りを。ギルド本部の魔力ログと、エレナ氏のバイタルデータを照合してください。……恐らく、通常の魔力供給ラインは既に止まっているはずです」
「了解。……ハッキング開始」
佐藤の指が、怒りを叩きつけるようにキーボードを走らせる。
数秒後、モニターに赤い警告グラフが表示された。
「……久我さんの言う通りです。エレナ氏からの魔力供給は、三日前に完全にストップしています。魔力タンクは空です」
「では、現在の結界はどうやって維持されているのですか?」
「……生命力です」
佐藤の声が低く沈んだ。
「魔力の代わりに、彼女の寿命そのものを燃やして結界に変換している。……これ、今のペースだと持ってあと一ヶ月ですよ。ギルドの連中、彼女を使い潰して、新しい『代替品』が見つかるまでの繋ぎにする気だ」
事務所の空気が凍りついた。それはブラック企業の労働搾取などというレベルではない。一人の人間の命を、単なる消耗品として消費する悪魔の所業だ。
ケットシーのコトが、しなやかに立ち上がり、青い瞳を細めた。
「ニャ~オ……(久我はん。これはアカンで。聖女はん、前に会うた時も『自分が消えればみんな助かる』みたいな顔しとった。……このままやと、静かに消されてまうわ)」
「ええ、コト。その通りです」
久我は立ち上がり、スーツのボタンを留めた。その表情は、いつものビジネスライクなものではなく、静かなる激情を秘めた「断罪者」のそれだった。
「これはコンプライアンスに対する重大な挑戦です。労働基準法第五条、強制労働の禁止。および人権擁護法違反。……我々が介入すべき『苦情』の要件を十分に満たしています」
その時だった。
ズズッ……ズズズッ……。
事務所の入り口から、重い何かが地面を削るような音が聞こえてきた。
チャイムは鳴らない。ただ、ドアに何かがぶつかる鈍い音が響く。
「……誰ですか? 佐藤君、モニターを」
「待ってください。……これ、人間じゃない。熱源反応がない。ただの……石?」
佐藤が怪訝な顔をする。
次の瞬間、ガラス戸に血のような泥に塗れた「手」が張り付いた。
いや、それは手ではない。石でできた鉤爪だ。
「ガァ……ッ……」
ガラスを爪で引っかく不快な音と共に、掠れた声が聞こえる。
「キャン……(ボス、これは……石の匂いだ。でも、すごく悲しい匂いがする)」
クラが吠えずに、怯えるように久我の足元に擦り寄った。
「開けなさい、佐藤君」
「で、でも!」
「開けなさい。これは『救助要請』です」
久我の命令に、佐藤がロックを解除する。ドアが開くと同時に、巨大な石塊が室内に倒れ込んだ。
それは、翼の折れたガーゴイルだった。
かつてギルド本部の正門で、聖女エレナの背後を守るように立っていた、あの威風堂々とした守護像。
だが今は、全身に無数の亀裂が走り、片翼は砕け、瞳の輝きも失われかけている。
「……く、が……どの……」
ガーゴイルが、石同士を擦り合わせるような音で久我の名を呼んだ。
「……やはり、あなたでしたか。以前お会いした時、あなたが一番、彼女を心配そうに見ていましたからね」
久我は汚れるのも構わず、床に膝をつき、ガーゴイルの顔を覗き込んだ。
ガーゴイルは、残った片腕を震わせながら、自身の胸元に手をやった。
そこには、彼の動力源である「魔核」が埋め込まれている。彼はそれを爪で抉り出そうとしていた。
「……たの、む……。わたしの、いのち……これしか、ない……」
途切れ途切れの言葉が、その場の全員の脳裏に直接響く。
「……これで、あのひとに……やすみを……。エレナさまを、つれだして……」
彼は自分の命である核を報酬として差し出し、主人の「有給休暇」を依頼しようとしているのだ。
陽菜が口元を押さえて泣き出した。
「そんな……自分の命をあげるから助けてなんて……!」
久我は、ガーゴイルの手を静かに、しかし強く制止した。
「……しまうなさい。そんな傷だらけの石ころ、鑑定に出しても二束三文です」
冷たい言葉。だが、その手はガーゴイルの泥を優しく払っていた。
「ウチの報酬規定は高いですよ。あなたの命ひとつでは足りません。……ですから、働いて返してもらいましょう」
久我は立ち上がり、佐藤に向かって指を鳴らした。
「佐藤君、至急『解雇通知書』……いえ、『契約解除および移籍合意書』の作成を。相手のメンツが一番潰れる、法的に逃げ場のない書式で」
「……了解です。徹底的にやりますよ。あのクソギルドのサーバー、物理的に溶かしてやる」
佐藤が獰猛な笑みを浮かべ、PCを開いた。久我は再びガーゴイルを見下ろした。
「依頼を受理します。ただし、クライアントはあなたと聖女エレナ氏の二名。……彼女を連れ戻し、未払いの残業代と、奪われた休日を全て回収します」
「……あ、あぁ……」
ガーゴイルの瞳から、魔力の雫が涙のようにこぼれ落ちた。それは石像が流した、最初で最後の涙だったのか。
ブラックギルドに対する、久我ソリューションズ史上最大の「是正勧告」が始まる。
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次回お楽しみに。




