第49話:葛藤、そして羨望
プレハブ事務所の空気は、張り詰めたピアノ線のように鋭利なものへと変貌していた。
先ほどまで響いていたのどかなコーヒーミルの音は消え、代わりに佐藤が叩くキーボードの打鍵音だけが、機関銃のように連続して室内に反響している。
その速度は、常人の動体視力では追えない領域に達していた。
「お、おい……兄貴? なんだよそれ、映画か何かの演出か?」
呆気にとられていた信二が、恐る恐る声をかける。
だが、佐藤はヘッドセットを耳に当てたまま、弟の言葉など聞こえていないかのように画面を凝視していた。三枚のモニターには、黒い背景に緑色の文字列が滝のように流れ落ちている。
久我は、冷めてしまったコーヒーを一口だけ啜り、静かに口を開いた。
「演出ではありませんよ、信二さん。これが現代の『潜入調査』です。あなたの兄上は今、物理的な肉体をここに置いたまま、電脳空間という広大なダンジョンの深層に潜っているのです」
「電脳……ダンジョン?」
「ええ。そこには物理攻撃は一切通用しません。必要なのは、筋肉ではなく論理。そして、瞬時の判断力です」
久我は手元のタブレットを操作し、佐藤が解析している画面の一部をミラーリングして信二に見せた。
そこには、先ほどの「魔物討伐モニター募集サイト」の裏側の構造が映し出されていた。
「見てください。このサイトは、表面上はただの掲示板ですが、裏では参加者のデバイスから魔力波長データと生体情報を抜き取るプログラムが走っています。あなたが『応募ボタン』を押した瞬間、あなたの指紋、声紋、そして魔力パターンはすべて複製された」
「……複製って、俺のデータが?」
「そうです。彼らはそのデータを使い、あなたの『デジタルな分身』を作ります。そして、その分身を使って、本来ならあなたしか入れないギルドの個人金庫を開けたり、あるいは犯罪に使われる使い捨てのIDとして利用したりする。これが『魔物なりすまし詐欺』の手口です」
信二の顔から、血の気が引いていく。
自分が「選ばれた強者」だと思って飛びついた話が、実は自分を骨の髄までしゃぶり尽くすための罠だったという事実に、足元の土台が崩れるような感覚を覚えたのだろう。
「そ、そんな……。俺はただ、デカイ仕事をして、親父たちを安心させたかっただけなんだ。兄貴みたいに、こんなプレハブでくすぶってるんじゃなくて……」
その言葉に、キーボードを叩く音がさらに激しさを増した。
バチッ、というショート音のような鋭い打鍵と共に、佐藤が叫ぶように声を荒らげた。
「くすぶってる、か……! お前にとって僕は、ずっとそう見えていたんだろうな!」
佐藤はモニターから目を離さず、けれどその声には明確な怒りと、長年溜め込んでいた澱のような感情が滲んでいた。
「子供の頃からそうだ。走ればお前のほうが速い。重いものを持てばお前のほうが力がある。親父もお袋も、いつだって『信二はたくましい』と褒めた。僕が徹夜で組んだプログラムを見せても、『目が悪くなるぞ』としか言わなかった!」
「あ、兄貴……?」
「ダンジョン適性検査の日だってそうだ! お前はAランクの物理アタッカー適性。僕はEランクの『適性なし』。あの時の親父の残念そうな顔、僕は一生忘れないぞ。だから僕は家を出たんだ。筋肉や魔力量だけで人間の価値が決まる、あの家が息苦しかったからだ!」
佐藤の指先が、怒りを推進力に変えて加速する。
彼のメインサーバーの上で、スライムのスラちゃんが激しく明滅し、青白い冷気を放ち始めた。CPUの負荷が限界を超えようとしているのだ。
「佐藤君、感情とコードを分離してください。オーバーフローしますよ」
久我が冷静に指摘するが、佐藤は止まらない。
「黙っててください! 今はこれでいいんです! 見ろ信二、これがお前の言う『データの力』だ!」
佐藤がエンターキーを拳で叩き込んだ。
その瞬間、モニターに表示されていたサイトの募集ページがノイズと共に崩れ去り、真っ赤な警告画面へと切り替わった。だが、それは佐藤への警告ではない。佐藤が相手のサーバーに突きつけた「制圧完了」の旗印だった。
「ファイアウォール突破。管理者権限、奪取しました。……相手のデータベースを丸裸にしましたよ、久我さん」
