第46話:最強のシュレッダー兼、自動掃除機
新宿・歌舞伎町の喧騒から隔絶された「久我ソリューションズ」のプレハブ事務所は、今や一つの「聖域」と化していた。
かつては、舞い散る埃や佐藤が持ち込む電子部品の金属臭、さらには結城陽菜が振りまく元気すぎるエネルギーが渾然一体となっていた空間。しかし今、そこには一切の「不純物」が存在しなかった。
原因は、デスクの脚元を静かに、かつ高速で滑走するエメラルドグリーンの新入社員――スラちゃんである。
「……素晴らしい。空気が完全に『等質化』されている。佐藤君、現在の事務所内の浮遊粒子状物質(SPM)の数値を報告したまえ」
久我良平は、いつものように三つ揃えのスーツを完璧に着こなし、自席で万年筆を走らせていた。
「……PM2.5含めてほぼゼロっすね。というか、久我さん。スラちゃんが床を磨きすぎて、俺の椅子のキャスターが滑りすぎて困るんすけど。ちょっと動くだけで部屋の端まで行っちゃいますよ」
佐藤は、自慢の六枚モニターに向かいながら、少しだけ嬉しそうに毒を吐いた。
彼の「城」であるデスク周辺も、スラちゃんの徹底的な清掃によって、長年の課題だった冷却ファンへの埃の蓄積が完全に解消されていた。佐藤は今、スラちゃんの吸熱特性を利用した新しい水冷ならぬ「粘液冷却」の設計図を脳内で構築し始めている。
「佐藤さん、それは贅沢な悩みですよ! 見てください、窓ガラス! スラちゃんが内側から吸着して通っただけで、まるでクリスタルみたいに透明になっちゃいました!」
陽菜が、窓枠を指差して声を弾ませる。彼女は今朝、スラちゃんに「特別ボーナス」として、昨日公園で採取した魔力濃度の高い湧き水を与えていた。
「ピュルルッ!」
スラちゃんは陽菜の足元で嬉しそうに形を変え、満足げに震えた。
だが、久我にとっての「スラちゃんの真価」は、床掃除ではなかった。
「……さて。スラちゃん。本日の最優先業務だ。この『廃棄指定書類:レベルA』の処理を行いなさい」
久我が提示したのは、第1部のギルド本部解体時に持ち出した、組織の腐敗を証明する極秘資料の「残骸」だった。既にデータ化は済んでいるが、物理的な紙媒体は、情報の漏洩を防ぐために完全に抹消しなければならない。
「陽菜さん、佐藤君。見ていたまえ。これが次世代の『機密保持』だ」
久我が書類を一束、スラちゃんの体の上に置く。
通常、紙のシュレッダーによる裁断は、裁断幅 と復元可能性の期待値 が反比例する。
しかし、スラちゃんの分解能力は、セルロースの分子結合そのものを溶解させる。復元可能性は文字通り「数学的なゼロ」へと収束する。
書類がスラちゃんの半透明な体内に沈み込む。一瞬、インクの黒が滲んだかと思うと、次の瞬間には紙の繊維すら残らず、スラちゃんの栄養として完全に吸収された。
「……完璧だ。裁断屑の廃棄コストも不要。音も出ない。これこそ事務屋が求めていた究極のシュレッダーだ」
「……久我さん、目が笑ってないっすよ。怖い。スラちゃん、お前、久我さんの給与明細とか間違えて食うなよ?」
「佐藤君、失礼な。私の給与明細は、既に電子交付に移行している」
久我が無機質に答えたその時。
事務所の隅、スラちゃんが「壁と床の極めて微細な隙間」から何かを吸い出そうと、必死に形を細長く変えていた。
「……? どうしたんだ、スラちゃん。……あ、何か挟まってる?」
陽菜が駆け寄り、スラちゃんの吸引を補助するように隙間を覗き込んだ。
スラちゃんの体内から吐き出されたのは、カビと埃にまみれた、一通の「古い封筒」だった。
「これ……前のギルド本部の備品が、隙間に落ちてたのかな」
陽菜が手を伸ばそうとした瞬間。
ソファの上で、京都弁映画の余韻に浸っていたコトが、カッと目を見開いた。
「ナァ、ミィ……!!(ゴロゴロ)」
