第51話:物理的制圧と、電子の追撃戦
非常灯の赤い回転灯だけが、カビ臭い地下空間を禍々しく照らしている。
その明滅の中で、常識外れの光景が繰り広げられていた。
「グルルルゥ……ッ!」
腹の底に響くような唸り声と共に、黒い影が疾走する。
それは、結城陽菜が放った「愛犬」、ケルベロスの幼体クラだ。見た目は愛らしい柴犬サイズだが、その影だけが、松明の火に照らされた巨人のように壁一面に大きく投影されている。
薬物強化されたゴブリン変異種が、巨大な棍棒を振り上げて襲いかかる。
しかし、クラは避けない。
ガブッ!
乾いた音が響いたかと思うと、自分より数倍大きなゴブリンの腕を、その小さな顎で深々と噛み砕いていた。
「ギギャァァァ!!」
ゴブリンが絶叫し、棍棒を取り落とす。
「よしよし、クラちゃん! 『お座り』はまだだよ! 悪い子には躾をしなくちゃね!」
陽菜が楽しそうに手を叩く。彼女にとって、この凄惨な戦闘は少し激しめのドッグランに過ぎないようだ。
一方、入り口付近で立ち尽くしていた佐藤信二は、その光景に言葉を失っていた。
「な、なんだよあれ……。あの犬、普通の魔物じゃないぞ……!」
信二の手が震える。彼が知るダンジョン攻略とは、前衛が盾を構え、後衛が魔法を撃つ、教科書通りの連携だ。だが、目の前の光景はもっと原初的で、圧倒的な暴力だった。
その時、サーバーラックの陰から、生き残ったゴブリンの一体が飛び出した。
標的は、無防備にノートPCを操作している佐藤だ。
「兄貴! 危ない!」
信二が反射的に動く。背負っていたスポーツバッグを盾にして、ゴブリンのタックルを受け止めた。
ドガッ!
重い衝撃が走り、信二の足がたたらを踏む。
「くっ……! 兄貴、逃げろ! こいつら、力が強すぎる!」
必死に叫ぶ信二の背後で、しかし佐藤は一歩も動かなかった。モニターから目を離さず、ただ静かにキーボードを叩き続けている。
「……信二。右へ三歩、退け」
「はあ!? 何言ってんだ!」
「いいから退け!」
普段は聞かない兄の怒声に、信二は思わず身体を逸らした。
その瞬間。
バシュゥゥゥン!!
ゴブリンの足元にある床下の配線ダクトが爆ぜ、高圧電流のアーク放電が青白い閃光となって走り抜けた。
「ギャッ!?」
ゴブリンが痙攣し、白目を剥いてその場に倒れ込む。
「な……魔法?」
「違う。過電流だ。この施設の配電盤をハッキングして、床下のケーブルに定格の十倍の電流を流した」
佐藤は顔色一つ変えずに言った。
「物理的な攻撃力だけが武器じゃない。ここにある全ての電子機器、照明、空調、セキュリティシステム……その全てが僕の武器だ」
佐藤がエンターキーを叩くと同時に、今度は頭上のスプリンクラーが誤作動し、強酸性の洗浄液を敵の集団に浴びせかけた。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化す敵陣営。
信二は、呆然と兄の背中を見つめた。
自分が「暗い部屋でパソコンばかりいじっている」と馬鹿にしていた兄は、今、指先一つで戦場を完全に支配していた。その姿は、どんな高レベルの魔導師よりも恐ろしく、そして頼もしく見えた。
「……くそっ! なんなんだお前らは!」
犯罪グループのリーダー格の男が、護身用の魔導銃を抜き、久我に向かって構えた。
「動くな! 撃つぞ! 法律家だろうがなんだろうが、死ねばただの肉だ!」
銃口が久我の眉間に向けられる。
だが、久我はスーツの埃を払う動作すら止めなかった。
「……やれやれ。私の警告を聞いていませんでしたか? 事務屋の仕事は『段取り』が全てだと」
男が引き金を引こうとした、その刹那。
ヒュッ。
風を切る音と共に、男の手首に激痛が走った。
「あぐっ!?」
魔導銃が床に落ちる。
男の手首には、いつの間にか美しい飾り紐のようなものが巻き付き、締め上げていた。その紐の先を持っていたのは、優雅に着地したケットシーのコトだ。
