不明瞭な封書
下ろせない。
久しぶりに彩香さんと食事をする機会があった。
「真里はあれから何もアクションがないんだよ」
「うーん、ガッキーは未だに答え出せないんじゃないですか?」
僕は彩香さんに、これまでのことをすべて話していた。何故か真里の事を“ガッキー“と名付けている。
「答えなんて、もう出てたようなものだろう。さっさと鍵を返せばいいだけなのに。」
鍵の返却=別れ
「ここ半年のガッキーの感じであれば、気持ちに整理をつけられてない日々が続いていて、元カレからわざわざ連絡が来て、別れと鍵を要求されたら、ここぞとばかり、、、私なら即日返しますけどね。」
人生に期待していない彼女の意見は僕も大筋、同じ考えだった。嫌なら即座に返してもらった方がむしろ楽になれる。実際、浅草デート以降、真里からは愛情を示すような意思は感じなかったし、こちらから連絡をしなければ自然消滅していたのかもしれない。たしかに当時は同僚という側面はあったかも知れないけど。。でも鍵を返してくれる、それだけで僕は合点がいったのだ。
“たかが鍵じゃんか。そんな事に執着するなよ。。その程度だったってことだよ。“
もう1人の僕は呟いた。
師走。早いもので今年も終わる。満足とは程遠い1年だ。呆気なく得ることのできた採用通知は良いかも知れないが、それだけだった。
真里から音沙汰がなくなり5ヶ月を迎えた。
彩香さんにしか愚痴をこぼすことのない僕。
「真里はどこか闇を抱えていた。自分のことになると素直じゃないところが存分にあった」
「何か謎めいてますね。どうでも良いくらいになったか、それとも何かが引っかかっていて行動できない。どちらかですね。」
「真里はそんな人じゃないよ。僕は僕が見ていた真里が真里さんだよ」
“どうでも良くなった“
という言葉だけが引っかかり、僕はふいに彩香さんに当たってしまった。心の奥底で、自分でも整理がつかない苛立ちと悲しみが渦巻いているのがわかる。
彼女が言ったもう一つの可能性、
「引っ掛かっている」
それはどういうものなのだろう。
“キープする。”という考えが頭をよぎったが、そんなに器用な人じゃないし、そもそも既婚者の僕をキープしてどうする?
彼女を冒涜しているように思えてならない。
“別れたくない。でも未来が描けない。離れなきゃ。“
彼女の心の迷いがほんの少し見えたような気がして、寂しいながらもどこか真里らしいと感じる部分がある。
もし彩香さんが言う前者、“どうでも良くなった“のなら、それは僕にとって終わりを意味する。
だが、僕はまだその現実を受け入れる覚悟ができていない。
僕がどのようにすれば良いのか、もはや分からない。
昭和気質と呼ばれる古風な考えに従うなら
“何もしない。静かにする”
唯一、僕が貫けるスタイルなのだろう。
真里次第──要するに、そういうことなのだ。
2023年12月20日
20時くらいには帰社した。比較的早く仕事を切り上げることができたので、ドラッグストアで鎮痛剤と、睡眠を促すような「おまじない」的な飲み物、そして何の効果も得られていない肥満防止サプリメントを、年越しまで保つような量を購入した。
すでに退職届を出しており、引き留められはしたものの、1月末の退職がほぼ決定していた。新しい会社からは内定通知も届いている。当初の募集は大阪本社だったが、まずは関東の拠点に配属される予定だ。小田原からの通勤は不可能で引っ越しが必要になり、年が明ければすぐにでも新しい住居を決めなければならない。
知らない場所に行って、静かに暮らそう──すべてをあきらめたような気持ちがそこにはあった。
ドラッグストアを出た後、食べたくもないチェーン店の蕎麦屋に入り、3分で提供されたカツ丼セットを5分で平らげ、冷え切った車のハンドルを握り、家に帰った。
そんな機械的な行動の先に、何か救いが見つかる気はしていなかった。
家に帰り、玄関のポストを開けると封書が入っていた。真里からだった。
その瞬間、全身に熱が走るような衝撃が襲い、僕は慌てて封書を開けた。
中には合鍵が1個入っていた。
“そんなはずはない”
何か、別のメッセージがあるはずだと、無意識に探ってしまう。
“何を期待しているんだ?”
心の中で自嘲気味に問いかける。限りなくメルヘンで、オタマと同じ単細胞な自分が嫌になる。しかし、そんな自分を否定しきれないまま、ただ放心状態で立ち尽くしていた。すべてが終わったのだと──そう自分に言い聞かせながらも、まだどこかで受け入れられない自分がいる。
熱い湯に浸かり、目を閉じた。湯気の中でふと浮かぶのは
“それでも真里は鍵を返してくれた“
小さな安堵だった。どこかで、彼女が本当に鍵ですら“どうでもいい“とは思っていなかったことが、心の奥で静かに響いていた。僕のことを5ヶ月間忘れていたのではなく、覚えてくれていたことに少しの安心があった。最低限の礼儀を尽くしてくれたことが、自分の中でわずかに救いとなった。
風呂から上がり、静寂を消すように音楽をかける。無理矢理にでも、自分を現実に引き戻したかったのかもしれない。
眺めていた封書に違和感を覚えた。送り元の住所欄には、真里の祖母の家と思われる住所が書かれており、一度消された番地の上に別の番地が重ねられていた。消印は真里の住む街のものであったものの、その小さな手がかりが深い混乱の渦に引き込んでいく。
東京にある真里の実家のことは何も知らない。彼女と過ごしたマンションも、もう引き払われている。彼女の祖母の家が小田原の近隣市にあることだけは聞いていたが、その詳細まではわからない。自分の中で、彼女のことに干渉しすぎないように努めていたし、真里に対して、最後の方で唯一伝えた言葉は
“知りたくもない他の人からの真里に関する情報が僕に入るのはきつい“─そうしたニュアンスだった。
彼女が僕を過去の誰か(=ストーカー)と同じように思わないよう、できるだけ負担をかけないようにしていたし、もともとそんな思考すらない。
「闇」という彼女の中の得体の知れない不安定さ。
僕が自身にどこかで信じていた「光」は今は消えている。いや、消え掛かっている。
この時もまた、付箋程度の一言があれば
「お世話になりました」
「さよなら」
「遅れてごめんなさい」
あるいは「彼氏ができました」
きっと僕も納得できただろう。それがないことで、かえって彼女に対する思いはぐるぐると出口を失い、僕自身が闇の中に飲み込まれていくような感覚に襲われる。