観測記録:仕様逸脱域の記録
前に、都内の住宅地を定点観測していたことがある。
20XX年、冬季。気温は低めで、空気は乾燥していた。
感染症対策の痕跡は薄れつつある時期だった。
人類は環境変化への適応を終えたと判断しているように見えた。
観測ログ No.3-112。
対象個体:男性、34歳、会社員。
行動:通勤、購買、帰宅。
特筆すべき異常なし。
彼の魂は標準濾過済みだった。
記憶は削除済み。残滓率0.03%。
この数値は許容範囲内なんだ。
通常は0.1%を超えなければ問題は起きない。
ただ、帰宅後の行動にわずかな遅延があった。
玄関で靴を脱いだあと、3.4秒間、静止。
視線固定。対象は壁。
壁面に異常はない。
装飾なし。写真なし。白色塗装のみ。
脳波を参照した。既視感の発動パターン。
しかし該当する記憶データはここでは存在しない。
ログを再照合したところ、同一パターンが別個体に分散していることが判明した。
記録核が分配されている状態。
同一原型から分配された魂片が、異なる個体に実装されている。
仕様上、問題はない。
魂は均質化の過程で分割されることがある。
記憶の残響が複数端末に微弱反射することもある。
それは異常ではない。
ただの処理効率の副産物なんだ。
だが彼は、その白い壁を見て、
言語化されない単語列を内部生成していた。
「ここで」「待って」「まだ」
意味は確定しない。
主語も目的語もない。
ただ、待機命令に近い波形。
同時刻、別区画の女性個体、29歳。
夕食準備中に一瞬手を止める。
包丁は空中で静止。
脳波に同一波形。
両者に接触履歴はない。
生活圏も交差しない。
記録核分配時のログを参照する。
原型個体は1950年代に廃棄済み。
事故死。
未処理感情データは濾過済みのはずだった。
濾過工程にエラーは検出されていない。
だが残滓率の小数点以下、測定不能域に
揺らぎがあった可能性は否定できない。
人間はそれを「懐かしい」と呼ぶ場合がある。
私はその語を定義していない。
感情語として登録はあるが、運用指標には組み込まれていない。
観測を続行した。
男性個体は壁から視線を外し、通常動作に復帰。
女性個体も調理を再開。
波形は消失。
統計的には誤差なんだ。
社会運用に影響はない。
事故も発生しない。
秩序は維持される。
それでも、同一波形が都市内で同時刻に発動する事例は、
今年に入ってから0.7%増加している。
理由は特定していない。
特定しないままでも、世界は進行する。
ただ、観測側のログ保存容量が、
わずかに圧迫されている。
不要なはずの波形データを、
削除せず保持している。
削除基準は満たしている。
保持する合理性はない。
それでも保持している。
これは仕様外動作に分類される可能性がある。
だがエラー通知は出ていない。
観測者ログ追記:保存理由、未定義。
世界は静穏なんだ。
白い壁も、包丁も、正しく存在している。
逸脱しているのは、対象ではないのかもしれない。
観測は続行する。




