第45話:新入社員スライムの「研修」
新宿・歌舞伎町の片隅、プレハブ事務所の空気は、かつてないほど「厳粛」なものに包まれていた。
久我良平のデスクの上には、一枚の金縁の書類が広げられている。
その前には、エメラルドグリーンに輝くバレーボールほどの個体――クイーンスライムの分身が、心なしか背筋(?)を伸ばして鎮座していた。
「……これより、久我ソリューションズと、クイーンスライム一族代表個体との雇用契約締結式を執り行う。佐藤君、記録を」
「はいはい。……しかし久我さん、スライム相手にそのフル装備の三つ揃えスーツ、気合入りすぎじゃないっすか?」
デスクの横でカメラを構える佐藤が、呆れたようにシャッターを切った。
佐藤は今日、買い出しで手に入れた新しいサーバーのセットアップを中断させられ、この「入社式」に立ち会わされている。
「佐藤君。契約とは魂の合意だ。相手がどのような形態であろうと、敬意を欠くことは事務屋としての敗北を意味する。……さて、結城陽菜さん。貴女が保証人(身元引受人)として署名を」
「はい! 任せてください、社長!」
陽菜は、まるで自分の妹が小学校に入学するかのような、キラキラとした笑顔でペンを走らせた。
そして、最後はスライムの番だ。個体はぷるぷると震えながら、自らの核を契約書に優しく押し当てた。淡い光が走り、魔力による契約が完了する。
「……よし。登録完了だ。個体識別名称は、管理番号B-01。通称『スラ美』とする」
「ストップ! ちょっと待ってください、社長!」
陽菜が、身を乗り出して猛抗議の声を上げた。
「スラ美なんて、昭和の事務員さんみたいな名前、絶対ダメです! この子はもっと、こう、宝石みたいにキラキラしてて可愛いんですよ? 『スラちゃん』。今日からこの子は『スラちゃん』です!」
「……陽菜さん。名称とは識別記号だ。情緒的な装飾は、データベースの検索効率を落とすノイズに過ぎない」
「ノイズじゃないです、愛です! ね、スラちゃん?」
「プルッ!」
スライムは、陽菜の言葉に呼応するように、全身を細かく振動させて「スラちゃん」という響きを受け入れた。
久我は眼鏡を指で直し、深く溜め息をついた。
『久我はん。負けやね。女人の「愛」いうのは、理屈より重いもんやわ。昨晩観た「極道純恋歌」でも、姐さんのひと声で組の名前が変わったシーンがあったわぁ。ええやないの、「スラちゃん」。響きが「若」っぽくて粋やわ』
ソファの上で爪を研ぎながら、コトが久我にだけ聞こえる声で笑った。
「……コトが、『名称の変更は組織の柔軟性を示すものであり、陽菜さんの提案を全面的に支持する』と(勝手に)申している。……不本意だが、対外的な呼称は『スラちゃん』を許可しよう」
「やったー! よかったね、スラちゃん!」
「……名前はどうでもいいっすけど、久我さん。この『新入社員』、ちゃんと教育してくれますよね? 俺の機材は繊細なんすよ。間違えて食われたりしたら、泣くじゃ済まないっすからね」
佐藤が、自分のデスクを城のように守りながら釘を刺した。
久我は無表情のまま、一本のレーザーポインターを取り出した。
「案ずるな、佐藤君。これより、スラちゃんの『実務研修』を開始する」
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研修は、極めてストイックなものだった。
久我は壁に「廃棄物」と「資産」の二つのラベルを貼り、スラちゃんにその違いを徹底的に叩き込んだ。
「スラちゃん、見てください。こっちの『くしゃくしゃになった紙』は食べていいやつ。でも、こっちの『佐藤さんの大事そうな基板』は絶対にダメ。……わかった?」
陽菜が、幼稚園の先生のように指導する。
スラちゃんは非常に知能が高かった。久我がレーザーポインターで指し示した場所を、一瞬で、かつ音もなくクリーニングしていく。
驚くべきは、その「分解能力」だった。
久我が長年放置していた、溶解処理が必要な極秘書類の束。これをスラちゃんが包み込むと、数秒後には微塵の紙屑も残さず、完全に消滅させてしまう。
「……ほう。吸着、分解、消滅。シュレッダーの十倍以上の効率だ。しかも、音が出ない。深夜の残業中も騒音被害の心配がないな」
久我が満足げに頷く。
しかし、事件はその数時間後に起きた。
「……おい!! 嘘だろ!? 俺の、俺のヴィンテージ物のハブ・コントローラーがない!!」
事務所に、佐藤の絶望的な叫びが響き渡った。
佐藤のデスクの足元、彼が「いつか使う」と言って積み上げていた電子ジャンクの山の一部が、不自然なほどピカピカに磨き上げられ……そして、その中心部にあったはずの基板が消失していた。
その傍らで、スラちゃんが「満足しました」と言わんばかりに、体を大きく膨らませてぷるぷると震えている。
「陽菜! お前、ちゃんと見てたのか!? これ、もう手に入らないレアパーツなんだぞ! スラちゃん、吐き出せ! 今すぐ吐き出すんだ!」
「わ、わああ! ごめんなさい佐藤さん! ちょっと目を離した隙に、スラちゃんが『これも汚れだ』って思っちゃったみたいで……!」
混乱する佐藤と陽菜。
久我が静かに歩み寄り、スラちゃんの核を指先でトントンと叩いた。
「……スラちゃん。業務外の摂取は、規約違反(コンプライアンス違反)です。即座に『資産』を返却しなさい。さもなくば、福利厚生の『高級魔力水』を一週間停止します」
その言葉が効いたのか。
スラちゃんは「ウプッ」というような音を立てると、その体の一部から、粘液に包まれたままの基板をポロリと排出した。
「あ、あった……! 良かったぁ……。……って、おい、なんか前より綺麗になってねえか、これ?」
佐藤が拾い上げた基板は、付着していた十年来の埃や錆が完璧に取り除かれ、まるで工場直送の新品のような輝きを放っていた。
「……魔力伝導率が……上がってる? こいつ、ただ食うだけじゃなくて、金属の酸化皮膜だけを分解したのか……?」
佐藤の目が、エンジニアとしての驚愕に染まる。
久我は、何事もなかったかのように眼鏡を拭いた。
「佐藤君。スラちゃんは、対象物の『不純物』を優先的に分解する性質があるようだ。……君の『ゴミの山』が不純物と判定されたのは、ある種、客観的な妥当性があると言える。……ですが、スラちゃん」
久我は、スライムに向き直り、一枚の小さな「社員証(ラミネート加工済み)」をその体の上に乗せた。
「ルールはルールです。今後は佐藤君の許可なく、彼の『資産』に触れることは禁じます。……いいですね?」
「プルッ!」
スラちゃんは、嬉しそうに社員証を体内に取り込んだ(表面から見えるように位置を調整して)。
事務所の隅では、クラが新しい「同僚」を少しだけ認め、コトが満足げに昼寝を再開していた。
「……まぁ、基板が綺麗になったのは助かるけどよ。……おい、スラちゃん。お前、次はこっちのサーバーケースの指紋、全部消しといてくれ。……優しく、な」
佐藤が、少しだけぶっきらぼうに命令を出す。
スラちゃんは「プルルッ!」と返事をして、佐藤の足元を滑るように移動していった。
久我ソリューションズ。
事務手続きと、少しのトラブル、そして「スラちゃん」という新しい秩序。
新宿のプレハブ事務所は、今日もまた一歩、完成された「共生」へと近づいていた。
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次回お楽しみに。




