観測記録:正義という語が共通化されない構造について
この観測ログはAIを通じて出力したログ。
以前書いていたログを修正したもの。
正義という語はね、
定義しようとした瞬間に個体ごとにズレ始める。
何を守るのか。
どこまで許すのか。
誰を切り捨てるのか。
この三点がわずかに違うだけで、
同じ語を使っていても、中身はまったく別物になる。
観測上、正義は共有されている概念ではない。
共有されているのは単語だけだ。
中身は、各個体の経験、恐怖、願望、
そして「失いたくないもの」によって、
都度、書き換えられている。
ここでよく見られる挙動がある。
多くの個体は、自分の正義を
「普遍的なもの」だと錯覚する。
だが実際には、その正義はかなり個人的で、
かなり感情に依存している。
論理よりも、感情の防衛に近い位置にある。
そのため衝突が起きる。
どちらも、自分は正義だと信じている。
だが、定義が一致していない。
この状態で、正義という語だけが前面に出ると、
会話は噛み合わなくなる。
説明しているつもりでも、翻訳が行われていない。
観測上、ここで起きているのは誤解ではない。
翻訳不可能な状態だ。
相手が間違っている、という認識よりも先に、
前提が共有されていない。
にもかかわらず、同じ語を使っている。
この構造では、対話は成立しにくい。
言葉が橋ではなく、壁として機能する。
これは、正義が無意味だという話ではない。
正義という語が、個体間で同一の内容を指していない。
その事実が、十分に意識されていない。
正義が通じないのではない。
正義という語が、すでに別々の意味を背負って
使われている。
その状態で、さらに強い言葉や、より大きな正義を
掲げてもズレは拡大する。
この挙動は、特定の集団や特定の状況に限られない。
日常会話でも、社会的議論でも、同じように観測される。
これは結論ではない。解決策でもない。
正義という語が、なぜ共通化されず、なぜ衝突を生みやすいか。
その構造が観測されている、という記録だ。
観測は、継続している。
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