佐藤が荒い息を吐きながら、ヘッドセットを首にかけた。
その顔は汗で濡れていたが、目には確かな勝利の光が宿っている。
久我は満足げに頷き、信二に向き直った。
「見ましたか、信二さん。お兄さんは今、たった五分で敵の城を落城させました。物理職のあなたが剣を持って現地に行き、罠にかかって命を落とす可能性があった未来を、このデスクから一歩も動かずに回避したのです」
「……すげぇ」
信二は、わけがわからないといった表情で、しかし圧倒されていた。
彼が知っている「根暗な兄」の姿はそこになかった。そこにいたのは、自分には理解できない魔法のような技術を操る、得体の知れないスペシャリストだった。
「さあ、佐藤君。戦利品の確認をしましょう。データの中身は?」
久我の指示に、佐藤は冷静さを取り戻してログを解析し始めた。
「……最悪ですね。応募者は既に百名を超えています。信二のように『伝説の武具』という餌に釣られた、レベルそこそこの脳筋……失礼、体力自慢たちがリストアップされています。彼らの個人情報は既に、闇ギルドのマーケットで競売にかけられる寸前です」
「競売会場の物理的な位置は特定できますか?」
「当然です。多重プロキシを経由していますが、パケットの折り返し地点に癖がある。……特定しました。新宿ダンジョン六層、未開発エリア『廃棄区画D-4』。そこに違法なサーバーファームが設置されています」
佐藤が地図データをモニターに表示させる。
そこは、正規の冒険者が立ち入らない、魔物と犯罪者が巣食う危険地帯だった。
「ありがとうございます。そこまで分かれば、あとはこちらの土俵です」
久我は立ち上がり、スーツの襟を正した。
そして、事務所の隅で大人しくしていた結城陽菜に声をかける。
「結城さん、出番ですよ。クラを連れて準備を。現場調査の時間です」
「はい! やっとですね! クラちゃん、お散歩だよー!」
「キャン! (やったね! 」
陽菜が嬉々として準備を始める横で、コトもゆっくりと立ち上がった。
「……ふむ。落とし前をつけるには、直接顔を見んことには始まりまへんな。久我はん、コトも同行させてもらいまっせ」
「ええ、頼りにしています。今回は物理的なトラブルも予想されますから」
久我は手際よくアタッシュケースに書類を詰め込み、最後に信二の方を見た。
「信二さん。あなたの軽率な行動が招いた事態ですが、幸い実害が出る前に食い止めることができました。本来ならここで解散ですが……どうしますか?」
「どうするって……」
「あなたのデータは、まだ彼らの手元にあります。サーバー上のデータは佐藤君がロックしましたが、万が一バックアップが物理的に存在していた場合、あなたのIDは明日にも犯罪に使われるでしょう」
脅しではない。事務的な事実の提示だ。
信二は拳を握りしめ、兄の背中と、久我の顔を交互に見た。
「……俺も行く。俺のせいでこうなったなら、俺がなんとかしなきゃ気が済まねぇ。それに……」
彼は少しだけ言い淀んでから、小さな声で付け加えた。
「兄貴が何やってんのか、もうちょっとちゃんと見てみてぇんだ」
その言葉を聞いて、佐藤の耳が少しだけ赤くなったのを、久我は見逃さなかった。
久我は口の端を数ミリだけ持ち上げ、ビジネスライクな笑みを浮かべる。
「承知いたしました。では、臨時契約スタッフとして同行を許可します。ただし、現場では私の指示に絶対に従うこと。そして、コンプライアンスを遵守すること。よろしいですね?」
「お、おう! わかった!」
「返事は『はい』か『イエス』です」
「はい!」
体育会系らしい良い返事が返ってきた。
久我は満足そうに頷き、事務所のドアを開け放った。
「では、行きましょうか。新宿の地下深くに巣食う、規約違反者たちへの『家庭訪問』に」
佐藤がノートPCを小脇に抱え、陽菜がクラをリードに繋ぎ、コトが肩で風を切って歩き出す。そして、巨大なバッグを背負い直した信二が続く。
奇妙な一行は、昼下がりの新宿の街へと繰り出した。
目指すはダンジョン第六層。法と秩序の届かぬ場所へ、最強の事務屋たちがカチコミ……もとい、是正勧告に向かう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




