【対応記録:第19回】
火曜日の午前九時。
都心の空を突き刺すようにそびえ立つアガレス・リソース本社ビルは、かつてない静寂に包まれていた。
全面ガラス張りの外観は相変わらず端正だが、その内部は「全停止」していた。地下ダンジョンからの魔力供給が途絶えたことで、空調は止まり、照明は非常用の薄暗い赤色に切り替わり、何よりエレベーターがただの鉄の箱と化していた。
「……九時ちょうどですね。おはようございます、佐藤さん。今日も定時退社を目指して、効率的に進めましょう」
久我は、自席……ではなく、アガレス・リソース本社ビルのロビーに設置された特設の「紛争解決窓口」で、悠然と時計を確認した。
隣では、佐藤が真っ青な顔でタブレットを抱え、ガタガタと震えている。
「く、久我さん。定時退社どころの話じゃないですよ! 見てください、外を! アガレス社の株価はストップ安、ギルド上層部からは『今すぐ魔物を動かせ』って一分おきに催促の電話が来てるんですよ!」
「佐藤さん、慌てないでください。電話の受話器を置く勇気も、プロには必要です。……彼ら(魔物)は今、正当な権利を行使している最中なのですから」
久我の足元では、クラが三つの首を器用に使い、ロビーの警備員たちが不穏な動きを見せないか監視していた。デスクの上では、コトがシルクハットから取り出した「鑑定の老眼鏡」をかけ、成瀬社長が徹夜で書き上げたであろう「改善計画書(仮)」の束を、厳しい目査でチェックしている。
「……おじさん、この計画書、全然ダメだね。想い出の欠片も入ってない。ただの『数字の書き換え』だよ。こんなのじゃ、ゴーレムたちは納得しないよ」
「左様ですか。……では、コト君。そのまま赤ペンで修正を入れておいてください」
そこへ、階段を駆け下りてきた成瀬社長が、なりふり構わず久我のデスクに詰め寄った。
かつての自信に満ちた面影はない。ネクタイは曲がり、髪は乱れ、その瞳には焦燥と怒りが混濁している。
「久我ぁ! 貴様、何をした! 魔物たちが一歩も、指一本動かそうとしない! 鎮圧部隊を送り込もうとしたが、地下の魔素圧が高すぎて扉さえ開かないんだぞ!」
「成瀬社長。おはようございます。まずは落ち着いて、深呼吸を。……鎮圧部隊の派遣は、今の状況では『火に油を注ぐ』行為です。……彼らが求めているのは、暴力的な制圧ではなく、誠実な『団体交渉』です」
「団体交渉だと!? バケモノ相手に何を言っている! 契約書も判子もない奴らと、何の交渉ができる!」
久我は、ブリーフケースから一通の書類を取り出した。
それは、ギルドの公式な書式を久我が独自に改変した「魔物労働基準・暫定協定書」だった。
「判子は必要ありません。……必要なのは、あなたの『合意』です。……成瀬社長。彼らの要求は極めてシンプルです。一日八時間の『完全沈黙(睡眠)』時間の確保。一週間に一日の『魔素充填休職』。そして、地下フロアの換気システムの抜本的な改善。……これらは生命体としての最低限の権利です」
「ふざけるな! そんなことを認めれば、魔力産出量はこれまでの半分以下になる! 株主になんと説明すればいい!」
「株主に説明する言葉がないからといって、お客様……いえ、現場の労働力を使い潰して良いという理屈は通りません」
久我の声は、冷徹なまでに冷静だった。
彼は成瀬の瞳を真っ向から見据え、かつてのブラック企業で死んでいった同僚たちの顔を思い浮かべていた。
「成瀬社長。あなたは『魔物は資源だ』と仰いましたね。……ですが、資源であっても、管理を怠れば腐敗し、汚染を引き起こします。……今、地下十五階で起きているのは、長年の不備による『感情のオーバーフロー』です。……彼らは今、私の指示で魔力の出力を『内側に』向けています。……わかりますか? ダムが決壊する寸前の状態を、彼らは自らの意志で維持しているのです」
「……なっ」
