趣味は悩む事。そう決まっている
2023年12月28日
今日は仕事納めだ。謎めいた鍵の返却直後の同僚からのエピソード。心は震えていたが、今年最後に会社のメンバーへ「良いお年を」と外資でありながら、お決まりの挨拶。仕事は忙しいし、退職を決めた僕であったがこの会社は好きだ。
「鍵の返却ありがとう。体調はその後、如何でしょうか?負担をかけてしまった僕が言えたことではないけど、いつも心配しています。
そう言えば先日、気分転換にドライブしたんだ。この富士の様に健やかであって欲しいです。真里に1番に見せたいと想って撮りました。」
僕はメッセージと共にあの日に見た雄大な富士の写真を添えた。
数分後
「ご無沙汰しております。ご一緒できた時は本当に楽しかった。体調はまだ良くはないけど、何とかやっています。そちらも体調だけは崩さぬ様に。
鍵の返却が遅れてごめんなさい。お守りの様なもので中々返せずに失礼しました。
やっぱり静岡から見る富士山は素敵ですね。見せてくれてありがとう」
真里からメッセージであった。
“まーちゃ”はいつから“そちら”に変わったのだろう。
2023年12月29日
彼女からメッセージが僕の心を揺らした理由は、二つあった。
一つ目は「体調はまだ良くない」という言葉だ。同僚には「再就職が決まった」「ご飯に行こう」など前向きな報告をしていた真里が、僕にだけは弱さを隠さず告げてきた。それは、無意識に心の奥の部分を見せたのか、あるいは僕だけが心配し続けていることを感じ取ってのことなのか。彼女の言葉に宿る温度の違いが、胸の奥で鈍い痛みを生む。
二つ目は、「お守りの様なもの」という表現だ。鍵を返すときにただ「遅れてごめんなさい」と言えば済む話だが、あえて“お守り”という言葉を使うことで、彼女の未練や何かを残したいという思いが浮かび上がってくる。鍵は単なる物理的な存在以上の意味を持ち、僕にとっても、そして彼女にとっても特別なものであることを示していた。真里はその言葉を使うことで、僕がそれをどう受け取るかを心のどこかで考えていたのだろうか。真里が選んだ最大級のリスペクトなのか。それともそこまで深い意図はなかったのか。
僕はただ、この言葉の背後に潜む彼女の迷いや未練、そして何よりもシャッターを完全に下さない彼女自身の姿を見たように思えた。
さよならは言えない。さよならに変わる言葉で別れたい。
でも、今の僕には決定的な言葉が必要なんだ。
冷たく響く静寂の中で、僕はその言葉の余韻に捕らわれ、答えのない思考を繰り返していた。
終わった。終わったんだよ。
はっきりしたんだよ。
堂々巡りの答えを出さない僕のことが嫌いなもう1人の僕が制止する。
2023年12月30日
「メッセージありがとう。体調は良くはなっていないのだね。お守りと思っていてくれたなら持っていれば良かったのに…。ずっと心配していました。俺は世界の悲惨さなんてどうでも良い。大切な人が苦しんでいると気が気で無くなる。俺はね、真里に潜む闇(君との始まりはこの名のチャットルームでしたね)を俺なりに理解していたつもりなの。でも、俺といた時に真里はとても優しくしてくれた。未だ、この会社に勤めているから“真里さん”という周りの言葉が出てくるだけで心が震えてしまう。辛く苦しい。でも真里を別に苦しませたくはない。」
すぐに既読になった。
返事が来るかもしれないという期待が必然的にあった。しかし、すぐにその感情を振り払うようにして、外を出た。心を抑え込むようにコートの襟を立て、冬の冷たい風を浴びながら歩いた。
行き着いた先は渋谷の奥の方にひっそりと佇む、5つ離れた30年来の友人が一人で営んでいるバーだ。照明と木の温かみが漂うその空間は、世間の喧騒とは無縁の静けさを持っていた。扉を開けた音が店内に響くと、
「なんだ小僧。。来たか」
低い声が聞こえてきた。30年前と同じ呼び名はそろそろ勘弁して欲しい。
「また子供みたいな顔してるな」
僕が小さく笑ってみせると、彼は目を細めて僕をじっと見つめた。彼はいつも、僕の悩みを聞き出すことなく、ただ、そこにいてくれた。酒を注ぎながら
「昔からオマエの趣味は悩む事だと決まってる。とても素晴らしい。。」
僕の心を小突くような言葉を口にする。
濃すぎる焼酎を押し付けるように差し出すその姿は、どこか飄々とした態度に包まれていた。
ただ黙って酒を酌み交わした。携帯を見ることはなく、時間も気にせず、ひたすらに飲んだ。冷たいガラス越しに外の街を見つめると、吐息が白く曇った。
その夜が明けた頃、僕はまだ酔いの残る体を引きずりながら、湘南新宿ラインの始発に乗り込んだ。小田急線には乗れなかった。それがどうしようもなく苦しかった。
自分の心を守ろうとしていたのかもしれない。別の道を選び、遠回りをしていた。車窓から見える風景はどこかよそよそしく、これが新しい道だと無理やり言い聞かせる。年の終わりが過ぎ去り、心の中に渦巻く感情にも終わりが来ると信じたかった。