『待ちなはれ、陽菜はん! その封筒、触ったらあかん。えらい重い「情緒」がこびりついとるわぁ。……これほどまでに深い「怨み」が乗った落とし物、昨晩観た「京の怨霊・因縁心中」以来やわ』
久我以外の人間には、コトの鋭い警告は「激しい猫の鳴き声」にしか聞こえない。しかし、久我はペンを置き、椅子から立ち上がった。
「陽菜さん、待つんだ。……佐藤君、念のため、周囲に魔力遮断のフィールドを展開。……コト。何が見える」
久我がコトの言葉を通訳する。
「……コトが、その封筒には『強い残留思念』……つまり、かつての所有者の強い想いが宿っていると言っている」
「……へぇ、コトさんの『想い出鑑定』っすか。久我さん以外の俺たちには何も見えないのが不便っすけど……了解。遮断フィールド、展開。……これで、外部への魔力漏洩は防げます」
佐藤がタブレットを操作し、封筒の周囲に薄青色の魔法障壁を張った。
久我は白い手袋を嵌め、慎重に封筒を手に取る。
「……コト。読み解いてくれ。これは、消すべき『ノイズ』か、あるいは聞き届けるべき『苦情』か」
コトが金時計をゆらりと揺らし、封筒の周囲を一周した。その瞳に、かつてこの場所で働いていた誰かの「記憶」が映し出される。
『……久我はん。これは哀しい「辞表」や。十年前、ギルドの不正に気づきながら、家族を人質に取られて口を封じられた、一人の事務員の「無念」が詰まっとる。彼はこの封筒を、いつか誰かが見つけてくれることを願って、隙間に隠したんや。……「僕の仕事は、嘘をつくことじゃない」……そんな声が聞こえるわ』
久我は、コトの言葉を一言一句、漏らさずに通訳した。
陽菜の瞳が、みるみるうちに涙で潤む。
「……そんな。一生懸命働いてたのに、そんなの悲しすぎます。……久我社長、これ、なんとかなりませんか?」
「……結城さん。事務屋にできることは、過去の涙を拭うことではありません」
久我は冷徹に、しかしその封筒をスラちゃんの「分解」から遠ざけた。
「……不備のある記録を、正しい書式でアーカイブし直す。それが、彼に対する唯一の『事務的誠実』だ。……佐藤君。この封筒に記された名前と日付から、当時の人事記録を照合。彼の名誉が不当に汚されているのであれば、再建委員会のデータベースを書き換える。……事後承諾で構わん」
「了解。……お安い御用っすよ、久我さん。……こういう仕事なら、スラちゃんの冷却効率も上がりそうだ」
佐藤の指が、かつてない速さでキーボードを叩く。
スラちゃんは、状況を理解したかのように、久我の足元で優しく「プルッ」と鳴いた。
数時間後。
十年前の「不透明な退職」として処理されていた一人の男の記録は、佐藤の手によって「公益通報者としての名誉ある勇退」へと修正された。
久我は、中身を読み終えた手紙を――今はもう必要なくなったその「重い想い」を、スラちゃんの前に差し出した。
「……スラちゃん。彼の想いは、私たちが受理した。……もう、この『器』は不要だ。……綺麗にしなさい」
「プルッ!」
スラちゃんの体内に吸い込まれた封筒は、今度は何の抵抗もなく、穏やかな光と共に消えていった。
物理的な汚れだけでなく、事務所に溜まっていた過去の「負債」までをも洗い流したスラちゃん。
プレハブの事務所は、一段と輝きを増していた。
「……ふぅ。これでスッキリしましたね、社長!」
「……ええ。事務所の清浄度が0.02%向上しました。……さて、佐藤君、陽菜さん。感慨に浸っている暇はありません。次の苦情が、今しがたサーバーに届きました。……スラちゃん。貴女は佐藤君のデスクへ。……『冷却業務』の開始です」
「プルルッ!」
新しいマスコット……いや、世界一有能な「掃除屋」を得た久我ソリューションズ。
新宿の空は、今日もどこまでも事務的に、澄み渡っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