「……痛い目見るのは自分や言うたのに。野暮な男は嫌われますえ」
コトが煙管をくゆらせながら、男の足元に転がった銃を蹴り飛ばした。
「さて、武装解除および制圧完了と見なしてよろしいですね」
久我はアタッシュケースから一枚の書類と、業務用の結束バンドを取り出した。
そして、痛みに蹲るリーダーの男の前に立ち、冷徹に見下ろした。
「あなたを、ダンジョン法違反、労働基準法違反、詐欺未遂、および公務執行妨害……ではなく、私の業務を著しく遅延させた『業務妨害罪』で拘束します」
「ふ、ふざけるな……! 俺たちのバックには『大物』がいるんだ! こんなことしてタダで済むと……」
「その『大物』とやらも、今頃は顔を青くしているでしょうね」
久我は視線を佐藤に向けた。
「佐藤君、追跡状況は?」
「逃げ足が速いですね。リーダーの男が隠し持っていた端末から、外部サーバーへデータを転送しようとしています。顧客名簿と、裏帳簿の消去プログラムが起動しました」
佐藤の目が、狩人のように細められる。
「……信二」
「あ、ああ」
「お前が時間を稼いでくれたおかげで、バックドアの設置が間に合った。……見てろ。これが僕の『本気』だ」
佐藤が両手でキーボードを叩き始めた。
その速度は、先ほどまでの比ではない。残像が見えるほどの神速。
メインサーバー上のスラちゃんが、限界を超えて激しく明滅し、青白い光が部屋全体を照らす。
「ファイアウォール、突破。転送データをパケット単位で凍結。……捕まえた」
佐藤がニヤリと笑う。
「消去プログラムを逆探知しました。この通信の終端……新宿ではなく、海外の租税回避地にあるプライベートサーバーですね。そこにある『親玉』の口座情報ごと、全て頂きました」
その言葉を聞いた瞬間、リーダーの男の顔色が土気色に変わった。
「ま、まさか……本部のサーバーまで……」
「ええ。あなたの組織の全資金、および顧客データは、現在我々が凍結しました。これをギルド本部と警視庁のサイバー犯罪対策課に転送すれば、あなた方は一網打尽です」
佐藤が最後のキーを叩き、深いため息をついた。
「……終了。お疲れ様でした、久我さん」
その宣言と共に、室内の照明が正常に戻り、ファンの轟音が静かに再開した。
久我は満足げに頷き、拘束した男の胸ポケットに、名刺ではなく『請求書』を捻じ込んだ。
「今回のコンサルティング料、および現場復旧費用は、あなた方の凍結口座から法的手続きを経て徴収させていただきます。……ああ、それから」
久我は、呆然と立ち尽くす信二の方を振り返った。
「信二さん。どうやらお兄さんは、あなたが思っているよりも少しだけ、『腕っ節』が強いようですね」
信二は、汗だくでモニターを見つめる兄の横顔を見た。
そこには、かつての弱々しい兄の面影はない。
ダンジョンの最深部で、剣も魔法も使わず、ただ指先だけで巨大な悪をねじ伏せた男。
「……ああ。完敗だ」
信二は小さく呟き、へたり込むようにその場に座り込んだ。
その顔には、憑き物が落ちたような、清々しい色が浮かんでいた。
「兄貴、すげぇよ。……俺、なんも知らなかったんだな」
佐藤はヘッドセットを外し、照れくさそうに鼻の頭を擦った。
「……僕もだ。お前が盾になってくれた時、少しだけ頼もしかったよ。……筋肉も、たまには役に立つな」
「たまには、かよ」
兄弟が不器用に笑い合う。
その横で、陽菜が「はい、お仕事おしまい!」とクラを抱き上げ、コトが「やれやれ、これでやっと映画の続きが見れますわ」とあくびをした。
物理的な脅威は排除され、兄弟の確執という名のバグもまた、静かに修正されたのであった。
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次回お楽しみに。




