【対応記録:第05回】
現代ダンジョン管理ギルド本部ビル、地下三階。
最新の魔導エレベーターが、チカチカと階数表示を減らしていく。一階ロビーの華やかさが嘘のように、下へ行くほど空気は重く、壁の白さは煤けていった。
「……なるほど。組織の縮図というわけか」
久我は、手に持った辞令とフロア案内図を見比べ、短く独りごちた。
彼に与えられた配属先は、地下三階の最奥。エレベーターホールから続く廊下の照明は二つに一つが切れかかっており、一定の間隔でジジ、ジジと耳障りな音を立てている。
たどり着いた扉には、手書きの頼りない文字で「現場対応課・苦情係」と書かれたプレートが、セロハンテープで無造作に貼り付けられていた。
久我は一度ネクタイを整え、ノックをしてから扉を開けた。
「失礼いたします。本日付で配属となりました、久我です」
部屋の中は、オフィスというよりは、書類の墓場だった。
壁際に並ぶスチールラックには、色褪せたファイルが溢れんばかりに詰め込まれ、床には整理しきれなかった段ボール箱が積み上げられている。
部屋の中央、古びたデスクに座っていたのは、死んだ魚のような目をした若い男だった。
「……あ。本当に入ってきた。……お疲れ様です。僕は、ここの唯一の生き残り……じゃなくて、職員の佐藤です」
佐藤と呼ばれた男は、力なく手を挙げた。
「早乙女部長から聞いてますよ。例の『飴玉で魔物を黙らせた変人』ですよね。いや、歓迎しますよ。ここ、もう半年も新人が入ってこなかったんで」
「久我です。以後、お見知りおきを。……ところで佐藤さん。この部屋の換気、吸排気のバランスが崩れていますね。三十分おきに窓……いえ、魔導換気扇の手動切り替えが必要ではありませんか?」
「えっ……? ああ、そういえば最近、頭が重いなと思ってましたけど。そんなことより久我さん。驚かないでくださいね」
佐藤は、デスクの横に積まれた、高さ一メートル近い書類の山を指差した。
「これが、今日までに溜まっている『保留案件』です」
「……これだけの数が?」
「ええ。探索者が魔物を倒し損ねた後の近隣苦情。ダンジョン周辺の騒音被害。魔物の生態変化による不法占拠。……武力で解決できない、あるいは武力を使うと世論がうるさい、面倒なゴミ溜めがここなんです」
久我は、その書類の山に歩み寄り、一番上のファイルを手に取った。
そこには、前職のコールセンターで目にしていた「理不尽な要求書」に非常によく似た、怨嗟の声が並んでいた。
「『ダンジョンから漏れる光が眩しくて眠れない』『家の庭に住み着いた魔物が、ペットの餌を奪っていく』……なるほど。非常に多岐にわたりますね」
「でしょう? 探索者ギルドの連中は『殺せば解決だ』と言いますけど、公共の場や住宅街じゃそうはいかない。警察は『魔物のことはギルドへ行け』と。その結果、全部ここに回ってくるんです。正直、まともに相手をするだけ無駄ですよ。適当に『調査中』のスタンプを押して、棚に放り込むのがここの仕事です」
佐藤は諦めを含んだ溜息を吐き、椅子を回した。
だが、久我の反応は、佐藤が予想していたものとは正反対だった。
久我は、その埃っぽいデスクを指先でなぞり、山積みの書類を眺め、どこか満足げな、微かな笑みを浮かべた。
「……素晴らしいですね」
「は? 何がです?」
「前職では、一分間に十件以上の罵声をリアルタイムで捌かなければなりませんでした。それに比べれば、ここにあるのはすべて『記録』です。相手の顔色をうかがう必要もなく、まずは書面で精査できる。おまけに、電話が鳴り止まないこともない。……ここは、天国のような静寂に包まれています」
「……久我さん。あなた、思っていたよりずっと、頭のネジが飛んでますね」
佐藤の引き攣った笑顔を無視し、久我は自分のデスクとなる場所に置かれた、埃まみれのパソコンを立ち上げた。
ログインを待ちながら、彼はブリーフケースから自前の文房具を取り出し、一分の狂いもなく定規で測ったかのように配置していく。
「さて、佐藤さん。まずはこの保留案件の仕分けから始めましょう。優先順位と、現場への最短経路を算出します。……ああ、定時まであと七時間もありますね。十分間に合います」
「……本気ですか? 一年分以上ありますよ、それ」
「仕事に本気でない時間など、人生に必要ありません。……おや、これなどは面白い案件ですね」
久我が引き抜いたのは、赤色の付箋が貼られた、一際分厚いファイルだった。
『練馬区立・桜ヶ丘公園。巨大猪型魔物による、三週間にわたる中央広場の占拠。探索者パーティによる三度の強制排除作戦の失敗』
「ああ、それは通称『不動の王』。公園の中央にあるベンチの横に座り込んで、一歩も動かないんです。攻撃を仕掛けると暴れて公園を破壊し、手出しをしないとずっと睨みを利かせている。近隣住民からは、子供たちが遊べないと毎日百件以上のクレームが来ています」
「探索者の方々は、何を試したのですか?」
「麻酔弾、重力魔法、誘引餌……。あらゆる手を使っても、あの巨体はびくともしません。今はもう、周囲にバリケードを張って放置されてる状態です」
久我は、添付された現場の写真を見つめた。
巨大な牙、鋼のような体毛。だが、その瞳はどこか虚空を、あるいは何か別のものを見つめているように見えた。
「三週間……。同じ場所に、立ち止まったまま、ですか」
「ええ。おかげで苦情係の電話はパンク寸前です。……久我さん?」
久我は、すでにジャケットを羽織り、カバンを手にしていた。
「佐藤さん。この案件、私が一次対応に向かいます」
「えっ、今から!? いや、まだ挨拶も終わってないし、現場は危険ですよ!」
「ご心配なく。私は戦うつもりはありません。……ただ、少しだけ『お客様』のお話を聞いてくるだけです。それから佐藤さん」
久我は扉に手をかけ、振り返った。
「机の上のコーヒー、冷めていますよ。淹れ直すなら、魔導ポットのフィルターも掃除した方がいい。味が劇的に変わります」
唖然とする佐藤を残し、久我は地下三階の薄暗い廊下へと消えていった。
初仕事。相手は、力では一歩も動かないという「頑固なお客様」。
久我の足取りは、前職でクレーマーの家に直接謝罪に向かっていた頃よりも、心なしか軽やかだった。
第5話をお読みいただき、ありがとうございます!
いよいよ「苦情係」としての業務がスタートしました。周囲から見れば「死に体」の部署であっても、久我にとっては「落ち着いて仕事ができる最高の環境」に見えるという、彼の価値観のズレを楽しんでいただけていれば幸いです。
【今回のこぼれ話】
久我が自分のデスクを整理した際、ミリ単位で文房具を配置したのは、前職で「一秒でも早く受話器を取り、一秒でも早くペンを走らせる」ために最適化された結果です。彼の整然としたデスクは、かつての戦場の名残でもあります。
【次回予告】
練馬区の公園を占拠する、巨大な猪「スタチュー・ボア」。
あらゆる武力が通用しなかった難攻不落の魔物を前に、久我は武器を持たず、ただ一言、丁寧な挨拶と共に歩み寄る。
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