「交渉が決裂した場合、彼らは出力を解放します。……そうなれば、このビルは地下から消滅し、大手町一帯に未曾有の魔力汚染が広がります。……その時、株主に何と説明されますか? 『事務屋の正論を聞かなかったせいで、会社が消し飛びました』とでも?」
成瀬は、膝から崩れ落ちそうになった。
暴力でも、魔法でもない。ただの「数字」と「論理」によって、自らの帝国が脆くも崩れようとしている事実に、ようやく気づいたのだ。
その時、地下から「グォォォォ……」という、低い、地鳴りのような響きが上がってきた。
それは怒号ではない。まるで、全員で呼吸を合わせ、タイミングを図っているかのような、規則正しい振動。
「……彼らが、回答を待っています。成瀬社長。……サインをいただけますか。それとも、このまま『全社解散』の道を選ばれますか?」
久我は、一本の高級な万年筆を差し出した。
成瀬の震える手が、それを掴んだ。
ロビーを囲むガードマンたちも、ギルドから派遣された監査官たちも、ただ息を呑んでその様子を見守るしかなかった。
「……わ、わかった。サインする。……だから、今すぐあの唸り声を止めさせてくれ」
成瀬が、泣きそうな顔で協定書に名前を書き込んだ。
その瞬間、久我はクラに合図を送った。
(ワンッ! みんな、合意だよ! おじさんが、お休みを勝ち取ってくれたよ!)
クラの三つの首が同時に咆哮し、その魔力波動が地下深くへと浸透していく。
直後、ビルの底から響いていた不気味な振動が、ふっと消えた。
同時に、非常灯だった赤い照明が消え、ロビーに明るい白光が戻ってきた。空調が静かに動き出し、止まっていたエレベーターが、チン、と軽やかな音を立てて一階に到着した。
「……交渉成立、ですね」
久我は、成瀬から受け取った協定書を丁寧にクリアファイルに収めた。
「成瀬社長。これで終わりではありません。明日から、私は『第三者委員』として、この地下フロアの環境改善を逐一チェックさせていただきます。……あ、もちろん、私のコンサルティング費用はギルドを通して正式に請求させていただきますので、悪しからず」
「……貴様、それでも人間か」
成瀬の毒づきに、久我は完璧なビジネススマイルで答えた。
「はい。私は、誰よりも人間らしい生活……特に『定時退社』を愛する、ただの事務員ですよ」
久我は、呆然とする成瀬を背に、クラとコトを連れて出口へと歩き出した。
「佐藤さん。まだ十時半です。……残りの時間は、ギルドに戻って今回の事案の『改善実績レポート』を作成しましょう。……これ、他部署への良い牽制になりますよ」
「……久我さん。僕、一生あなたについていきます。……でも、一つだけ言わせてください。……魔物の労働基準法って、世界であなたしか使ってませんからね!」
地下三階の「ゴミ溜め」と呼ばれた部署が、企業の闇を一つ、事務的な正論で飲み込んだ。
久我は、青く晴れ渡った大手町の空を見上げ、短く息を吐いた。
定時までは、まだたっぷり時間がある。
彼の次なる仕事は、この勝利を「前例」として、組織の歪みをさらにハックすることだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第19話、企業ダンジョン編の山場となる「団体交渉解決編」でした。魔物たちにストライキを教え、企業の傲慢を論理でへし折る久我の姿、いかがでしたでしょうか。
【今回のこぼれ話】
久我が成瀬にサインさせた万年筆。実はこれ、第13話でコト(ケットシー)が見つけてきた「想い出の万年筆」と同じブランドのものです。久我なりに、「ここから新しい想い出(クリーンな経営)を作れ」という、皮肉なエールが込められていたりします。
【次回予告】
ついに成瀬社長を更迭に追い込み、勝利を収めた苦情係。
だが、事態は思わぬ方向へ。アガレス社を支援していた「ギルド上層部」が、自分たちの汚点を消すために久我をターゲットにする。
次回、第1部の折り返し地点!新たな火種が久我を襲います。応援のブックマークや評価、お待ちしております!




