【対応記録:第30回】
新宿エリアを包む静寂は、最悪の形で破られた。
十一月の冷たい空気を引き裂き、突如として上空に現れた銀色の巨躯。それは現代魔導科学の観測網を完全にすり抜け、事前の予兆もなくアルタ前広場へと降臨した「ストーム・ドラゴン」だった。
地下三階の執務室。鳴り止まない警報音の中、久我は自身のデスクで、課長から回ってきた「緊急対応依頼」の端末画面を眺めていた。
「……久我さん、これ、見てください! 上層部からの指示書ですけど……『新宿駅東口付近における騒音、および振動に関する苦情の一次対応。担当:苦情係』って、正気ですか!? 空を見てください、あんなの怪獣映画ですよ!」
佐藤がモニターを指差し、絶叫する。画面にはSランク探索者「雷光の翼」が一方的に蹴散らされるライブ映像が映し出されていた。
「佐藤さん、落ち着いてください。課長の指示書がアバウトなのはいつものことです。現場が怪獣だろうと神様だろうと、窓口に届いたのは『騒音と損壊』の苦情です。ならば、我々がすべきことは一つしかありません」
久我は、完璧にプレスされたジャケットを羽織り、ブリーフケースを手にした。その表情には、恐怖も高揚もなく、ただ「面倒な仕事が舞い込んできた」という事務員特有の倦怠感だけが宿っていた。
「……クラ君、行きましょうか。佐藤さんはここで、周辺ビルの損害状況の暫定集計をお願いします。報告書の枚数を少しでも減らしたいので」
(ワンッ! おじさん、あの子、すっごく怒鳴ってるよ。でも、なんだか『眩しい!』って言ってるみたい)
クラが三つの首を揺らし、久我の足元で欠伸をする。久我は「なるほど」と短く応じると、執務室を後にした。
新宿の地上は、まさに地獄だった。
ビル群を切り裂く衝撃波、粉砕される窓ガラス。カイト率いる雷光の翼が最大火力の魔法を放つが、銀鱗に弾かれ、逆にドラゴンの咆哮によって次々と戦闘不能に陥っていく。
「無理だ……! なんでこんな奴が……!」
カイトが絶望に染まった声を上げる中、久我は駅のデパ地下に立ち寄っていた。
「……季節の熨斗を。ええ、急ぎでお願いします」
手にしたのは、銀座に本店を構える老舗のどら焼き。最高級の小豆が詰まった、お詫びの品としてはこれ以上ない「誠意」の塊だ。
久我は避難誘導のテープを軽々とまたぎ、破壊された広場の中央へと歩を進めた。
背後でカイトが「どけ、死にたいのか!」と叫ぶのが聞こえたが、久我の耳には、ドラゴンの咆哮が全く別の意味で響いていた。
(……うるさい! うるさい、うるさい、うるさい! なんだお前ら、さっきからチカチカと! 眩しいんだよ! 俺はただ、ちょっと散歩に出ただけなのに、どいつもこいつも攻撃してきやがって! 痛いじゃないか!)
久我は、深々と溜息をついた。
散歩中の魔物に対し、過剰な攻撃を仕掛け、結果として広域の騒音被害を拡大させる。これこそが、ギルドの「対応マニュアルの不徹底」が生んだ最悪の不備だ。
久我は、ブレスを溜め込むドラゴンの正面に立ち、完璧なビジネススマイルを貼り付けた。そして、胸元から事務局の身分証を取り出し、その巨大な瞳に映るように掲げた。
「夜分遅くに失礼いたします。新宿ダンジョン管理事務局、苦情係の久我と申します。……本日は、周辺住民の方々より、過度な咆哮による騒音、および建造物損壊に関するご指摘をいただきまして、状況の確認、並びに一次対応に参りました」
ドラゴンの動きが、止まった。銀色の魔力が喉奥で霧散し、新宿に奇妙な静寂が訪れる。
(……え? お前、俺の言ってること、わかるのか?)
「はい。恐れながら、お客様のお怒りはごもっともでございます。管理側の不備により、地上区画の照明、並びに探索者の魔法訓練が、お客様の安眠を妨げる形となってしまいました。多大なるご不便をおかけしておりますこと、まずは担当部署に代わりまして、心よりお詫び申し上げます」
久我は、四十五度の角度で深く、静かに頭を下げた。
伝説の魔獣を相手に、名刺を突きつけて平謝りをする。そのシュールな光景に、周囲の探索者たちは呆然と武器を下げた。
「……つきましては、お客様。これ以上の紛争は、双方にとって建設的ではございません。一度、元の居住区にお戻りいただけないでしょうか」
久我は、恭しくどら焼きの箱を差し出した。
「こちらは、我々の誠意……ご不快な思いをさせたことへのお詫びの品でございます。銀座でも一、二を争う老舗のどら焼きでございます」
ドラゴンが鼻先を寄せた瞬間、久我の足元でクラが「ワンッ!」と短く吠えた。
(おじさんが、折角の菓子をくれると言っている。これ以上我儘を言うなら、ぼくが貴様の魂を噛み砕くが、どうする?)
ドラゴンの鱗が逆立つ。彼は理解した。目の前の男は、自分たち魔物の理を熟知した上で、あえて人間のルールという「枷」を嵌めて接してきている。本物の「管理者」なのだと。
(……わ、わかったよ。戻ればいいんだろ。そのどら焼き、貰っていくからな)
巨大な前足が器用に箱を摘み上げ、空間の裂け目へと消えていく。
後に残されたのは、ボロボロになったSランク探索者たちと、何事もなかったかのように時計を確認する久我だけだった。
「……十七時十五分。あー、完全に残業確定ですね。報告書の作成、何枚書かされることか」
久我は独り言を漏らし、駆け寄ってくる職員たちの波を避けて、駅の改札へと向かった。
これが、全ダンジョンから恐れられることになる「伝説の調停者」久我の、あまりにもありふれた、そして不当な労働の一幕だった。
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第30話、ここが1話の場面ですね。
【今回のこぼれ話】
久我が第1話で「課長の指示がアバウト」と言っていた件。実はこれ、前話までに描かれたギルド上層部の「久我を危険な現場に送り込んで消そうとした」という陰謀の一環だったのですが、久我にとっては単なる「いつもの無茶振り」にしか見えていなかったという温度差があります。
【次回予告】
ドラゴンを追い返し、世界を救った久我。
しかし、その圧倒的な「管理能力」を恐れた理事会は、彼に賞賛ではなく、理不尽な解雇通知を突きつける。
「久我、お前はもうクビだ。……そしてその不気味な小犬は、実験体として没収する」
久我の瞳から、ビジネススマイルが消える。
次回、事務屋が「逆襲」の手続きを開始します!ぜひブックマークや評価での応援、よろしくお願いいたします!




